菩提道次第(ラムリム)の伝統的な説示

悟りへの段階的な道のりは、貴重な人間としての生を受けたという極めて稀な機会を認識する事から始まります。この貴重な機会を最大限に生かすことが出来れば、未来に再びその様に人間としての生を受けるのみならず、輪廻から抜け出し、さらに悟りへと至る事も可能です。全ては私たちの動機と目的次第であり、また仏陀が教えた仏法の学びと実践次第です。

人間に輪廻転生するありがたさ

何故人間に転生することは如意宝珠のように貴重なものなのか

人間のこの貴重な身体(からだ)は如意宝珠よりもっと貴重なものです。それは有暇(余裕のある状態)の土台(基)となるものですが、私たちの身体が与える有暇と機会は、麻薬でハイになるためではなく、仏法(ダルマ)の修行/実践をするためにあります。何故貴重な人間の身体は如意宝珠よりもっと貴重なのでしょうか?その理由は、如意宝珠で今生のための飲料や食物を得る事はできても、それは来生には利益(りやく benefit)がないからです。ですから、ダルマを実践する機会を与えてくれる私たちのこの身体がそのような宝珠よりもっと貴重なのです。

私たち全員がいつでも幸せを欲し、そしてできる限り長い期間の幸せを欲します。しかし、今生でどのような幸せを達成しようが、このとても短い人生の間だけのものですから、それはとても短い期間です。ですから、私たちが長期的な幸せが欲しければ、来生の事も考える必要があるのです。如意宝珠は私たちに三悪趣から自由になる事を与える事はできませんし、不死を保証する事もできません。しかし、人間のこの貴重な身体を土台とし、私たちは三悪趣への輪廻転生から自分を守ることができるのです。そして、ジェツン・ミラレーパのように、彼が仏法(ダルマ)を修行するための土台として身体を使ったように、今生において悟りを成就する事も可能なのです。ですから、私たちの人間の身体にできる事を如意宝珠ではかなえる事ができないため、私たちの身体は如意宝珠よりもっと貴重なのです。

ですから、私たちは人間のこの貴重な身体で仏法(ダルマ)を修行する必要があるのです。しかし、私たちはその逆の視点を持つ傾向があります ― 如意宝珠よりももっと貴重なものなのに、私たちは自分の身体を更なる富を得るために使い、この短期的なゴールのために自分の人生を犠牲にする準備さえできていたりします。この世には私たちよりもっと裕福で、さらに頭のいい人が数多くいます。しかし、人間のこの貴重な身体をダルマの修行のために使うことで、私たちは彼らよりもさらに多くのポジティブな力(功徳/福徳)を築き上げる事ができるのです。ですから、この貴重な人間への輪廻転生を無駄にしないで、それが成就できる三つの目的のために使う事が重要です。その目的とは来世で善趣の中の一つの生を受けること、解脱を得ること、そして悟りを成就することです。

どのように多くの物質的なものを得ようが、満足感をもたらす事はありません。この世の全ての物質的なものを得たとしても、人は満足する事はありません。ですから、全ての如意宝珠が満足感をもたらす事はできないのは明らかです。ある人が更なる富を獲得しても、それは更なる苦をもたらすだけです。この事実を自分自身で体験できます ― 非常に多くの荷物を持って電車かバスで旅行すれば旅は大変なものになるでしょう、しかしこのような所有物がなければとても楽になるでしょう。

ですから、私たちはこのようにして仏法(ダルマ)の修行を試してみるべきです。例えば、ジェツン・ミラレーパは、洞窟に住んでいた時、物質的には何も所有していませんでした。ジェツン・ミラレーパと釈迦牟尼仏陀は物質的なものが取るにたらないもので本質的なものではないと気づいて、ダルマの修行のためにそれらを捨てました。そして、皆さんも、この世界の多くの裕福な国々に住んできながら、物質的なものはそれほど大切ではないと気づき、それらを後にしてダルマを修行するためにここに来ています。

貴重な人間の輪廻転生を得ることの原因とその難しさ

貴重な人間の身体を得る事が何故そこまで困難かを私たちは考える必要があります。そのための諸原因(因)を築き上げる事が非常に難しいからです。これらの原因(因)は三つに分ける事ができます。

  • 厳格な倫理的な自己規律を保つこと

  • 彼岸に到ろうとする態度(六波羅蜜)を修行すること

  • 純粋な発願心を捧げること

厳格に倫理的な自己規律を保つ

厳格に倫理的な自己規律を保つことは非常に難しい事ですし、私たちが他者のそれを認識したり評価する事も非常に難しい事です。さらに、倫理的な自己規律に関して、十の破壊的な行為(十不善業)がありますが、この世界のほとんどの人々がそれらが何なのかを知らないという事を考える必要があります。そして、もちろん、十不善業が何かを知っている人々の中でも、ほとんどの人々がそれらを避ける修行をしません。

身体による(身)三つの破壊的な行動は、

  • 生きものを殺すこと(殺生) 例えば、殺してはいけないと知りながらも、昆虫に刺されると私たちは本能的にたたきつけ殺してしまいます。

  • 与えられていないものを取ること(偸盗) 出かけていって実際に盗みを犯す事がないにしても、他の人々から物を得るためにずる賢い方法を使いますが、それもほぼ同じ事です。

  • 適切でない性的行動にふけること(邪淫) 私たちは他者の伴侶といたいとの多くの欲望を待っています。

雨の中で雨粒が降ってくるかのように、私たちは毎日、これらの破壊的な身体上の行動を蓄積しています。

言葉(口)の四つの破壊的な行動は、

  • 嘘をつくこと(妄語)私たちはいつでも妄語を蓄積しています。例えば、丘を降りていこうと思っているのに、誰かにどこへ行くのだと聞かれると、私たちは丘の上だと言います。

  • 不和を生じさせるような言葉使い(両舌) 友人達がお互いに仲違いをするようになったり、すでに友好的でない人たちがさらに敵対するようになるような原因となります。私たちは他者のことを悪く言う事で、いつもこれを行っています。

  • 乱暴な言葉使い(悪口) これは必ずしも人にだけ向けられたものではありません。例えば、部屋に犬が入ってくると、「さっさと出て行け!ここを出ろ!」ときつい言葉を吐きます。乱暴な言葉を使うのは非常に大きな過ちです。自分に向かって誰かが乱暴な言葉を使うと私たちはとても傷つきます、ですから動物を含む他者も同じように感じるのです。

  • 中身のない言葉を話すこと(綺語) 実際上、私たちの口から出る言葉はゴシップ(雑談)ばかりです。「あの国に行ったことがある」「これとあれをやった」などと。多くを喋れば、言葉の上でのこの破壊的な行為をしてしまう機会を増やすのです。私は英語を知らないので、英語で雑談する機会はありませんが、チベット語でのみゴシップを蓄積しています!

心による(心)破壊的な行為は、

  • 貪欲な思い(慳貪)誰かがとてもいい家を持っていると、自分自身も欲しくなるなど。いい事ではありませんが、私たちが多く持つものです。

  • 悪意のある思い(瞋恚)誰かが不幸であって欲しいと思ったり、その人の首を折りたいと思うこと。敵に対してだけ思うのではなく、友人に苛立った時にも、私たちは悪意のある思いを持ちます。

  • 歪んだ対立的な思い(邪見)例えば、来生/来世がないとか、帰依の三宝は誰をも救う事ができないとか、供養(puja)の儀式を行うことは時間の無駄だとか、バター・ランプを捧げるのはバターを無駄にすることだとか、トルマ供養がツアンパを捨てているようなものだとの思い。

これらを行わないように予防することは難しいことです。しかし、これらを行わないように予防しないと、有り難き人間への輪廻転生を得る事はできません。詳細に入る時間はありませんが、もしもっと知りたいのであればラムリムの教えを学ぶべきです。

六波羅蜜(彼岸に到ろうとする態度)の修行

貴重な人間に輪廻転生するための第二の因は、六波羅蜜(彼岸に到ろうとする態度)を修行する事です。寛大さ(布施)、倫理的な自己規律(持戒)、忍耐力(忍辱)、喜んで努力する事(精進)、精神的な安定と集中力(禅定)、そして正しく判別する認識/認知(智慧)についてです。

しかし、寛大さ(布施)を実践するより、私たちはけちさを実践し、他者にも自分のけちな態度を拡げます。忍耐力を持つよりも、怒りを持ちます。仏法(ダルマ)の修行に喜びを見いだすような精進をするより、怠惰になり、いつも眠っていたいのです。精神的な安定を得るより、心の散乱を招きます。例えば、真言(マントラ)の復唱をしている時は、私たちの心はあちこちへ散乱しますが、これが何度も起きるので、さらに散乱する機会を増やすだけです。

ある時、一人の教師が、弟子にやって欲しいと思っている仕事があってそれを弟子に伝え忘れていたのですが、修行中にその事を思い出しました。思い出したとたんに、彼は瞑想を止めて、立ち上がり、弟子に伝えました。教師の心は散乱していたのです。復唱の修行の時には、私たちの心は散乱します。

彼岸に到ろうとする判別する認識(智慧波羅蜜)に関しては、空性(無自性)を理解する判別する認識を育む必要があります。しかし、私たちは代わりに絵画などの世俗的な事を学ぶので、正しい種類の知識を蓄積しません。

手短かに言えば、人間としての輪廻転生の諸原因(因)を積み上げる事は非常に難しいのです。このような身体を持つ事はどれほど稀なのかを分かり、これはただこの一度だけしか得られないものだと、そしてまた非常に簡単に失ってしまうものだと考えるべきです。この有り難き人間の身体を得た事を活用しないと、将来また得る事は非常に難しいのです。

八無暇からの休息(有暇)

このありがたい人間の輪廻転生の性質は八つの暇のなさ(八無暇)から自由であるということ(有暇)です。無暇の状態は仏法(ダルマ)を修行する機会がないという事です。

非人間界の四つの無暇の状態があります。

  • 地獄界では、身体はいつも火に包まれているので修行する機会がありません。

  • 餓鬼(preta)として生まれると、常時、飢餓と食べ物への思いを体験しています。

朝、目が覚めて朝食を取らないと、仏法(ダルマ)を修行する気持ちになれません。頭痛で目覚めれば、ダルマを修行する気持ちになれません。ですから、自分たちの体験から推測してみれば、もし自分が餓鬼として生まれて六十年間食べ物なしでいれば、ダルマの修行には興味を示さないでしょう。

ですから、地獄界や餓鬼界への輪廻転生から自由である事をありがたく思う必要があります。

  • 畜生(動物)界への輪廻転生 ダライ・ラマ法王の犬として生まれても、帰依の祈りを復唱する事はできません。

さて、私たちは地獄界、餓鬼界、畜生界には生まれていません。

  • 長寿の天界の神としても生まれていません。彼らは快楽に、世俗的な快に恵まれているので、ダルマを修行する事に興味はありません。

シャーリプトラ(舎利子、舎利弗尊者)には上師への献身をとてもひたむきに修行する一人の弟子がいました。その弟子は亡くなると、天界に輪廻転生しました。シャーリプトラは、超能力を使い、その弟子が天界に生まれた事を知りました。それで、シャーリプトラはその信心深い弟子を訪ねてみようと考えました。天界に行ってみると、その弟子がやった事はシャーリプトラに手を振って「やあ!」と挨拶するだけで、ダルマの修行には興味を持っていません。彼はあまりにも楽しい時間を過ごしているのですから。これは本当の話です、作り話ではありません。

自分たちの体験からもこれが分かります。ある人がとても貧乏であれば、その人は仏法(ダルマ)を修行する準備ができているでしょう。しかし、その人がとても快適であれば、興味をもちません。ですから、私たちもまた長寿の天界の神として生まれなかった事は幸運なことなのです。

人間界の四無暇があります。

  • 第一は、無暇の第五の項目になりますが、例えば、仏法(ダルマ)の一句も聞けないような国や時代に生まれる事です。私たちはその状況にはいません。

  • ある人々は衣食だけに興味を持つような野蛮な社会に生まれます。私たちはその状況にはいません。

チベットにはツアリ山というところがあるのですが、チベット人はそこに十二年ごとに行きます。そこに住むロバ族は非常に野蛮で、その土地を通り抜けるには税を納めなくてはなりません。税はヤクでしたが、ロバ族の人々はヤクを得るとすぐに殺し、その血を飲みます。まあ、私たちはその状況に生まれなくて幸運です。

  • 私たちは盲目、聾唖、狂人、愚者などに生まれていません。ですから、学び、修行するためのこれらの障害からの自由をもっています。

  • さらに、宗教は良くないもので、価値のあるもの全てが金だと考えるような非宗教的な地域に生まれていません。

ですから、人間に輪廻転生して、これらの無暇の状態から自由(有暇)で、さらにこれを得るための諸原因を理解している事で、私たちは二重に幸運です。人間の身体を持つ多くの人々が、そのような輪廻転生を得続けるためには何が原因となるのかを認識していないのです。

アナロジー(比喩)

人間の貴重な身体を得難さを把握するために比喩を使ってみましょう。例えば、鏡に砂を撒いた時にくっ付く砂粒ほどに稀なことです。

これらのことを考えてみると、自分たちの現在の人間への輪廻転生がいかに貴重な達成であるかを認識するでしょうし、今、この一回だけしか得れないのだと考えるべきです。インドに住む何億人の人々の事を、そしてその中でダルマを実践している人々がいかに少ないかも考えてみて下さい。いかに希有な事か分かります。

ある時、貴重な人間の輪廻転生を得る事の困難さについての説法をしているラマがいました。聴衆の中の一人のモンゴル人が、「人間の輪廻転生を得る事がそれほど難しいと考えるのなら、中国に行ってそこにはどれだけ多くの人がいるかを見ればいい!」と言いました。それは私にソビエト連邦に行くべきだと言っている様なものです。

これらは瞑想の時に考えてみるのに非常にいい課題です。

人間の貴重な身体を活用し意味のある人生を生きること

私たちが人間のこの貴重な身体(からだ)を得る事を達成するのに、前生/前世でどれほど努力をしてきたのかを考えてみると、この人生を意味のあるものにしようとの欲望が非常に強烈なものとなるでしょう。一例として、あなたが山の頂上の途中まで荷物を運んだとしましょう、そしてそこで手放すと、荷物はずっと下の方まで落ちるでしょう。今生でこの貴重な人間への輪廻転生を得るためにやってきた仕事は、山の途中まで荷物を運ぼうとする仕事に匹敵します。そして、荷物を手放せば、それまでのすべての努力が無駄になるのです。

ですから、私たちは人間のこの貴重な身体を持っているのですから、来生/来世でも人間に生まれる事を望むだけではいけません。今、持っているのですから、私たちは完全に悟りを得た仏陀の状態を得ようと利用すべきです。そうでなければ、そこに米袋を食べないで置いたままにして、来生では別の米袋が得れますようにと祈っているのと同じ事です。ですから、私たちは今の人間への輪廻転生を十分に活用すべきです。.

死についてマインドフルでいること

死は必ずやってくる

自分の持つ人間の貴重な身体が一体どのような類いのものか考察すれば、岩や金属ではできていません。もしそうであれば、(私たちの身体は)長く持つでしょう。実際、私たちの身体を解剖して何が内側にあるのかを見てみると、市場で肉を買った後に、家で吊るしている動物の内蔵のように、血と肉だらけです。私たちの内部は時計の内部のように繊細です。

死について考え、どれだけ多くの人々が亡くなったかについて考えると、それぞれの数珠玉で数えるには、非常に多くの数珠がいるでしょう。もし私がダラムサラに来てからどれだけのチベッット人が亡くなったかを数えようとすれば、すぐに数珠全体を使い切ってしまうでしょう。

人の身体で生まれた者の一人として死んでいない者はいません。そして、植物や木々がいかにして朽ちていくかを見れば、自分の死も時間の問題だと気づくのです。生まれてくることの自然な結果は死ぬということです。誰にもどうする事もできません。私たちがここに集う事の結果は散る事ですが、上昇する事の最終的な結果は下降する事です。私たちにはどうする事もなくただ死んでいくのだと認識できれば、死が訪れる前にできるだけ仏法(ダルマ)を修行する努力をする必要があります。

そして、私たちはどのようにして死ぬのかについて考えるべきです。病いにおかされていく自分の姿を想像してみて下さい、弱っていき、親戚の全員が泣いていかにひどい事かと言っています、そして医者が来てあなたに薬を与えますが、舌を鳴らしてご愁傷様と言うのです。

いつ死ぬのかは分からない

さらに、いつ死ぬのかは分かりません。非常に年老いた白髪の両親がその子供たちの死体を埋める事もあるでしょう。そして、多くの人々が普段の食事中に窒息死するのです。

例えば、チベットからのこの例について考える事もできます。ある男が肉の大きな固まりをいくつか横に置いて、朝に食べるつもりだと言いましたが、肉の固まりの方が男より長く残りました。もう一つの例は、シムラ出身のポテト農家の男で、お昼に揚げパンを作って食べるつもりでいたのですが、パンがまだ出来上がる前に男は死んでしまいました。

このように、無常と死についての考察を自分のためになるものとするには、本で読むよりも、自分の知っていた人たちで亡くなった人の事を考える方が最もいいでしょう。

死の際には仏法(ダルマ)のみが助けとなる

死についての瞑想の大切さは何でしょう?それは唯一行う価値のある事はダルマ(仏法)の修行だという事を教えてくれることです。

物質的な事に関して考えると、自分自身と共に持っていけるものは何もない事が分かります。例えば、もしあなたが多額の富を蓄えた裕福な商人であれば、火葬のために自分の身体を包む布のより高額のものが選べます。しかし、この商人がこの富を蓄えるために行った破壊的な行動について考えると、彼は国から国へと旅したのですから、途方もないものでしょう。

仮にあなたが多くの使用人や従業員を抱えていたり、あるいは何百何千もの兵士を指揮する将軍だとしても、あなたが死ぬ時には誰一人として一緒に来る事はできません。国中の親戚も何もできません、彼らにできる事と言えば、あなたが死ぬ時に側に立ち、あなたの心をひどく乱し、あなたの死と輪廻転生の邪魔をする事ぐらいです。

死の際にあなたを助けてくれるものは仏法(ダルマ)の修行だけです。何故なら、建設的な行為により十分なポジティブな業(カルマ)の力を蓄積していたのであれば、諸来生(後生)での輪廻転生に大きく利益することができるからです。しかし、ネガティブな業の力はその邪魔をします。これは死について考えなくても理解できる事です。多くのチベット人がチベットでは裕福でしたが、全てを置いて、その時に自分が持っていた知識と内面の特質だけを持って来れたのです。ですから、純粋にダルマの修行を行うことと、世間/世俗的な活動に時間を無駄に使わないことが必要です。

今生における全ての世俗的な活動は麦の籾殻のように取るにたらないものだと、私たちは考えなくてはいけません。世俗的な活動は本質を持たないのです。世俗的な活動は子供たちが泥のパイを作っているようなもので、仕上がれば捨てる事しかできないのだと見なさなくてはなりません。子供たちは砂の城を築きますが、遊び終われば、そこに残して去ってしまいます。私たちの世俗的な活動もこのようなものだと見なす必要があるのです。

これらの事全てについて考えれば、仏法(ダルマ)の修行に多いに役立つでしょう。

下位における動機

初級の(下士)の段階

私たちが全ての世俗的な活動は不必要なもので、さほど重要性のないものだと考える事ができれば、唯一大切な事は仏法(ダルマ)の修行であると気づきます。ダルマの修行をする事は来生の輪廻転生の利益(りやく)となれる何かをする事です。例えば、「今、私は貴重な人間の輪廻転生を得た。来生では三悪趣に落ちないように今生を使おう」との態度を持てれば、私たちの貴重な生を活用する最下位のレベルにいます。

私たちが三悪趣に落ちないように予防するものは、厳格な倫理の自己規律を保つ事です。しかし、倫理的な自己規律を保とうとの非常に固い願望を持っても、それは徐々に退化します。ですから、三悪趣へ落ちる事から保護されるには、自分の心を乱す感情(煩悩)を取り除く必要があります。これはとてつもなく汚れた布切れを洗うようなものなので、最初は少しだけの力を使い、そしてゆっくりと力を増していきます。自分から心を乱す感情を取り除くには、ゆっくりと優しくはじめます、そして徐々に全力を使えるようになるまで努力するのです。ですから、倫理的な自己規律を保つには、それをゆっくりと適用しなくてはいけません、そして徐々に適用していくプロセスを通して、自分自身の心を乱す感情を取り除いていけるのです。そうでなければ、それまでの努力は簡単に退廃するでしょう。

あなたが三悪趣への輪廻転生を避けるために、倫理的な自己規律に従えば、これはダルマ(仏法)の修行の最低限のレベルと言えます。

中級(中士)の段階

三悪趣へ生まれる事を避けたとしても、そして来生が天界の快楽に満ちた中へ生まれたとしても、または人間に生まれても、私たちは全ての輪廻転生は苦であると気づかなくてはいけません。これはラムリム(lam-rim)の教えで広範に論じられていますが、次の例で分かるでしょう。あなたは太陽の下で立っていますが非常に熱くなり、家の中に入ります。そうすれば、あなたは熱いと言う苦から逃げましたが、寒いと言う苦と残されました。輪廻(samsara)のどこにも私たちが苦から自由になれる場所はありません。

心を乱す感情は私たちが輪廻を何度も回り続ける原因になります。その根本は、木の根のように、真に独立した自性があると把握する事です。私たちが輪廻を回り続けるのは回転木馬(メリーゴーラウンド)で回っているようなもので、どこへも行けないのです。唯一降りる方法は自分自身を持ち上げ、その上方に上昇する事です。これが聖者(arya)の観念(アイデア)で、自性がない事(無自性)を、またはありもしない「魂」の欠如、すなわちアナートマン(無我)を正しく判別する認識を持つ者ということです。

私たちの心相続にこの無自性(空性)の認識を育成するには、止(shamatha シャマタ)を、すなわち穏やかで安定した心の状態を得る必要があります。これを得るには、倫理的な自己規律が必要です。ですから、三学とは、倫理的な自己規律(持戒)、深まった集中力(禅定)、そして正しく判別する認識(智慧)の三つの高度な訓練(三学)のことで、それが私たちが輪廻の上に上昇する事を可能にするのです。これらを修行すれば、輪廻を回り続ける事に終止符を打つ事ができます。

自らを上方へと持ち上げてきた者には三種の者がいます。

  • 菩提道の見道を成し遂げた者たち(見道/縁覚道)

  • 菩提道の習修道を成し遂げた者たち(修道/声聞道)

  • 菩提道を成し遂げ、更なる訓練(学)を必要としない者たち(無学道)

見道/縁覚道にいる者たちは空性(無自性)の(論理的な推論に頼らずに)非概念的な直観を新たに得た者です。修道/声聞道にいる者たちは、さらにさらにと習修(瞑想)し、この空性の非概念的認識(直観)の習慣を築き上げていきます。あなたが瞑想を何度も、何度も行い、この空性の認識に自分の心を完全に習慣化して、解脱を阻止する感情の障害を心から永久に、完璧に取り去れば、あなたは解脱した者( arhat 阿羅漢)です。

上級の段階(上士)の動機

愛(Love)と慈悲(Compassion)

しかし、自分だけが解脱するだけでは十分ではありません、何故ならば全ての有情(限られた心を持つもの)がこの苦境にいるのです。全ての有情は苦しんでいて、その苦しみから抜け出したいと望んでいるという点で同じです。私たちが全ての有情が苦しみから自由になれますようにと願う心を発展させる事が「慈悲」と呼ばれています。しかし全ての有情が苦しみから離れますようにとのこの願いを育てるには、あなた自身が自分自身の苦しみについて長期間にわたり瞑想をして、それがいかにひどい事かと気づかなくてはなりません、そうやって出離、すなわち自由になろうと決心する心を発展させる事ができます。苦しみがいかにひどいかとのアイデアを得て、自分自身がそれから逃れたいとの望みを持てれば、それを全ての生きとし生けるものに適用するのです。それが慈悲です。

ですから、出離は自分が苦から逃れたいと望むことで、慈悲(その中の悲にあたるもの compassion)は全ての生きとし生けるものが苦から逃れることを望むことです。慈悲(悲 compassion)と慈愛/親愛(慈 love)の違いは、慈悲(悲)では「全ての有情が苦と苦の原因から離れればいかに素晴らしいことか」と私たちは考え、慈愛/親愛(慈)では全ての生きとし生けるものが幸福と幸福の原因を与えられることを望むことです。

どのようにして平等心と菩提心を育成するのか

私たちが慈愛/親愛(love)と慈悲(compassion)を持たない理由は何でしょう?何故、全ての生きとし生けるものが苦から逃れ、幸せを得ることを私たちは望まないのでしょう? それは、私たちの心がスムーズではない、つまり粗いからです、心に高低があります。私たちの心のこの一様でない様は何でしょう?それは、私たちが自分の親戚や友人には多大な愛着(執着)を持ち、自分の敵を見ると多大な嫌悪を持つことです。

それでは、どうやって私たちはわだちのある道路を一様にするのでしょう?この例を考えてみることで分かるかもしれません。ある人があなたに昨日百ルピーを与えました、そして他の人が今日百ルピーを与えました。昨日あなたに百ルピーを与えた人は、今朝あなたの顔を殴りました、そして今日あなたに百ルピーを与えた人は、昨日あなたの顔を殴りました。あなたは誰を好きになり、誰を好きになれないでしょうか?

まあ、この様にして、どのようにして過去の敵が私たちに多大な利益を与え、将来は大きな助けとなるかもしれないことを考えるべきです。同様に、私たちの友人たちは過去において多大な危害を私たちに与えてきたし、将来にも再度そうするでしょう。ただ、時間の問題です。

別の例です。人食い人種、狼男、吸血鬼とさまざまな人々がいます。私たちは彼らのことを魅力的だと思い、その中の一人と結婚しますが、ある日その牙がでてきて、こちらを食いつぶすのです。

犬を叩くと、吠えてあなたを噛むでしょう。ですから、私たちが敵に怒れば、それは犬がやっていることと同じように反応しているのです。ですから、私たちはこの心の一様でない様、心のこの執着(愛着)と反感を除去する必要があります、そして心の平等さを達成するのです。車が走れるようにするため、わだちのある道路を舗装するように、平等心の状態の上に、人は慈愛と慈悲を発達させるのです。

私たちは道路を吹き飛ばし平らにするダイナマイトのようなパワーフルな考えを持つ必要があります。どのような考えでしょうか?他の有情の親切について考えることです。例えば、私たちはミルクを飲みます。ミルクは牛や水牛から来ます。彼らは外に出て、草を食べ、水を飲み、私たちはと言うとただ彼らからミルクを取るだけです。ウサギやネズミは医学の実験に使われます、ですから私たちの薬は、私たちのために命を与えてくれたネズミやウサギの犠牲の上にあるのです。

有情の中には私たちが自分の敵だと、自分を害するものとしてみなす者もいます。しかし、彼らが自分に与えてきた害と親切を比較すると、親切の方が大きく害を上回ります。そして、彼らが与えてきた害は役に立つ時もあります。仏陀になるには忍耐力を発展させる必要がありますが、そのためには不愉快な人々が必要なのです。もし皆がとてもいい人であれば、忍耐力を養うことはできません。私たちに対して怒る者は有情です、仏陀ではありません、その者たちが私たちに忍耐を教えてくれるのです。例えば、アティーシャがチベットに来た時、彼は自分の忍耐力を試す、とても手に負えないほどのインド人を連れてきました。何故そのような者を連れて来たのかと聞かれると、アティーシャは忍耐力を試すためだと答えました。ですから、有情と仏陀はその親切さにおいて同等なのです。これはシャーンティディーバの『入菩提(菩薩)行論 菩薩行を生きる』(Bodhicharyavatara)にも書かれています。

仏陀が怒らない理由があります。それは仏陀が全ての心を乱す感情(煩悩)から自由な、一点集中の心を持つからです。仏陀はこの一点集中心を持つため、怒らないのです。ですから、私たちもこれを発展させる必要があります。朝は二つの思いで目覚める必要があります:

  • 今日は他者が怒るような原因を作らない

  • 他者が自分を怒らすようなことはさせない

もし私たちがこれに慣れ親しめば、自分の心を乱す感情を減らせるようになるでしょうし、いつかは心を乱す感情から永久に自由な状態にまで進展し、そうして仏陀と成れるでしょう。

仏陀を喜ばせることは何かと問えば、それは有情に対して役に立てることと親切になることです。これは本当に仏陀を喜ばせます。例えば、両親がいて子供たちがいるとしましょう。両親に親切なだけでなく、子供たちにも親切になることで、両親を幸せにします。同様に、私たちが諸々の仏陀に対するのと同じ様に、有情にも親切であれば、仏陀はより幸せです。ですから、私たちはこれを土台にして、「全ての有情の利益のために私は仏陀の境地を得ます」との、菩提心の目標を進展させようとする必要があります。

今生で悟りを成就する

さらには、まさに今、この今生において、私たちは全ての有情のために仏陀の境地に到ろうとする非常に強い意図(intention)を持つ必要があります。仏陀は今生で悟りを成就する道があると言いました。そうすると、その道とは何でしょうか?それはタントラ道(金剛乗)です。これに従えば、今生で悟りを成就することは可能です。

しかし、今生で悟りを成就するとの非常に強い意図を持ったにしても、それが簡単なことと思ってはいけません、何故なら私たちは無始以来、非常に多くの破壊的な行為を蓄積してきたのですから。タントラ道は速いかも知れませんが、非常に険しい道です。タントラ(密教)の修行が、飛行機に乗るようなものだと考えてはいけません、そう簡単ではないのです。例えば、ジェツン・ミラレーパはその上師であるマルパの下で、多くの苦難に耐えてきました。いくつもの塔を建てたり、叩かれたり、非常に多くの試練を体験しました。このために、彼はその人生の中で悟りを成就したのです。しかし、私たちはミラレーパが体験した試練のほんのわずかでも体験しようとしません。

私たちが今生で悟りを成就しようとの強い意図を持ち、大きな困難を体験する準備ができていれば、そして着実に修行すれば、実際、自分自身が仏陀の境地を成就する可能性がでてきます。

 まとめ

貴重な人間の身体に生を受けたのならば、それを活用して仏法を実践し、より良い転生を受け、輪廻から解放され、そして悟りに至る事が可能です。そのためには段階的な道のりを歩む必要があります。それには十の有害な行動を避け、心を乱す感情を取り除き、一点集中力を得て、空の直感的悟りを得る必要があります。

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