健全な社会を発展させる

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はじめに

チベット仏教の最も大切な教義の一つは縁起です。世の中に、他の要因に依存したり関連したりすることなく、ただそれのみによって存在するものはありません。また、ものごとは原因や状況が複雑に絡み合って生じます。一つの原因から発生したり、あるいは全く何の原因もなく生じたりするものはありません。例えば、身体が健康だというとき、身体の内側には内臓や器官がそれぞれ調和しながら正しく機能しているという要因があり、外側にも薬、栄養、人々から受けるケア、良い環境などの要因があるために健康なのだと言えます。同じように、社会が健全であるということにも要因があります。社会の内側には、社会を構成する人々が協力しあい、調和を保っているという要因があり、外側の経済的、政治的、環境的要因、そして世界情勢全般などからも大きな影響を受けます。

個人と社会両方の健全さを実現するために倫理は非常に大切です。不健康な生活や行動を控えて健康的な生活を送るよう、倫理的に自分を律することができなければ、人は病気になります。同じように、社会に倫理的な行動規範を守らない集団がいくつもある場合、その社会は不健全になります。この行動規範の中でも最も大切なのは、利己的な振る舞いや行動を慎み、他者の福利に配慮しながら利他的な行動をすることです。

多文化社会には様々な背景を持ったグループが混在し、それぞれのグループが倫理的な行動の指針となる信仰や哲学を持っています。また、一切の信仰も哲学も持たない人々もいます。利己的な行動を抑制し、利他主義を育む方法はグループによってさまざまに異なりますが、目指すところはみな同じで、すなわち、調和のとれた、幸福な多文化社会を作り上げることです。この目標を達成するには、社会を構成する全てのグループの相互理解と尊敬、そして協調が不可欠です。

これをよく理解するために、想像してみましょう。あなたは、2013年12月に南極海で氷に閉ざされ、身動きが取れなくなった調査船の乗客の一人です。52人の科学者と旅行者は10日間船に閉じ込められ、クルーたちはさらに長い間、乗客たちが中国の船に救助された後も調査船に取り残されました。立往生の間、この苦難がいつまで続くのかは誰にも分かりません。この苦境を生き抜き、限られた食糧で命をつなぐ唯一の道は、乗客が協力し合うことでした。もし一人一人が自分のことだけを考えて行動していたら惨劇が起きたでしょう。しかし、文化的背景や信仰の違いを問わず、誰もが基本的な倫理的原則に従ったために、無事に生還することができました。

この乗客たちの中に、様々なリーダーがいたと想像してみましょう。チベット仏教、イスラム教、キリスト教、儒教の指導者、そして、いかなる信仰も信条も持たない人々にも含む全ての乗客たちに尊敬される非宗教的な指導者がいます。これらの指導者たちはどうやってこの苦境に立ち向かうでしょう。彼らはどのように考え、それぞれのグループのメンバーたちにどんなアドバイスをするでしょう。誰もが皆不安に思い、恐れ、中には怒ったり、けんかっ早くなったりする乗客もいますが、ほとんどの人は落ち込んでしまいます。

チベット仏教に基づいて倫理観を養う方法

チベット仏教の指導者は、仏教徒の乗客たちに、インドの偉大な仏教の師であるシャーンティデーヴァ(Shantideva、寂天)が忍耐について語った言葉を思い起こさせるでしょう。「解決できるのであれば、なぜ不機嫌になるのか。解決できないのであれば、不機嫌になって何になるのか」。別の言葉で言ってみましょう。困難な状況を打開することができるのなら、いら立っても意味がありません。ただそれを実行するのみです。打開することができないのなら、いら立って何になるでしょう。何にもなりません。もっと嫌な気分になるだけです。ですから、怒ったり落ち込んだりする理由もないのです。代わりに、困難に直面するための忍耐力と勇気を育まなくてはなりません。

氷の中で立往生した船に閉じ込められるというような困難な状況では、現実的な考え方を持つことが役に立ちます。まず初めに、この状況は様々な要因から生まれたものです。誰か一人の人や一つの原因を責めたり怒ったりすることはできません。私たち、乗客の一人一人がこの船に乗っていることにもたくさんの要因があります。この調査旅行に参加する理由はそれぞれ異なりますし、この理由もまたそれぞれ、科学的分野の専門知識や関心があることや、船に乗るためのお金や時間があることと関連しています。また、あなたの前世でこれまでに造られてきた業因が、現世であなたをこのような境遇に陥らせるように熟したということでもあります。さらに、あなたが調査旅行に参加したことにも、参加できる状態であったことにも、他の人々が影響しています。例えば、家族や上司から反対されなかったということです。そして、この調査旅行が実行された理由、特定の日が出発日に選ばれた理由、船の状態やその船が選ばれた理由、南極の地理的位置、天候など、実に様々な要因があります。氷に閉ざされて立往生しているこの状況は、これらすべての要因から生じたことなのです。現実とはこういうことなのです。この要因が一つでも欠けていたら、乗客であるあなたは今、こんな苦境に陥っていなかったでしょう。要因と条件が絡み合ったこの巨大なネットワークの中で、何か特定のものを責めることなどできるでしょうか?自分が怒りだしたりいら立ち始めたりしたことに気づいた時、または心を乱すような不安が沸き起こってきた時は、呼吸に集中して心を落ち着けます。鼻で呼吸をし、11まで呼吸を数えると良いでしょう。

もう一度思い出してください。天候が変わって、救助船が到着するまでの間、何も、誰も、救助を早めることはできないのです。誰かが状況をコントロールできると考えるのはただの思い込みです。なぜなら、これから起きることも、そして私たちがそれにどう対処するのかということも、無数の要因から生じる結果だからです。さらに、私たちは全員一緒にこの状況下にあるのです。これは私だけの問題でも、あなただけの問題でもありません。どうやって生き延びるかというのは全員の問題なのです。ですから、私たちは自己中心的な考えを捨て、どうやってこの難しい状況を全員で乗り越えるのかを考えなくてはなりません。天候や救助の到着をコントロールすることはできません。しかし、心の状態に影響を与えることはできるのです。特に大切なのは、私たちがお互いをどのように思いやるかということです。

自己中心的な考えを止める方法の一つは、ここにいる誰もが、前世のいつかにはあなたのお父さんやお母さんであり、愛情深く優しく育ててくれたと認識することです。ですから、他の乗客たちを、いくつもの生涯の間会うことのできなかったお父さんやお母さんなのだという目で見てみましょう。前世のいつか、この中の誰もがあなたに優しくしてくれたことがあるのです。全ての人に深い感謝を感じて、誰を見ても自然に暖かい気持ちが湧いてくるでしょう。この暖かい気持ちをさらに育み、一人ひとりが苦しむことなく、幸せになるようにという願いを一層強くしましょう。結局はみな同じ願いを持っているのですから。あなた自身と同じように、誰もが幸せになりたくて、不幸せにはなりたくありません。この意味で私たちはみな平等なのです。さらに、誰もが苦しまずに幸せになる権利を持っています。私たちのこの船には限られた食糧しかありませんが、誰もがそれを食べたいし、誰もがそれを必要としています。あなたはお腹を空かせたくありませんし、それは皆も同じです。自分自身と他の人々に対する態度を等しくするという、愛と慈悲の考え方に基づき、責任を持って、全ての人々に幸せをもたらし、苦しみを和らげるように努めましょう。つまり、この苦境にある全ての人々の心身の健康のために尽くし、今世でのお父さんやお母さんにするのと同じように、できる限り力になろうとするということです。

さらに、仏教の指導者は、仏教徒たちに、「トンレン(tonglen, 与えることと受け取ること)」の修行をして強さと勇気を育み、他の人々の力になるよう助言するでしょう。彼は一日に何度か仏教徒たちを座らせ、瞑想する機会を設けます。まず自分の呼吸に集中して心を鎮め、愛と慈しみの動機となるものを確認します。他の人々が苦しみから解放されるよう、慈悲をもって強く願いながら、人々の恐れや不安が黒い光となって彼らを離れ、あなたがゆっくりと息を吸い込むたびにあなたの中に入ってくる様子を想像します。さらに、その黒い光があなたの心臓まで下りていき、静かで澄み切った心の中に溶けてなくなる様子を想像します。そして、少しの間、この静かで澄んだ心の状態を保ちます。

続いて、前世のお父さんやお母さんの心の苦しみを和らげたことで自然と沸き起こる静かな幸せを感じながら、この穏やかな幸せや暖かさ、愛情の感覚が、白い光となって、あなたが息をゆっくりと吐くたびに鼻から外へ出ていく様子を想像します。この愛と幸せに満ちた白い光が他の人々の身体に入り、彼らを満たします。皆が心の平穏を得て、明るく、前向きな気持ちになっていると想像しましょう。この一連の瞑想を行うときに「オン・マニ・ペメ・フム」という慈悲のマントラを唱えると、心を落ち着けて集中を保ち、慈悲に心を留め続けることができます。

このような瞑想が他の乗客たちに直接影響を及ぼすことはないかもしれませんが、あなたに強さと勇気、そしてこの状況に立ち向かう自信を与え、あなたの心を鎮めて、明るく前向きな気持ちにします。あなたの行動や人々との関わり方は変わってゆき、あなたは皆を元気づける良い手本となるでしょう。つまりこの瞑想は、結果として間接的に他の人々にも影響を与えるのです。

イスラム教に基づく方法

イスラム教の精神的指導者も人々に話をします。彼はおそらく、この船が氷に閉ざされているのは神の意志であり、私たちが救助されるのかここで死ぬのかは神の手にゆだねられ、私たちにはこれから起こることをコントロールする力はないと言うでしょう。けれど、神はもとよりとても慈悲深い方であり、特に過ちを悔やむものには深い慈しみを施すのだということを忘れないように言います。ですからもし神への信仰を失い、疑いを持ち始めていたのなら、そのことを悔やみ、神に赦しを請うよう伝えます。神の正義を完全に信じるのなら、恐れることは何もないのですから。

また彼はイスラム教の三つの側面を思い起こさせます。神とその意志に対する服従、神の創造物全てを前にしたときの謙虚さに基づく信仰、そして、これら神の創造物への奉仕においても、人間としても卓抜していることです。彼はまた、本当に神の意志を信じているのならば、疑うことも恐れることもないので、心穏やかであれるはずだとも言うでしょう。

さらに、神は人間を創造した時、自分自身の魂を根源的に純粋な状態で心の中に吹き込んだので、全ての人は愛などの美点を授けられているということも話すでしょう。私たちに対する神の愛とは、彼が創造した全ての素晴らしいものに対して彼が感じる親近感のことです。私たちから神への愛を最もよく表す方法は、神の創造物への優れた奉仕という形で彼を崇拝することです。今の状況では、他の乗客たちに親切にし、皆を助けることがこれにあたります。クルアーン(コーラン)は、神は美徳や善を行う人を愛するのだと教えています。すなわち、常に清らかで、法と義務(例えば一日に五回の礼拝を行うなど)に則って正しく行動し、公明正大である人々が、神に愛されるのです。

忘れてはならないことがあります。あなたが他の人々に対する無垢な愛情を育むとき、それはその人々自身への愛ではなく、その人々の素晴らしさや優れた人間性を創った神への愛なのです。ですから、恐れや疑い、自己中心的な考えと戦わなくてはなりません。何よりも困難なのは、神を忘れさせ、破壊的な考えや行動へと駆り立てる、自分自身の混乱した心の声との戦いです。

キリスト教に基づく方法

キリスト教の精神的な指導者も信者たちに語りかけます。彼もまた、父なる神が愛ゆえに私たちを創造したことを思い起こさせるでしょう。その愛に意識を集中すればするほど、神を近くに感じることができます。神とのつながりを感じる最も良い方法は、私たちを創造した神の愛に基づく倫理感と価値観に忠実に守ることです。神は私たち一人一人を彼の姿に似せて創造し、彼の愛の息吹を吹き込みました。ですから、私たちはその愛を表現することができるのです。

自らの苦しみや危険を顧みることなく、私たち全員をその罪から救うために十字架に磔にされて死に、またよみがえったイエスのことを考えなくてはなりません。イエスを信じるのなら、病や貧困に苦しむ人々、救いが必要な人々を、彼と同じように無私の愛を持って助けなければなりません。神がこれらの人々を創造したのには目的があったはずです。あなたも彼らを、特に援助が必要な人々を、神の子供たちとして尊敬しなければなりません。また、このように私たちを氷に閉ざしたのは、神が私たちの信念を試しているためです。船上の多くの人々が恐れや絶望にとりつかれるでしょう。イエスと同じように、愛と慈しみを持って人々のために尽くし、自らの信仰を確かめなくてはなりません。

儒教の考え方に基づく方法

儒教の指導者も、信念を同じくする人々に語りかけ、不安に思うことはないと言うでしょう。義(全ての人に対する公平さ)をもって行動し、また困難な状況においては礼(適切でふさわしい行い)に従ってふるまうことを説きます。生き延びるか死ぬかは全て命(宿命)にかかっていますが、正しい行いをする限り、あなたが後悔することはありません。この状況における正しい行いとは、船が緊急事態に陥った時の公式な規則に従うことです。正名(名称と実質を一致させること)に則って、船長が船長のとるべき行動をとり、乗客が乗客のとるべき行動をとり、さらにお互いにとるべき行動をとり合えば、この状況で求められる調和が生まれます。

人はみな仁(他者との関係の中で正しいことや良いことをする能力)を持っています。愛、智恵、誠実さ、公正に人と関わることなどの善良な性質は、仁から生じます。人はこの内なる能力を高めなければなりません。なぜなら、この仁なくしては、困難に耐えて正しいことをすることなどできないからです。

この内なる能力、仁とは何か問われた孔子はこう答えました。

「初めに困難があり、それに対処するのは後のことである。それが仁である。」
(仁者は難きを先にして獲ることを後にす。仁と謂ふ可し)

言い換えると、今私たちが陥っているような過酷な状況にあるときも、正しいことをする内なる能力を高めれば、誰に対しても公正な態度で、善意を持って適切に対処し、困難を制することができるということです。これをさらに言い換えると、このようになるでしょう。

「困難には最初に立ち向かい、報酬は最後に得ること。それが仁である。」

これが意味するのは、困難な状況で正しいことをするのはただそれが正しいからであり、手柄を立てるためでも見返りを得るためでもないということです。

倫理的に正しい態度をもって困難な状況に対処した歴史上の偉人たちについて知ることで、自分の内なる能力を高める方法を学ぶことができます。
孔子はこのように言いました。

「内なる善い能力を高めた者は、自分の身を立てたいときは他人の身を立てる。自分が成功したいときは他人を成功させる。」
(夫れ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。)

また、こうも言っています。

「身勝手さに打ち勝って礼節を心がけること、それが内なる善い能力である。一日の間身勝手さを捨てて礼節を心がければ、世の中の誰もが仁に立ち返るであろう。」
(己を克めて礼に復るを仁と為す。一日己を克めて礼に復れば、天下仁に帰す。)

仁とは何かさらに尋ねられたとき、孔子は仁とは人を愛することだと言っています。仁を持つ人は心が強く、勇気があるのです。ですから、内なる能力を高め、乗客として適切な行動をとり、船長の言う通りに正しい手順を踏めば、何が起ころうとも、恥じることは何もないのです。

基本的な人間の倫理的価値観に基づく方法

非宗教的な指導者は乗客全員に語りかけます。この船には仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、儒教の信奉者が乗っていますが、いかなる体系に属する宗教も哲学も持たない乗客もたくさんいるのだと話すでしょう。この困難を乗り越えるためには、思想や信条を持つか否かにかかわらず、お互いに倫理的に正しい態度で接しあわなければなりません。争っていては、決して生還することはできないでしょう。

基本的な人間の価値観から考えてみると、誰もが倫理的行動の基本を分かち合っていることがわかります。これこそが、私たち全員が一体となって生き延びる鍵なのです。私たちは平和、調和、そして皆の協調を保ち続けなければなりません。この時、私たちの外側の平和というのは、私たちの内側に平和があって初めて生まれるものなのだと覚えておきましょう。つまり、私たち一人一人が穏やかで安らいだ心を持って初めて、私たちの身の回りにも平和が生じるということです。心の安らぎは他の人への態度と大きく関係しています。もし、あなたが他の人に対して愛情のない考えを抱き、常に自分のことや自分が成功することだけを考えていたとしたら、他の人と関わる時、彼らがあなたを傷つけたり、成功を妨げたりすることを恐れるでしょう。誰も信用することができず、恐れと疑いの気持ちでいっぱいになります。一方、他の人々も、あなたがこのような気持ちでいることを感じ取り、結果的に彼らもあなたを信用しなくなります。こうしてあなたと他の人々の間に距離が生まれ、互いのコミュニケーションを阻む壁ができてしまいます。このように距離や壁がある状態に陥ると、不安や孤独を感じます。さらに、不安を抱えた状態では困難に立ち向かうための自信が持てないので、次第に落ち込むようになります。けれど、反対に他の人々に親しみを感じることができれば、コミュニティの一員であるという感覚を得て安心し、自然と自分に自信が持てるようになります。

私たち人間は社会的な動物です。例えば羊のような他の社会的な動物でも、群れからはぐれた時にはとても不安な気持ちを抱いて怯えますが、ひとたび群れに戻ることができれば再び幸せを感じます。同じように、私たちも孤立したときには苦しみます。たとえ他の人々と一緒にいたとしても、自分の心が不信感や疑いで満たされていたら、人々が差し出してくれる慰めや援助を受けることもできなくなるでしょう。自分の心が、自分を他の人たちから切り離しているのです。ですから、どうぞ気づいてください。あなたの心が慰められるのも、苦境を脱して喜びに満ちた結末を迎える望みを持ち続けられるかどうかも、あなたが他の人々にどのように接するかにかかっているのです。他の人々に近づき、親しみを感じようとすれば、精神的な強さや自信が生まれ、自分を弱いと思ったり、人を疑ったりすることはなくなります。自信と安心感を持ったとき、人はお互いを信頼します。そしてこの信頼から真の友情が生まれるのです。

お金や権力があれば多くの友達ができると考える人々もいます。でも、そんな友達は、お金や権力のための友達であって、お金も権力も失われたときには、彼らも同じようにいなくなります。本当の友達とはそんなものではありません。喜びや幸せをもたらす真の友情とは、相互の信頼に基づいて育まれるものです。友人とお互いに誠実に接し、心を開くことができれば、安心感を抱いて自信を持つことができるだけでなく、くつろいだ気持ちにもなれるのです。このような心の状態であれば、お互いに力を合わせて、私たちが今まさに陥っているような困難に立ち向かうことができます。結局のところ、氷に閉ざされているのは私だけでも、あなただけでもありません。氷に閉ざされているのは、私たち全員なのです。

この困難が過ぎ去ったあとでも、他の人々に対して前向きでオープンな態度を保ち続ければ、友人たちとの間に暖かい親交が続いていくでしょう。人生には常に困難がつきものです。この苦境を乗り越えたからといって、もう問題が起きることはないと考えるのは浅はかです。けれど、他の人々に心を開いて誠実に接し、自分に自信を持つと、他の人々からの信頼も得ることができます。その結果、人生で何が起ころうとも-良いことも悪いことも-他の人々と共に向き合う心構えができ、また他の人々も進んであなたに協力したいと思うようになるでしょう。

もし、なぜ倫理的に行動しなければならないのかと問われたなら、シンプルに、私たちが人間だからだと答えます。私たちは共に生き、またお互いに頼りあいながら生きています。もし他の人々の幸せや福祉に気を配らず、問題ばかり起こしていたとしたら、自分を他の人々から遠ざけ、配慮や気遣いを受ける機会を奪い、苦しませるのは、究極的には自分自身だということになります。

この配慮や気遣いには二つの種類があります。一つは感情に基づくもので、自分自身と、自分が他の人から得るものに重点が置かれます。他の人が自分に優しくしてくれる、あるいは一般的にいい人である限り、あなたは彼らを好きで、彼らの幸せに関心を持ちます。彼らが傷ついたり不幸になったりすることは望みません。けれど、彼らが無作法にふるまったり、あなたを傷つけたり、あるいは単にあなたと意見が合わないというだけでも、あなたは彼らに対する態度を変えてしまいます。もう彼らを好きではなくなり、彼らが幸せだろうが不幸だろうがどうでもよくなります。彼らの行動が好ましくないために拒絶するのです。これは感情に基づいた愛と慈悲であり、真の友情を築く基礎となることは決してありません。

もう一つは、人々の態度や言動に左右されない配慮や気遣いです。これは、彼らもあなたと全く同じく人間であるという事実にのみ基づいて生じます。あなたは、自分の行動や精神状態がどうであれ、幸せでありたいと願います。そして、自分が幸せになりたいという理由のみによって、自分を大事にし、自分の幸せに気を配ります。けれど、これは他の人々もみな同じなのです。この「他の人々」には、態度や言動が好ましくないという理由であなたが好きではない人たちも含まれます。けれど、彼らも幸せになりたいのです。彼らも、あなたと同じように、気遣いや愛によって成長するのです。幸せになりたいと願うのは、誰もが皆等しく持つ気持ちなのです。そして、誰もが平等に幸せを望むだけでなく、私たちは皆平等に、幸せに生きる権利を持っています。そして、幸せな人生とは、他の人々に誠実に心を配り、彼らも幸せになるように手助けをすることによって訪れるものです。そのためには、偽りのない友情を誰とでも築いていかなければなりません。

好ましくないふるまいをする人々にも心を配り、彼らの心身の安泰を気にかけることができるのは人間だけです。この能力をもたらすのは、人間としての知性や信念であることも、または宗教的、哲学的な信条であることもあります。動物には人間のような知性も信条もありません。動物が逸脱した行為をしたら、他の動物たちは彼に危害を加えたり、攻撃したりするでしょう。人間の誰もが信念や信仰を持つわけではありませんが、誰もが人間としての知性を持っています。この知性を使って、なぜ他の人々の幸せや福祉を気に掛けることが自分自身の幸せの鍵となるのかを理解しなければなりません。

あなたが創造主を信じていようと、前世や先祖からの強い影響を信じていようと、あなたがお母さんから生まれたことはどうしても否定できません。お母さんや、お母さんの代わりに無力な赤ん坊のあなたを育ててくれた誰かの愛情や保護がなければ、あなたは生き延びることができませんでした。赤ん坊のころに最大限の愛情と慈しみを受けて育った人々は、生涯を通して安心し、自信を持ち、幸せに生きることができると科学者たちが証明しています。一方、小さなころに虐待されたり、ネグレクトを受けたりした人々は、常に落ちつかず、不安な気持ちで過ごします。人生に何かが欠けていると心の奥底で感じ、不幸な気持ちでずっと生きていくのです。母親からの愛情のこもった接触が乳児の正常な脳の発達に不可欠であるということも、また、絶え間ない怒りや恐れ、憎しみが免疫システムを衰えさせていくことも、医学的に報告されています。

誰もが肉体的に健康であろうと気を配ります。身体を健康に保つためには、心を健やかで穏やかに保つようにもっと意識しなければなりません。では、そのためにはどうすれば良いでしょうか。たとえ、あなたが一人っ子で、愛情と気配りを一身に受けて育ったとしても、学校や仕事などの競争社会で成功しなければならないという大きなプレッシャーも感じていたのなら、いつも不安を抱え、重荷を背負っていたということになります。また、自分が成功するために他の人々を打ち負かさなければならないと思っているとしたら、心は不信感や恐れや嫉妬で満たされ、不安定になります。これらの不快な精神状態では、成功するチャンスを逃すだけでなく、健康までも害してしまします。

一方、自分のベストを尽くす一方で他の人々の幸せにも配慮することができたなら、あなた自身が励まされたり、手伝ってもらったり、友情や愛情のこもった助けの手が差し伸べられることを喜ぶように、他の人々もあなたから同じことをしてもらいたいと望んでいることに気づくでしょう。誠実な慈しみの心、つまり他の人々が失敗せず成功するようにと望む気持ちを育むと、内なる強さと自信を得て、全ての人が成功するように全力で手助けできるようになります。他の人々に対して慈しみや気配りを見せるのは弱さではなく、強さのしるしです。これこそが、精神的な強さと安定の源なのです。

氷の中で立往生している私たちにも同じことが言えます。もし、私たちがお互いに不信感を抱いて口論ばかりして、限られた食糧などの貯えをめぐって争っていたら、全員が苦しみ、弱っていきます。けれど、もしお互いを真摯に思いやることができたら、たとえ誰かが取り乱したとしても、子供を慰めるお母さんのようにその人を慰めることができます。このような時、お母さんと子供がそうであるのと同じように、慰める側も慰められる側も、ずっとよい気分になることができます。愛情に満ちたグループに属しているという感覚と穏やかな心を持つことで、私たちは皆、生き延びる強さを得ることができるのです。

ですから、人間としての知性を使いましょう。誰かがあなたの心を乱し、あなたも怒りを感じて相手に怒鳴りたくなった時、それは事態を悪化させることにしかならないということを思い出しましょう。あなたが取り乱してしまったら、自分の心の状態はさらに悪化し、グループ全体の雰囲気も悪くなります。皆が恐れ、不安になります。グループの誰かが好ましくない言動をとるのは、それは彼または彼女が不安で、恐れているからです。ですから、その人を落ち着かせ、配慮と理解を持って接して、決して希望を失わせないように努めてください。

より良い未来が訪れるという希望が幸せをもたらし、志を同じくする愛情深い友達が希望をもたらします。つまり、誰もが共通して持っている人間としての基本的な価値観によって、私たちは皆、倫理的にふるまうことができるのです。もし、倫理的価値観を補強するような宗教的・哲学的信条を持っているのならば、それは素晴らしいことです。信条を持たない場合には、人間の知性と基本的な倫理的価値観にのみ頼らなければなりません。私たちが信じる様々な宗教の調和を図り、皆が倫理的価値観を培うことによって、この苦境を乗り越えることができるでしょう。それのみならず、一体となって困難に立ち向かったこの体験を糧に、私たちはより良い人間になれるでしょう。

要約

様々な宗教的、哲学的、世俗的価値観を考察すると、困難な状況を乗り越える鍵となるのは倫理的な自己鍛錬だという結論に至ります。つまり、自己中心的な考え、恐れ、絶望を克服し、愛、慈悲、優しさ、尊敬を持って他の人々と関わりあうことが不可欠だということです。ここで挙げた五つの考え方(チベット仏教、イスラム教、キリスト教、儒教、無宗教)は、人間の美質を培う方法論をそれぞれ持っています。

  • チベット仏教では、困難な状況は無数の要因と状況によって生じていると考えます。一つの要因や一人の人が結果を左右することはできませんが、これから起こることにポジティヴな影響を与えることはできます。誰もが前世では他の人々の親であったこと、また誰もが幸せになりたくて不幸にはなりたくないと思っているということから、誰もが平等と見なされます。
  • イスラム教では、困難は神の意志によって生じ、どのような結果がもたらされるかは神の手にゆだねられていると考えます。イスラム教徒は神の意志に従い、神の創造した全てのものに立派に仕えることによって、神を崇拝します。
  • キリスト教では、神が困難な状況を作り出して人々を試すのだと考えます。キリスト教徒はイエスを模範として、貧しい人々や助けが必要な人々に奉仕します。
  • 儒教の教えに従う人々は、困難は時として起こるもので避けられないと考えます。何が起こるかは私たちの運命によって決められています。船長が指示する適切な手順に従い、内なる仁や善を養って、礼節と愛のある態度で人々に公正に接することで困難に対処します。
  • 人間の基本的な倫理的価値観のみに従う人々は、何があろうとも人は愛や慈しみ深い助けをありがたく思うことを理解しています。私たちは社会的な動物ですから、生き延びるためにお互いに協力しあわなければなりません。互いに助け合うことで、どんな困難をも乗り越える強さと自信を身につけてゆきます。

このように、五つのグループはそれぞれ独自の倫理体系を持っていますが、これらの教えに忠実に従うと同じ結果にたどり着きます。どの倫理体系に従っても、怒ることなく困難を受け入れます。乗客の誰かが食糧を独り占めするなど、グループ全体を危険に晒す行動をして、問題を解決するために懲罰を与えなくてはならなくなったときでも、それぞれの指導者たちは、怒りにまかせてではなく、乗客全員に対する憂慮を根拠に罰するように人々を導くでしょう。彼らは乗客全員が心身の安泰を保てるように力を尽くします。結果的にこのコミュニティは無事に生還するだけではなく、お互いの心身の健康のために一人一人が責任を持って行動するという共通の経験を経て、皆がさらに親しくなれるでしょう。

結論

南極海の氷に閉ざされた船というこの比喩は、避けることのできない困難や苦境に直面した時、多文化社会がどのように健全なやり方で立ち向かうことができるのかを考えるのに役立ちます。これを現実に行うには、自分の社会を形成する主要なグループの文化や信仰について学ばなければなりません。他者に対する恐れや不信は、彼らに対する無知から生まれます。正しい知識を身に着けると、どのような宗教も哲学も、信仰を持たない人々も含む誰もが共通して持つ基本的な倫理的価値観と調和する倫理体系を持っていることが分かるでしょう。この倫理的価値観とは、愛、慈悲、他の人々の心身の安泰を願う、愛情のこもった配慮のことです。

どのような信条・信仰をもつ人に対しても、これらの基本的な価値観に則って誠実に接することができれば、いかなる時でも社会は調和を保ちながら機能していくでしょう。これは、各グループがお互いを理解して尊重しあっているためです。そして、相互の理解と尊重から、相互の信用が生まれます。様々な文化的背景を持つ人々がお互いを尊敬しあい、理解しあえば、互いに恐れを抱くことなく共に生きてゆくことができます。このようにして、誰もが持つ基本的な倫理の原則に基づいた、健全で調和のとれた社会が生まれます。

ですから、健全な社会とは、経済、環境、社会的、法的、教育的システム、そして、これまで見てきたように、倫理や宗教の調和など、様々な要因によって生まれるものです。これらのどれかが脆弱な場合、その社会が繁栄することはありません。私たちはまず、私たち自身の倫理観、他者と他者の信条の尊重といった個人的なレベルから始めなくてはなりません。自分の心を穏やかにし、他の人に対して慈悲深い態度で接することができるようになったら、徐々にこれらを家族や友人、最も身近なコミュニティに対しても当てはめていきましょう。次第に、健全な社会が作られていきます。社会全体を健全にするには、その構成メンバー全員が健全な精神と倫理観を培わなければなりません。これは多文化社会、また多文化世界一般に特に当てはまることです。

ここではチベット仏教、イスラム教、キリスト教、儒教の例を挙げましたが、世界の主要な宗教や哲学が説く基本的な人間の倫理的価値観は、宗教や哲学を持たない人々も支持することができるものです。私たちはこのような基本的な倫理観に基づいて子供たちを教育していかなければなりません。そうすることによって、ゆっくりとですが、この世界は万人が恩恵を受けることのできる健全な場所になってゆくでしょう。ご清聴ありがとうございました。

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