通常の幸せ:変化の苦しみ
「仏教はネガティブな宗教だ、なぜなら、私たちが経験するあらゆることを不幸だと見なし、一切の幸せを認めないのだから」と言う人々がいますが、これは誤解に基づいた意見です。確かに、仏教では、私たちの通常の幸せは変化の苦しみだと考えます。これはつまり、そのような幸せで心が満たされることはないということです。通常の幸せは決して長続きせず、このような幸せによって満足することもありません。つまり、これは本当の幸せではないのです。例えば、アイスクリームを食べることが本当の幸せであったとしたら、食べれば食べるほど幸せになるはずです。けれど実際にそんなことをしたら、アイスを食べる幸せはすぐに不幸と苦しみに変わってしまいます。日光浴をしたり、日陰に入ったりする場合にも同じことが言えるでしょう。「変化の苦しみ」が意味するのはこのようなことです。
仏教には、このような変化の苦しみ、つまり通常の幸せの制約を乗り越えて、幸せに満ちた永遠の仏の境地に至るためのメソッドがいくつもあります。けれど、通常の幸せには多くの欠点があるにも関わらず、仏教ではこれらの幸せの源についても解説しています。これは、仏教の原理の一つが「誰もが幸せになりたくて、誰も不幸せにはなりたくない」というものであるためです。私たちは通常の存在ですから、みな幸せになりたいと思っています。けれど私たちは、普通の幸せ以外の幸せを知らないので、仏教ではそれを達成する方法を教えているのです。最も基本的なレベルで「幸せになりたい」という願いが叶ってニーズが満たされた場合にのみ、発展的な精神的実践によって、さらに深く、心が満されるようなレベルの幸せを目指すことができるのです。
しかし、残念ながら、インドの偉大な師である寂天(シャーンティディーヴァ)は「入菩薩行論(sPyod-‘jug、梵: Bodhicharyavatara)」の中で次のように説いています(I.27)。
苦しみを避けたいと願う心を持っていても、人々は苦しみの中に頭から突っ込んでゆく。幸せを願っていても、無明ゆえに、あたかも敵であるかのように自分の幸せを壊してしまう。
言い換えてみましょう。私たちは幸せを願っています。けれど、私たちはその源などについて無明なので、自分により多くの幸せをもたらす代わりに、より多くの不幸と悲しみばかりをもたらしてしまうのです。
幸せは一つの感覚
幸せには様々な種類がありますが、ここでは通常の幸せに着目します。通常の幸せの源について理解するために、まずは「幸せ」というのは何なのかを明らかにしましょう。私たちの誰もが得たいと思っている幸せ(楽、bde-ba, 梵: sukha)とは、一体何でしょう?仏教の分析では、幸せはひとつの心所(心の因子)、つまり、特定のやり方で対象となるものに気付くための精神活動の一種だとされています。楽は、より幅広い意味での精神活動である受(感じること、tshor-ba, 梵: vedana)の一部です。受は、非常な幸せから非常な不幸までのスペクトラムをカバーしています。
では、受の定義とはいったい何でしょう?受は、経験 (myong-ba)の性質を持つ心所です。私たちがあるものや状況を経験するとき、実際にそれを「そのものの経験」や「その状況を経験」にしている精神活動が受です。何かを経験するときには、幸せから不幸にかけて広がるスペクトラム上のどこかの点を感じることになります。どんなものも、どんな状況も、どこかの点を感じることなしには経験できません。コンピューターはデータを取り込んで処理しますが、その際、幸せだとも不幸だとも感じません。ですから、コンピューターはデータを経験していないのです。これが、コンピューターと心の違いです。
あるレベルの幸せや不幸を感じるときには、感覚器官による対象の認識―視覚(色)、聴覚(声)、嗅覚(香)、味覚(味)、快感や痛みなどの身体的な感覚(触)―、あるいは、何かを考えている場合などの精神的な対象の認識(法)の六つ(六境)のいずれかが伴います。これらの感覚は、強烈で劇的なものばかりではなく、非常におぼろげなこともあります。実際、日常生活のあらゆる瞬間にはある程度の幸せや不幸が伴っています。夢も見ないような深い眠りの中でさえ、中立的な感覚を経験しています。
幸せの定義
仏教には幸せの定義が二つあります。一つは、自分とある対象との関係による定義、もう一つは、感覚そのものの実際の気持ちの状態との関係による定義です。
- 一つ目の定義では、あるものが自分にとって有益だと信じること(それが本当に有益かどうかに関わらず)に基づいて、満足しながらそれを経験することが幸せだということになる。一方、満足感が得られず、苦しみながら何かを経験することは不幸である。満たされもせず苦しみもしない場合は、中立的に何かを経験している。
- 二つ目の定義では、終わってしまったときにもう一度それを得たいと思うような感覚が幸せだということになる。一方、生じたときにそれとは離れたいと思うような感覚は不幸である。それが終わったり生じたりしたときに、もう一度得たいとも、離れたいとも感じないのが、中立的な感覚である。
これらの二つの定義は相関関係にあります。満足のゆく形で何かを経験するとき、私たちは、その経験の対象が、自分にとって心地よい形で、文字通り「心にやって来る」(可意、yid-du ‘ong-ba, 梵: manapa)のを経験しているのです。私たちはそれを受け入れます。そして、それは意識を向ける対象として、私たちの中に穏やかに残り続けます。これは、その対象を経験することが私たちにとって有益であることを暗示しています。それは私たちを幸せにしますし、心地よく感じられるのです。ですから、その経験から得られる利益が長続きすることを願いますし、終わってしまったら、また戻ってきて欲しいと感じるのです。口語的には、「私はそれを楽しむ、それを経験することを楽しむ」と表現されるでしょう。
一方、苦悩に満ちた形で何かを経験するとき、この対象の不幸な経験は、文字通り、満足のゆく形では「心にやって来ない」(不可意、yid-du ‘ong-ba, 梵:amanapa)のです。私たちはそれを受け入れません。気持ちを向ける対象として、私たちの中にそれが心地よく残り続けることはありません。その経験は有益ではないどころか、害をなすとさえと感じられます。私たちはそれが終わってほしいと思います。口語的には、「私はそれを楽しまない、それを経験することを楽しまない」と表現されるでしょう。
対象の性質の誇張
では、何かを心地よく感じるとはどういう意味でしょう?ある対象を心地よく感じるとき、私たちはそれをありのまま受け入れます。このとき癡になることはありませんし、その対象の長所や短所を否定したり誇張したりすることもありません。このことから、煩悩(nyon-rmongs, 梵: klesha; 心を乱し、苦しめる感情)、そして、幸せや不幸せを感じながら何かを経験することと煩悩との関係について考察してみましょう。
欲望・執着・貪欲は一組になった煩悩です。この三つの煩悩によって、私たちはものごとの性質を大げさにとらえます。欲望によって自分が持っていないものを得たいと思い、執着によってすでに持っているものを失いたくないと思い、貪欲によって持っているものをさらに多く得たいと思うのです。また、これらの煩悩によって、私たちは何かの欠点を無視したり、見なかったことにしたりします。これは幸せな精神状態ではありません。なぜなら、その「何か」が心を満たすものだとは感じられない―つまり、私たちはそれによって満足することがないからです。私たちは、それをありのまま受け入れることはありません。
たとえば、自分の恋人にとても強く執着しているとき、彼や彼女を見ると幸せを感じるでしょう。恋人を見ると私たちの心は満たされるので、その人を見るのは「満足できること」だと感じるのです。けれど、執着が生まれると、恋人の長所や共に過ごす経験を大げさにとらえ、その一方で、彼や彼女と一緒にいられないことのネガティブな側面も誇張するようになります。すると、私たちは満足せず、不幸だと感じます。恋人と一緒にいるのは今だけで、この一瞬だけを楽しんでいるという事実を受け入れられず、もっと多くを得たいと思い、相手が去ってしまうことを恐れます。そして、その結果、ある時突然、「不満や不安、不幸を感じながら恋人に会っている」という経験をするのです。
もう一組の煩悩は、反感・怒り・憎悪です。これらの煩悩によって、私たちはある対象の欠点を大げさにとらえます。自分がそれを持っていなければ避けようとし、持っていれば捨て去りたいと思います。それが終われば、二度と生じてほしくないと思います。通常、これらの三つの煩悩は恐れと混じりあっています。私たちは対象に満足しないので、これもまた、幸せな精神状態ではありません。私たちは、この対象をありのままに受け入れることはありません。
例えば、今、歯の治療を受けているとしましょう。このとき、経験の対象は、痛みという身体的な感覚です。けれど、もしそのネガティブな性質を誇張せず、ありのままに受け入れられれば、治療の間に不幸だと感じることはないでしょう。中立的な気持ちで痛みを経験することもできるのです。「治療には必要な時間がかかる」ということを受け入れれば、治療が早く終わるように祈らなくなるでしょうし、歯科医がドリルをいったん止めた時に「これ以上は削らないでほしい」と願うこともなくなるでしょう。これは、歯を削ることに対する捨―つまり、反感を感じず、惹き付けられず、癡でもないということ―があるからです。実際、「この治療が終わったら、もう歯痛に苦しまなくて済む」という考えに集中すれば、治療の間に幸せを感じることさえできるのです。
ここで留意すべきは、何かについて幸せや満足を感じても、「それをもっと欲しい」とか、「そんなに欲しくない」などと感じなくなることはないということです。たとえ何かに満足したからといって、怠惰になって、人生において何かを改善したり、あるいは自分自身や自分の状況を向上させたりする努力を止めるということではありません。たとえば私たちは、何かのプロジェクトを成功させたり、手術から回復したりした場合、その結果を受け入れて満足し、結果的に幸せになるでしょう。けれど、必要があれば、さらに上のレベルに進みたいと思うかもしれません。そのとき、自分がそれまでに達成してきたことを不満に思わなくても良いのです。自分のお皿の上の食べ物や銀行口座のお金が十分ではない場合にも、同じことが言えます。食べ物やお金が足りないという現実のネガティブな側面を誇張したり、もっと多くを持っていた場合のポジティブな側面を否定したりせずに、不幸だと感じることなく、さらに多くの食べ物やお金を得る努力をすれば良いのです。そして、成功すればそれで良いですし、失敗してもそれで良いのです。なんとかなるでしょう。けれど、努力はするのです。何よりも重要なのは、もっと多くを得ようと努力するときに、散乱(成功を期待したり、失敗するのを不安に感じたりするような心のさまよい)を防ぐことです。
寂天は忍耐に関する章で、以下のように見事に表現しています(VI.10):
直せるのなら、どうして不機嫌になるのか?直せないのなら、不機嫌になってどうするのか?
最も重要な幸せの源としての建設的言動
長期的に見ると、幸せの主な源となるのは建設的な言動です。これはつまり、自分の行動が自分自身や他者に及ぼす長期的影響を考慮せずに、欲望・執着・貪欲・反感・怒り・癡などの煩悩の影響を受けながら行動したり、喋ったり、考えたりしないということです。このような言動を避けず、実際に行ってしまうのが、破壊的言動であり、不幸の主な原因です。例えば、私たちは渇愛によって店頭の商品の良い点を大げさにとらえ、どんな結果がもたらされるかを考慮せず、それを盗みます。怒りによって、パートナーの発言のネガティブな側面を誇張し、自分たちの関係にもたらす影響を考慮することなく、怒鳴ったり、ひどい言葉を浴びせたりします。
煩悩の影響を受けることなく行動したり、喋ったり、考えたりしていると、将来、煩悩の影響を受けない習慣が出来上がってゆきます。結果として、たとえこの先煩悩が生まれても、それに基づいて行動することはなくなります。長い時間の中で煩悩の力は弱まってゆき、さらに、煩悩が生まれることさえほとんどなくなります。一方、煩悩に突き動かされて行動すればするほど、この先もさらに多くの、そしてより強い煩悩が生まれます。
これまで見てきたように、幸せを感じながらある対象を経験するときは、癡・欲望・執着・貪欲・反感・怒りなどの煩悩を持たずにそれを経験しています。その体験は、対象となっているものの実際の良い性質や悪い性質を誇張したり否定したりすることなく、ありのままに受け入れることに基づいています。このようなものごとの経験の仕方は、建設的な言動―つまり、ものごとや人物、あるいは状況の良い点や悪い点を誇張も否定もせずにありのままに受け入れて行動し、話し、考えるということ―から生まれます。
幸せの可能性が熟すために必要な環境
ですから、私たちは対象となるものごとや考えを―幸せや不幸を感じながら―経験しますが、それがどんな経験になるかを決定するのは、そのものごとや考え自体ではないのです。これまで検討してきたように、ものごとのポジティブな面もネガティブな面も誇張したり否定したりすることなくとらえる習慣がすでに身についていれば、例えば、辛い歯の治療でさえ幸せな気持ちで受けることができるのです。幸せの定義に立ち返り、この一連の治療が自分にとって有益であるという考えを基に、心が満たされるような仕方で、この治療を体験するのです。
煩悩の影響下での行動・発話・思考を避けることをすでに習慣づけていて、幸せな気持ちでものごとや考えを経験する可能性を蓄えてきた人もいるかもしれません。けれど、この可能性が実際に「幸せな気持ちで経験する可能性」が熟すには、一定の環境が必要です。すでに検討してきたように、ある経験が幸せなものになるか不幸なものになるかは、必ずしもその経験の対象となるものごと自体によって決まるわけではありません。ある経験が幸せなものになるかどうかは、対象となっているものの実際の現実をどのような態度で受け入れるかにより強く左右されるのです。それがどのような体験であるかは関係ありません。歯の治療の辛い痛みかもしれませんし、愛する人の姿かもしれません。ある瞬間に何を見て、聞いて、嗅いで、味わって、身体で感じて、考えているかに関わらず、私たちがそのとき幸せか不幸かを決定するのには、私たちの態度、つまり心の状態が非常に大きく関わっているのです。
また、あるものの現実を受け入れて、それについて癡ではなくなれば、長所や短所を誇張せず、欲望・貪欲・執着・嫌悪・怒りを感じることもなく、それを経験できるようになります。ですから、癡でないということによって、様々な瞬間に幸せの成熟が後押しされるのです。
癡(無知)
不幸だと感じているとき、私たちは、そのとき経験しているものごとについてだけ癡(gti-mug, 梵:moha)だとは限りません。癡は非常な広範囲にわたりますし、自分自身について癡であることもあります。何か問題抱えて大変な不幸を感じているときには、私たちは癡によって自分だけに執着しがちです。そんな問題を経験しているのは自分だけだと思うことさえあるかもしれません。
たとえば、失業したとします。現実に、世界中で何百万もの人々が失業して、その後仕事を見つけられないでいます。失業したという自分の状況について、例えば、無常について癡になることなく考えてみましょう。「原因と状況から生じたあらゆる現象は、他の原因と状況から影響を受け、いずれは終わりを迎える」ということを思い出すのはとても役に立つことです。けれど、考える範囲を広げるのは、さらに効果的です。自分自身だけでなく、他の人々も同じように失業という問題を抱えているかもしれません。ですから、「これは私だけの問題ではない。膨大な数の人々が、同じ問題に直面しているのだ。私だけがこの問題を解決しなければないのではない。みなそうなのだ。誰もが、このような問題や不幸を乗り越えなければならないのだ」と考えなければなりません。実際、現実にそうなのです。
癡を排してこのように考えることにより、自己憐憫に耽溺するのではなく、他者への悲(snying-rie, 梵:karuna、同情・共感)の心が育まれます。私たちの心は、自分ばかりに集中することなく、同じような状況におかれた全ての人々に対して開かれてゆきます。自分も彼らも同じように問題を克服できるようにと願うと、自分個人の問題はあまり深刻なものだと感じなくなり、客観的にそれに対処する勇気と強さが培われてゆきます。もちろん、私たちは仕事を失いたくありません。けれど、捨(平静な心)をもって現実を受け入れ、他者のことを思いやれば、人々の力になる機会を得たことを幸せ感じさえするかもしれません。
悲と幸せの関係
ですから、悲は、何らかのものごとや状況を幸せだと感じながら経験する能力を開花させる鍵の一つなのです。しかし、これはどういう仕組みなのでしょう?悲は、他者が苦しみや苦しみの原因から解放されてほしいという願い、自分が自分自身に対して願うのとまったく同じ願いです。けれど、他者の苦しみや不幸に意識を集中すると、当然、私たちは幸せではなく、悲しいと感じます。あるいは、何も感じないように感情を封印するかもしれません。どちらにしても、他者の苦しみによって幸せを感じることはありません。では、悲はどうやって幸せな精神状態をもたらすのでしょう?
これを理解するには、心を動揺させる(zang-zing)感情と心を動揺させない(zang-zing med-pa)感情とを区別する必要があります。今私は、厳密な定義に沿わずに、もっと口語的に、一般的な意味でこれらの用語を使っています。この二つの違いは、その幸せや不幸、あるいは中立的な感情に、その感情自体に関する癡や混乱が含まれているかどうかです。思い出してください―幸せと不幸を区別するときの可変要素とは、一般的に、私たちが経験の対象に関して癡かどうかということでした。何かを不幸せな気持ちで体験しているとき、たとえそのものごと自体の性質を誇張も否定もしていなかったとしても、その不幸な気持ちを実際に存在する確固とした「もの」―たとえば頭の中に垂れ込めている雲のようなもの―だととらえてしまうこともあり得ます。そして、その感情のネガティブな性質を誇張し、たとえばそれが「おぞましい憂鬱」だと想像して、その中にはまり込んでしまうかもしれません。この場合の癡は、不幸な感情をありのままに受け止めていないということです。不幸な気持ちとは、結局、どんな瞬間にも絶えず移り変わるものなのです。なぜなら、不幸の度合いは様々に変化するからです。不幸は、他の何からも影響を受けずに完全にそれのみで存在する、確固とした一枚岩のようなものではありません。
「他者の苦しみについて考えても何も感じない」という経験をしている場合にも、同じような分析を応用することができます。このような場合、私たちは「悲しい、不幸だ」と感じることのネガティブな特質を誇張して、その悲しみや不幸を感じることを恐れて感情をブロックしているのです。それゆえ、幸せでも不幸でもない中立的な感覚を体験しているのです。けれど、私たちはこの中立的な感覚をも誇張します。この感覚は自分の中に居座る何か確固とした「無」のようなものであり、それによって何かを深く感じることが阻害されていると想像するのです。
悲の心を育てるためには、「他者の苦境は、自分の苦境と同じように悲しいものである」ということを否定しないようにしなければなりません。他者の悲しみを感じることを恐れたり、ブロックしたり、押さえつけたりするのは健全なことではありません。この悲しみは、感じるべきものなのです。しかしこのとき、心を動揺させないようなやり方で、感じるのです。これは、他者の苦しみに共感して、彼らがそれを乗り越えるように願い、自分がその克服の責任の一端を持って彼らの力になるためです。これに関する仏教のアドバイスは、「悲しみを感じることを確固とした『もの』にしてはならない。そのことで大騒ぎしてはならない」という端的なものです。
心を静める
心を動揺させないやり方で悲しみの感情を経験するには、心の気まぐれ(散乱)やぼんやりと濁った状態を全て取り去って、心を静める必要があります。心が気まぐれにあちこちさまよっているときは、心を乱すような無関係な考え―不安や疑念、恐れに満ちた考え、あるいは、もっと快いことがあるのではないかという期待に満ちた考え―に飛びついてしまいます。心が濁ってぼんやりとしていると、「心の霧」にとらわれて、あらゆるものに対する注意が散漫になってしまいます。
仏教には、心の散乱や沈み込みを解消するメソッドがたくさんあります。最も基本的なものの一つは、呼吸に集中して心を静める方法です。散乱や沈み込みを極限まで減らすと、心は穏やかで明晰になります。このような精神状態であれば、他者の苦しみや問題、そしてそれに対する自分の感情を誇張したり、無関心になったり嫌悪したりしないように、気持ちを静めやすくなります。初めのうちは悲しいと感じるかもしれませんが、心が動揺することはありません。
しばらく時間はかかりますが、心が一層リラックスして落ち着ついてくると、おのずと小さな幸せが感じられます。精神や感情が静まっていれば、心の自然な温かさや幸せな気持ちがはっきりとわかります。建設的な言動をとるように努めて幸せを感じる潜在能力が十分に高まっていた場合、穏やかな心は、その能力を成熟させるきっかけともなります。
慈を育む
そして、慈(慈愛、byams-pa, 梵:maitri)によって、この幸せをより強固なものにしてゆきます。慈とは、他者が幸せになるように、そして幸せをもたらす原因を得られるようにと願うことです。このような願いは、悲(思いやりのこもった共感)から自然に生まれます。私たちはもちろん他者の苦しみや痛みを悲しみます。けれど、積極的に相手の幸せを願う一方で、そのような悲しみを感じるのは難しいでしょう。自分自身のことを考えるのを止めて、相手の幸せに意識を集中すると、私たちの心は自然に温かくなります。そして、さらなる穏やかな喜びの感覚がおのずから湧きおこります。すると、これまでの建設的な言動によって蓄積されてきた可能性が開花して、さらに大きな幸せを感じることもあるのです。このように、私たちの慈が無私で誠実なものであれば、それには穏やかな幸せが伴うので、心が動揺することはありませんし、悲しみも消えてゆきます。頭痛に悩まされている親が、病気の子供をあやしているときには自分の痛みを忘れてしまうのと同じように、慈愛に満ちた想いを発しているときには、誰かの不運に対する悲しみは消えてしまうのです。
要約
端的に言いましょう。仏教では、渇望・貪欲・執着・嫌悪・怒りなど、癡に由来する煩悩や悪見の影響下で破壊的に行動したり、話したり、考えたりしない習慣を身に着けることが、長期的で、最も基本的な幸せの源だとされます。このような建設的な言動によって、将来幸せを経験するための能力が、私たちの心相続(精神的な連続体)に蓄積されてゆきます。何を経験しても、経験するものや状況の素晴らしさやひどさ、さらに、そのとき感じる幸せや不幸せの程度を誇張したり否定したりしないことが、自分の可能性を開花させることにつながるのです。癡を捨て、執着や嫌悪、無関心も捨てることができたら、次に、心の散乱や沈み込みを静める必要があります。このとき、不安と期待は特にしっかりと静めなければなりません。心が澄み切って穏やかになれば、とても小さな幸せを感じられるでしょう。そしてそれが、さらに大きな幸せを感じる能力を目覚めさせることにつながるのです。
さらに、他の人々が抱えている問題や、彼らがおかれている状況―私たち自身より悪い状況かもしれません―に意識を集中して、心を広げてゆきます。すると、私たちは、自分のことだけ考えるのを止め、代わりに、他の全ての人々が苦しみから解放されたらいかに素晴らしいだろうか、彼らの解放を手助けすることができたらどんなに良いだろうか、と思うようになります。このような悲(強い共感)によって、おのずと慈(人々が幸せになってほしいと願う愛の感情)が生まれます。人々の幸せを考えることにより、私たち自身の幸せの可能性はさらに熟してゆきます。
これらの慈と悲を意識しながら、仏たちや、他の人道主義者たちのことを考えてみましょう。彼らの前例からは、実際に他者を助ける責任を負うためのインスピレーション(加持、byin-gys rlabs, 梵:adhisthana)を得ることができます。そこから私たちは、他者だけではなく自分の問題にも取り組む勇気と強さを身に着けるのです。自分の問題に対処する場合も、その程度を誇張したり、失敗を恐れたり、成功を期待したりすることなく、取り組んでゆくことが大切です。