瞑想の主な特徴

瞑想は仏教だけではなく他の多くの伝統でも行われます。瞑想の特徴の多くはあらゆるインドの伝統に見られるものですが、ここでは仏教で実践される瞑想に限ってお話しましょう。

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瞑想とは何か

「瞑想」という言葉は、「自分を慣らす」、「習慣づける」という意味です。チベット語で「瞑想」にあたる「gom(sgom)」という言葉には、「有益な習慣を身に着ける」という含意があります。元となったサンスクリット語の「bhavana」には、さらに「実際に何かを起こす」という含みがあります。私たちは特定の種類の有益な心の状態や態度を身に着けたいと思い、それが実現すること―つまり、その状態が自分の考え方や生き方に変化をもたらすことを願っています。有益な習慣の種類やそれを実現する理由や目標は、瞑想が使われる伝統によって様々に提示されます。しかし、インドのあらゆる伝統において瞑想のプロセスは三つの部分―すなわち、まず教えを聞き、次にそれについて考え、最後に実際に瞑想を行う―から成り立っています(『瞑想とは何か』参照)。

教えを聞く

慈(思いやりの心)を持つという有益な習慣を身に着けたいと思っているとしましょう。慈を身に着ける、あるいはすでに身に着けている慈をより大きく育むには、まずこのテーマに関する教えを聞くことから始めます。古代インドでは教えが書き留められることは一切なく、全ては口承されていました。ですから、瞑想を学ぶときにはまず教えに耳を傾けなければならなかったのです。それゆえ、瞑想の最初のステップは「聞く」ことだとされています。

もちろん、今日では教えを読むことができますから、実際に誰かが教えを説いているのを聞く必要はありません。しかし、根底にある原則は今日でも十分通用します。古代の人々は全てを暗記しなければならず、教えを聞く人々は、発言者が暗唱していることが正しいと確認する必要がありました。教えを暗唱している人が師の教えを正確に暗記していないこともあったでしょう。すると、間違いが起こり、大きな問題となったのです。

慧(ものごとをはっきりと見分ける気付き)

教えを聞いているときには、「聞くことによって生じる、ものごとをはっきりと見分ける気付き(聞慧)」と呼ばれるものを育む必要があります。チベット語の「sherab(shes-rab, 梵: prajna)」はしばしば「慧(wisdom)」と訳されますが、「慧」はあまりに曖昧な、不明瞭な言葉です。複数の人が「慧」という言葉を聞いたら、全員が違うとらえ方をするでしょう。ですから、「慧」という言葉は、「sherab」が意味することを正確に理解する助けにはなりません。ですから私は「sherab」を「ものごとをはっきりと見分ける気付き(discriminating awareness)」と訳すことを好みます。

慧は、それに先立つ心所である想―私は「区別する(distinguishing)」と訳します―を基礎としています。ほとんどの人はこれに「認識(recognition)」という訳語を当てはめますが、「認識」もまた、曖昧な言葉です。「認識する」という言葉は、「以前からその対象を知っていて、再びそれであると分かる」ことを意味します。これは正しくありません。「区別する」とは、「A」を全ての「Aではないもの」と区別することです。私たちは「A」と「Aではないもの」や「A」と「B」を区別することができます。なぜなら、どんなものにも特有の性質や個性があり、私たちが何かに気付くときにはその特徴を認めることができるからです。簡単な例を挙げれば、幼児は「お腹がすいた」と「お腹がすいてない」を区別することができます。このような身体感覚を表現するためは、言葉も、「お腹がすいた・すいていない」という概念の深い理解も必要ではありません。それでも幼児は二つを区別します。なぜなら、これらには個別の特徴、つまり、特定の種類の身体感覚があるからです。

慧は、この想に確実性―「これは絶対にAであり、Bではない」―を付け加えます。私たちが教えを聞いたり読んだりするときには、この確実性が欠かせません。知るには確信が必要です―「これは実際の教えであって、偽の教えではない」。「これは実際の教えである」と知ることは、実はとても難しいことです。なぜなら、自分で経典を理解するのは簡単ではないからです。通常、私たちは教えを解説する師や本に頼らなければなりません。しかし、師が信頼できる、れっきとした人物だということはどうやって分かるのでしょう?仏教や慈悲に関する教えを説いている誰かが、実際の仏教の教えと矛盾することを言っている可能性もあります。慧を使って、自分が読んだり聞いたりしている教えが完全に真っ当なものであると確信しなければなりません。

ある教えが仏教の教えとして妥当であるには、いくつかの要素が明示されていなければなりません。まず、著者、あるいは教えを伝える人物が正当な資格を持った師であることが私たちにも明らか―調べればわかる状態―である必要があります。これを確信するには、たとえば、他の人に「この人自身に師はいましたか?彼らの師弟関係はどのようなものでしたか?その師は、代々受け継がれてきた戒脈に属していましたか?」と聞くと良いでしょう。これらは重要な質問です。著者が有名だからといって適当に本を選んで、それが信頼のおける情報源だと信じてはいけないのです。教えを聞くときにもこれと同じ原則が当てはまります。

教えの文脈を決定するために区別を使う

さらに、仏教のどんな教えにも、その教えを生んだ哲学の学派の文脈があります。特定の教えの文脈を理解するのは大切なことです。なぜなら、一つの用語―たとえば「カルマ」―に対して、それぞれの宗派で異なった説明がなされるからです。さらに、ある宗派のカルマに関する教えは、その学派における他の多くのダルマの論題―たとえば認知理論など―と組み合わさります。ですから、教えがどの学派のものなのかをはっきりさせ、他の教えと組み合わせられるようにしなければなりません。

日常会話においても、言葉が使われた文脈を知るのは重要なことです。たとえば、「bon」という言葉を聞いたとしましょう。これは仏教成立以前に存在していた宗教の名前です。しかし、フランス語では「良い」という意味です。ですから、言語の文脈を知らなければ、「bon」という言葉を誤解してしまうかもしれません―「この人はフランス語の『bon』の話をしているんだろうか、それともチベット語の話だろうか?」。何語であるか知らずに言葉の音だけに頼ってしまうと、誤った結論に至る恐れがあります。

仏教用語を扱う場合には、文脈はさらに重要です。たとえば、空について学んでいるとしましょう。インド仏教のある宗派の説明と、別の宗派の説明は異なります。一つのインド仏教哲学の中だけでも、チベットのあらゆる宗派と全く異なる空の解釈をします。

あるテーマに関して非常に多くの異なる説明があるというのは、仏教を学ぶ西洋人にとって非常に厄介な問題です。インターネットが使える現代では、アジアの全ての伝統にアクセスすることがでるので、特に多くの混乱が生まれるでしょう。一つの国―チベットなど―の仏教の伝統の中でさえ、多くの異なる説明や解釈があるのですから。

この点について詳しく説明しましょう。ある師とともに、カルマに関する詳細な解説を学んでいるとします。自分が学んでいることを正しく理解するためには、その師の解説の根拠となっている宗派の説明と、他の全ての宗派の説明とを切り離さなければなりません。たとえば、自分が学んでいるのは仏教の解釈であり、ヒンドゥー教の解釈ではないことを知る必要があります。そして、仏教の解釈の中でも、たとえば、学んでいるのがインドのサンスクリット語を使う伝統の解釈であれば、それはパーリ語を使う上座部のものではありません。インドのサンスクリット語の伝統の中でも、毘婆沙師の視点を学んでいるのであれば、それは唯識派の視点とは異なります。さらに、毘婆沙師の中でもゲルク派の解説を学んでいるのであれば、それはカギュ派の解釈とは別物です。このように、私たちは文脈の詳細を知らなければなりません。なぜなら、カルマの解釈は、哲学的文脈によってそれぞれ大きく異なるからです。ダルマに関するテーマのゲルク派の解説をカギュ派に当てはめようとしたら、非常に混乱するでしょう。全ての解説をまぜこぜにしてしまったら、さらに混乱して訳が分からなくなるでしょう。

私の師の一人であるゲシェー・ンガワン・ダルギェイは、西洋人に関して非常に鋭い指摘をしました―「お前たち西洋人はいつも二つのことを比較しようとする。そのどちらも良く理解していないというのに。そんなことをしたら、さらに混乱するだけだ」。この言葉の教訓は、異なる教義体系を比較するのは悪いことではないけれど、それにはそのいずれかに関する深い知識が前提となる、ということです。一つの体系を良く知っていれば、他の体系と比較して相違点を正しく認識することができます。しかし、知識がおぼつかない場合は上手く行きません。

ですから、カルマや空などの仏教のテーマについて瞑想したいのであれば、聞くことによって慧を育む必要があります。これは、以下のことを正確に、確信をもって知るということです:

  • これこそが発せられた言葉である。他の言葉ではない。
  • これらの言葉を発した人物はこのトピックに関する正当な情報源であり、信頼のおけない人物ではない。
  • この説明がなされた背景にある教義体系がどれかはっきりしている。他の体系ではない。

聞慧を身に着けたら、次の段階に進むことができます。

聞いたことについて考える

次のステップは、考えることから慧を得ることです(思慧)。では、「考える」とはどのようなことでしょう?ここでは、「何かの意味を理解しようとすること」を意味します。では、「何かを理解する」とはどういうことでしょう?通常、「理解する」や「とらえる」と訳されるチベット語の単語の定義は、「正確かつ決定的に何かを知ること」です。

ついでながら、精神活動や心について説明するサンスクリット語・チベット語の言葉の多くは、私たちが使う西洋の言語における言葉とは大きく異なる意味を持ちます。ですから、アジアの原語を学んだり、原語の中でその言葉が使われる文脈を学んだりするのは非常に有益です。これには、辞書で訳語を学ぶだけではなく、その言葉を身に着けたり、定義を学んだりすることも含まれます。これは仏教の教えを分析して理解するための強力な武器になります。

話された言葉を理解する

この「理解」という言葉は、教えを聞くことと関連付けて使うこともできます。この文脈では、たとえば、「私はあなたがこれらの言葉を発したことを理解している」という文の中で「理解」という単語が使われます。この文章で「あなた」を強調するなら、「あなた」が実際にこれらの言葉を発したのは疑いようがないことをほのめかしています。つまり、私たちは、「あなた」がこの言葉を発さなかったとも、他の誰かが発したのだとも思っていないのです。私たちは「あなた」がそれを言うのを聞き、自分が聞いたことは間違っていないと確信しています。

「これらの言葉」を強調するなら、「私はあなたがこれらの言葉を発したことを理解している」という文は別の意味になり得ます―「私はあなたが発した言葉をそれぞれ理解している。私はそれらの言葉や文の裏にある意味を完全に理解してはいないかもしれない。しかし、それはまた別の問題だ。私はあなたがこの単語、この表現、この文章を使ったことを知っている」。この場合、私たちは言われた単語を正確に聞いたことを確信していなければなりません。教えが録音されていれば、あとから聞くことができます。それが発話者の声で話され、はっきりと録音されていれば、自分が言われた言葉を正しく聞いたと確信できるはずです。録音が不明瞭なら、他の人々に力を借りましょう。人々が何を聞いたかを確認し、私たちが聞いたことと比較します。これは、教えのレコーディングに頼っているときには非常に大切です。ですから、聞慧を使って、自分がどの言葉を理解したのかを正確かつ決定的に判断するのです。

言葉の意味を理解する

考えること―理解を得るための三段階のプロセスの二番目です―とは、言葉の意味を理解することです。これは当然不可欠です。有益な習慣として何かを身に着けようとしているのなら、言葉だけではなく、言葉の意味も知らなければなりません。たとえば、チベット語の本当の意味を知らずに偈を朗誦する人々もいます。言葉の意味を知らないで、それを有益な習慣として身に着けることなどできないでしょう!

多くのチベット人の師は、偈の朗誦や様々な実践をチベット語で行うことを勧めます。もちろん、何百年もの伝統がある儀式に参加するのはとても有意義なことです。自分がその伝統に属していると実感できますし、出身地も言葉も様々な人々が同じ偈を一緒に朗誦しているのを見れば心が安らぐでしょう。しかし、チベット語で朗誦しても、その意味が分からなければ、偈が伝える功徳を有益な習慣として身に着けることはできません。意味を理解する必要があるのです。そして、その意味を正確に、決定的につかまなければなりません。つまり、慧を使って、あるものの意味を、それが意味しないものと切り離すということです。これは、言葉の本当の意味の決定的な理解に至るための分析と論理的推論を通じて行われます。

教えの言葉が意味することを納得するようになる

「決定的な理解に至る」という点は、「私たちはどのようにして何かを納得するのか」という非常に難しいテーマにつながります。はっきりとしておらず、感覚的に分からないことを確信するには、理論に頼らなければなりません。しかし、論理の筋道によって証明されることを信じない人もいます。多くの場合、彼らは結論を―それがどんなに合理的な結論であっても―信じようとはしません。そのような場合、ダルマを学ぶ上で多くの障害に直面すると予想されます。

しかし、私たちは理論的な結論を受け入れると仮定しましょう。そして、分析と理論的思考の例として無常を使いましょう。私たちが証明して理解しようとしているのは、「縁起(原因と条件)によって生じたり作られたりしたものは、全ていつか終わりを迎える」ということです。コンピューターも、車も、私たちの身体も、人間関係も、縁起によってもたらされたものです。この縁起は毎秒更新されるわけではありませんから、縁起によって生み出され、縁起に依存しているものは、いつか朽ち果てます。

自分が購入したものが壊れたりだめになったりしたことを思い出してみてください。たとえば、車が故障したり、花が枯れたり、果物が腐ったりしたことがあるでしょう。この法則に例外はありません。作られたり製造されたりしたもののなかで、絶対に壊れずに永遠にそのままであり続けるものは一つもありません。あるものが作られたら―つまり、それ以前には存在しなかったということです―、それはいつか壊れます。なぜでしょう?何かが新しく生じるというのは、縁起によってしか起こり得ないことだからです。しかし、何かが生じた直後、その発生をサポートした縁起は変化してしまいました。縁起が変化したのは、縁起もまた、その発生要因に依存して発生したからです。ですから、何かの発生を後押しした縁起はもう存在しません。生じたものがさらに発生し続けるのを支えることはできないのです。言い換えてみましょう―何かが発生するための縁起がもう存在しないなら、この要素に依存していたものはいつか失われてしまいます。それが発生したときと同じ状態で存在し続けるためのサポートがなくなったからです。この「何か」の状態は変化してゆき、他の縁起から影響を受けるようになります。

もう一つの例は、人間関係です。誰かとの関係は、様々な縁起によって生まれます。たとえば、私はある年齢で、相手ある年齢で、これは私の人生の中で起こり、相手の人生の中でも起こり、ある社会の中で起こっていることです。しかし、これらの縁起は永続しません。条件は絶えず変化しています。私たちは年を取り、それぞれの人生の中で多くのことが起こります。非常に長い時間一緒に過ごしたとしても、どちらかが相手より先に死ぬでしょう。人間関係は縁起に依存していますから、絶えず変化し、永遠に続くことはありません。理論的思考の結果、このような結論に至ります。しかし、私たちはそれを受け入れたいとは思いません。

もう一つ例を挙げましょう。コンピューターを買うとき、私たちはそれが永遠にそのまま、故障しないでいてほしいと思います。しかし、そんなことは起こりません。どうして故障するのでしょう?作られたからです。故障したり動かなくなったりしたときに実際に何があったかといえば、コンピューターが終わりを迎える条件が整ったというだけのことです。本当の故障の原因は、作られたことです。「彼が死んだのはどうしてだ?生まれたからだ」というのと同じことです。こんなジョークもあります:「生命の定義とは?死亡率100%の性病だ」。残念ながら、これは本当のことです!さきほど無常について考えたときのように、理論的思考を使ってある主題について考えていても、時には非常に強い抵抗感が生まれます。そこに明示された情報を信じたくないと感じるのです。私たちは、無常が人生における事実だと信じたくはありません。これこそ、あるテーマに取り組む時に何度も理論を使って考えなければならない理由です。

思考のプロセスによって、私たちは「理解」―「理解によって得られる慧(思慧)」―に至ります。言葉の意味を正しく理解し、全く疑う余地はなくなります。つまり、私たちは論理的思考を使って、それが意味しないものを除外したのです。「無常とは、パソコンが壊れるかもしれないという意味ではない。パソコンはある時点で必ず壊れるのだ」。ですから、「全てのものは失われる」という事実を信じていようといまいと、少なくとも私たちは無常の意味を正確に理解したということです。

自分が聞いた教えが真実かつ有益であることを確信する

次に、自分が聞いた言葉の意味だけではなく、その意味が真実だと確信する必要があります。無常の例でいえば、その意味を理解していたとしても、それが本当に真実だと納得し、確信しているでしょうか?無常について考え続け、この法則に例外はないという結論に至れば、無常は基本法則なのだということを信じるようになります。これに至る思考の道筋はこのようなものでしょう―「私は必ず死ぬ。これまで生まれたものは誰もが死んだ。生まれたのに死ななかった生き物の例はない。だから、私が死なないと信じる理由は一つもない」。

ある時点で自分が死ぬことを確信すると、この生をできる限り意義深いものにしようと努めるようになります。死の一歩手前まで行くような経験をした人が、「私はまだ生きているんだから、残りの人生をできる限り有意義なものにしよう」と考えるというのはよくある話です。しかし、死にかけるような経験をせずとも、自分が死ぬことを確信し、人生の残り時間を生かそうとすることはできるのです。

このように、考えることによって、まず、意味を正確かつ適切に理解します。次に、それが真実であると確信します。最後に、それに熱意を傾けたり、自分の生き方に取り込んだりするのが自分にとって有益であると確信しなければなりません。

この三つ―意味の理解、それが真であるという確信、それが有益であるという確信―すべては、思慧を育むプロセスの一部です。これは非常に重要で、長い時間が必要です。静かに座って、自分が聞いたり読んだりした教えについてじっくりと考えなければなりません。さもなければ、たとえば無常について瞑想しようとしても何をすればよいのか分からないままただそこに座っているだけになってしまいます。そして、頭がはっきりしない状態―いわゆる「ぼーっとする」状態―に陥り、それが瞑想だと思ってしまうのです。そんなものは瞑想ではありません。では、瞑想とは何なのでしょうか?

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三種類の瞑想

教えを聞き、それについて考えることによって、この二つに関連する慧を育むことをお話してきました。これと全く同じように、瞑想からも「瞑想によって生じる慧(修慧)」がもたらされます。完全な集中力とこの慧を組み合わせると、自分が目指している有益な心の状態を生み出せるようになります。さらに、この状態と他の全ての心の状態とをはっきりと区別できるようにもなります。この慧を身に着けるために、自分が得たいと思っている心の状態を何度も生み出し、それに慣れてゆきます。これを目的とした瞑想には多くの種類がありますが、ここでは最も一般的な三種類だけをご紹介しましょう。

対象に集中する

まず、対象に集中する瞑想です。どんな種類のものでも瞑想の対象になり得ます。そして、私たちはその対象に向かう集中力を高めます。息を吸って吐く感覚に集中する場合でも、ヴィジュアライズされた瞑想の本尊や心の性質に集中する場合でも、とにかく、対象に集中します。ところで、今挙げた三つは、チベット仏教の集中力を高めるための瞑想で最もよく使われる対象です。

このバリエーションとして特筆すべきは、対象に集中しながら、特定の視点で―たとえば、それが無常だという視点で―理解する瞑想です。そのように理解しながら対象に集中すると、それが移ろいゆくものだということが身体に染み込むように実感できます。何かに執着している場合―あたかもそれが永遠のものであるかのように―、この瞑想は執着を解消する大きな助けになります。

もう一つ、役立つ例をあげましょう。私たちは誰かと友人関係、あるいは恋愛関係にあります。相手が電話をしなかったり、家に来なかったりすると、私たちは非常に落ち込みます。この例では以下のように納得しなければなりません:「私は彼らの人生で唯一の存在ではない。彼らの人生には私以外にもたくさんの人々がいる。だから、彼らが私だけに時間を割いて、私以外の人には時間を割かないことを期待するのは理不尽だ」。こうやって、「私こそが彼らの人生で唯一の存在だ」という不可能な幻想の投影を切り崩すのです。ですから、相手が自分と一緒に十分な時間を過ごさないと考えて落ち込んでいるのなら、「相手の人生には他の人々がいるし、私との時間以外にも色々なことが起こっている」と考えながら相手に向き合いましょう。

ですから、瞑想とは、何か魔術的な、神秘的なものではないのです。瞑想をしても幻想の国に飛んでゆく訳ではありません。むしろ、人生で直面する苦しみや困難、問題に対処する非常に実用的なメソッドなのです。

ですから、第一の瞑想は、先ほど友達に集中するという例で考えたように、特定のやり方で―集中力だけ、あるいは集中力に加えてある種の理解と気付きを使って―対象に集中することです。

心の状態を生み出す

第二の瞑想は、慈悲など、特定の心の状態を作り出し、その感覚に集中し続けるというものです。ここでは、慈悲が向けられる対象ではなく、感情や感覚を育むことに重点が置かれます。

強い願望を生み出す

三つ目の瞑想は、対象に関連する目標を達成したいという強い願望を持ちながら対象に集中するというものです。たとえば、まだ実現していない自分個人の悟りに集中するときには、「私はこれを達成するのだ」という強い願望を抱きながら行います。菩提心―ときに「目覚めさせる心」と訳されます―について瞑想するときには、一般的な悟りではなく、仏陀の正覚でもなく、自分個人の悟りに集中します。私たちの悟りはまだ実現していません。しかし、仏性を基礎として熱心に取り組めば、将来実現し得るのです。私たちはそれが実現し得ると確信しています。「絶対に達成したい」という強い熱意を持って未来の目標に集中するのが第三の瞑想です。

日常生活における三種類の瞑想

これらの三つの瞑想は、日常生活に生かすべき有益な習慣を身に着けるのに役立ちます。忘れてはなりません―瞑想は生活と無関係な余暇活動ではありませんし、逃避でも、ゲームでも、趣味でもありません。瞑想は、自分の人生や日常生活で生かすべき資質を高めるためのメソッドです。

先ほどの例を使って三種類の瞑想の応用の仕方を把握しましょう。第一の瞑想、つまり、対象に集中する瞑想の実践では、心を静めて集中力を高めることを学びます。これによって、仕事だけではなく、誰かと会話しているときにも集中することができるようになります。私たちは、会話の相手や相手が話していることに集中したい、他のあれこれに心を奪われたくないと考えます。相手が言ったことに対していちいち「わあ、バカみたい」とか「こいつ、黙ってくれないかな」などという心のコメント抜きで相手の話を聞きたい、これらの心のおしゃべりを全て静めたいと考えます。さらに、理解―「君も私と同じく人間であり、感情を持っている。君も、私と同じように、喋っている間は注意を向けてもらいたいと思っている」―を使って、相手や相手の言葉に対する集中力をさらに高めることもできます。

日常生活の中で抱く慈悲の心を深めるためには、心の状態を生み出す二番目の瞑想を実践します。誰といようと、どこにいようと、愛―全ての衆生が幸せになって欲しいという願い―を生み出すために努力するのです。ここでいう愛とは、あらゆる存在―バスや地下鉄に乗り合わせたあらゆる人、一緒に渋滞に巻き込まれたりお店に居合わせたりした人、あらゆる動物や昆虫―に向けられています。つまり、あらゆる衆生に対する尊敬の念を育むということです。あらゆる衆生は幸せになりたい、不幸になりたくないと願っています。この意味において皆は平等だと言えます。そして、誰もが―ハエでさえ―幸せになるための権利を平等に持っています。

そして、人生を通じて三番目の瞑想、つまり強い願望を育む瞑想を行うことができます:「私は目標に向かって努力している。私は自分の欠点を克服しようとしている。私は自分の良い資質を伸ばそうとしている。そして、解脱と悟りに向けた取り組みを行っている」。この熱意は座布団に座っている間だけではなく、人生全体に広がります。

有益な心の状態を育むことに関するツォンカパのアドバイス

チベットの偉大な師であるツォンカパは、あらゆる種類の瞑想に関して私たちが知っておくべきこと―つまり、瞑想の基礎となる有益な心の状態を身に着ける方法―を分かりやすく説明しています。

何に集中しているのかを知る

まず、自分が何に集中しようとしているのかを知らなければなりません。慈を例にとってみましょう。慈に集中するときには、他者の苦しみに焦点を当てます。これは、菩提心の場合とは大きく異なります。菩提心に集中するときは、まだ実現していない自分自身の悟りに焦点を当てるからです。慈について瞑想しているだけなのに、菩提心について瞑想していると誤解している人々もいます。慈は菩提心の土台ですが、慈と菩提心は同じものではありません。

対象のあらゆる側面を知る

集中の対象をはっきりと決めたら―この場合は慈の対象となる他者の苦しみ―、その対象のあらゆる側面を知らなくてはなりません。ですから、誰もが経験する様々な種類の苦しみ、あるいは苦しみの様々な側面―不幸、通常の種類の幸せ、カルマの衝動性に操られていること、輪廻の苦しみ―を詳しく探ります。私たちが集中するのは限られた数の衆生の限られた種類の苦しみ―たとえば失業による不幸や困難だけ―ではありません。大慈に集中する場合には、動物も含めたあらゆる衆生が普遍的に経験する苦しみの全ての側面に集中します。

心と対象とのつながりを知る

次に、自分の心と対象のつながり方を知ります。心に慈を抱えて、他者のあらゆる苦しみに―それが消え去って二度と戻ってこないようにという願いと共に―集中します。これは、「なんてひどい!」というような態度とは異なります。ここでも、慈を持っているときの考えは菩提心の場合とは大きく異なります。菩提心を持っているときには、まだ実現していない自分自身の悟りに集中し、「私は自分の悟りを得て、その達成によって他者の利益となる」という意思を固め、それを自分のこととしてとらえます。これは、他者の苦しみに対する慈を自分のことととらえるのとは大きく異なります。

心の状態を身に着ける助けとなるものを知る

次に、その心の状態を身に着ける助けとなるものを知ります。慈の例では、自分自身の苦しみに対して同じ意志や感情を持つことが助けになります。これは「自由になる決意」、通常「出離」と訳されます。出離の焦点となるのは自分自身の苦しみです。これを持つとき、私たちは、苦しみとその原因から自由になることを心に決めています。苦しみの原因から自由になりたいという願いは、つまり、怒りに取りつかれたときのような無残な状態を生み出す言動を捨て去りたいという願いのことです。自分が苦しみから自由になる願いを育むことができたら、この意志、あるいは願いを、自分に対するのと同じ強さで他者に向けるのです。

心の状態を身に着けるのを妨げるものを知る

反対に、この心の状態を育む妨げとなるものも知らなければなりません。慈の妨げとなるのは、他者に真剣に向き合わないこと、そして彼らの苦しみを真摯に受け止めないことです。このような態度を打ち砕くために、「誰もが幸せになりたくて、誰も不幸になりたくないのだ。苦しみから自由になりたいと願っているという点で、誰もが皆同じだ。私たちは皆同じだ。そして誰もが私と同じように感情を持っている。誰もが、私が苦しんでいるのと同じぐらい苦しんでいる。誰もが、私と同じように、自分の苦しみから解放されたいと願っている」と考えなければなりません。こうやって、他者への気配りと尊敬の念を育んでゆきます。気配りや敬意がなければ、誠実な慈を育むのは難しくなってしまいます。

応用方法を知る

ツォンカパは続けます―「この心の状態を育んだら、それをどうするべきなのか知らなければならない」。言い換えれば、心の状態の応用方法です。育んだ慈をどうすれば良いのでしょう?慈は、私たちが他者と接するのにも、彼らの利益を目指して努力するのにも役立つでしょう。さらに、彼らをしっかりと助けるために、悟りという究極の目標を達成する後押しもしてくれます。私たちは自分の制約が衆生を助ける妨げとなっていることを知っていて、自分の制約を克服したいと願っているのです。

取り除かれるものを知る

次に、その心の状態によって何が取り除かれるのかを知らなければなりません。慈は、他者を無視する冷酷な感情を取り除きますし、他者を助けたいと思わない怠慢や、自分を高めようとしない怠け癖を克服する助けになります。冷酷な感情が取り除かれれば、他者をより良く助けられるようになります。慈を育み、それについて瞑想するための要素を全て知っておけば、自分が正しく瞑想を行っているという自信がつきます。自分が何を、何のためにやっているかを理解して、この瞑想にしっかりと取り組むための準備が整っているからです。さもなければ、泳ぎ方も知らないのに深いプールに飛び込むようなものです。ただ「座って瞑想すればいいんだ」と言っても、何をすべきかが分からなければ、あまり良い結果は期待できません。

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