逝去される2か月前、ツェンシャブ・セルコン・リンポチェはこの教えをアレクサンダー・ベルゼン博士に一語一句口述筆記させ、自身が説いた中で最も重要な教えとして後世に残すように伝えました。この教えの中では、私たちの不幸や問題の最大の原因である自分だけを大切にする態度を克服し、あらゆる幸せの源、つまり、心から他者を慈しむ態度を育むための瞑想について詳しく解説されています。

菩提心とは、他者に、そして他者の最大の利益となることを目指して悟りを得ることに完全に捧げられた心のことです。菩提心を育む方法には、「七因果(菩提心を生み出すための七支分の因果の瞑想)」と「自他等換(自分と他者に対する態度を平等にし、交換すること)」の二種類の伝統があります。どちらの伝統でもその準備段階として捨を育みますが、その方法ははっきりと異なります。そして、どちらも同じく「捨」と名付けられてはいますが、育まれる捨の種類は同じではありません。

  1. 七因果の瞑想では、知母(誰もが自分の母親だったことがあると認識すること)の前に捨を育む。これには友人・敵・見知らぬ人をヴィジュアライゼーションすることが含まれる。この捨は、彼らに対する執着や嫌悪を手放すというものである。それゆえ、これは「友人・敵・他人に対する執着や敵意を手放す単純な捨」と呼ばれることもある。この「単純な」という言葉は、もっと多くのものを含むメソッドが他に存在することを示唆している。

    このタイプの捨は「声聞と縁覚に共通する捨の育み方である単純な捨」とも呼ばれます。声聞(聞く者)と縁覚(自らを進化させる者)は小乗仏教の実践者の二種類です。この場合、「単純な」という言葉には、「実践者は菩提心を持たず、菩提心と関係がない」という含みがあります。
  1. 自他等換の準備段階として育む捨は、1とは別の種類のものである。この捨を育むと、あらゆる衆生の利益となったり彼らの問題を取り除く手助けをしたりすることに関わる思考や行為において、親近感や疎遠などの感覚が失われる。これは大乗仏教に特有の、たぐいまれな捨の育み方である。

単純な捨

七因果の中で知母に先立って捨を育むには、以下の段階を踏みます。

三者のヴィジュアライゼーション

まず、三人の人をヴィジュアライズします。一人目は、自分が嫌いな人―とても意地悪で不快な誰か―、あるいは、自分の敵だと思っている人です。二人目は、非常に愛しい人、あるいは大切な友達です。最後は、知らない人、あるいは好きでも嫌いでもない人です。この三人を同時に目の前に思い描きます。

この三人を目の前にして、一人ずつ順に意識を向けてゆくと、どんな気持ちが湧き起こるでしょう?嫌いな人に対しては不快感、居心地の悪さ、嫌悪感が生まれます。愛しい友人に対しては魅力を感じたり、執着したりします。知らない人には惹き付けられもしませんし嫌悪感も抱きませんから、力になりたいとも傷つけたいとも思いません。つまり、他人に対しては関心を持てないでしょう。

嫌いな人への嫌悪感を捨てる

考察を進めやすくするために、この三人はみな女性だとします。まず、自分が嫌いだと感じたり、敵視したりしている人物に対する取り組みを始めます。

  1. 相手に対する反感や不快感を生じさせる。それが生じたことがはっきりとわかったら、
  2. それ以上の感情、つまり、「彼女に不幸が降りかかれば良いのに」とか「起きて欲しくないと思っていることが起きればいいのに」などの気持ちが生まれていることに気付く。
  3. このような望ましくない感情や願いが生じる理由を検討する。すると、多くの場合、彼女が自分を傷つけたり、自分の友達にひどいことをしたりしたのがその原因だと分かる。これが、彼女に災難が降りかかったり欲しいものを得られなかったりすることを願う理由である。
  4. 自分が嫌っているこの女性が不幸に見舞われることを願う理由が理に適っているか否かを検討する。検討の仕方は以下の通りである:
    • 前世でこの「敵」の女性は何度も―私の親類や友人と同じように―私の母親であり、父親であった。彼女は何度も、数えきれないほど、私たちを助けてくれた。
    • この生において何が起きるかは分からない。この人生のもっと後の時点で彼女が親友になり、私を助けてくれることもあり得る。その可能性は決して小さくない。
    • いずれにしても、彼女も私も無数の来世を経験することになる。それゆえ、彼女がいつか私の母や父になることは確実である。したがって、彼女はいずれ私を助けてくれることになるのだから、彼女に望みを寄せなければならない。以上のことを踏まえると、彼女は過去にも、現在も、未来にも、私を様々な方法で助けてくれてきたし、この先もそうなのだから、究極的には彼女は良い友人だと言える。これは決定していることで、当然である。だから、「今生で彼女が自分を少し傷つけた」というような、取るに足りない理由で彼女を敵だと見なして不幸を願うのは全く理不尽である。
  1. いくつかの例に沿って考えてみよう。たとえば、銀行の頭取や権力のある億万長者が大金をくれようとしている。しかし、彼はこれまでにお金をくれたことはほとんどなかった。彼はある日、激高して私の頬を叩いた。このとき、自分まで怒りに我を忘れてしまったら、彼はお金をくれる気を失くすかもしれないし、気が変わって他の誰かにお金をあげてしまうかもしれない。一方、叩かれても何も言わずにじっと耐えていれば、彼は私たちが取り乱さなかったことに対して気をよくするかもしれないし、それまで考えていたよりもさらに多くのお金をくれさえするかもしれない。怒って大騒ぎすれば、「口の中に食べ物があるのに、舌は外に出している」というチベットのことわざのようになるだろう。
  2. それゆえ、私が敵視しているこの女性のことを長い目で見て考えなければならない。他の全ての衆生に対してもこれと同じことが言える。長期的に見れば、あらゆる衆生が私を助けてくれるのは確実なことだから、誰かが私に加えるわずかな危害に執着して怒り続けるのは全く不適切である。
  3. 次に、サソリや野獣、あるいは幽霊が、ほんの少しの挑発に対してもすぐに反応することを思い起こし、自分自身がそれらの動物のようにふるまうのがいかに不適当であるかを考える。このようにして怒りを静める。「相手がどんなに自分を傷つけても、自分は激高したりいらだったりするべきではない。そんなことをしたら、自分は野獣やサソリと同じになってしまう」と考える。
  4. 最後に、これまでの思考の道筋を三段論法に当てはめる。
    • 私は、自分を傷つけたという理由で他者に対して怒りを抱くことを止める。なぜなら:
    • 彼らは前世で私の親だったことがある。
    • 現世において、今後彼らが私の親友にならないとは限らない。
    • 来世のある時点で彼らは私の親になり、私を大いに助けてくれる。それゆえ、過去・現在・未来のいずれにおいても彼らは私を助けてくれる。
    • 私も相手と同じように怒ってしまったら、私は野獣と変わらなくなってしまう。それゆえ、現世において相手がこれから私に加える小さな危害に対して、私は腹を立てるべきではない。

好きな人への執着を捨てる

  1. 最初にヴィジュアライズした3人の中の、友人や愛する人に意識を向ける。
  2. 彼女に魅力を感じたり、執着したりする気持ちを生じさせる。
  3. 彼女と一緒にいたいという気持ちをさらに強くする。そして、
  4. 彼女への心酔や執着の原因を検討する。自分が彼女に執着しているのは、彼女が今生においてほんの少し自分を助けてくれたり、親切にしてくれたり、いい気分にさせてくれたからである。それゆえ、私は彼女に惹かれ、執着している。
  5. これらが、彼女に執着したり心酔したりする適切な理由であるかどうか検討する。これらは良い理由とは言えない。なぜなら:
    • 彼女が前世で私の敵だったり、私を傷つけたり、あるいは、私の身体を食べて血を飲んだことさえあるのは明らかである。
    • 現世において、この先、彼女が私の最大の敵にならないとは限らない。
    • 来世のある時点で、彼女が私を傷つけたり、ひどいことをしたりするのは確実である。
  1. 彼女が今生で私に何か親切なこと―だが小さなこと―をしてくれたという理由で彼女にぞっこんになり、執着しているとしたら、私は海の怪物セイレーンに誘惑されて食べられてしまった男と変わらない。セイレーンは美しい容姿と歌声で男たちを誘い、貪り食う。
  2. このようにして、誰かが現世で少し優しくしてくれたからという理由で相手に執着しないことを決意する。

好きでも嫌いでもない人への無関心を捨てる

最後に、好きでも嫌いでもない人、つまり友人でも敵でもない人に対しても同じ段階を踏みます。

  1. 最初にヴィジュアライズした見知らぬ人に意識を集中する。
  2. 相手を傷つけたいとも助けたいとも、消し去りたいとも一緒にいたいとも思わず、何も感じない状態になる。
  3. この感覚からさらに進み、彼女を無視しようと思う。
  4. このように思う理由を検討する。無関心なのは、彼女が自分を助けたことも傷つけたこともなく、彼女は自分に関係がないからだ。
  5. さらに、これがこのような感覚の適切な理由であるか否かを考える。究極的には彼女は他人ではない。なぜなら、無数の前世や現世、来世において、彼女は身近な人や友人になるからだ。

このように考えて、敵に対する怒り、友人に対する執着、他人に対する無関心を捨て去ってゆきます。これが、声聞と正覚に共通する「単純な捨」の育み方です。菩提心を育むための七因果の瞑想の中で、知母(全ての衆生が自分の母親だったことに気付くこと)の準備段階としてこの「単純な捨」が育まれます。

大乗に特有の捨―自他等換の前段階として―

自他等換の前段階として大乗に特有の捨を育む方法は以下のように分けられます:

  • 相対的な視点から捨を達成する方法
  • 最も深い視点から捨を達成する方法

相対的な視点による方法は以下のように分けられます:

  • 自分の視点から捨を達成する方法
  • 他者の視点から捨を達成する方法

自分の視点から捨を達成する方法

これは三点に分けられます:

  1. あらゆる衆生は無数の生の中でいつか自分の親や親戚、友人だったことがあるのだから、その中の誰かに親しみを感じ、他の誰かには感じない―つまり、「この人は友人だがあの人は敵だ」と考えて、歓迎したり拒絶したりする―のは不適当である。よく考えてみよう。自分の母親の顔を10分間見なかったとしても、彼女が私の母親であることに変わりはない。これが10年でも、10の生の間でも、同じことである。
  2. しかし、これらの衆生は自分を助けてくれたこともあるが、傷つけたこともあるかもしれない。彼らが助けてくれた回数やその中身に比べれば、彼らに加えられた危害は取るに足りないものだ。それゆえ、ある者には親しみを感じて歓迎し、別の者には親しみを感じずに拒絶するのは不適当である。
  3. 私たちは必ず死ぬ。しかし、いつ死ぬかは全く分からない。たとえば、自分が明日処刑されると考えてみよう。自分の人生最後の日に怒って誰かを傷つけるのは愚かなことである。取るに足りないことをする選択をしたら、最後の日にポジティブで有意義なことをする機会を逃してしまう。たとえば、かつて、ある男に対して腹を立て、次の日にその男を厳しく罰そうと考えている高官がいた。彼はその日一日を準備に費やしたが、翌朝、何もしないうちに、彼自身が突然死んでしまった。彼の怒りはことごとく無意味だったのだ。これは、その男が翌日処刑されることになっていた場合でも同じである。今日彼を傷つけるのは無意味なことだ。

他者の視点から捨を達成する方法

これも三点に分けられます。

  1. まず、自分のために考える:私は、たとえ夢の中でさえ傷つきたくないと感じている。どんなに大きな幸せを手にしていても、それで満ちたりることは決してない。これは他のどんな人でも同じである。あらゆる衆生―小さな虫でさえ―幸せになりたいと思い、決して傷ついたり問題を抱えたりしたくないと思っている。それゆえ、誰かを歓迎し、他の誰かを拒絶するのは不適当である。
  2. 自分の家の前に物乞いが十人やって来たと仮定する。そのうち数名には食べ物を施し、他の人には何も与えないのは不公平である。その十人はみな等しく空腹で、等しく食べ物を欲しているのだ。混乱によって汚されていない幸せなどというものを手にしている人はいないだろう。しかし、混乱に汚された幸せでさえ、どんな衆生も十分に手に入れてはいない。誰もがそれを強く求めている。それゆえ、ある者は親しくないからと言ってはねのけ、別の者は親しいからと言って受け入れるのは適切ではない。
  3. もう一つの例として、十人の病人がいると考える。彼らはみじめで痛ましい状態にあるという点で平等である。それゆえ、誰かには好意的に接し、他の人々のことを忘れてしまうのは正しくない。同じように、全ての衆生は各々が抱える特定の問題や、輪廻によって生じる普遍的な問題に苛まれてみじめな思いをしている。それゆえ、親しくないからといって誰かを拒絶し、親しいからといって他の誰かを歓迎するのは正しくない。

最も深い視点から捨を達成する方法

これにも三つの考え方があります。

  1. 自分が混乱しているがゆえに、助けてくれる人や親切な人を「友人」、自分を傷つける人を「真の敵」とラベリングしていることを考える。しかし、もし彼らが、私たちがラベリングしている通りに実際に確立された存在であるなら、如来も彼らをそのように見ているはずである。しかし、そのようなことはなかった。法称(ダルマキールティ)は陳那の『集量論』(梵: Pramanavarttika)註釈の中で、「仏陀の身体の片側に香りのよい水を塗っている人がいて、もう片側には刃物で身体を削いでいる人がいても、仏陀はどちらの人にも同じように接する」と書いている。

    仏陀のこのような分け隔てのなさは、従兄弟の提婆達多(デーヴァダッタ)への態度にも見られる。提婆達多は仏陀を妬んで常に彼を傷つけようとしていたが、仏陀が彼を疎んじることはなかった。私たちも偏愛を避けなければならないし、混乱のあまり、誰かが実際に私たちのラベリング通りに存在していると考えて、彼らの肩を持つようなことは止めなければならない。そのように存在している者は誰もいない。諦成(真に確立された存在)に執着するのを止める取り組みが必要である。この執着は、ものごとが真ではない存在の仕方で実際に存在しているように見せる私たち自身の混乱した心から生じている。
  1. さらに、私たちがこだわっているように、実際に衆生が「友人」とか「敵」とかいった分類の中で実際に存在しているとしたら、彼らは常にその状態であり続けるはずである。たとえば、いつも時間を調整しなければならない時計について考えてみよう。調子によっては、時計が狂ったり遅れたりするので直さなければならないだろう。それと同じように、人々の状態も常に一定ではなく変わることもある。

    この教えには、「とめどなく繰り返される輪廻の中に確かなものは何もない」という事実が関連している。これを理解するために、父親を食べ、母親を殴り、敵をあやす息子の例について考えてみよう。これはラムリム(悟りに至る教えの階梯)の中級レベルの動機を育むための指示から取られた例である。あるとき迦旃延(カッチャーナ)が訪れた家では、父親が魚となって池に転生し、息子がその魚を食べていた。その後、息子は父だった魚の骨で犬を叩いたが、その犬はかつて彼の母親だった。そして、腕に抱いた子供をあやしたが、その子供はかつて彼の敵だった。迦旃延は、輪廻の中で衆生のおかれる状況が変わることのばかばかしさを目の当たりにして大笑いした。私たちは、人々が「友達」や「敵」などの不変のカテゴリの中で存在するはずだという考えにしがみつき、あるものを歓迎して別のものを拒絶しているが、このようなことは止めなければならない。
  1. 寂天は『大乗集菩薩学論』(梵: Shikshasamuccaya)の中で、自分と他者がいかに依存し合っているかを解説している。「遠くの山」と「近くの山」を考えてみよう。これらの名称は、互いに依存し合って相対的に決まっている。私たちが「近くの山」の上にいるときには、もう一つの山は遠くに見え、自分がいる方が近くに感じられる。もう一つの山に行けば、先ほどまでいた山が「遠くの山」になり、遠かった山が「近くの山」になる。同じように、私たちも、自分で感じている「私」として、確立されたものとして存在しているものではない。なぜなら、誰か他の人の視点で自分を見てみれば、私たちは「他人」になるからだ。同じように、「敵」や「友人」も、同じ一人の人を別の視点から見ているだけのことである。ある人が誰かの友人であり、他の人の敵であることもある。「遠くの山」と「近くの山」のように、これらは全て私たちの視点による相対的なものである。

五つの決意

以上の点について考えたら、五つの決意を固める必要があります。

依怙贔屓を止める

相対的な視点からであれ最も深い視点からであれ、誰かを親しいとか親しくないとか考える理由はありません。ですから、以下のような決意を固めるのです:「私は、誰かを拒絶して別の人を歓迎するような依怙贔屓を止めよう。なぜなら、敵意も執着も、現世においても来世においても、一時的にも究極的にも、短期的にも長期的にも、私を傷つけるからだ。このような偏愛には何の利益もない。依怙贔屓は何百種類もの苦しみの根源であり、輪廻の監獄から私が脱出しないように見張っているものだ」。

1959年のチベット蜂起以降にもチベットにとどまった人々のことを考えてください。僧院、富、財産、家、親戚、友人などに執着している人々は、それらのものを後にしてゆけなかったのです。その結果、彼らは二十年以上もの間監獄や強制収容所に入れられることになりました。これも、彼らの執着が理由です。このような依怙贔屓の気持ちは、私たちを地獄の業火へと導く虐殺者であり、私たちの内部で眠りを妨げて苦しめる悪魔です。いかなる手段を使ってもこれを根絶しなければなりません。

一方、あらゆる衆生に対して平等な態度―全ての衆生が幸せになって苦しみや問題から解放されて欲しいと願う心―は、長期的にも短期的にも、いかなる視点から見ても重要なものであり、全ての仏や菩薩が悟りに達するために通った道です。これは、過去・現在・未来の三世のあらゆる仏の意志であり、最も深い願いでもあります。ですから、ある衆生が私たちに対していかなる危害を加えようとも、あるいは利益を与えようとも、私たちの側にできることは一つしかありません。つまり、怒らず、執着しないということです。誰かを親しいとか親しくないなどとは考えないのです。それ以外に状況に対処するメソッドや方法はありません。私たちは完全に決心したのです。他者に対して取る行動や考え方という意味においては平等を貫きます。なぜなら、私たちは、誰もが幸せになることと苦しまないことを願っているからです。これこそ、全力を尽くして取り組むべきことです。精神的な師よ、私が最善を尽くせるように霊感を与えてください。これが、この実践に関連する上師供養(ラマ・チョパ、グル・プージャ)の五節のうち、最初の節を朗誦するときに心に留めておくべき考え方です。

誰もわずかな痛みさえも味わいたいとは思わず、手にしている幸せで満ち足りることもありません。この点において私たちと他者はみな同じです。このように考えることで、他者により深い慰めと喜びを与えられるように霊感を与えてください。

この最初の節では、頭の中では他者との距離を感じず、行為においてはあらゆる衆生に幸せをもたらして苦しみを取り除く手助けをするという平等な態度を育むために祈りを捧げます。このような平等な態度は、ここでお話している種類の捨の定義を満たすものです。お店で素敵な商品を見つけてそれを買う決意をするときと同じように、この態度を育み、達成することを固く心に誓うのです。

我愛(自分だけを大切にする態度)を止める

次に、我愛の欠点を考えます。この態度に由来する身勝手な懸念によって、私たちは破壊的に振る舞い、十悪(十不善)を犯し、結果的に地獄に転生することになります。地獄道の住人から悟りを得られない阿羅漢(解放された存在)に至るまで、誰もがこの身勝手な関心事によって全ての幸せや平穏を失っているのです。菩薩は悟りに近い存在ですが、その中には他の者よりもさらに悟りに近づいている菩薩もいます。その差を生み出しているのは、彼らがまだ持ち続けている身勝手な関心事の量です。国家紛争から師弟や家族、友人の諍いまで、あらゆる不和はこの我愛から生じています。それゆえ、自分の中にある身勝手さや自分だけを大切にする態度という膿を取り除かなければ、幸せを味わう方法はないと考えなければなりません。ですから、自分だけを大切にする態度に支配されてはいけません。精神的な師よ、全ての身勝手な懸念を捨て去れるように霊感を与えてください。これが、第二の節を朗誦するときに心に留める考えです。

この我愛という慢性的な病が、求めていない苦しみを生み出しています。身勝手というこの怪物は責められ、破壊されるべきものです。これを理解するために霊感を与えてください。

この第二節によって、身勝手な懸念という我愛を捨て去る決意を固めます。

他者を大切にする態度を自分の主な実践とする

次に、他者を大切にすることからどのような利益と功徳が生まれるかを考えます。この生においては、それはあらゆる幸せと、何もかもが上手く行くような状態です。来世では、人間道や天道に転生することです。そして、一般的に言って、あらゆる幸せ―悟りに至ることさえも―は、他者を大切にする態度から生じます。多くの例を使ってこのことをじっくりと考えなければなりません。たとえば、ある役人が人々から愛されているとしたら、それは彼が他者を大切にして気に掛けているからです。仏教の十戒にある不殺生や不偸盗も、他者を大切にする心を基礎としています。そして、これこそが、私たちに再び人間としての転生を与えてくれるものなのです。

たとえば、ダライ・ラマ法王はいつもあらゆる人々の福祉を考えておられます。彼の持つ全ての功徳は、このように他者を大切にすることから生まれているのです。欲望の神カーマはトクメー・サンポ菩薩を邪魔しようとしましたが、菩薩を傷つけることはできませんでした。この偉大なチベット人実践者は、火の中に虫が飛び込んで焼け死ぬのを目にしたらむせび泣くような人物で、あらゆる衆生や幽霊のことまで真摯に気に掛けていました。どれほど彼を妨害しようとも、それは不可能なことでした。なぜなら、精霊たち自身が言っているように、トクメー・サンポは人々を大切にしたり利益を与えたりすることしか考えていなかったからです。

仏陀は、その前世の一つにおいて、神々の王インドラとして転生しました。当時、神々と半神たちとの間で戦が起きており、半神たちが勝利を収めつつありました。インドラは戦車で逃げ出しました。あるときインドラは多くの鳩が集まっているのを目にし、轢いてしまうのではないかと恐れて戦車を止めました。これを見た半神たちは、インドラが戦車を反転させて攻撃してくるつもりだと考えて逃げ出しました。このエピソードを分析すると、半神たちが逃げ出した理由は、インドラが他者を大切にしていたことだということが分かります。このように、他者を大切にする態度の利点について多角的に考えなければなりません。

オフィスでとても優雅に座っている判事や役人は、他者が存在しているためにその地位を得て、その素敵なオフィスに座っていられるのです。この例では、他者の優しさは、単に彼らが存在しているという事実によって成立しています。その判事以外に誰も存在しなければ、彼が判事であることはできません。彼にできることは何もないからです。さらに、たとえ他の人々が存在していても、誰も彼のところに来なかったとしたら、彼は判事という名前を持っていても何もしないでただ座っているだけでしょう。一方、多くの人が問題を解決するために彼のところに来るのなら、彼は人々に依存しているのですから、姿勢を正して自分の任務を果たすはずです。これは師についても同じことが言えます。師は他者に依存しているので、姿勢正しく座って他者に教えを説くのです。彼が師という地位にあるのは、助けるべき人々がいるからです。師は他者に利益を与えるために教えを説きます。このような助力は、彼自身が他者に依存していて、彼らの優しさを心に留めていることから生まれているのです。

これと同じように、他者を大切にする態度から生まれる慈悲によって私たちはスムーズに悟りに至ります。たとえば、敵が自分を傷つけたときに忍耐を育めば悟りに近づきます。これも、他者を大切にする態度があるからです。つまり、全ての幸せや福祉の基礎であり根源であるのは衆生なのです。ですから、彼らが何をしようとも、自分を傷つけようとも、常に他者を大切にすると誓わなければなりません。他者は自分の精神的な師や仏、あるいは大切な宝石のようなもので、彼らに何か起きたら私たちはひどい悲しみを感じますから、何があっても彼らを拒絶しません。いつも彼らに対して優しく暖かい心を持ち続けます。精神的な師よ、どうか私がこのような心を片時も失うことがありませんように。これが第三節の意味です。

自分の母を大切に思い、この上ない幸せを感じながら母を守る心は無限の美徳へとつながる道です。ですから、たとえ衆生が私たちの敵として現れても、自分自身よりも彼らを大切にできるよう、霊感を与えてください。

こうして、他者を大切にすることを自分の実践の中心とする決意を固めます。

自分には自他等換をする能力があると確信する

我愛の欠点と、他者を大切にする態度の多くの利点について考えると、自分が大切にする相手についての価値観を変える必要があると感じます。本当にそれが可能なのかと思い悩むかもしれませんが、私たちには必ずこれができます。なぜなら、仏陀も悟りに至る前は私たちと同じだったからです。仏陀も私たちと同じように、問題や困難な状況に満ちた輪廻の中で転生を繰り返していました。それでも、仏陀釈迦牟尼は自分が大切にする人に関する態度を交換しました。他者を大切にする態度を固持することによって、自分自身と他者の目的を最大限に達成することができるようになったのです。

それとは対照的に、私たちはこれまで自分だけを大切にし、あらゆる他者を無視してきました。他者の利益となる何かを達成するどころか、自分自身の利益となるものさえ何も達成していないのです。自分を大切にして他者を無視していると、本当に有意義なことは何もできません。それゆえに私たちはこれまで捨を育めず、自分の問題から自由になる決心もできませんでした。これでは、自分が悪趣に転生することを防ぐことさえできません。このように、我愛の欠点と他者を大切にする態度による利益を考えます。仏陀が態度を交換でき、彼も元々は私たちと同じだったのなら、私たちも態度を交換できるはずです。

それに加えてしっかりした理解を身に着ければ、他者の身体を自分の身体と同じぐらい大切にすることさえできるのです。結局のところ、私たちはみな他の誰かの―つまり両親の―数滴の精子と卵子から身体を得て、それを自分のものとして大切にしているだけです。元々はこの身体も自分のものではなかったのです。ですから、態度を交換することは不可能ではないと考えるべきです。自分自身と他人に対する態度は交換することができます。それゆえ、どのように考えても、自分と他人への態度を交換しないわけにはいかないのです。そして、私にはそれができます。不可能なことではありません。ですから、精神的な師よ、これを実行するための霊感を与えてください。これが、第四節の要点です。

幼稚な者たちは自分の身勝手な目的のためにあくせく働き、仏たちは他者だけのために努力します。彼らの欠点と美徳の違いを理解する心を育み、自分と他者に対する態度を平等にし、交換するために、霊感を与えてください。

このようにして、自己と他者を大切にする態度を交換することは絶対に可能だという確信を強めます。

必ず自己と他者に対する態度を交換する

再び、我愛の欠点と他者を大切にする態度の利点について考えますが、ここではこれらを交互に行います。言い換えれば、十善と十不善を一つずつ交互に考え、それぞれがもたらす結果についても考察するということです。たとえば、私が自分だけを大切にするなら、他者の命を奪うことも躊躇しないでしょう。その結果、喜びのない地獄に転生し、その後再び人間に転生することがあっても、病に苦しむ短い生に終わるでしょう。一方、他者を大切にするのなら、他者の命を奪うことはなく、結果として善趣に転生して長生きするでしょう。この手順に従って偸盗・不偸盗や邪淫・不邪淫など、他の十善・十不善についても考察してゆきます。第五節は以下のような内容です:

我愛はあらゆる苦痛への扉であり、自分の母であった者たち大切にする態度はあらゆる良いものの基礎となります。ですから、自他を交換するヨーガを私の実践の核とできるように霊感をお与えください。

この五つ目は、自分と他者に対する態度を必ず交換するという決意です。言うまでもありませんが、これは、これからは私があなたであなたが私だと決めるということではありません。誰かを大切にすることに関する視点を交換するという意味です。自分ばかりを大切にして他者を無視するのではなく、自分の身勝手な関心を無視して他のあらゆる衆生を大切にするべきなのです。これができなければ何も達成することはできません。しかし、態度を交換できれば、それを基礎として、自分の幸せを他者に与え、他者の苦しみを受け取るヴィジュアライゼーションの実践に進み、愛情深い慈と共感のこもった悲を育めるようになります。その上で、あらゆる衆生の問題や苦しみを取り除いて幸せをもたらそうというたぐいまれな決意(増上意楽)と、他者の最大の利益となるべく悟りに至る努力をするという菩提心を育むこともできるようになります。

ビデオ : ツェンシャッブ・セルコン・リンポチェ2世 — 人生の意味
字幕を表示するには、ビデオ画面の右下にある「字幕」アイコンをクリックして下 さい。字幕の言語を変えるには、「設定」アイコンをクリックし、「字幕」をクリ ックして表示言語を選んで下さい

要約

この教えの基礎となっているのは寂天の『入菩薩行論』(梵: Bodhicharyavatara)、カダム派諸師の教え、そしてパンチェン・ラマ4世の『グル・プージャー―ラマ・チューパ』(上師供養)です。これらの文献は、ダライ・ラマ法王の個人教授であったキャプジェ・ティジャン・ドルジェチャンの著作集に、それぞれ番号付きの章の形で収録されています。しかし、その中の概要や番号にばかり気を取られているのは、自分の目の前にモモ(肉饅頭)が七つも置かれているのに、誰かにそれを数えてもらったり、どうしてその形になったのかを調べてもらったりしているようなものです。ただ黙って食べてください!

Top