はじめに

四聖諦(四つの聖なる真理)

仏陀釈迦牟尼は今から約2500年前のインドに生きた方です。彼の弟子は性格も資質も様々に異なっていましたが、仏陀はその誰もが理解できるように、一人一人にふさわしいやり方で教えを授けました。けれど、どの弟子にもまず初めに説いたのが、仏陀自身がどのように悟りに至ったかに関する基本的な見識、つまり「四聖諦(四諦、四つの聖なる真理)」に関する教えです。四聖諦とは生に関する四つの本当の真理のことです。これらは普通の人々には事実だとは思えないかもしれませんが、アリヤ(現実を非概念的に認識した人々)たちは四聖諦を真実だと考えています。簡単に言えば、この四つの真理とは、以下の問いへの答えとなるものです:

  • 私たちの誰もが人生で経験する苦しみや問題の本当の種類とは何か? 
  • これらの原因は何か?
  • 問題を根こそぎ切り捨てて二度と生じないようにする「滅(停止)」に至ることは可能か?
  • どのような理解が苦しみの原因を取り除き、滅をもたらすのか?

これらの質問への答えこそ、仏陀が初めに説いたことであり、残りの生涯を通じて説き続けた深い教えの基本構造を成すものです。

四聖諦はそれぞれ独立して存在しているのではありません。四つの真理は全て一つの基礎から得られるもので、全てを完全に理解した時に目標を達成できるようになっています。その基礎とは、簡単に言うと、現実です。

仏教の師である私の友人が言ったように、仏教の教えを一言に要約すると「リアリズム」になるでしょう。

不可能で非現実的な投影をすることなく現実を理解し、受け入れることができたら、人生で直面する困難な状況に現実的に対応することができるでしょう。

ですから、現実についての教えが四聖諦の基礎になります。現実に含まれるものごとの存在の仕方や機能の仕方には様々なレベルがありますが、仏陀はそれら全てについて教えを授けました。

三宝(三つの高貴な宝石)

人生における苦しみや問題を克服するために定める方向性を明らかにするのが四聖諦です。この方向性は仏教用語で「三宝」あるいは「帰依の三宝」と呼ばれ、仏・法・僧の三つの宝を指します。どの宝も様々なレベルの意味を持ちますが、最も深いレベルでは以下のものを象徴しています:

  • 法-私たちが達成しようと努めている目標、つまり問題やその原因と縁を切ること、それらから永遠に解放されるための理解を得ること
  • 仏-これらの目標を完全に達成し、同じように成就する方法を私たちに教えてくれる人々
  • 僧-仏の教えに従い、まだ完全にではないが、部分的には目標を達成している人々

ナーランダ僧院の17人の師への祈り

ダライ・ラマ法王は、古代インドの大僧院出身の17人の偉大な師にインスピレーションを請う大変美しい文を書かれました。この僧院はナーランダ僧院と言い、創立から約千年の間存続しました。僧院として営まれていましたが、当時は最も有名な大学でもあり、インドの仏教の伝統の中でもとりわけ偉大な師を何人も輩出しました。ダライ・ラマ法王は、ナーランダ僧院で最も高名な17人の師それぞれに対して「あなたの足跡をたどる霊感を与えてください」という請願の祈りを捧げ、その後、全ての師に向けた共通の偈でこの祈りの文を締めくくっています。

今回、この締めくくりの偈の一つに対する注釈をご紹介していきたいと思います。これは、現実(二諦)・四聖諦・帰依の三宝について、これまでお話してきたことを要約するものです。帰依とは、「この三宝が示す方向に向かって進めば、苦しみや悩みから自分を守ることができる」という意味です。

偈にはこのように書かれています:

全てのもののあり続け方、つまり二諦という基盤の意味を知ると、

「あり続け方」とはつまり、ものごとの存在の仕方、機能の仕方のことです。この行を言い換えると、「現実を知ると」という意味になります。

私たちはどうして輪廻に入り続けるのか、一方、どうやって輪廻から抜け出すのか、四聖諦を通じて分かるようになる。

現実を理解できれば、なぜ延々と問題を繰り返すのか、またそれを止めるにはどうすれば良いか、四聖諦によって分かるようになるということです。

正しい理解に導かれ、三宝が事実だという確信が強まってゆく。

思い出してみましょう。三宝は、私たちが達成しようとしている現実の目標(問題を停止させて二度と起きないようにすること、そしてそれを実現するための理解を得ること)を系統立てて説明するものでした。

仏教の道を実践するときには、何か目標に向かっているはずです。しかし、その目標が達成できるなんて、本当でしょうか?そんなことはただの作り話、夢物語なのでしょうか?それとも事実なのでしょうか?目標を目指す多くの人が抱く「信念」とは、「私の師がそう言ったからです。私もそう信じたいから、信じています」というようなものです。

このような信念を持って仏教を実践する人はたくさんいますが、これは最も安定した方法とは言い切れません。長期間実践を続けてきて、あるとき、「私は一体何をしているのだろう?」と考え始めるのは非常によくあることです。なぜなら、まだ怒りや執着、身勝手さなどを抱えていて、これらの「真のトラブルメーカー」を捨て去りきれない状態が続いているからです。進歩には非常に長い時間がかかるのです。私たちは、成長とは常に一定ではなく、上手くいったりいかなかったりを繰り返すものだということを学ばなくてはいけません。良い日もあれば悪い日もあります。ただ信念のみによって仏教のメソッドを実践していると、どこにもたどり着けないように感じて、次第に気持ちがくじかれていきます。そして、「本当に目標を達成できるのだろうか?」と疑問に思い始めるのです。

これこそ、「正しい認識に導かれ」と偈に詠われている理由です。理論と根拠に基づいて、この目標が本当に存在し、それが達成可能なものであることが理解できたら、実現の可能性も、実際これまでに達成した人々がいるということも、強く信じられるようになります。これらは何かの聖典に書かれているだけではなく、本当のことなのだと確信するのです。二諦とは現実であり、四聖諦と三宝はその現実を根拠に、理論的に導かれるので、これらが真実であると確信できるのです。

解脱へと導くこの道心の根を植えつけるよう、私に霊感を与えてください。

種であれば「蒔く」ものですが、ここでは「根」を「植え付け」ています。「根」や「植え付ける」という言葉が選ばれていることから、二諦・四聖諦・三宝が仏教の精神的な道全体の「根」であり、全てはそこから得られるという構造が見て取れます。この「根」が心の中にしっかりと植え付けられていれば、常に強い信念を持って仏教を実践できます。自分がしていることがはっきりと分かり、目標が達成可能であることも、何を目標としているのかも理解できるでしょう。

私は、これは仏教へのアプローチとしてとても重要だと考えています。精神的な道を歩むためには、それが現実的だと確信できることがとても大切だからです。これは私たちがただ感情によって夢中になっているファンタジーではないのです。ファンタジーなら実現は不可能でしょう。けれど、自分が精神生活で行っていることが現実的だと確信できると、そこに健全な感情を注ぎ込むことができます。慈悲・熱意・忍耐などの健全な感情と、理解とをバランスよく持つことは、必要不可欠です。

二諦(二つの真理)

俗諦(相対的・世俗的な真理)

全てのもののあり続け方、つまり二諦という基盤の意味を知ると、

偈の第一行で扱われているのは二諦です。二諦とは俗諦(相対的な真理、あるいは世俗的な真理)と真諦(最も深い真理)、つまり、万物の現実に関わる真理のことです。一方は表面的で浅いレベルの真理、もう一方は最も深いレベルの真理で、それぞれ違う視点に立っていますが、どちらも真理として正当です。この二つの真理を解説するには様々な方法がありますが、ここでは、ダライ・ラマ法王が一般聴衆に向けて行う説明に従いましょう。

因果(原因と結果)

私たちが経験する全てに関する、表面的な真理とは何でしょう?これは、私たちが現在体験していることの全ては、それに先立つ原因との関連によってのみ起きているということ、つまり、全てのものごとは原因と結果に依存して生じているということです。因果の法則は物理学でも教えられます。物理学が扱うのは物理現象に関すること、たとえば、ボールを蹴るとボールが転がるというようなことに限られますが、これもシンプルな物理法則、因果関係です。

ものごとの発生に関わる全ての要因を考慮すると、因果関係ははるかに複雑なレベルで説明することができます。例えば経済問題や地球の温暖化、地域紛争などについて考えてみると、ただ一つの原因によって起きているのではないのは明らかでしょう。これらは原因なく起きているのでも、全く無関係な原因から生じているのでもなく、様々な原因に依存して起こっているのです。ここで言う原因には、今起きていることだけではなく、過去に起きたことも含まれます。例えばここウクライナでも、現在の状況とソ連時代や第二次世界大戦とを切り離して考えることはできないでしょう。今日の経済問題や環境問題、その他のあらゆる問題は、これまでの歴史の中で起こった全てのことの結果であり、誰か一人の過ちや、ただ一つの出来事によるものだとは言えません。ものごとは、原因と条件の巨大なネットワークに依存して起きるのです。これが現実ではないでしょうか。

心理学の視点からも考えてみましょう。家庭内の問題がある場合、それはただ一つの原因から起きているのでも、原因なく発生しているのでもありません。家族の誰もが、それまでに問題の原因となるようなことをしてきたのです。また、各メンバーが職場や学校、交友関係など、家庭の外で経験していることも、家庭内での言動に影響しているでしょう。どんなことも他のものごとに影響を及ぼすのですから。さらに、家庭は、社会や社会制度、政治体制や経済システムから切り離されてはいないことも忘れてはなりません。これらのこと全てが、様々な形で問題の発生に影響しているのです。

ですから、ここでいうリアリズムとは、全てのものごとが互いに関わり合い、影響を与え合っているという事実を指します。あらゆるものごとは、原因と条件が織りなす巨大で複雑なネットワークの結果として生じるのです。これが現実です。

このように、物理学で扱う物体の動きや、世界情勢や家庭の問題などに関しては、因果の法則は妥当だと言えます。では、私たち一人一人の個人的なスケールではどうなるでしょうか?幸せや不幸もこれに当てはまるでしょうか?幸せや不幸にも原因があるのでしょうか、それとも原因なく生じるのでしょうか?私たちは時に幸せを感じ、別の時には不幸だと感じますが、次の瞬間に自分が何を感じるのかは全く分かりません。では、幸福や不幸には原因がないのでしょうか?それとも、その瞬間に自分がやっていることに左右されるのでしょうか?こう考えるのはあまり理に適っていません。同じものを食べているときも、幸せに感じていることも不幸に感じていることもあるでしょう。ですから、幸せや不幸は食べ物から生じているのではありません。最愛の人と一緒にいるときも、常に幸せとは限りません。不幸だと感じるときもあるでしょう。財産がたくさんあって暮らしが上手くいっていても、幸せではないこともあります。

では、幸せや不幸せはどこから生まれてくるのでしょうか?私たちを幸せにしたり不幸にしたりするボタンを押すような、高次の存在がいるのでしょうか?失礼、攻撃的になるつもりはなかったのですが、おかしなほど極端なことを言ってしまいました。けれど、私たちが経験する全てのこと、たとえば物体が動くとか、ストーブに触ってしまって手を火傷するとか、そのようなことが因果の法則に従っているのなら、幸せや不幸も同じように因果関係に従っているはずではないでしょうか? これは、偈の文脈における俗諦についての問いであり、非常に重要なポイントです。なぜならこの問いは、私たちの言動と、その結果としての幸せや不幸との因果関係の現実に関わるものだからです。

カルマ(業)

この問いかけは、カルマについての基本的な教えへと繋がります。カルマとは何でしょう?これは簡単なテーマではありません。カルマの説明は幾通りもありますし、同時に、非常によく誤解されてもいます。しかし、基本的にはこのように説明できるでしょう:

カルマとは、私たちの言動、発話、思考を駆り立て、特徴づける強迫性を指します。

よく考えてみると、私たちの言動は、建設的なもの破壊的なものも、あるいは中立的なものでさえ、強迫的だということが分かるでしょう。

  • 私はいらいらしていて、誰かに向かって叫びたいと思う。そして、強迫的に、叫ぶ。
  • 私は過保護で、自分の赤ん坊に問題がないか確認しに行きたいと思う。そして、強迫的に、不必要で不健全なほど頻繁に確認する。
  • 私はお腹が空いていて、冷蔵庫からおやつを取り出したいと思う。そして、強迫的に、冷蔵庫に向かう。

このような強迫観念はどこから来るのでしょう?そして、私たちをどこへ向かわせるのでしょう?これらは、カルマについての教えが投げかける問いです。仏教ではこのように解説されます:「私たちが強迫的に行動したり、話したり、考えたりすると、その傾向や潜在力が心相続に蓄積され、私たちがそれ以降経験するどんな瞬間にもそこにあり続けることになる」。様々な状況下でこのような傾向が刺激され、私たちは自分の行動パターンを繰り返したいと感じるようになります。この感覚が強迫観念を生み、私たちは言動を繰り返すことを止められなくなります。この強迫観念には実際のカルマが関係しています。

もちろん、この現象については、「行動パターンは次第に神経経路を補強・強化していくので、結果的に一定の行動パターンの繰り返しが次第に容易になる」という生理学的な説明もできるでしょう。仏教は、決してこのような自然科学的な見解を否定するものではありません。ただ、仏教ではこの現象をより経験的な視点で考え、さらに、因果の例としてこれを分析するのです。

では、幸せや不幸については何が言えるでしょうか?仏教では、これもカルマの因果という観点から説明します。もしあなたが今不幸だとしたら、それは、煩悩(心を乱す感情)に影響されて強迫的で破壊的な言動をとってきたことの長期的な結果です。普通の幸せを感じているなら、つまり、心が満たされてはいなくても、一時的に良い気分を感じているような場合、それは忍耐や親切などのポジティヴな感情の影響を受けて実践してきた建設的な行為の結果です。けれど、これもまた強迫的だと言えます。なぜなら、強迫的な慈善家や強迫的な完璧主義者の場合にみられるように、建設的な言動は、自分の存在の仕方に関する混乱と混じりあっているからです。

このような因果の関係をどうやって理解すれば良いでしょう?まず初めに、建設的な言動と破壊的な言動の違いを理解しなければなりません。この二つは、行動自体が他人に及ぼす影響によって区別されるのではありません。例えば、あなたが誰かに対してとても怒っていて、相手をナイフで刺したとしたら、それは破壊的な行動です。けれど、外科医が命を救うためにナイフで誰かの身体を切り開くのは、建設的な行為です。ですから、「人の身体にナイフを刺す」という行為自体によって、それが建設的か破壊的かが決まるのではありません。これは全て、行為をするときの心の持ちようや、その行為によって達成したいこと、つまり動機によって決められるのです。

たとえ行為自体が良いものであっても、それが怒りや執着、貪欲、無知、嫉妬、傲慢、身勝手などの煩悩がその引き金となったのであれば、破壊的だと言えます。たとえば、誰かにマッサージをするとき、性的ないたずらをしたいという熱烈な願望や欲望からするのであれば、その行為は破壊的です。一方、行為自体が望ましいものではなくても、煩悩にあまりとらわれずに行うのではあれば、建設的だと言えます。たとえば、問題行動をする子供を自分の部屋に行くように言いつけるとしても、それが怒りからではなく、むしろ子供への愛情と懸念から、言うことを聞くように伝えるためにそうするのなら、建設的な行動です。しかし、このような建設的な行為もほとんどの場合は強迫的です。なぜなら、建設的な行為は、その行為から真のアイデンティティ(この場合は『いい親』)を引き出したいという無意識の衝動と混じり合っているからです。

「煩悩に由来する破壊的な行動」と不幸、「煩悩とは比較的関係の浅い建設的な行動」と幸せとの因果関係は、どのように理解できるでしょう?これはただ興味深いだけではなく、極めて重大な問いかけです。なぜなら仏陀は、カルマ、煩悩、そして存在の仕方に関する混乱こそ、私たちの感じ方の原因だと考えていたからです。これらが、私たちを満たすことのない普通の幸せと不幸の原因なのです。このような幸せや不幸せがもたらす苦しみから自由になるには、これらの感覚を超越しなければなりません。

考えてみましょう。何か、あるいは誰かについて怒りながら行動したり、話したり、考えているとき、私たちはくつろいでいるでしょうか?自分のエネルギーは穏やかでしょうか?いいえ、全く穏やかではありません。むしろ、かき乱されています。このような時、私たちは幸せでしょうか?いいえ、怒りやその他の煩悩を抱いているときに幸せな人などいないでしょう。同じように、貪欲になっているときの自分を観察してみると、安らかな気持ちではいないことに気づきます。何かを満足に得られないことを恐れているのです。誰かにひどく執着していて、相手がいないことをひどく悲しむときにも、穏やかではいられません。エネルギーが著しく乱されています。怒り、貪欲さ、身勝手さなどを感じず、ただ他者に優しくしようとしているときにこそ、気持ちが比較的安らかなで、エネルギーも穏やかになっているのではないでしょうか。このような時には基本的に幸せだと感じるものです。ただし、全くドラマチックではなく、とても微妙なレベルの幸せかもしれません。全てを完璧にしないと気が済まない強迫的な「独りよがりの慈善家」でさえ、怒りにまかせて行動しているときより、有益なことをしているときの方が、自分のエネルギーが穏やかで、幸せだと感じています。もちろん、ポジティヴなことをしているときでも、間違いや失敗を恐れていたら、安らぎを感じることはできません。

ここで特筆すべき点は、ある行動がもたらす不幸や相対的な幸せの感覚は、その行動を終えたあとにもしばらくは残るということです。つまり、あることをしているときの気分は、それ以前にしていたことに影響されているのです。今感じている幸せや不幸せのレベルとカルマとの関係についての教えで仏陀が第一に言及したのは、ある行動の直後の感じ方ではなく、長期的な影響です。強迫的で感情的な言動と、体内を流れるエネルギーとの関係について考えると、仏陀のこの視点も十分に理解できるようになります。

私たちが経験する全てのことについての相対的な真理とは、あらゆるもの(心の状態、やりたいこと、幸せか不幸せかなど、全てを含む)は、原因と条件に依存して生じるということです。これは真理の一つの側面です。これこそ、「全てのもののあり続け方」、偈の中で「基盤」と呼ばれるもの、つまり、全てのものの存在や機能の在りようなのです。

真諦(最も深い真理)

全てのものごとに関する二つ目の真理は、もっと深い部分に関連しています。私たちは幻想を投影するので、ものごとが実際には不可能な方法で存在したり機能したりしているように見えているかもしれません。けれど、このような不可能な存在の仕方は現実に対応していません。

私たちの投影に対応するものを見つけることはできません。投影に一致するものの完全な欠如は「空」、あるいは「無」と呼ばれます。

私たちの心は常に混乱していて、不可能な存在の仕方を投影していますが、それらのレベルは様々です。最も深い真理に関しても、最も一般的なレベルから考え始めましょう。つまり、「ものごとが不可能な在り方で存在することはない」ということです。どうしてそんなことがあり得るでしょう?私たちの混乱した心が投影するたわごとに対応するものなど、現実には一切ないのです。

代表的な例を挙げましょう。ベッドの下にモンスターがいると思っている子供がいます。けれど実際にベッドの下にいるのは猫で、子供はそれがモンスターだという幻想を猫に投影しているのです。それがいくら誤った考えでも、子供はそこには本当にモンスターがいると思っているので、とても怯えてしまいます。ですから、この投影はこの子供に影響を与えます。しかし、猫をモンスターにするものではありません。なぜなら、モンスターなどというものは存在しないからです。つまり空とは、この例で言うなら、子供の幻想と一致する本物のモンスターの完全な欠如のことです。モンスターはこれまでにも存在しませんでしたし、存在することはあり得ません。けれど、この投影を取り払っても、ベッドの下には猫がいます。そこに何も存在しないのではありません。

私たちは習慣的に、ものごとは自分の目に映る通りの在り方で実際に存在していると想像しています。私たちは自分の目の前のもの、ある一瞬に自分が実際に感じていることにしか心を留めていないのです。例えば、私が今不幸せだとします。この不幸な気持ちは全く理由もなく勝手に沸き起こっていると感じられ、私はただ不幸なのです。なぜだかは分かりません。私は退屈していて、何もかもどうでもよく感じられて、不幸せで、しかもそれは私が今やっていることや一緒にいる人には関係ないように思われます。とにかく、突然全てがどうでもよくて、ふさいだ気持ちになったのです。この不幸とは何も強烈なものではなく、ちょっとした不満の感覚かもしれません。では、このような感覚はなぜ生まれるのでしょう?何の原因もないように思われます。けれど、そんなことはあり得ないなのです。原因がないというのは現実に即していません。これが、最も深い真理です。

俗諦(従来的な意味での、相対的な真理)とは、「全てのものは原因と結果のプロセスから生じる」ということです。ここでいう「全てのもの」には、私の幸せや不幸も含まれます。たとえこれが真理だとしても、私にはとてもそうだとは思えません。私の感情は、理由もなく全くの無から生じているように感じられます。真諦(最も深い真理)とは、私にとってどのように感じられようと、それは現実には対応していないということ、つまり、不可能な投影にすぎないということです。考えてみると、実に深遠で難解なことだと分かるでしょう。

もう一つ例を挙げてみましょう。私にはある友達がいます。私たちは非常に親しいのですが、彼は時々私に怒鳴ることがあります。私たちは素晴らしい友人同士ですが、彼は時に、突然怒り出して喚き散らすのです。こんなとき、私にはどう感じられるでしょうか?「私をもう愛していないんだな」と感じられるでしょう。私はとても面食らいます。なぜなら、私の心は怒鳴っている彼にくぎ付けにされて、彼をこのような人物としかとらえられなくなるからです。けれど、この投影は現実に対応していません。彼の罵声は無から生じたのではありませんし、長い友情の中で起きた様々なことから、この出来事だけが孤立しているのでもありません。このような経験をされたことがある方も多いのではないでしょうか。

この場合、私たちはこの友達と築いてきた友情の全体像を見失ってしまいます。共に過ごしてきた他の全ての時間や、他のあらゆる交流のことが頭から消えてしまうのです。それだけではありません。もっと広い視野でとらえることも忘れてしまっています。私たちは彼の人生において唯一の存在ではなく、この友情は彼の人生の全てではないのです。友人は私以外にも彼自身の生活があり、それが彼の感じ方や振る舞い方に影響を及ぼしています。もしかしたら、彼は仕事や家庭のトラブルが原因で不機嫌になっていて、私に怒鳴ったのかもしれません。最も深い真理とは、私の投影は不可能だということです。「彼が私に怒鳴っている」という事実がただそれのみで存在することはなく、私たちのこれまでの友情全て、また彼の人生における他の全ての文脈から切り離されて存在するのでもないのです。「独立して存在するもの」という見せかけに対応する現実は、存在することがありません。そのようなものはないのです。このような存在の仕方の完全な欠如は「空」と呼ばれ、サンスクリット語では「スーンヤター(shunyata)」と呼ばれます。これは「ゼロ」を表すのと全く同じ言葉です。

ですから、二諦の観点から考えると、ものごとが孤立したり互いに依存しないで存在したりすることがあり得ない場合にのみ、因果の関係が働くと言えます。なぜなら、物事が互いに関わり合い、依存しあっている場合にのみ因果が存在し得るからです。あるものが他のものに及ぼしえる影響がない限り、それが何かの原因となることは不可能です。あるものが他のものに対する影響を持たない場合、何かの原因になり得るでしょうか?いいえ、なり得ないでしょう。ですから、ものごとの相対的な真理、つまり因果関係とは、全てのものに関する最も深い真理があるからこそ成立するのです。最も深い真理とは、つまり、他の全てのものから分断されているという、不可能な在り方で存在するものはないということです。

二諦、つまり二つの真理がこのように互いを支え合っているという事実は、偈にある通り、全てのもののあり続け方、基盤です。ここで「基盤」という言葉を使うのは、次の行で表されるものの基盤であることを示唆しています。現実を見るための基盤、つまりこの二諦に基づいて、仏陀は四聖諦(四つの聖なる真理)を理解しました。

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質問

真の現実を経験すること

誤った概念を一つも持たずに、真の現実をじかに経験することはできるのでしょうか?

もちろんできます。全てのものごとは不可能な方法で存在するように見えますが、これは私たちの精神活動がそのように見せているからです。しかし、このような存在の仕方は現実に即したものではありません。ですから、その歪曲の原因となっているものを取り除くことはできるのです。なぜなら、現実というものは実際に存在しますが、現実を歪曲するのは精神活動の基本的な性質ではないからです。私たちの精神は、いかなる投影も歪曲もせずにものごとを感じとることができるのです。

これらのことを踏まえて考えてみると、精神活動によって真実が歪曲されることで問題が発生し、苦しみや不幸が生まれるということが分かります。しかし、このような歪んだ考えを投影するのを止めることは可能なので、それが実現できれば、自分で自分に問題をもたらして苦しめることはなくなります。心とは、この目標を達成することができるものなのです。このことを理解できたら、苦しみを避け、防ぐために、人生における安全な方向性を定め、徐々に目標達成に近づいていきます。この方向性は「帰依」と呼ばれます。しかし、目標達成を目指すのは、それが本当に達成可能だと確信できてからのことです。これまでお話してきたことは全て、現実と、現実を理解する私たちの能力とを根拠にしていることに気づくと、この確信が生まれるでしょう。

この現実を自分自身のこととしてとらえ、思考停止を打開するには、非常に長い期間にわたる訓練が必要です。それゆえ瞑想を取り入れるのですが、ここで言う瞑想とは、現実を見ることを有益な習慣として繰り返し、積み重ねて、自分を現実になじませてゆく訓練を指します。これが習慣になると、いつどこで誰に会っても、相手がその場で自分の目に見えているだけの人物ではなく、たとえば彼がかつては赤ん坊だったことがあり、少年期も青年期も通じて様々な影響を受けてきた存在だということに心を留められるようになります。もちろん、成人してからも、彼はより多くのものから影響を受けて今日まで過ごしてきたでしょう。このように、相手の人生全体の文脈の中で現実をとらえ、彼の人生の中で起きたことは全て互いに関連しあってきたのだと理解します。彼の現実をこのようにとらえると、その人を近視眼的に、あたかもそこに彼の写真があるかのように見るのではなく、はるかに有益で現実的なやり方で、相手と交流できるようになります。

しかし、そのためには自分を訓練することが必要です。当然のことですが、あなたが誰かの人生の詳細や、彼が受けてきた影響の全てを知っているわけはありません。でも、それで良いのです。彼がこれまでの長い人生の歴史の中ですでに多くの影響を受けてきて、これから先も様々な影響を受けるということを心に留めておきましょう。すると、あなたもこの先、彼という人の現実をさらに良く理解できるようになるでしょう。ですから、例えば赤ん坊を見たとしても、彼や彼女をただの赤ん坊だと考えないようにしましょう。彼らはいずれ大人になります。私たちの言動全てが、その成長過程に影響を与えるのです。このことを忘れてはいけません。ものごとの全体像を見るように努めましょう。すると、現実とつながりを持ち続けることができます。

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