六波羅蜜の残りの四つについての詳細な解説

忍辱波羅蜜

次の波羅蜜は、忍辱あるいは忍耐の波羅蜜です。これもまた心構え、心の状態であり、それがあれば、私たちは腹を立てることなく様々な困難や苦悩に耐えることができます。苦しんでいることや、害悪を為す者達のせいで混乱し動揺することはなくなるのです。それが定義です。そしてその効果は – もはや私たちに、敵や、私たちに害悪を及ぼそうとする人々は全くいないということではなく、私たちが腹を立てたり、助ける気をなくしたり、いやいや手助けしたりしないという意味なのです;不満をつのらせないのです。常にカッとなっていたら、真に他者を手助けすることのは無理です。

耐怨忍辱

ではひとつ目ですが – 三種あります – まずは耐怨忍辱(害悪を及ぼす人達のせいで動揺することのない忍辱)です。つまり、ただネガティブに行動している人々 – 彼らに腹を立てないこと – だけでなく、より具体的に言うなら、私たちを害したり、私たちに対して悪意があったり、ひどい扱いをする人々にについてのものです。そしてそれはただ単に叩く – 殴りつける人達 – ということではなく、私たちに感謝をしない、私たちを評価しないといったこれら全てをする人々でもあります。私たちに好意を持たない人達でなので、「なんだ、この人は私に好意を持っていなかったんだ!」:と腹を立ててしまうのです。

ですから、特に私たちが他者を手助けしている時に、仮に彼らが助言を聞き入れなかろうが、あるいはそれが水の泡になろうが、彼らに腹を立てない – 忍耐強くある – ことがとても大切です。多くの人は、手助けするのに甚だ苦労します。私たちは彼らに腹を立てたり、頭にきたりせず、そういった難しさをみな辛抱するよう努力しなくてはなりません。

教える側は、教わる側にしびれを切らさないようにすることが特に大切です。たとえことのほか遅かったり、まったくもって理解力がない場合でも、 – 必ずしも仏教を教えるどころか、何を教えるにせよ – 忍耐強く、腹を立てず、いらいらせず、巧く教える教師としての私たちにかかっているのです。それはあたかも赤ん坊に物事を教えるのに似ています。赤ん坊が大人と同じ位速くそれを学ぶことができるなどと期待するのは無理な話です。

忍辱を培うことに関するシャーンティデーヴァ

そしてこのためには、忍辱を培う実に多くの様々な方法があります。シャーンティデーヴァは、『入菩提行論』の中で、数多の異なる方法を説明しています。私たちはその全てに立ち入る時間はあまりありませんが、そのひとつふたつだけ取り上げましょう。

火や暖炉で手を火傷したとしたら、 – 熱いということで、火に腹を立てるなどあり得ませんね。そしてまた同様に、輪廻転生に何を期待しますか? 当然のことながら私たちは失望させられ、傷つけられ、物事がうまくいかなくなっていきますが、 – 当たり前ですよね? 私たちのために何かしてくれるよう誰かに頼んだとしても、その人達がまともにそれをすることなどありはしないと思うべきです。仮に彼らが私たちの意に沿わぬまともでないやり方でそうしたなら、それは誰の過失ですか? それは、怠惰で、そもそも彼らに頼んで自らそれをやらなかった私たち自身の過失なのです。ですから、誰かに腹を立てるなら、自らの怠惰に怒るべきです。なぜなら、輪廻転生にそんなに期待するものではないからです。

次の言葉は、向上させるべきあらゆる忍耐のために憶えておくべき非常に役立つもので、つまり:「輪廻転生に何を期待するのか? あなたは何を期待するのか? 事が簡単に済む、どんなこともうまくいく、ということをなのか? どうなって欲しいのか?」というものです。輪廻転生、それは私たちの人生の瞬間瞬間ですが、その本質とは、苦や問題、そしてもどかしい事態、非常に手強いために私たちを失望させる人達などです。ならば何を期待するのですか? 意外に思ったりしないで下さい。だからこそ、私たちはそこから脱したいと思うのです。

それはまるで、ここラトビアでは冬が寒く暗いことに似ています。つまり、あなた方が冬に期待することとは – 楽しく温かいことや、水着で日光浴をしに散歩できることですか? どうなって欲しいですか? 火の本質にも似ています。火の本質は熱いことです。どうあって欲しいですか? もちろんのことながら、火中に手を突っ込めば、ストーブから手で熱いポットを取り上げれば、火傷することになります。当たり前ですよね? このように、腹を立てることには何の意味もありません。

それからまたもうひとつだけありますが、それは、他者をあたかもまともでない人か赤ん坊であるかのごとく考えることにより、養うことができる忍辱です。仮に頭のおかしな人物や酔っぱらいが私たちに怒鳴りつけたとしたら、その酔っぱらいに向かって怒鳴り返すのはなおさら頭がおかしいわけです。あるいは、寝る時間だからテレビを消すように言うと、二歳の赤ん坊が「大っ嫌い!」と言った場合です。私たちはそれを真に受け、嫌われたことに怒り出し、動揺するでしょうか? 相手は赤ん坊です。赤ん坊は疲れています;寝床に寝かしつけることです。ですから、誰かがそんな風に振る舞っているときは、その人達はくたびれているんだ、不機嫌なんだと見なすことで同じように考えるのです。「彼らは赤ん坊のようであるか、さもなければ今はまともではない人のように振る舞っているんだ。」と。彼らに腹を立てないことは役に立ちます。そしてまた、もし誰かが私たちに非常につらく当たりひどい目に会わせているのならば、彼らを師とみなすことがどんな時であれ非常に有効です:「これは私の忍辱の師だ。もし人々が私にひどい思いをさせてくれなかったら、私は決して忍辱を学ぶことも、意欲をかき立てられることもなかっただろう。だから彼らは実に親切にも、つらい目に遭わせてくれているんだ。」と。ダライ・ラマ法王猊下は常に、中国の人々、中国の指導者達… 毛沢東は猊下の最良の師であり、忍辱の師であるとおっしゃられています。会社のうるさ型は – 忍辱の師なのです。

安受苦忍

次に二番目の忍辱は、安受苦忍(私たち自身の苦を受け入れ耐え忍ぶこと)です。シャーンティデーヴァはこれについて短い言葉を残し、苦しんでいたり困難な状況にある場合、役に立たないのだから怒ったり困ったりすることなく、それについて何かできることがあれば – ただそれをせよ。そして、それについて何もできないのなら、なぜ役にも立たぬのに怒ったり困ったりするのか、と言いました。つまり、寒いときに暖かい服があるのなら、なぜ怒って寒いと不平を言うのでしょうか? 暖かな服を羽織るのです。また、暖かな服がないなら、なぜ怒ったり困ったりするのでしょうか? いずれにせよ暖かくならないのですから。しかもそのことが、ネガティブな障害を焼き払っており – ネガティブな業が熟している – 、将来それがさらに悪化しかねないので今それを取り除くことは良いことだと思い起こさせてくれるという意味で、… はそれについてとても恵まれているというように、自らの苦を見つめることができるのです。さらにまた、このような形で今熟していて本当に良かったと考えることです。なぜなら私たちがどれほど苦しんでいても、それは常に悪化しかねないからです。つまり、ある意味で軽く済むはずなのです。

仮に私たちが暗がりで机に足をぶつけ、ひどく痛めたとして、 – ああ本当にこれくらいでよかった、なぜなら足が折れてもよかったのだから。「足を折らずにこれ位で済んで良かった。」と。つまり、そうすれば腹を立てずに済むのです。結局のところ、足をぶつけて痛めたときに、飛び上がったりして大騒ぎしても、 – そんなことは意味がないのです。たとえママが来てキスしてくれたとしても、役に立ちません;足はやはり痛いのです。

しかも、私たちが実際、非常にポジティブで非常に建設的なことをしようとしている場合に、初っ端から多くの障害や困難があるとしても、これは素晴らしいことなのです。あなたが長期に渡るリトリートをしたいと思ったり、何らかのポジティブな仏教のプロジェクトをしたいとか、他者を手助けする巡業に行きたいなどと欲しているように、実際に非常にポジティブなことをしてみることです。のっけから大きな障害や問題を抱えながらも始動するとして、 – 必ずしも(足を折ったりするような)大事でなくとも最初から困難があったら、 – 「大丈夫、これによって障害が消え去っていくので、あとのことはうまくいくことになる。」:という風にそれを見なすこともできるのですから、これはとても良いことなのです。後々になって大問題をこしらえてしまうよりもむしろ、今、それが一掃された方が楽になれます。

シャーンティデーヴァが言うように、苦や困難な事態には良き性質もまたあるのです。かといって、私たちが取るべき道とは悩み苦しむことなのだから、出かけて行ってそれらを求めるのだ、ということではありません。そういうことではないのです。しかしながら、仮に苦しんでいても、ありがたく思えるような様々な良き性質があるのです。なぜなら、苦によってまず第一に傲慢さが弱まり;謙虚になっていきます。そのことで、私たちが同種の問題に苦しんでいる他者のために慈悲を培うようになります。そう、私たちがある病気にでもなったら、同病の他者を充分に理解することができますね;もしそうでなければ彼らが苦しんでいるものについて私たちはてんで分かりません。年を取り、老齢に苛まれることによって – 16歳の頃は実際に老人達にさしたる慈悲を感じることはなくとも、60歳になり、自分自身が老いのあらゆる体験をし始めると、老人に対し大いに慈悲を感じ理解をします。そしてまた業(行為の因と果)を理解していると、苦しんでいれば、そのお陰で実際に破壊的でネガティブな行動をもっと必死に避けようとするようになり、それは苦の因ですから、もっと強くポジティブで建設的な振る舞いをするようになり、それが幸せの因となっていきます。そのことで私たちは励まされます。

諦察法忍

忍辱の三つ目は、諦察法忍(仏教の学びと実践に伴う苦難に耐える決意をする忍辱)です。私たちが瞑想をしたり、悟りの成就に取り組んだりしようとしていると、非常に長い時と、とてつもない労力や努力が要るので、それについて非常に現実的でいなくてはならず、また、失望しないようにしなくてはなりません。自分自身に我慢強くあって下さい。自らを赤ん坊のように扱うということではなく、忍耐強くあるということです。

輪廻転生の本質とは浮き沈みすることである、ということを真に理解し受け止めることが非常に大切であると私は思います。そしてそれは単に善趣と悪趣への転生ということではなく、ひっきりなしに浮き沈みがあるということです。ですから、実践をしているように思えることもあれば;そうは思えない時もあるのです。実践がうまくいくかと思えば;そうはいかなかったり。当たり前のことですよね?

こういうことが輪廻転生なのです。毎日上向いては行きませんから、私たちはこのことに我慢強くあり、不満を抱えず腹を立てずあきらめないようにしなくてはなりません。「私は自分の怒りに対処したので、二度と決して腹を立てたりしないと思った」のに、その後いきなり、何かが起きると私たちは再び怒り出します。そういうことが起きるのです。阿羅漢として解脱するまでは、そこから自由にはなれないのですから、忍耐強くあることです。

精進波羅蜜

次は四つ目の波羅蜜で、精進( perseverance )です。これは… 喜びを感じることとして… それは心の状態であり、繰り返しますが、それによりポジティブかつ建設的に振る舞うことに喜びを感じるのです。それは… に作用し、ビデオゲームをしたりハンティングをすることには喜びを感じなくなります。ポジティブで建設的なことに喜びを感じることについての話なのです。私たちが自分の取り組みを厭いながら、義務感、罪悪感、責任感やそのようなものから、ただ機械的にとにかくそれを行うような、単に猛烈社員的態度を持つことについて話しているのではありません。ご存知の、仕事中毒です。また、いわゆる「一時期熱を上げること」でもありません。これは:何かをするということについて狂信者のようにすっかり興奮したかと思えば、それから一週間後に燃え尽き、その後断念してしまいます。燃え尽き症候群の話ではないのです。そうではなく、持続的な… について話しています。したがって私たちはそれを精進と呼ぶのです:それは持続し;ずっとずっと、さらに永く続きます。なぜなら私たちはしていることを喜ぶので、ポジティブだからです。この精進は、怠惰とは逆のもの、怠惰の真逆です。

被鎧精進

三種の精進があります。ひとつめは被鎧精進(鎧のような精進)です。これはずっとずっと進み続けようとの意欲です。どれほど困難であろうとも、どれほど長くかかろうとも、進み続け、へこたれたり怠惰になったりしません。仮に私たちが、仏教の道(や、何であれ行っているポジティブなこと)に延々と時間がかかり、他者を救えるように地獄に行くことさえも厭わないつもりなら、いかなるささいな問題が起きようとも怠惰にならず、へこたれることはありません。「何事によってもぐらつかない。」それは鎧のようです;どんな困難が立ち現れようと守られます。「どれほど大変になっても構わない。どれほど長くかかっても構わない。私はそれをやっていくんだ。」と。

私たちがそれに達するするまで長くかかって悟るつもりであればある程、それは早くやってきます。もし迅速に即座にやってくると期待すると、延々と時がかかるでしょう。即席の手っ取り早い悟りを切望し、簡単で近道などを探すのであれば、これは – 素晴らしい注釈、偉大な師が解説していますが – つまりは利己主義、怠惰のしるしであり、要するに私たちは他者を助けたりする多くの時間を実際に費やしたくないということなのです。「ただ悟りだけ得よう。おそらく素晴らしいに違いない。」と。要は怠惰なのです。関係する大変な取り組みをしたくないのです。私たちはそれが入手できる程安価に安売りされ、すぐ手に入って欲しいというわけです。バーゲンを探しているのです。それでは駄目です。

ですから、私たちは「三刧(grangs-med、無量)という無限に長い年月の間、他者を手助けすることで功徳を積むことに取り組んでいく。」といった慈悲を抱くとするなら、そのような広範な慈悲は、もっとずっと迅速に悟りをもたらすものとなります。

摂善精進

二番目の精進は摂善精進(悟りをもたらすことになる功徳を積むための建設的でポジティブな行為を行うことによる精進)です。言い換えれば、前行(五体投地等)や勉学や瞑想や、やるべきどんなことにをするにも歓喜し、不精にならず、それらを行うことを喜ぶことです。

霙益有情精進

次なる三番目の精進は霙益有情精進(衆生を手助けしたり益するために取り組むことによる精進)です。霙益有情精進 – それはまた、他者が私たちを受け入れるよう鼓舞し、そのようにさせる四法と、他者を手助けする十一法(私たちが手助けしたい十一種の衆生)の観点からも説明されています。思い出してください、私たちはこれら十一種の状況において手助けする持戒を護持しています。仏法の実践に関する忍辱はまた… 私たちはそれ、つまり忍辱について、このような十一法による救済という観点から論じることもできます。そしてここで、この十一法による救済という精進を護持するのです。ですから、これが意味するのは、それらはびったりと一致しているわけではないということです。私たちが言及しているのは、ふさわしいであろう様々な方法でこのような人々を実際に手助けしているときに、精進波羅蜜によって… 彼らを手助けようと努力をするのを真に喜ぶのです。そして、持戒によって、実際に衆生を救うことを阻みそうな全ての煩悩を回避していきます。このようにそれらは相互に支え合っているのです。

三種の怠惰

これら種々の精進は、怠惰によって邪魔されるので、それらを実践し養うには、怠惰を克服しなければなりません。怠惰には三種あります:

引き延ばしにする怠惰

ひとつめは引き延ばし、つまり、物事を明日まで引き延ばしにする怠惰です。このために私たちは、死と無常 – いつ何時死が訪れるか分かりません – や、有暇具足(建設的なことをする機会を与えられる貴重な人間としての人生の得難さ)ついて瞑想をする必要があります。

そこでこれに関連して、私の好きな禅の公案が思い浮かびます:「死はいつ何時訪れるやもしれぬ、くつろげ。」それについて考えるのに実にぴったりです。それの意味するところは、死はいつ訪れるやも知れぬというのは真実だけれども、そのことで不安や神経質になり緊張してしまえば、どんなものも決して達成することはできなくなり、 – 「今日の内になんでもかんでもやってしまわなければならない。」と – 狂信的になってしまう、というものです。そう、死はいつ何時訪れるか分かりません。仮にあなたが有利に事を運びたくて今物事を為すとしても、それについてくつろいでいなくてはならず、「十分な時などありはしない」:と、張りつめた死の恐怖を感じていてはだめなのです。

取るに足らないことに執着する怠惰

次なる二番目は、取るに足らないことに執着する怠惰です。そうですよね? 私たちは長時間テレビを見たり、友人とただたわいもないおしゃべりをし、スポーツについて話したり… して時間を無駄にしています。こういった全てのことにとてつもない時間が浪費されているわけで、要するに怠惰なのです。瞑想をするよりテレビの前に座っている方がずっと楽なのです。あるいは、ただのつまらない世俗の物事に執着してしまいます。なぜなら占星術であろうが何であろうが、それ( that )が面白いと感じるからです。 – それは気が抜けていて怠惰なので、私たちはこういった類いの物事にもまた執着してしまうために、おそらくもっと困難で重大なことをしようとしたがらないのでしょう。これは、私たちが決して気晴らしやリラックスのために歩を止めてはならないという意味ではないのです。時には自分自身に新たな活力を与えるためにそれを必要としますが、要は、怠惰なために、このようなもの何でもに執着したり、過剰にならないということです。休憩を取り、散歩のようなことをしても、それに執着しないことです。充電し終わったら、何であれ私たちがしている、もっとポジティブな他のことに戻って下さい。

そして私たちがこれを克服する方法は、どのようにしてこれらいわゆる世俗の成果と世俗の活動から来る歓喜と満足が、持続的な幸福をもたらすのかについて考えることです。仏教のやり方で実際に自分自身を鍛錬することでしか、これができるようにはなりません。もし私たちが二つのポストの間を抜けてゴールにボールを蹴り入れることができ、それを実行し訓練することに時間の全てを費やしても、より良い生まれ変わりを手に入れることにもなりません。解脱や悟りをもたらすのは、決してボールを真っすぐ蹴れることではないのです。

ですから要は、執着しないことです。仮に私たちがリラックスなどのためにそれをしたら、それはそれです。けれども、何か、より建設的なことをするのをおっくうがるために、まさにそれに執着し、努力の全てをそれに費やす – これは怠惰です;これは、建設的な何かをすることを真に喜ぶことに対する敵、邪魔者なのです。

テープレコーダーの電池を替えないという怠惰を克服すること。

力量がないという誤った考え方の怠惰

三つ目の怠惰は、「これは私には難しすぎる。私はそれをすることなどできない。私と同じ位平凡な人は、一体どのようにして悟りに達したり、そのようなことを何であれすることができるのだろう?」というように、力量がないといった誤った考え方の怠惰です。これは怠惰の形です。試しさえしません。なぜなら「私には力量がない。」と思ってしまうからです。

ですからこのためには、仏性や、私たちが有している様々な資質等のことを考えることです。これに対抗させてくれる、自ら思い起こすことができる多くのものがあります。「大勢の人々が日がな一日ほんの僅かなもうけを出すためだけに、チューインガムやそのようなものの商売をして働くことに費やすことができるのだから、一日に何時間も何時間もそこに座っていることを厭わないなら、私はその時間を費やして何かもっと重要なことをすることができる。仮に私がコンサートに行くためのチケットを手に入れるために何時間も何時間も並んだり、パンを買うために長い時間並ぶことができるならば、悟りに達することができるための、より建設的なことをする適性がないなどと思うべきではない。」と。

精進を培うための四種の支え

シャーンティデーヴァは、私たちが精進を向上させてくれる四種の支えについて説明しています。

信解

まず始めは、信解(仏教のポジティブな特性と恩恵への固い確信)です。

自信と仏性に基づく揺るぎなさ

二番目は、自信と仏性に基づく不動の揺るぎなさです。仮に私たちが本当に仏性を確信しているなら、 – そこに誰もが持っている能力があります – 自信があるわけです;そして自信があれば、着実に揺らぐことなく努力します。ですからこれは支えなのです。

していることを楽しむ

そして三番目は、やっていることを楽しむということです。自己充足の感覚です。私たち自身を向上させたりする取り組みや、他者を手助けする取り組みをすることに自ら非常に満足し、充足感を得るので、喜びの感覚がもたらされます。

休むべき時を知る

四つ目の支えは、休みを取るべき時を知ることです。まさに中断したりあきらめたりするところまで自ら精を出し過ぎず、そして、引き返したがらないことです。自分自身をあまりに過酷に追い詰めないこと。けれども一方で自らを赤ん坊のように扱ったりはしないことです:そして少し疲れたと思ったらその都度、うたた寝をするために横になることです。

またそれは本当にとても興味深いポイントです。法王猊下の、今は亡き補助家庭教師のティジャン・リンポチェは、次のようなひとつの助言をくれました。甚だ不機嫌で、実にネガティブな考えをしたりしているときには、他の仏教の方法はひとつたりとも全く作用しないばかりか役に立たず、最善は昼寝をすることだとおっしゃられたのです。うたた寝をして下さい。そして目が覚めたら、うたた寝によって当然私たちの機嫌は変化します。とても実際的です。そうですよね?

精進を培うためのさらなる二種の因子

精進を培うためのこれら四種の支えと共に、シャーンティデーヴァは助けとなるさらなる二因子を指摘しています。これは、(a) 実践しなくてはならないことを甘受し、やめなくてはならないことを甘受すること、(b) 三種の精進と、それに対処する力量を現実的に吟味することに基づいて – 陥っている苦難全てを甘受することです。他者を手助けしたり悟りに達するためにこれとこれとこれをするであるとか、やりたいと思う建設的なことは何でもやる必要があるということを受け入れることです。そしてこれとこれをするのをやめなければならないという事実を甘受し、それに伴う苦難が生じるという事実を甘受するのです。それを受け入れ、引き受けること、現実的に、これを行うことに関わったり、それを行う自らの力量をしっかりと吟味することです。

非現実的な態度は持たないで下さい。仮に私たちが五体投地、つまり十万回の五体投地をするなら、現実的にそれについて考えます。苦難 – 足を痛める、疲れる、こういった類いのこと全て – に陥りますが、功徳に思いを致すのです。何をするのをやめなければならないのでしょうか? それをするためには時間を作らなくてはなりません、しかもそれは難しくなっていきます。そしてまた、私たちは「私はこれをやることができるのだろうか?」 – これを行うのを阻む関節炎やリューマチがあるとか、そういったこと – :を調べるために現実的に自分自身を吟味します。それから、これが、関わっていることについての現実なのだということを受け入れるのです。私たちがそれを受け入れたら、喜びに満ちた熱意を以て、そこに自らの気持ちを投入することができます。

そしてこのふたつ目は、その際に、専心するには、陥っていることを甘受するというこの現実的な態度に基づいて、意志の力といったもので制御する必要があるということです。単に古いやり方で行動するだけでは、どんなやり方もだめで、「大丈夫、私は自分の怠惰などといったものに支配されたりはしない。」:というように現実的に行動することなのです。制御して、実際に私たちがやりたいと思う、こういったポジティブなことに専念して下さい。おそらく英語で言う「それに打ち込め。」でしょうか。

静慮波羅蜜

もうたいぶ遅くなってしまい、私たちは最後のふたつの波羅蜜のための時間があまりありません。ただそのそれぞれが、特にラムリム文献においては、誠に簡潔に扱われています。そしてまた、集中と瞑想をいかにして培うか、空の理解をいかにして深めるかということを扱う膨大な節もあります。ですから明らかにそこに入って行く時間はありません。それぞれに何日もかかるでしょう。ということで、別の機会になることでしょう。

しかしながら心の揺るぎなさは… 。ある注釈ではそれを、注意が散漫になったり、覇気がなくなったり、眠気が襲ったりするのを許すことなく、ふさわしくポジティブで建設的などんな対象にも一点集中で注意の焦点を合わせられる心の状態、と論じています。つまり、瞑想をしているか、あるいはとにかく誰かを手助けしたり彼らが言うことに耳を傾けているかのどちらかにするのです。

そしてシャーンティデーヴァは、静慮という観点からそれを説明しています。これに加え、実際にそのような集中を得るために必要なこととは、煩悩によって浮き沈みすることのない静慮です。なぜならそれは、私たちに… にならせるような煩悩だからです。心はさまよって、何か魅力的なものに飛んで行ってしまったり、沈んで鈍くなってしまいます。そしてまたシャーンティデーヴァは、静慮をより幅広い視野で描写しています。さらに、様々な形の静慮を分類する多くの区分、多くの異なった方法があります。どの解釈や伝統もほとんど、それを独自に分類しているので、私たちが焦点を当てているもの、つまり、あれ(that)やこれ(this)やと、それらをすることに関する集中の観点から – それが分類され得る様々な方法の全てについて、膨大な長い議論に入って行くのは無意味です。

般若波羅蜜

そして時に智慧(wisdom)と訳されることのある般若とは、私たちが適切に決断力を以て、認知可能な諸現象、それらの真の存在のし方を分別する心の状態です。私たちは有用なものと有害なもの、適切なものと不適切なものなどといったものをみな識別することができるのです。つまりそれは、事物の真の存在のし方と、存在しないあり方(あり得ないもの)とを分別するために適応することができるのですが、単に空の理解に関係しているだけでなく、はるかに広範囲に広がる可能性もあります。

しかも、私たちがどこに向けられたこの般若を持っているのか、勝義諦(究極の真理という点から)なのか、世俗諦(世俗の事物の点から)なのかによって、 – もし私たちが医者だとしたら、与えるべき適切な薬は何で、与えるのに不適切な薬は何かによって、実に様々に分けることでき、色々な注釈が独自に分類しているのです。それを分けるには多くの体系があるので、その全てを経る必要は全くありません。

これら六波羅蜜の観点から議論され得る、その他にも実に多くの要点があります – あるいは、以前に触れたように、十波羅蜜は、中に四つ一組のものがあり、それはこの般若をさらに細かく分けました – しかしながら、私が思うに今回、紹介にはこれで充分でしょう。

Top