ラムリム:「ダルマ・ライト」バージョンと「本物のダルマ」バージョン

教えに先立つ加行

セッションの初めにいくつか加行を行いましょう。まず、心を落ち着かせるために、呼吸に集中します。通常と同じように鼻で呼吸します。気が散っている場合は、呼吸のサイクルを数えましょう。心が十分静まっているなら、自分の息が鼻から出たり入ったりする感覚に意識を集中しましょう。

次に、自分の動機、つまり目標としているものを再確認します。私たちがここにいるのは、人生において安全でポジティブな方向、つまり自分自身の問題とその原因を克服し、全ての可能性を開花させる方向に進んでいるからです。私たちはこの目標を達成するためにラムリム(道次第、修行の階梯)について学びたいと思っています。ゆくゆくは善趣に転生し、最終的に解脱と悟りを達成するための足掛かりとして今生をよりよいものにすることに興味がある場合は、「ダルマ・ライト」のレベルの一部としてこの道を進むことができます。それには、当然、来世や解脱、悟りなどの意味に関する初歩的な理解が前提条件になります―少なくとも、これらの重要性を認めていて、これから理解してゆこうという意思がなければいけません。また、「本物のダルマ」のレベルの意図―輪廻からの解脱を達成し、悟りを得た仏の境地に至って、他の全ての衆生がそれと同じ境地に至る手助けをしようという意思―を持って取り組もうとしている場合もあるでしょう。どちらの場合でも、自分自身の利益のためだけではなく、他の全ての衆生を最大限に助けたいと願いながら、この道を歩むのです。

もっと具体的に言えば、私たちがここにいるのは、仏・法・僧の三宝という安全な方向に進む道の階梯について学ぶためです。つまり、私たちはダルマに帰依する方向に進んでいるのです。ダルマへの帰依とは、問題とその原因の真の停止(滅諦)と真の心の道(道諦)のことです。道諦とは現実の真の理解のことで、これが滅諦をもたらし、私たちの持つ可能性を全て開花させるのです。ラムリムの学習は、この方向へ進む助けになります。私たちが進もうとしているのは、仏たちが完全に歩み通し、アリヤ・サンガ(非概念的に現実を知覚した人々)が部分的に歩んだ道です。私たちは、悲―つまり他者が真の問題とその原因を克服する力になりたいという願い―を持ってこの道を歩いてゆきます。他の衆生を最大限に助けるためには仏にならなければなりません。ですから、私たちには世俗菩提心もあるのです。短く言えば、全ての衆生をできる限り助けるために、教えの道の様々な段階について学ぶのです。

このような目標を胸に、七支分の祈りを捧げます。まず、自分が五体投地を行っている様子を想像しましょう。私たちは、この道を進んで目標を達成した人々に対する敬意と、菩提心を持って達成しようとしている自分自身の未来の悟りに対する敬意と、目標を達成させてくれる自分自身の仏種姓に対する敬意とを込めて、三宝の方向に自分の身を完全に投げ出します。

そして、供物を捧げます。私たちは、あらゆる衆生にとって最大限の利益となるために、全て―自分の時間、エネルギー、心―を捧げて、どこまでも自分を成長させたいと思っています。

サキャ派の師であるチューギェン・パクパ(蔵: Chos-rgyal 'Phags-pa)のやり方に従って、実践の様々な側面を捧げる集中の供養を行います。私たちは、自分が読んだり学んだりした全てのことを、他者の利益のために、水という形で奉納します。学んだことは全て、他者の力となるために使おうとしているのです。次に、その学習や読書によって得た知識を、花という形で奉納します。そして、この知識に基づいた瞑想の修行を、お香の煙という形で奉納します。この修行の実践から得た見識を、ろうそくとバターランプの灯りという形で奉納します。この見識から得た強い信念を、さわやかな香りがする水という形で奉納します。このゆるぎない信念に基づいて応用する集中力を、食物という形で奉納します。そして、これらの全てを基礎として他の人々に行う解説を、音楽という形で奉納します。

次に、自分自身に対して完全に正直になり、帰依の道を歩む上で多くの問題に直面していることを公に認めます。実践したくない気分になることもまれではありません。なぜ実践する必要があるか理解できないこともあります。私たちは怒りますし、自己中心的にふるまいますし、貪欲になったり執着したりもします。時には、自分が人生で何をしたいのか分からなくなることもあります。そして後悔します。自分がこのような人間でなければ良いのに、と心から願います。そして、このような問題を克服して、二度と繰り返さないように最大限努力しようとします。さらに、自分が進んでいるポジティブな方向性を再確認し、教えの階梯について学んだことは全て、自分が直面する困難や問題を解決するための対抗策として使おうとします。

私たちは、自分に仏性があるという事実、つまり、自分を成長させて困難とその原因を克服し、可能性を開花させる能力があるという事実に随喜します。心の本質は清浄です。私たちが抱えている困難や混乱はあまり深いものではありません。喫煙者の吐く息のタバコの臭いのようなものです。困難や混乱は人為的なものです。一時的にそこにあるだけでいつかは過ぎ去ってゆきます。つまり、私たちの最も根深い性質ではないのです。私たちはみな仏性、自分を成長させる能力を持っています。私たちはそのことに随喜します。

さらに、私たちは、仏性の潜在能力を全て開花させることができた仏たちと偉大な師たちに随喜します。彼らが通ってきた道の歩み方を私たちに教えてくださったことに対して、「本当に素晴らしいことです、ありがとうございます!」と随喜するのです。

そして、彼らに教えを請います:「どうか、私に学ばせてください。私は学びたいのです。どうしても学ばなければならないのです。他者と自分自身を助けられるようになるために、学びたいのです」。

そして彼らに、留まるように求めます:「私は真剣です。行かないでください。去らないでください。私は悟りへの道を歩き通したいのです。ただダルマを見物したいのではありません」。

これらの加行や、それに続く教えを聞いて実践することから得た全ての理解と功徳が、私たちが仏になる因として作用して、真に他者の最大の利益となることができますように。それらが、私たちが善趣に転生するためだけの因ではありませんように。

次に、集中して教えを聞くことを意識的に決意します。集中力が逸れたら取り戻します。眠くなったら自分を起こそうとします。心をはっきりさせるために姿勢を正し、背筋を伸ばして座りますが、しゃちほこばらないようにします。

エネルギーが沈んでいたら、それを持ち上げるために、自分の眉毛の間に集中します。この時、頭は水平に保ったまま、視線は上に向けます。

少し緊張していたり、不安を感じていたりする場合は、エネルギーをしっかりと固定します。頭は水平に保ったまま視線を下に向け、臍に集中します。通常通り息を吸い込み、苦しくなるまで息を止めます。

加行の本質を本当に理解して、ただ形式的にではなくしっかりと心を込めて取り組めば、たくさんのインスピレーションを受けることができます。これは誰かを崇拝するような行為ではありません。自分のエネルギーをポジティブな方向に向けて、自分を磨き、学び、成長するために、自分の心を開き、できるだけ多くのものを受け入れる状態にするための実践です。これは重要な点です。そして、これが「加行」と呼ばれる理由です。ラムリムの階梯を学んで実践しているときには、このような加行を含む瞑想のセッションから始めることが常に重要視されます。加行は私たちの心を真に開き、私たちは何かを理解したい、学びたいと強く思うようになります。つまり、加行によって、私たちは本当に情熱を注ぐようになるのです。たとえ他の瞑想を行えなくても、日常生活においては加行自体がとても有益な実践になります。

仏陀の教えの体系化

今夜のテーマはラムリム、道次第の構成です。もっと正確に言えば、ラムリムとは「段階的な道の心」、私たちを解脱と悟りという目標に導く道として機能する段階的な理解のレベルを意味します。しかし、ここではシンプルに段階的な道としてお話しましょう。

ラムリムの教えはどこから来たのでしょう?仏陀は様々なテーマについて教えを説き、これらはスートラとタントラのメソッドで構成されています。スートラは基本的なメソッドです。サンスクリット語の「sutra」は「実践のテーマ」を意味します。タントラはスートラを基礎とした発展的な教えです。タントラによって、様々なスートラの教えを全て同時に組み合わせて、自分の持つ仏性の様々な点を開花させられるようになります。

仏陀は、様々な弟子に向けて多様な方法でスートラのメソッドを教えました。教えの多くは「仏陀が話し、他の人々が質問し、仏陀が答える」というような会話形式をとっています。そのため、スートラはあまり整理されていないように見えます。仏陀があるところで言ったことと別のところで言っていることが矛盾している場合もあります。これらがどのように全て上手く組み合わさるのかを理解するのは難しいことです。また、仏陀の時代には何一つ文字で書き残されず、教えを暗記して暗唱するのが習わしになっていました。ですから、人々が重要な点を暗記するのを助けるため、スートラには同じことが何度も繰り返し説かれています。

さらに、どうやって教えを実践するのか、スートラ自体からはっきりと読み取ることはできません。それゆえ、インドの偉大な師たちはスートラの様々な注釈書を著しました。これらの注釈書では、教えを体得して実践しやすくするために、仏陀が言おうとしたことが詳細に解説され、文献が整理されています。たとえば、未来仏である弥勒菩薩の著作は五つあります。弥勒菩薩の教えは無著(アサンガ)に啓示され、無著がそれを書き記しました。これらの中で、仏陀の教えを伝えるメソッドとして、私たちがこれから見ていくような構成―ある種の導入部、教えの簡単な記述、複雑な記述、要約―が初めて使われました。複雑な記述にはいくつものリストがありますが、仏陀自身も物事を列挙していましたから、これがチベット人の発明だと誤解してはいけません。このような構成はラムリムの様々な文献に見られます。

いくつかの基本的なテーマはスートラの修行の基本であり、これらを体系化する方法はたくさんあります。たとえば、ニンマ派には「心をダルマに向ける四つの考え」があり、カギュ派には「ガムポパの四つの主題」が、サキャ派には「四種の執着からの別離」があります。サキャ派では、同じ文献を四聖諦に従って体系化することもあります。アティーシャに端を発するカダム派、その流れを汲むゲルク派、シャンパ・カギュ派では、三つのレベルの動機よって教えを体系化します。これこそ、「ラムリム」と呼ばれるものです。ラムリムに含まれる内容は、ラムリムのみによって示されるものではありません。他にもたくさんの方法で同じ教えが提示されます。

三段階の動機

では、三つの動機のレベルに即したラムリムの文脈で、教え―貴重な人間の生、帰依、カルマ、輪廻、菩提心、空などの教え―を提示することに、どんな特別な利点があるのでしょう?主な利点の一つは、「本物のダルマ」に先立つ段階を提案することで、教えにアクセスしやすくしていることだと思います。では、これについて詳しくお話しましょう。

仏教について考えるとき、私たちは「帰依」について話します。私は「帰依」を「人生における安全な方向性を定めること」と呼ぶ方が適していると思います。では、この「方向」とは一体何なのでしょう?ダルマの宝、法宝です。法宝とは四聖諦の三つ目と四つ目にあたる滅諦と道諦を指します。滅諦とは問題とその原因の真の停止のこと、道諦は空を非概念的に認識する真の道の心のことです。仏たちはこれらを心相続の中に完全な形で獲得しています。つまり、仏たちは、心相続の中に完全な滅諦と道諦を持っているのです。一方、アリヤ・サンガは、滅諦と道諦をいくらか獲得し始めていますが、まだ完全ではありません。

昔、真空管テレビが壊れたときには故障した真空管を取り外していましたが、これは滅諦に似ています。代わりに最もよく機能する真空管を取り付けるのは道諦に似ています。悟りを得た仏たちは、全ての故障した真空管を取り外し、全て最もよく機能する真空管と取り替えたのです。阿羅漢は真空管を何本か交換しています―つまり、解脱しています。空を非概念的に認識すると、私たちはアリヤになります。このとき、壊れた真空管の最初の一本を外して交換するのです。ダルマへの帰依とは、アリヤから阿羅漢に至り、そして仏になるまでの全ての成就(悉知)のこと―つまり、全ての真空管を取り替えること―です。

四転心法―貴重な人間としての生、死と無常、カルマ、そして輪廻による不利益について考えること―は、私たちの心をダルマへの帰依に向けることを論じます。その中でも、出離、つまり解脱を願うステップが特に重要視されます。四転心法をラムリムの文脈に置き換えると、中級レベルの動機―出離して解脱を目指すこと―から始まっているということになります。そして、必ず、悟りの達成を目指して菩提心を育むことと空を理解することに関する教えがこれに続きます。段階的な道の示し方はラムリムの大きな特色ですが、ここに初級レベルの動機―解脱と悟りを目指す足掛かりとして、より良い来世を目指すこと―が含まれているというのも大きな利点です。つまり、解脱と悟りという仏教の実際のゴールを目指す基礎を作る段階が提示されているのです。

サキャ派には四つの執着から別離する伝統があり、その一つに「今生への執着から心を引き離して来世について考える」というものもありますから、これはラムリムだけのものではありません。しかし、ラムリムでは来世の利益に向けた取り組みが三つのレベルの動機の一つと見なされているので、これが以降の取り組みへの足掛かりであることがはるかに明確に示されていると言えます。これは、私たち西洋人がダルマにアプローチする際にはとても重要な点だと思います。

足掛かりとしてのダルマ・ライト

ラムリムの上級レベルの動機は大乗仏教特有のものですが、大乗のスートラとタントラのどちらにも共通しています。このレベルでは悟りを目指します。中級レベルの動機は、小乗・大乗を問わずあらゆる仏教の伝統に共通して見受けられます。このレベルでは解脱を目指します。シンプルにより良い来世を目指す初級レベルの動機は、仏教以外の様々な宗教にも共通して見受けられるステップです。

多くの仏教の文献では、「あるものが仏教であるか否かは、来世の利益のために何かをするか否かによって決まる」とされています。さらに、仏教徒とは「自身の人生に安全な方向性を定めている人」、つまり「帰依した人」である、と説明されます。先ほどお話したように、私たちが実際に帰依するのは法宝です。そして法宝とは、解脱と悟り、あるいは解脱と悟りを目指すアリヤの段階を指します。では、これらの点はどのように組み合わさるのでしょう?その答えは、帰依の教えが初級レベルで示されているという事実の中にあります。

「来世の利益を目指すか否かがダルマか否かの境界線である」と言っても、キリスト教徒が天国を目指すとか、ムスリムが天国を目指すのはダルマとは言えないと思います。帰依がこの初級レベルに位置づけられているという事実は、「来世の利益を目指すか否かがダルマか否かの境界線である」と言うときの「来世」が、特に「アリヤになって解脱を達成し、最終的に悟りを開くための道を歩み続ける足掛かりとしての来世」を指していることを示しています。このように考えると、来世への利益が仏教以外の宗教とも共通する目標である一方、それが仏法を規定する境界線でもあるという見かけ上の矛盾は解消されます。

初級レベルの動機は、法宝である滅諦に向けて実際に取り組むための足掛かりです。この「足掛かりとしての初級レベル」という考え方から、私は「ダルマ・ライト」というコンセプトの着想を得ました。ダルマ・ライトは初級レベルの足掛かりになる段階、つまり、初級のさらに手前の段階です。私は、ラムリムの構成は、初級よりもさらに手前の段階を作ることを許容していると考えています。この段階を設定すると、西洋人たちにとっては、教えの道に入門するのがずっと容易になると考えます。ダルマ・ライトのレベルの動機とは、来世をより良いものにする足掛かりとして、今生をより良いものにするというものです。ラムリムの初級レベルの動機を育むよりもさらに前に、このダルマ・ライトのレベルの動機に取り組むのです。

ダルマは走っているバスのようなもので、飛び乗るのは簡単ではありません。ラムリムを見てみると、より良い来世を目指す初級の動機は、来世の基本的な理解と、来世があるという確信を前提としています。伝統的な文献には前世や来世の存在に関する説明さえありませんし、存在を証明しようともしていません。誰もがそれを信じているという前提で書かれているのです。このような文化的背景に生まれ育っていない西洋人にとって、前世や来世を受け入れたり、ましてやそれには始まりがないということを鵜呑みにしたりするのは大変困難です。伝統的な文献では、この類の困難は考慮されていません。しかし、ダライ・ラマ法王はこのように口頭で説明していました:

初級レベルが仏教以外の宗教と共通するのと同じように、その手前のダルマ・ライトで行うこの生をより良くする取り組みも、大乗にも小乗にも、セラピーにも、非宗教的な哲学や人道的な哲学にも、他の宗教にも共通するものです。これはより幅広い範囲に共通する基礎なのです。帰依と安全な方向性の一般構造の中で、来世や解脱、悟りに取り組む足掛かりとしてある修行を行う場合、それはダルマ・ライトの修行になります。ダルマ・ライトの修行を通じてこの方向に進み始めることができるのです。実際の帰依が高速道路なら、ダルマ・ライトは高速道路へのランプのようなものです。

動機の意味

動機の段階的なレベル構成は非常に重要です。「動機」とは、何かをすることの感情的な理由を指すのではありません。この「動機」とは、目標、ゴールのことです。私たちはなぜ学んだり実践したりしているのでしょう?何を達成しようとしているのでしょう?ラムリムの構成は成長過程を示しています。そして、私たちは、初めから取り組まなければなりません。多くの人が、初級レベルを飛ばして直接大乗に取り組もうとするという過ちを犯します。彼らは「私は全ての衆生が解脱と悟りに達するための取り組みをしている」と誇らしげに言いますが、それ以前に初級レベルの動機を持っていなかったら、全ての衆生のための取り組みは矮小化され、行っている修行もダルマ・ライトのレベルのものになってしまいます。これでは、本当に全ての衆生が悟りに至る手助けをするために努力しているとは言えません。それがどういうことなのかを知らないからです。「悟り」の意味さえ全く分からないのです。転生を信じていなければ、当然、世界中の全ての昆虫がとめどない転生から解放されるための取り組みなどできないでしょう!自分自身を正直に吟味してみると、自分はほんの数えるほどの衆生の力になろうとしているだけで、しかも今生に限って、彼らの生を改善する手助けをしているだけであることに気付きます。この目標も非常にポジティブで有益なものですが、これを「大乗」と呼ぶのは大乗を軽んじる行為です。実際よりも高いレベルの動機を持っているふりをせず、ラムリムの各レベルの動機を、一つ一つ、順番に、心からの誠意をもって育むことが何よりも重要視されるべきだと思います。

足掛かりとしてダルマ・ライトと初級レベルに取り組むということは、転生や解脱、悟りの理解の重要性をはっきりと認識しているということです。私たちは、自分がまだこれらのものを理解していないことを知っていますが、理解することの重要性は認識していて、それを全力で目指そうとしています。まだ転生などを受け入れる準備ができていない場合は、しばらく保留しておきます。しかし、それを理解する方向に進み続けるのです。

ラムリムの教えは、動機がダルマ・ライトや初級レベルであっても全て学び通すことができます。全く問題はありません。利他主義、寛容さ、他者を手助けすること、煩悩を理解すること、空についてある程度の知識を持つことなどは、どれも、現在の生を生きる助けになるでしょう?始まりのない転生などの要素を抜きにしてこれらを深く理解することはできませんが、ダルマ・ライト・バージョンで理解することはできるのです。

例えば、前世と来世を抜きにしては、カルマ(行為に関する因果の教え)は合点がいくものではないでしょう。なぜなら、生涯にわたってずっとポジティブな生き方をしていたとしても、地震に遭って死ぬこともあるからです。このようなことは、今生だけについて考えていては理解できません。これは、カルマの教えが今生では役に立たないという意味ではありません。事実、役に立ちます。しかし、前世と来世について考えなければカルマを深く理解することはできないということです。さらに、転生について理解していなければ、あらゆる衆生が自分の母親だったことがあると考えるのはばかげていると感じられるでしょう。この考え方は菩提心に関する多くの教えの基礎にもなっています。同じように、私たちの心には始まりも終わりもないという考えなくして、空を正しく理解することはできません。始まりのない心は転生を暗示しています―そうではありませんか?

誠意をもって各レベルの動機を実感することが不可欠です。初級レベルの動機を飛ばしてしまうのは、ラムリムの真の核心を見逃すということです。試しに、初級レベルのテーマを挙げてみましょう。貴重な人間としての生、死と無常など、スートラに直接由来する―そして、様々なチベット仏教の伝統や師たちが多種多様な方法で提示してきた―テーマばかりです。これらはラムリム固有のものではありません。ラムリムに特徴的なのは、これらのテーマを、段階的な動機のレベルという構成の中で提示していることです。

ラムリムの文脈を理解する

ラムリム式の教材のどこで精神的な師との健全な関係が解説されるかは、チベット仏教の伝統によって異なります。たとえば、ゲルク派のラムリムでは、健全な師弟関係は道次第よりも前に解説されます。

余談になりますが、ラムリムは一つだけではないということをお伝えしなければなりません。ゲルク派の伝統には主要なラムリムが七つか八つあります。その内の三つはツォンカパが自ら著したものです。さらに、ダライ・ラマ3世、ダライ・ラマ5世、パンチェン・ラマ4世、パンチェン・ラマ5世によるラムリムもあります。最も新しいのはパボンカのものです。パンチェン・ラマ5世とパボンカの間にもいくつかのラムリムが書かれました。ラムリムの発展の歴史について詳細にお話することもできますが、ここではやめておきましょう。重要なのは、教えを提示する形式が時代と共に移り変わってきたということです。

さらに余談になりますが、パボンカ・リンポチェのラムリム―これは弟子のトリジャン・リンポチェによって書き留められました―に言及しておこうと思います。これは初めて英語に翻訳されたラムリムで、それゆえ非常に知名度も高いのですが、かなり原理主義的なアプローチを取っているのです。つまり、ゲルク派原理主義なのです。私は、それが良いとか悪いとかいうことではなく、ただそれがそういうものだとお伝えしています。これがラムリムの伝統全体、あるいはゲルク派の伝統全体を代表するものだとは決して考えないでください。たとえば、これにはボン教に反対する非常に強烈な意見が書かれています。また、「手を握り締めて五体投地を行うと有蹄類に転生する」などということが強調されているのは、原理主義的なアプローチを反映しています。何かを良いか悪いか判断するのではなく、どういうものであるか知っておくのです。原理主義は多くの人々に適していますが、別の人々にとっては不適切です。けれども、ゲルク派主流のラムリムはツォンカパの『菩提道次第大論』(蔵: Lam-rim chen-mo)です。これこそがゲルク派の伝統です。ダライ・ラマ法王はこの版を常に重要視してきました。現在では英語版も入手できます。

お話していたことに戻りましょう。ゲルク派のラムリムは、加行と師弟関係の解説から始まっています。最初に師弟関係、次に加行を扱っている版もあれば、その逆の版もあります。いずれにしても、どうしてこの二つから始まるのでしょう?考えてみれば明らかなことですが、このような構成は、仏教について何も知らずにダルマセンターにやって来た入門者を想定したものではありません。入門者がどうやって五体投地や帰依、菩提心や七支分の祈りから始めるのでしょうか?入門者は、ダルマセンターのドアをくぐったら、ただちに自分の師を仏だと考えなくてはならないのでしょうか?当然、西洋人の入門者たちはラムリムの学習者として想定されていません。師を仏と見なすことに関する議論の中にタントラが引用されているのを見れば、それがさらにはっきりします。「持金剛仏はこう言った…」。理解しなければならないことが何か書かれています。

では、これらの教えは元々どこで、どんな文脈の中で説かれたのでしょう?教えを受けていたのは非常に熱心に仏教の道に取り組む受戒した比丘たちで、彼らはタントラの灌頂、つまりイニシエーションを受ける準備をしていました。彼らにタントラの灌頂を授けるには、タントラの実践の基礎となるスートラの道を前もって復習させる必要があります。ですから、ラムリムは、タントラの灌頂を受けようとしている熱心な比丘たちに、基本的なスートラの教えの復習として授けられたものなのです。これらの聴衆は、転生が受け入れられている文化的背景の出身者たちでした。さらに、彼らはすでに自身の師とある程度の関係を築いており、その師からタントラの灌頂を受ける準備がすでにできていました。このような文脈の中で考えると、師弟関係に関する教えはどれも理に適っています。想定されていた聴衆・読者は比丘なので、加行についての教えがあるのも当然です。いずれにせよ彼らはその種の儀式を行っていたのですから。

もう一つの手がかりは、ツォンカパが健全な師弟関係を「道の根」と呼んでいることです。植物の中で初めに成長する部分は根ではなく種です。ツォンカパは師との関係を「道の種」とは呼びませんでした。根とは、すでにある程度成長したものを支えて栄養を供給する部分です。道は師から生じるのではありません。ツォンカパのラムリムの構成では師弟関係が最初に扱われますが、これは、入門者が何よりも先に師弟関係について知るべきだと言いたいのではなく、すでに途上にある人々に道を示しているのです。彼らにとっての支え、道を歩むための栄養になるのは、すでに彼らが築いている自身の師との関係なのです。それゆえ、初めに師弟関係に言及しているのです。

ここまで、段階的な構成である理由、伝統的な三つの段階の前段階を作ることができる理由―伝統的な三段階の構成には予備段階を加えられるということ―、そして、師弟関係と加行という視点から見えてくるこの構成の意味についてお話しましたが、これらが、ラムリムの構成に関してまず知っておくべき点です。

ラムリムの伝統的な初級レベルに取り組み始める前に必要なこと

ラムリムの初級レベルの動機に取り組み始めるためには、事前にどのような実践や理解が必要ですか?

サキャ派の戒脈の五人の創始者の一人であるソナム・ツェモ(bSod-nams rtse-mo)は、教えに入門するために必要な三つのことを列挙しました。一つ目は、苦しみの認識です。二つ目は、苦しみから抜け出すことが可能であるという確信です。そして三つ目は、ダルマがその道を示してくれるという確信です。考えてみれば、これは完全に筋が通っています。人生に何の問題もなければ、ダルマに目を向けることはないでしょう。問題があっても、そこから抜け出す道がないと思っていたら、やはりダルマに目を向けることはないでしょう。そして、ダルマが解決策を与えてくれないと思っていたら、当然、ダルマにそれを求めないでしょう。これらの三つのものによって私たちは仏教の道を知り、その道を歩みたいと思うようになるのです。三つ目の点―ダルマが道を示してくれるという確信―は、ダルマが実行可能な解決策を示してくれる兆しを感じ取るにはまずダルマをある程度学ぶ必要があるということを暗示しています。ですから、ダルマに本格的に取り組む前に、ダルマについて少し学んでおく必要があるのです。

精神的な師との関係についてもう少し詳しくお話してください。種とはなんですか?どのようにして種から根が生えるのですか?ダルマに本格的に取り組む前にある程度知識を着けておく必要があるなら、最初はどうやって精神的な師に就いたら良いのでしょう?

例を挙げましょう。ソナム・ツェモが説明した三つの点は種のようなものです。その種が成長することによって、私たちはダルマに入門するのです。しかし、どうやって種から根が生えるかを理解するために、三つ目の点、つまり、ある程度ダルマに触れていること、そしてダルマが人生の問題に対する解決策を提示してくれるとある程度確信していることの必要性について考えてみましょう。

私の個人的な体験をお話しましょう。私は大学で七年間仏教を学びました。非常に専門的に研究して、主要な古典語も学びました。これが自分の正しい方向性だということは本能的に分かっていましたが、インドに行ってダライ・ラマ法王に会い、その後法王の師の何人かに会うまで、仏教が生きた伝統であると実感したことはありませんでした。しかし、仏教は、研究者たちがクロスワードパズルのように解き明かそうとするだけの、文献の中だけに残っているような過去のものではなかったのです。1960年代のアプローチはそのようなものでした。インドには生きた師がいて、仏教の教えも生きていました。そして、教えや師に従うと、実際に結果がもたらされました。私は、伝統的な文献の中で解説されている主な目標や師の役割―インスピレーションを与えること―を、身をもって体験しました。仏教の実践は可能であり、生きているものだという事実こそ、私が実践に専念し、仏教に情熱を傾けるようになった理由です。

ですから、精神的な師は真剣に教えに取り組むための大きな力になりますし、欠かせない存在です。書物によってダルマの道に引き込まれることはありますし、ある程度のインスピレーションを受けることもできるでしょうが、本で教えを読むだけでは心血を注いで実践することはできないと思います。最も強いインスピレーションを与えてくれるのは、何よりも、師という生きた手本です。それゆえ、師から学ぶこと(ソナム・ツェモの三つ目の点)は種であり、いずれ根を生やすのです。師から受け取るインスピレーションは、私たちが道を歩む間中、私たちを精神的に支え続けてくれます。しかし、師との出会いが種となり、やがて根となるためには、カリスマ的なペテン師ではなく、本当に資質のある師と出会わなければなりません。

ただ私たちの心を「ぶっ飛ばす」だけの資質のない師に出会い、仏教について何も学ばなくても、ダルマの道に入門することができるでしょうか?私はそうは思いません。生きた手本である師を持たずに書物を読むだけでも、ダルマの方向へ導かれたり、多少のインスピレーションを受けたりすることはあります。師と会うことも―たとえ資質のない師であっても―これと同じです。しかし、本からでも師からでも、インスピレーションを受けるだけではなく、何かを学ばなければ、安定してこの道を進むことはできないのです。

では、ダルマにアプローチするとき、仏教について本で読むだけの場合と、師から強い印象を受けるだけの場合と、より危険なのはどちらでしょう?どちらにもそれぞれ危険があります。本を読むだけの場合、実際の教えとは全く関係ない自己流の解釈に陥ってしまうおそれがあります。ただ師に従うだけの場合、強烈なインスピレーションを与えるけれども資質がない人物の餌食になるという大きな危険があります。この場合、誤った方向に導かれてゆきます。たとえ師に資質があっても、私たち自身が彼らにたくさんの幻想を投影した場合、自分の幻想によって誤った方向に進んでいってしまうこともあります。

どのように仏教の道を歩み始めるにしても、学習とインスピレーションはどちらも必要です。師から受け取る最初のインスピレーションは、精神的な師と築く健全な関係とは別物です。精神的な師と関係を築き始めるのはずっと後―ダルマの道を歩むことが自分の中に定着し、実践に情熱を傾けるようになり、自分の師をしっかりと吟味してからのことです。文献では、師から波羅提木叉や菩薩戒、あるいはタントラ戒を受戒したとき、その師との正式な師弟関係が示されるとされています。しかし、戒を受けるには、それ以前に十分成長している必要があります。集団の圧力などの神経症的な理由で戒を受けて、何が行われているのか全く分からないまま儀式をやり過ごしてしまってはいけません。ダルマの道に心血を注げるようになってはじめて、伝統的な文献で議論されているような師弟関係について考え始めるのです。しばしば、「精神的な師は道の始まりでも、半ばでも、終わりでも重要な役割を持つ」と言われます。しかし、それぞれの段階における理解しなければなりません。これは、最初から師を仏だと考えなければならないという意味ではないのです。

貴重な人間の生の価値を認める

ここでは、ラムリムの様々な点について詳しくお話する時間はありません。代わりに、ほとんどの人が取る「ダルマ・ライト」のアプローチと「本物のダルマ」との違いという観点からラムリムの構成を検討するに留めたいと思います。

まず、今自分が手にしている貴重な人間としての生の価値を認めることから始めましょう。チベット語で「貴重」を意味する言葉は、「三宝」を「貴重な三つの宝」と呼ぶときの「貴重」と同じものです。ですから、八有暇十具足を満たした人間の生が貴重なだけではなく稀有であることがほのめかされているのです。知的・身体的・精神的な障害や欠損がないことや、恐ろしい紛争地帯に住んでいないこと、飢餓に苦しんでいないこと、強制収容所で虐待を受けていないことは、どれも非常にまれなことです。多くの人々がこのような状況の中で苦しんでいます。これらの問題がないことは大変珍しく、非凡なことなのですが、私たちはそれを当たり前だと思っています。

実際、私たちは、自分が手にしている貴重な人間の生に気付くのに都合が良い時代に生きています。自分を高めるためのメソッドを入手できますし、私たちはそれを学んで実践することに関心を持っています。メソッドを入手できる状況にあってもほとんどの人は興味を持ちませんし、入手できない人もたくさんいます。さらに、私たちは関心を持っているだけではなく、メソッドを学んで実践する機会も手にしているのです。これはほとんど信じがたいようなことです。自分がおかれている状況と、世界の他の地域に住んでいる人々の状況を比べてみれば、自分がいかに恵まれているかが分かるでしょう。

自分自身を高める貴重なチャンスを手にしていることに気付くと、それを活用しようという気持ちが生まれます。重要なのは、このチャンスを無駄にしないことです。このチャンスは大変まれで、はかないものです。機会を生かさず、バーに行ったりテレビを見たりして多くの時間を浪費しまうのは、信じがたいほどの損失です。自分の人生においてもっと生産的で有益なことをする自由があるというのはとても大きな特権です。ほとんどの場合、私たちにはいくらかのお金があります。そして、奴隷ではありませんし、健康です。つまり、恵まれているのです。ダルマ・ライトに取り組む場合でも、本当のダルマに取り組む場合でも、この核心は全く同じです。

これが、実際の動機のレベルよりも前に位置する出発点です。この先も道を進み、学び続けてゆくことはできますが、この最初のポイントが心に届かなかった場合―頭で理解するだけではなく、感情の深いところで完全にリアルに感じられていない場合―は、本当の意味で先に進むのは大変難しくなります。心から誠実に歩まなければ、精神的な道はボウリングかエクササイズのような、単なるスポーツのようなものになってしまいます。その場合、自分の人生との深い関連性を見つけることもできません。しかし、実際には、自分を高めることは自分の人生そのものであるべきなのです。

しかし、これは、人間としての貴重な生の価値を十分に理解できるまでここで止まっていなければならないとか、道次第以外のことについては何も学んではいけないとかいう意味ではありません。心の奥深くまでこのような感覚が浸透するのには何年もかかるでしょう。大切なのは、これを矮小化しないことです。人間としての貴重な生の価値を認めてそれを有効に活用するために努力する必要はありますが、ダルマにとりつかれた狂信者になってはいけません。そうなってしまうと必ず失敗します。ですから、力まず、リラックスしましょう。

私たちは人間としての貴重な生という稀有な機会を手にしています。資質のある師に出会い、共に学ぶチャンスを得られれば、それをもっと強く実感できるでしょう。このような機会を逃してはいけません。学べることや資質のある師と出会えることは大変な特権なのです。

善趣への転生を目指す

初級レベルの動機は、悪趣への転生を避け、来世をより良いものにするという視点から考えることです。つまり、私たちは人間以外にも様々な姿を取って転生し得ると言う意味です。しかし、最終的な目標は、地獄の領域を避けて天の神々の領域に至ることではありません。そのようなことを最終目標とするのは仏教ではありません。

現実的に考えて、私たちは一つの生の中でどれほどのことを達成できるのでしょう?一つの生の中で全てを達成することはできません。仏教の道をある程度進むのにさえ長い時間が必要なのですから、貴重な人間の生を維持していかなければなりません。さらに高次の目標を達成するための足掛かりとして、機会を手にし続ける必要があるのです。ですから、より良い来世を得たい、善趣に転生したいというのは、貴重な人間の生に基づいた願いなのです。私たちは貴重な人間の生を手にしていて、今後もそれを得続けたいと思っています。

ダルマ・ライト・バージョンでは―転生を理解していなかったり、信じていなかったり、ましてや目に見えない天道や地獄道の存在など理解できないような場合―、これからの世代の利益になりたいと願うことができるでしょう。現在の私たちと同じように、未来の世代も―それが自分の家族のことでも、もっと幅広い意味で考えている場合でも―、同じように貴重な機会を手にしてほしいと考えるのです。この、未来の世代の利益という考え方は、仏教の文献に実際に書かれているものではありません。しかし、これはダルマの教えと矛盾しませんから、西洋の人々がこのような視点からアプローチすることもできると私は考えます。これが実際の仏教の教えであると主張したり、来世の利益となるという仏教の実際の考え方を否定したりしない限り、このような目標を持つのは完全に真っ当で有益なことでしょう。

次に、死に対する気付きに取り組みます。私たちは真剣に死と向き合います。私たちは死にます。当然のことです。これまで生まれた人は皆死にました。自分がいつ死ぬのかは分かりません。死についてだけ考えるだけでは、気分が落ち込むかもしれません。本物のダルマでは、「死の後には来世があるが、その準備はできているか?」と考えます。今すぐ死ぬとしたら、次に直面するものへの準備はできているでしょうか?これまでにこの人生で行ってきたことに対する後悔はありますか?今生を無駄にしてしまいましたか?これが人生最後の一時間だとしたら、これまでの人生の過ごし方に満足できますか?このようなことを考えるのはとても重要です。

ダルマ・ライトでは、シンプルに、自分がいつでも死に得るという事実を真剣に受け止めます。現在の世界情勢において、これは特にリアルに感じられるでしょう。私たちは未来の世代にどんな財産を遺せるでしょうか?私たちは何をしてきたのでしょうか?経済的・感情的な混乱だけを残していくのでしょうか?それとも、何かポジティブなものを遺すことができるのでしょうか?人々は私たちをどのように記憶するでしょうか?

死について考えたあと、死後起こり得ることについて考えます。悪趣について考えてみましょう。誰もが踏みつぶしたくなるようなゴキブリに転生したいですか?それよりもずっとひどい状況もたくさん考えられます。畜生道だけではなく、人間道に生まれ変わった場合でさえ、おぞましい差別の対象になるとか、何の機会にも恵まれないとか、今よりもひどい状況に生まれる可能性はいくらでもあります。現在、自分がこのように素晴らしい機会に恵まれている幸運に気付き、このような状態は今後一切手に入らないと想像すると、恐ろしいことだと感じられませんか?そうはなって欲しくありません。このように考えると、来世に備えようという強い気持ちが湧きおこります。念を入れてきちんと準備したいと思うようになるのです。

このような考えは、ほとんどの西洋人にとって理解しがたいものです。なぜなら、私たちには「転生」が一体何を意味するのかよく分からないからです。何かを知っているとしても、仏教では当然認められないような、あまりにも安易な知識である場合がほとんどでしょう。全てを真摯に感じるのは、とても、とても困難なことです。先ほどお話したように、ダルマ・ライトでは未来の世代という観点から考えますが、この人生の中で、これから状況が悪化するのを避けたいという願いを持つこともできます。人生で有意義なことを一つも成し遂げないまま、老人ホームで車椅子に乗って、老齢の苦しみに対処することもできず、孤独で、暗い気持ちで過ごしたいですか?そう考えると恐くなるでしょう。ですから、ある種の感情的な土台と理解を準備して、避けることのできないこと―身体感覚の喪失、膀胱をコントロールする能力の喪失、他者への依存、死など―に対処できるようにする(明日突然死ぬのでなければ)のです。多くの人は鬱に飲み込まれてしまいますが、私たちはこれらに向き合い、尊厳を保てるようにするのです。避けられない様々なことをただ否定するのではなく、真剣に向き合わなければなりません。否定は何の役にも立ちません。これは重要な点です。素敵なものだけを見つめるのがダルマではありません。私たちは、おぞましいものを直視して、それらを避けたり、苦しみをできる限り小さくして対処しようとしたりしているのです。

次のステップは、安全な方向、つまり帰依です。この生が終わるときに悪趣に転生したくないとか、未来の世代に悪いことが起きてほしくないと願うのであれば、仏・宝・僧の三宝がそれを避ける道を示してくれています。仏たちは煩悩や困難を全て完全に捨て去りました。解脱した阿羅漢や高度に悟ったアリヤはそれを部分的に達成しました。私たちはまさにこれを―つまり、解脱か悟りを―目指しているのです。善趣への転生を目指している場合、帰依は、いくつもの転生を重ねて実際に解脱と悟りを達成する方法を示します。簡単に言ってしまえば、帰依とは、自分を高めてゆくための方向性なのです。

ダルマ・ライトでは、自分を高め、足掛かりとしての現世でこの方向に進んでゆきます。自分が全ての混乱を捨て去ってあらゆる能力を開花させられると確信するのは決して簡単なことではありません。それがどういうことなのかさえよく分からないかもしれません。それを目指すには、まずその意味を理解し、解脱と悟りが達成可能であることを確信する必要があります。ですから、ダルマ・ライト・バージョンでは、あらゆる混乱と煩悩をどのように克服するかを理解し、それが可能であると確信することを目指します。同時に、少なくともこの安全な方向に進むことはできるでしょう。道を最後まで歩き通せるかどうかは分かりませんが、その方向に進むのが有益であることは理解しているのですから。

こうして、私たちは人生の意義と方向性を手にするのです。これが、帰依のこの段階がこんなにも強調される理由です。ダルマ・ライトであろうと本物のダルマであろうと、この点は非常に重要です。自分が人生で何をしようとしているのかを実感するのは大きな一歩です。これを実感できると、私たちは深い安心感を得ますし、とても大きく成長します。今お話しているのは、自分では何もせずに「ああ、仏様、仏様、助けて下さい!」と言うような、未熟な態度のことではありません。そんなものは仏教ではありません。

仏・法・宝の三宝の示す方向に進むためには、カルマ(行為に関する因果)を理解し、それに従って自分の言動を修正する必要があります。自分が破壊的に行動している場合は、それを自覚して止め、もっと建設的に行動するようにしなければなりません。自分の言動は、自分が経験することに影響を与えます。愚か者のような行動をとっていたら、人々は私たちを愚か者として扱うでしょう。冷酷にふるまっていたら、誰が私たちに優しく接してくれるでしょう?他者を傷つけたりだましたりしていたら、他の人も私たちに同じような残酷なふるまいをするでしょう。周りの人々に優しくしていたら、ものごとは少し上手く行くはずです。

ダルマ・ライトでは、自分の行動様式がこの生で経験することに影響すると考えますが、これはそれほどはっきり分かることではありません。家族に優しくしても、多くの問題や困難が起こることもあります。一方、非常に汚い手段で多くのお金を稼いでも逮捕されないこともあります。ですから、一般的に「私たちが良い人間であればこの生は上手く行き、悪い人間であれば上手く行かなくなる」とは言えるのですが、これには何の保証もないのです。本物のダルマでは前世や来世について考えます。なぜなら、自分の行為の結果のほとんどはこの生の間には熟さず、この生において熟すのは、この生ではなく、これ以外の生でとった行動の結果だからです。

カルマに関する教えのもう一つのダルマ・ライト・バージョンは、他者の力になり、傷つけないように努力するというものです。これはダルマとつじつまが合いますが、自分の言動がどのような影響を及ぼすかは分かりません。誰かのために素晴らしい食事を準備しても、ゲストが喉に骨を詰まらせて死ぬこともあります。一つだけはっきりしているのは、自分の行為は、自分自身に、つまり自分が実際に経験することに影響を与えるということです。それがカルマというものです。

これらは全て、来世について考え、ダルマの道を歩むには不十分な生に転生することを避け、解脱と悟りを目指して自分を高めるために今後全ての生を人間として生きたいと願うことを背景としています。

中級レベル

中級レベルの動機では、とめどなく繰り返される転生からの解脱を目指します。転生を理解しておらず、信じてもいなかったら、どうやって転生を目指すというのでしょう?そんなことはばかげています。ダルマ・ライトではこの生における様々な種類の問題から自由になることを目指しますが、これはかなりあいまいな目標です。先ほど、本物のダルマの初級レベルで、粗雑なレベルの苦しみ、特に悪趣に転生する苦しみを避けるということについて考えました。中級レベルでは、通常の幸せの問題について考えます。これは、さらに高次の領域の苦しみと位置づけられます。神の領域にいても、人間であっても、私たちは多種多様な苦しみを抱えます。さらに、輪廻の中の一般的な状態である「全てを含む苦しみ」―どんな転生においても自分が経験することは全て混乱によって条件づけられ、混乱が伴い、更なる混乱を繰り返し生み出し続けるということ―についても考えます。しかし、ダルマ・ライトでは、現在の生にも関連付けられるよう、これらの二つの苦しみをもっと一般的にとらえます。

私たちが感じる通常の幸せは不完全です。これはなぜでしょう?それによって満たされることが決してないからです。私たちは絶対に満足しません。一度だけセックスしたいとか、何かを一度だけ食べたいと思う人はいません。何度も何度も欲しいと思うのです。恐ろしいことに、自分が好きなものが気にいらないことさえあります。同じ食事をいつも美味しく感じるとか、いつもセックスを楽しめるという保証はどこにもありません。さらにおぞましいことに、次に何が起こるかは全く分からないのです。ある瞬間に素晴らしく晴れやかな気持ちでいても、次の瞬間、とてつもなく嫌な気分になることもあります。これでは満足できません。

得られる快楽は何としてでも得ようとする心をどうにかして超越しなければなりません。食べ物、セックス、友情、お金などから完全な幸せが得られるというのは、普通、ただの幻想です。このような信念は混乱から生じています。私たちはこれらのものを追い求めます。このようなもので自分の心が満たされないという経験をすると、さらなる混乱が続きます。「きっと次こそ完全な幸せを感じるだろう」と考えるのです。私たちは、「出離」を起こさなくてはなりません。出離とは、自らを永続させている輪廻の輪から自由になる決意のことですが、このように決意するのは、この状態の全てに飽き飽きして、嫌になっているからです。自分の頭を壁に打ち付けながら永遠の幸せを得ようとしているのは、愚かでくだらないことです。出離によって、私たちはこの状態から自由になることを決意します。自由になることが可能であり、これに代わる状態があるということを理解しているために、このように決意するのです。

出離すると、この世界には、自分が本当に行きたいところなどないと気付きます。どこも大体同じです。他よりも少しは良い場所もあるかもしれませんが、結局どこもゴミくずです。幸せを得るために所属したいと思えるようなダルマセンターもありません。どんなセンターも完璧ではなく、どんなセンターでも、内部のくだらない政治的なあれこれが避けられないことに気付くからです。所属したいと思うような僧院もありません。どんな僧院でも、やはり、内部の政治的なあれこれは避けられないからです。友情を深めたいとも思いません。どんな友情にも、多くの問題や困難がつきものだからです。

しかし、あらゆるものは気を滅入らせるだけなので背を向けて自殺するべきだということではありません。何にも心を引き付けられることなく、理想的なダルマセンターや僧院、友人、住処、仕事、パートナーなどが見つかるという神話も信じずに、解脱への道をさらに先へと進む助けになるものを探すだけです。この基準に従って、ダルマセンターや僧院、住処などを選ぶのです。このとき、「世界で一番素晴らしいものを選ぶ」などと誇張して考えてはいけません。そんなものはどこにもありません。そのように考えることこそ輪廻の苦しみです。輪廻の中ではなにごとも私たちの心を満たしませんし、なにごとも完璧ではありません。輪廻の中では、ものごとは上手く行ったり行かなかったりするからです。出離について、このように理解してください。

ダルマ・ライト・バージョンの出離は、この生における苦しみを捨て去りたいという願いです。本物のダルマでは今生だけではなく来世についても考えます。とめどなく繰り返されるサイクルから抜け出すために何か行動をとらなければ、三種類の苦しみが来世から来世へと引き継がれてゆくのです。

こうして、これらの教えの全てが、パズルのピースのように組み合わさることが分かります。たとえば、貴重な人間としての生のピースが出離のピースと組み合わさらなければ、「どこにも良い場所はない、どこにも行きたくない、全てはクズだ、何もしたくない」と思うようになってしまいます。これは出離の核心ではありません。出離は、この貴重な人間の生をもっと上手く活用する手助けをしてくれるものです。

中級レベルの動機がある場合、次に、これらの問題や困難、煩悩の原因について考えます。これらはみな混乱から生じます。ダルマは、信じられないほど巧みにその仕組みを解説しています。簡単な例を挙げましょう:白馬に乗った王子様やお姫様の夢物語によって、私たちはあらゆる類の理想を他の人に投影します、それゆえ、私たちは執着するようになり、相手が自分の理想通りに生きていないことに怒ったり、他の誰かが自分の王子や姫を奪おうとするといって嫉妬したりします。仏教では、なぜこのような状況が起きるのかを完全に分析するのです。素晴らしいことです。

ダルマ・ライトではこれらの「シンドローム」の原因を現在の生の枠組みの中だけで考えます。あるいは、以前の世代から受ける影響の中に探そうとすることもあるでしょう。ですから、ダルマ・ライト・バージョンは心理分析に偏りがちです。これはあまり深遠なものとは言えません。本物のダルマでは、前世におけるパターンの中にこれらの「シンドローム」とその原因を求めます。この生の中で起きたことだけを考えるのでは、余すところなく全てを説明しているとは言えません。

ラムリムの次のテーマは「十二因縁(十二支縁起)」です。これは、転生の仕組みに関する高度で複雑な分析です。煩悩とカルマが組み合わさって特定のパターンを引き起こし、それが様々な転生における私たちの性格の特徴となるのです。この全体像を把握せずには、輪廻転生のプロセス全体がいかにおぞましくバカげたものであるか、本当の意味では分かりません。ダルマ・ライトの視点からでも、この生で繰り返される自分の行動パターンをある程度理解することはできますが、本物のダルマでは転生の仕組みについて考えます。これは大変に深遠な議論です。

おぞましい輪廻の輪から抜け出すためには、三学と呼ばれる三つの高度な修行が必要です。三学は戒学(倫理的な自己鍛錬)・定学(集中)・慧学(ものごとを見分ける気付き、智慧)から成ります。このうち、戒学は、個人の解脱のための戒(世俗戒、あるいは具足戒)を受けることを指します。私たちは輪廻から脱することを心から願っているので、解脱を妨げるものを避けると決意するのです。受戒については、ここでは詳しくお話しません。しかし、自分自身の解脱のために受戒するのは、解脱が可能であることや、破壊的な言動を避ける努力がその方向に進む後押しになることをすでにある程度理解しているということです。その土台となるのが出離、すなわち破壊的言動の放棄です。私たちは、破壊的な発話・行為・思考がこの道を歩む妨げになることを理解しているのです。

授戒に関する議論が煩悩と悪見の議論の後に配置されているという事実は、受戒は「いい人間になりたい」とか「自分の師を喜ばせたい」などという神経症的な理由によるものではないことを暗示しています。解脱が可能であり、戒はその目標に達するために超えてはいけない境界線を引くものだということを理解した上で受戒したのなら、自分の行動に関する疑(優柔不断な迷い)はなくなります。たとえば、アルコールが心を曇らせて集中力を失わせると理解していれば、お酒を飲むことはなくなります。つまり、境界線を設定する必要があるのです。これは、服従することとは全く別物です。受戒は、それが示すガイドラインに従うことが有益であることを見分ける強力な気付きに基づくものです。そして、この戒を基本として定を育て、慧によって空、つまり現実に関する最も深遠な見識に集中して、輪廻転生を引き起こしている混乱を捨て去るのです。中級レベルでは定学と慧学についてはあまり詳細に議論されず、言及されるにとどまります。

上級レベル

上級レベルの動機では悟りを目指します。自分自身が輪廻から抜け出すために解脱を目指し始めたら、「他者が輪廻から抜け出すのを助けられるようになりたい」と願うようになるまで成長しなければなりません。この動機のダルマ・ライト・バージョンは、ただ「全ての衆生に優しくして皆を助けたい」というだけの願いです。上級レベルでは、それだけにとどまらず、全ての衆生を輪廻転生から解放する力になりたいと思うのです。これは、ただ優しくするだけのことではありません。

定と慧が私たちを悟りへ導いてくれるようにするには、その背後にある途方もないエネルギーが必要です。このエネルギーは菩提心から生まれます。簡単に言えば、菩提心とは「全ての衆生をできる限り助けたい。そのためには悟らなければならないので、悟りの達成を目指そう」と考える心の状態です。

現在、私たちの心や身体には制約があります。あたかも潜水艦の中にいて、潜望鏡で外を見ているようなものです。私たちが見ているのは、自分の真正面にあるものだけです。これまでに存在した全てのものやこれから存在する全てのものが、ひとつ残らず互いに結びつきあっている様を見ることはできません。他の誰かを見つめても、これまでに存在してきたありとあらゆる人類や他の生物、歴史、経済、社会などが、どのように彼らの心に影響を与えてきたかは分かりません。自分が何かを教えることが、それを聞いた人にどんな影響を与え、その人がその後出会うありとあらゆる人にどのように影響してゆくのか、私たちには分かりません。考えてみてください。私たちは潜望鏡を覗いているだけなのです。私たちはあらゆるものが相互に結び付きあっていることも分かりませんし、ましてや、あらゆる衆生の前世と来世など知る由もありません。これらの全てを承知していなければ、誰に何を教えるのが最善であるか、分かるわけがありません。

ダルマ・ライトでは、全ての衆生の生は一度きりだと考えるので、因果についても現在の生の枠組みの中だけで考えます。本物のダルマでは誰もが数限りない生を持つことを考慮に入れるので、はるかに複雑になります。衆生を最大限に助ける方法を知るには、このバカげた潜望鏡を捨て去らなければなりません。つまり、悟らなければならないのです。輪廻から解脱したあとでも、私たちはまだ潜望鏡を通してものごとを見ています。しかし、この時にはもうだまされません―ものごとが、私たちの目に映るように存在しているとは信じなくなっているのです。この潜望鏡を捨てたときには、私たちもうはこの「衆生の潜水艦」の乗員ではなくなります。悟りの本当の意味や悟りに至る意義を少しも知らずに、どうやって菩提心を育むのでしょう?これが、私たちが取り組むものです。

ダルマ・ライトでは、「仏になったら素敵だから仏になりたい!仏は至高の境地だし、皆を助けられるようになるのだから!」と考えるかもしれませんが、これではただのおとぎ話です。このような気持ちでスタートしても良いのですが、はるかに深遠なものがあることに気付いてゆかなければなりません。

そして、菩薩戒を受けます。この戒には、他者の最善の利益となるため、そして悟りに至るために避けるべき行動や姿勢と、やるべきことが示されています。何が自分の歩みの妨げとなるかを知り、それを避けられるようにするのです。

この道を進みながら、六波羅蜜(六つの完成)と呼ばれるものに取り組みます。六波羅蜜は二つの視点―自分が他者の利益となるための助けになるという視点と、直接他者の助けになるという視点―から考えることができます。私たちは喜んで全てを捧げたいと思わなければなりません。これは布施波羅蜜(寛容)です。この姿勢がなければ、どうやってこの道を進んでゆけるでしょう?そして、持戒波羅蜜(規律)があります。これがなければ、全ての時間とエネルギーを使うことはできないでしょう。持戒波羅蜜によって私たちは瞑想と実践に集中し、それらを手放さないようにします。これは簡単なことではありません。ダルマの道を実践するとき不満を感じたりいらだったりしないためには、忍辱波羅蜜(忍耐)が必要です。実践や自分を高める取り組みは、当然、いつも上手くはいきませんから、精進波羅蜜(喜びに満ちた努力)が必要です。上手く行ったり行かなかったりするからといって調子を狂わせてはいけません。何があっても道を歩み続け、自分が取り組んでいるダルマの実践に喜びを見出すのです。なぜなら、私たちにはダルマから大変な利益を受け取ることが分かっているからです。

では、精進波羅蜜を何に応用するのでしょう?まず、禅定波羅蜜(集中)に取り組みます。ここでいう「集中」は、集中力だけではなく、精神の全体的な安定を指します。精神が安定していると、心が散乱したり沈み込んだりせず、感情的なゴミに左右されることもなくなります。心と精神状態が安定するのです。感情的に困難な状況に陥っても、集中力を失うことはありません。緊張と不安に満ちた現在の世界において、悲しみや苦しみに気付いていても、集中力を失うことはないのです。この禅定波羅蜜を使って、呼吸だけではなく現実に関する慧に集中し、あらゆる不可能な存在様式の投影や幻想を捨て去り、本当のことに意識を向け続けます。

他者を実際に助けるということに関して言えば、私たちは布施波羅蜜によって他者に物質的なものだけではなく尊厳や学ぶ機会も与えます。教えることによって人々を助けるのです。私たちは、彼らに、私たちを恐れないという自由―私たちが彼らを無視したり、見捨てたり、拒絶したり、あるいは彼らに執着することを恐れないでいいという自由―を与えます。私たちは彼らに、心からの誠実な愛情を与えます。彼らが幸せになることを心から願っているのです。自分自身の快楽のために彼らを使っているのではありません。できる限り彼らを助け、傷つけないために、持戒波羅蜜を使います。できることは何でもします。「ごめんね、今日は忙しいから力になれないんだ」と言う代わりに、できることは何でもするのです。これは難しいことですから、辛抱強くなければなりません。人々が私たちに辛い思いをさせることもあるでしょう。しかし、私たちは全能の神ではなく、指をパチンとはじくだけで全ての衆生の苦しみを消し去ることはできないのですから、怒ったりいらだったりしないために忍辱波羅蜜が必要なのです。人々が成長するかどうか、自分が上手くやれているかどうかに関わらず、道を歩み続け、他者を助け続けるために必要なのは、精進波羅蜜です。

特定の人に惹き付けられたり別の人を嫌悪したりすることなく、人々を助けることに集中し続けるために必要なのが、禅定波羅蜜です。そして、他者に関する投影や幻想と、実際の彼らの存在の仕方とを見分けるためには、般若波羅蜜が必要です。有益なものと有害なものとを区別しなければならないのです。

ダルマ・ライトでは、この生の中で人々を助ける実践を行います。本物のダルマでは、人々を助けるだけでなく、そこから得られるポジティブな力を捧げて、慈悲などによって彼らを最大限に助けるために潜望鏡を捨てるのです。

結論

これが、ラムリムの基本的な構造に関する一般的な議論です。この道を進むには気が遠くなるほどの努力が必要です。ダルマ・ライトのレベルに取り組んでいても、それを気まずく思ったり、恥ずかしがったりする必要はありません。なぜなら、実際、ほとんどの人はそのレベルにいるからです。ダルマ・ライトのレベルにいる場合、自分が行っているのは足掛かりであるということを心に留めながら、誠実に、一生懸命取り組んでください。いずれ解脱や悟りを目指すためには、転生などに関する取り組みの重要性を理解して受け入れなければなりません。ダルマ・ライトの教えを取るに足らないものだと考えたり、うぬぼれたり、実際よりも高い動機のレベルにいるふりをしたりしてはいけません。どのレベルにいても、常に、他者の助けになるために全力を尽くすのです。

奉納

何度も繰り返したことですが、今回お話したことをある程度理解してポジティブな力を受け取り、あとは何もしなかった場合でさえ、そのポジティブな力が自動的に輪廻の苦しみを少し和らげてくれるでしょう。これは素晴らしいことです。しかし、私たちはこの力を使ってもっと多くのことができるのです。私たちは、この人生を少しましなものにしたいと思っているだけではありません。それだけなら、ダルマ・ライトです。しかし、私たちが望むのは、悟りに至る因としてこの力を捧げ、煩悩のみならず潜望鏡をも捨て去って、全ての衆生を最大限に助けられるようになることです。ご清聴ありがとうございました。

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