私の物語

仏教の学術研究と、実生活における教えの実践は、全くの別世界です。「頭を使って仏教を学ぶだけでは、人生にほとんど利益をもたらさない」というのは、しばしば言われてきたことです。仏教学者であり、仏教の実践者でもあるアレクサンダー・ベルゼン博士が、学術の世界と精神の世界の両方における経験を語ります。

スプートニク世代

私は1944年、アメリカのごく普通の家庭に生まれました。特に裕福ではなく、あまり教育も受けていない労働者の一家でした。しかし私は、とても幼いころから、ごく本能的に、アジアのものに強い関心を持っていたのです。このことは家族から応援も反対もされませんでしたが、いずれにしても、この時代にはアジアの情報はほとんど手に入りませんでした。13歳の時には友人とヨガを始め、仏教、インド思想、中国思想などに関する本が見つかると、片っ端から読み漁りました。

私はアメリカで「スプートニク世代」と呼ばれた世代に属しています。スプートニク号が宇宙に行ったとき、アメリカ人たちは心の底から悔しがりました。自分たちがロシアにはるかに後れを取っていると感じたのです。私も含め、当時の子供たちには、科学を学ぶことが奨励されました。ロシアに追いつくためです。私も16歳の時、ルトガーズ大学に進んで化学を専攻し始めました。ルトガーズ大学は私の生まれ育ったニュージャージー州にあります。仏教の師であるモンゴル系カルムイク人、ゲシェー・ワンギャルも、そこからたった50キロしか離れていないところに住んでいましたが、当時の私はまだ彼の存在を知りませんでした。

大学での勉強の一環として、私はアジア学の特別コースを受講しました。その講義では、仏教がある文明から別の文明にどのように伝播し、各文明でどう解釈されていったかというテーマが扱われていました。当時私はまだ17歳でしたが、とても強い感銘を受けて、こう言いました:「これだ、仏教が文明から文明へと伝わるプロセス全体こそ、私が関わりたいことだ!」。そして、この日から今日までずっと、私は変わることなくこの道を歩み続けてきました。

プリンストン:化学から中国の言語、思想、哲学へ

プリンストン大学では、アジア学部にもっと多くの生徒を集めるための新たなプログラムが始まりました。当時、アジア学を専攻する生徒はほとんどいませんでした。ベトナム戦争が始まって間もない頃のことです。アジアの言語を一つでも知っているアメリカ人は皆無に等しかったでしょう。中国を学ぶ機会があると知って、私は大喜びで出願し、合格しました。プリンストン大学で中国語を学び始めた時、私は18歳でした。そして、そのまま学士の最後の2年を修了しました。

私は「仏教が中国に伝来したときに中国哲学が仏教の解釈にどのように影響したか、またその後、仏教が中国哲学にどんな影響を与えたか」というテーマにずっと興味を持っていたので、中国の思想、哲学、歴史、仏教などを学びました。ある年の夏はハーヴァード大学の中国語集中コースに通い、別の夏にはスタンフォード大学で古典中国語を学び始め、学位取得後の夏は台湾で過ごしました。そして、大学院での研究のためにハーヴァードに戻りました。中国語のプログラムの一環としてすでに日本語も学び始めていましたし、極東言語の分野で修士号を取得した頃には、中国学の分野ですでに膨大な研究を積み重ねていました。

中国語、サンスクリット語、チベット語:比較研究

仏教の発展に中国が与えた影響については多くを研究してきましたが、インドからの影響についても知りたかったので、私はサンスクリット語を学び始めました。そして、サンスクリット語・インド学と極東言語学の博士号(共同学位)を取得しました。サンスクリット語・インド学では仏教の哲学や歴史を重点的に研究し、ここでチベット語の学習も開始しました。

お気づきの通り、私はとても強い知識欲を持っています。ですから、科学への興味を保ち続けるために、哲学と心理学の追加コースも受講していました。私はこのようにして学業を修了したのです。さらに、翻訳を比較するための仏教学の一般的なメソッドも学びました。これは、サンスクリット語の仏教の文献が中国語やチベット語にどのように翻訳されたかを検討したり、ある思想の変化の歴史が一般的な歴史とどう関わり合ってきたかを研究したりするものです。このような研究方法を身につけたことは、私のキャリアを通じて大変役に立っています。

ハーヴァードから、生きている伝統へ

このような学究生活を送っている間中、私はいつも、「私は様々な形の仏教、ヒンドゥー教、道教、儒教など、アジアの宗教や哲学を研究してきたけれど、実際にそのような考え方をするというのはどんなことなのだろう」と考えていました。しかし、生きている伝統に触れる機会は訪れませんでした。まるで古代エジプトの宗教を研究しているようなものです。それでも、このことについての私の関心はとても高かったのです。

ところが、この状況は一変します。私がチベット語の勉強を始めた1967年、ロバート・サーマンがハーヴァード大学に戻ってきて、私のクラスメイトになったのです。サーマンはゲシェー・ワンギャルの親しい弟子の一人で、何年もの間ゲシェーと共に暮らしていました。彼はその1年前に僧になっていて、ダラムサラで学ぶためにインドにも行っていました。彼こそ、私にゲシェー・ワンギャルについて、そしてチベット人やダライ・ラマ法王がいるダラムサラで学ぶという可能性について話してくれた人物です。私はニュージャージーの実家に帰る度に、同じ州にいるゲシェー・ワンギャルを訪ねるようになりました。そして、生きている伝統としての仏教とは何なのかを理解し始めたのです。何度もゲシェー・ワンギャルを訪ねましたが、彼と共に学んだり、住んだりする機会は得られませんでした。しかし彼は、インドに行って研究を続けるよう、私に勧めました。そこで私は、インドでチベット人たちと共に卒業研究を行うために、フルブライトフェローシップに応募しました。

1969年、私は24歳でインドにやって来ました。そこでダライ・ラマ法王に出会い、チベット社会にどっぷりと漬かりました。あたかも自分がベルトコンベアーに乗って、そこまで運ばれてきたかのように感じられました。ニュージャージーのごく普通の家庭に生まれた私が、プリンストンとハーヴァードでフルスカラシップを受けるようになり、そして今や、ダライ・ラマ法王や、法王の近くにいるチベット仏教の偉大な師たちに出会っているのですから。インドでは、チベット仏教に関してこれまで学んできたことが生き生きと感じられましたし、仏教の教えの意味を本当に知っている人々がそこにいました。私は、彼らから学ぶ絶好の機会を手に入れたのです。

ダルハウジーでチベット語会話を学ぶ

インドにやってきた時、私はチベット語の口語を知りませんでした。ハーヴァードで私を教えてくれたナガトミ教授(永富正俊教授)にも、チベット語をどう発音するのかさえ、見当がつきませんでした。ナガトミ教授は日本人で、私たちは日本語の文法を基礎にしてチベット語を学びました。なぜなら、当時手に入れることができた唯一の文法書は、チベット語の文法をラテン語と比較して解説するものだったのですから!チベット語とラテン語には全く共通点がありません。一方、日本語とチベット語の文法はかなり似ています。

ですから、チベット語の口語を学ぶ必要があっても、そのための教材は一切入手できなかったのです。そのとき、ゲシェー・ワンギャルを通じて、私は二人の若い化身ラマ(トゥルク)、シャルパ・リンポチェとカムルン・リンポチェに出会いました。この二人は何年かゲシェー・ワンギャルの僧院で暮らしたことがあり、十分に英語ができました。彼らはたくさんのチベット人難民が暮らしていたダルハウジーに住んでいて、ありがたいことに、私がチベット人僧侶のソナム・ノルブと共に生活できるように取り計らってくれました。私たちは山腹の小さな家で暮らしました。ソナムは英語を話せず、私はチベット語を話せませんでしたが、一緒に住んでいるので、どうにかしてコミュニケーションを取らなくてはなりません。そこで、これまでに受けてきた仏教学などのトレーニングが役に立ちました。私はまるで、ボルネオ島やアフリカで、全く知らない言語を理解しようとしている文化人類学者になったような気分でした。

それまでにアジアの様々な言語を学んだことが、チベット語の音を聞き分ける助けになり、ある程度の上達につながりました。ソナムとコミュニケーションを取りたいときは、私が文字で書き(チベット語の書き方は知っていました)、ソナムはその言葉を発音してくれました。彼とそうやってチベット語を学ぶのと並行して、他の人からレッスンも受けていました。しばらく経って、二人の若いリンポチェが、彼らの師であるゲシェー・ンガワン・ダルギェイと学んではどうかと提案してくれました。

牛小屋でラムリムを学ぶ

私がインドに来たのは博士論文を書くためで、秘密集会タントラに関する非常に幅広い研究を行うことを予定していました。しかし、ダライ・ラマ法王の師の一人であるシェルコン・リンポチェにアドバイスを受けに行くと、彼は、それは全く馬鹿げているし、私にはその準備も一切できていないと告げました。私は納得しました。その時、ダライ・ラマ法王の個人教師の一人であったトリジャン・リンポチェが、代わりにまずラムリム(修行の階梯)を学んではどうかと勧めてくれました。それまで私はラムリムを全く知りませんでした。当時、チベット仏教に関する本といったら、アレクサンドラ・デヴィッドニール、エヴァンス-ヴェンツ、ラマ・ゴヴィンダ他数名の著書が手に入るだけで、ラムリムについて翻訳されたものはなかったのです。私は、ゲシェー・ンガワン・ダルギェイと共にラムリムの口伝を学び、これが後に私の博士論文の基礎になりました。

この頃、私はダルハウジーでとても原始的な生活をしていました。家の中には給水設備もトイレもありませんでした。しかし、ゲシェー・ダルギェイの暮らしは更に原始的でした。彼は、それまで牛小屋として使われていた建物に住んでいたのです。小屋の中には彼のベッドがあるだけで、三人の若い弟子と私は、ベッドの前の土の床に座って彼の教えを聞きました。その頃には、シャルパ・リンポチェ、カムルン・リンポチェ、そして私の三人に、ジャド・リンポチェも加わっていました。ジャド・リンポチェは後年、ダライ・ラマ法王の僧院であるナムギャル僧院の院長になりました。ハエが飛び交い、ありとあらゆる虫がうごめくこの牛小屋が、私たちの学び舎でした。

本当にわくわくする時期でした。この頃、たくさんのことが新たに始まったのです。私たちがやっていたことにダライ・ラマ法王が興味を持たれ、自分のために翻訳してほしいと言って短いテキストをいくつか渡してくださいました。ダラムサラにチベット文献・アーカイブ図書館を設立したとき、法王は、ゲシェー・ダルギェイには図書館で西洋人を教える師になるよう、私を助けてくれたシャルパ・リンポチェとカムルン・リンポチェには翻訳者になるように求めました。私にも何か力になれないかと法王に尋ねると、「ええ、もちろんです。でも、まずはアメリカに戻って論文を提出し、博士号を取りなさい。そのあと、ここに戻って来なさい。」とおっしゃいました。

チベット人社会に溶け込む-翻訳者になる

インドに来て間もないころ、チベット人社会に溶け込むためには、彼らに理解されやすい、伝統的な役割を引き受けるのが良いだろうと考えました。それで、翻訳・通訳として働き始めたのです。自分自身の仏教の実践を始めることに強い興味を持っていたので、1970年の初め、私は正式に仏教徒になり、瞑想の実践を開始しました。それ以来、毎日欠かすことなく瞑想を続けています。

翻訳・通訳として働くためには、高い語学力を持っているだけではなく、仏教を深く理解する必要があります。つまり、自ら瞑想し、教えを日常生活に生かさなければならないのです。瞑想中に生じる様々な精神状態を実際に経験したことがなければ、それらを表す用語を翻訳することはできません。それまで使われていた訳語の多くは、聖書をチベット語に翻訳しようとした宣教師たちによって選ばれた、仏教の言葉の実際の意味とほとんど関係がないものばかりでした。ですから、私はこのとても早い時期から、これまで訓練してきた仏教学的な手法と、自分の仏教の実践とを組み合わせ始めました。

1971年の終わりごろ、私はハーヴァードに戻りました。数か月後に博士論文を提出して、1972年の春に博士号を取得しました。私はずっと大学教授になるつもりだったので、別の格式高い大学で教鞭を取れるように、私の教授が素晴らしい条件を整えてくれていました。しかし私は断りました。私は、残りの人生を、仏教の意味をあれこれ推測しているだけの人々と共に過ごしたくないと思っていました。そうではなく、仏教学を学んで得た客観的な視点を維持しつつ、仏教の意味を正確に知っている人々、正当な伝統を研究し、そこから学ぶ人々と共に暮らしたかったのです。もちろん、教授は私の頭がおかしくなったと考えました。私はそれでもインドに戻りました。生活費はとても安かったので、賄うことができたのです。

インドでの新生活

私は住居をダラムサラに移し、すでに図書館に勤めていたゲシェー・ンガワン・ダルギェイ、シャルパ・リンポチェ、カムルン・リンポチェと共に働き始めました。私が住んだのは、ダルハウジー時代よりもさらに小さな掘っ建て小屋で、やはり水道もトイレもなく、唯一の窓にはガラスさえはまっていませんでした。以前共に暮らしていたチベット人僧侶のソナム・ノルブも私と一緒にダラムサラにやって来て、また一緒に生活し始めました。このとても簡素な小屋を住処として、私は合計29年間インドで生活しました。

その頃、私はダライ・ラマ法王のために図書館の翻訳部設立を手伝う傍ら、自分の研究も続けていました。仏教学研究の経験は、仏教の教えをより深く学ぶ大きな助けになりました。様々な文献の歴史や名称を知り、それらの実際の内容を教えてくれる人々もいたので、とてもスムーズに知識をまとめ上げることができました。私は主にゲルク派を研究していましたが、ダライ・ラマ法王が、チベット仏教の全体像をより広い視野でとらえるために、四つの宗派全てについて学ぶことを勧めてくださいました。これは本当に刺激的な時期でした。なぜなら当時、西洋世界には、チベット仏教の教えで何が扱われているのかさえ、十分に知っている人は誰もいなかったのです。

シェルコン・リンポチェとの思い出と謙虚さのトレーニング

1974年、私は、ダライ・ラマ法王の師の一人であったシェルコン・リンポチェの下で学び始めました。シェルコン・リンポチェには1969年に初めて会っていましたが、その時はじっくりと話すことはありませんでした。ダラムサラで交流を始めてすぐ、リンポチェは、私がまず彼の、そしていずれダライ・ラマ法王の通訳者・翻訳者になるようにカルマ的に繋がっていると見抜いたので、そのつもりで私を訓練しました。私はそれまでにも本を翻訳していましたが、このとき受けたのは、話し言葉の通訳と教えのための訓練です。リンポチェは私をそばに座らせ、彼が様々な人々とどのように接するかを見せました。また、記憶を鍛える訓練も行われました。私が彼と共にいると、どんな時でも、全く唐突に、「今私が言ったことを一語一語繰り返しなさい」とか「今自分が言ったことを一語一語繰り返しなさい」と言われることがありました。

その翌年から、私はシェルコン・リンポチェが他の西洋人たちに教えを説く際の通訳・翻訳を務めるようになりました。彼が私だけのために何か教えるということは一切なく、他の人々のために訳すことから常に学んでいました。ただし、カーラチャクラだけは例外です。カーラチャクラだけは、個人的に教えを受けました。彼は、それが私に何か深い関わりがあると見抜いたのです。教えを受ける際、メモを取ることは一切許されませんでした。リンポチェの話すことを何もかも暗記して、教えの後、それを全て書き出さなければならなかったのです。しばらくすると、教えの後のメモ書きさえできなくなりました。教えが終わると、リンポチェがいつも何か別のことを指示したので、夜も更ける頃になって、やっと私は覚えたことを書き出せたのです。

ゲシェー・ワンギャㇽも親しい弟子を叱ることはよくありましたが、シェルコン・リンポチェも私をよく叱りました。ある時、私は彼のために翻訳していました。私が「今おっしゃった言葉の意味がよく分かりませんでした」と言うと、彼は私を叱って言いました。「この言葉は7年も前にお前に説明したではないか?なぜ覚えていないのだ?私は覚えているぞ!」

彼は好んで私を「バカ者」と呼びました。私がその名に見合った振る舞いをしたとき-他の人々の前では特に-、必ずその名で私を呼んだものです。これは素晴らしいトレーニングでした。あるとき私は、約1万人の聴衆の前でダライ・ラマ法王の通訳をしていました。法王が私を止め、「彼は今間違えました」と笑って言われたのです。「バカ者」と呼ばれ続ける訓練を受けてきたので、この時も私は、絨毯の下にもぐってしまうことなく、通訳としての務めを続けることができました。通訳には、信じられないほどの注意力と非常に高い記憶力が求められます。ですから、私が仏教学だけでなく、チベットの伝統的な修行も行っていたのは、大変幸運なことでした。

私はシェルコン・リンポチェの下で9年間集中的に修行しました。彼のために翻訳や通訳を務めましたし、書類を書いたり旅行をしたりする手助けもしました。けれど、その全ての期間を通じて、彼が私に「ありがとう」と言ったのはたったの2回だけです。これも私にとっては大きな助けになりました。なぜなら-リンポチェがよく言っていたことですが-私は一体何を期待しているのでしょうか?彼が頭を撫でてくれることでしょうか?そして私は犬のように尻尾を振るのでしょうか?通訳や翻訳をするためのモチベーションは、褒められて「ありがとう」と言われることではなく、誰かの利益になることであるべきです。もちろん、怒ったり投げ出したりせずにこのような伝統的な修行をやりぬくには、仏教のあらゆる瞑想や実践が絶対に欠かせませんでした。

文化間の橋渡しを助ける

シェルコン・リンポチェは1983年に亡くなりました。その後私は、講義の依頼を世界中から受けるようになりました。なぜなら私は、シェルコン・リンポチェの通訳として、そのうちの多くの国々をすでに訪れたことがあったからです。その頃には何度かダライ・ラマ法王の通訳も務めていました。けれど、通訳や翻訳は言葉だけの仕事ではありません。考えを説明し、別の言語で言い換えることなのです。法王が西洋の心理学者や科学者、宗教的指導者たちと行ったごく初期の会談での私の役目は、彼らの言葉ではなく(チベット語の語彙にはない言葉がほとんどなのです)、彼らの考えを説明して、いわば二つの文化の間に橋を架けることでした。この「仏教の教えという観点からの文化間の橋渡し」こそ、まさしく、私が長年興味を持ってきたことです。双方の文化をしっかりと理解して、人々の考え方や暮らしの様子を知っていなければ、このような橋は架けられません。私がチベット人たちと共に長期間暮らし、彼らの考え方や生き方によく親しんできたことは、実に稀有な特権であり、人々に仏教を伝えるためには不可欠な要素でした。

私はダライ・ラマ法王のためにいくつもの国際的なプロジェクトを始めました。その中には法王から実現を依頼されたものもあります。その重要な狙いの一つは、ダライ・ラマ法王とチベットの人々のために、外の世界へ通じる道を拓いてゆくことでした。チベット人たちはパスポートを持たず、持っているのは難民用の書類だけだったので、外国から招待されない限りはビザを取得できなかったのです。しかし、彼らと交流のあった地域は大変限られていました。そこで、私がハーヴァード大学で博士号を取得していたことが大変役に立ちました。この肩書を持っていたために、様々な国の大学から講義の依頼を受けることができたのです。講義をしながら世界中を旅してまわり、今後まずチベット人を、そしていずれダライ・ラマ法王をも外国に招いてもらえるよう、さらに、世界各地に法王の事務所を開設できるように、人脈を作りました。1985年からは、全ての旧共産主義国家、ほとんど全てのラテンアメリカの国々、そしてアフリカ大陸の多くの国々を訪れました。その後、中東への訪問も始め、仏教徒とイスラム教徒の対話も開始しました。

このような旅の間、自分が訪れている国々の文化や歴史を法王に知ってもらえるよう、私はいつも熱心に報告書を書いていました。ここでもまた、ハーヴァードの博士号が役立ちました。様々な国の宗教的指導者たちに面会して、それぞれの宗教についてより深く学び、その成果をダライ・ラマ法王に伝えることができたのです。ですから、その後、法王ご自身がそれらの国々を訪れたときには、法王はすでに相手国の信仰に関してある程度以上の知識をお持ちでした。重要な点を見極めて整理し、分かりやすく情報を伝えるのに、仏教学的・科学的な手法を身につけていたことがとても役立ちました。

私は実に多くのプロジェクトに関わりました。その中でも特に興味深かったものの一つは、チェルノブイリ原発事故の被災者を支援するチベット医学のプロジェクトです。主催者はソビエト連邦保健省でした。チベット医学が非常に有効であることは証明されましたが、ソビエト連邦の崩壊後、ロシア・ベラルーシ・ウクライナの3カ国はこのプロジェクトで協力することを拒否し、全く別々のプロジェクトを3つ開始するよう私たちに求めました。これは物理的にも金銭的にも実現不可能でした。こうして、残念ながら、このプロジェクトは幕を閉じました。

もう一つ、大変印象的なプロジェクトは、モンゴルにおける仏教復興への取り組みの一環として、バクラ・リンポチェの著書を現代モンゴル語に翻訳し、出版するというものです。バクラ・リンポチェは当時、在モンゴル・インド大使を務めていました。

西洋に戻る

これまで私は、70ヶ国以上を旅し、講義を行ってきました。このような教えの旅を支えていたのは、その間も毎日欠かすことなく続けていた瞑想の実践です。年月の経過とともに、私はさらに多くの国々から教えや講義の依頼を受けるようになりました。講義の旅は徐々に長くなってゆき、最長のものは、毎週2つか3つの都市を訪れながら非常に広い地域を巡って、合計で15ヶ月も続きました。私はいつも一人で旅をしていましたので、仏教の瞑想を通じて心の安定を得るのは、とりわけ重要なことでした。

この時期、私は何冊かの本を書きましたが、ある時点で、拠点をインドに置いていると、出版社のスノー・ライオンと上手く連携をとるのに不便だと思い始めました。ちょうどその頃、インターネットでの活動も進めようとしていましたが、これもインドでは困難でした。そこで1998年、私はインドから西洋に戻りました。様々な地域から招待を受け、1年間あちこちで暮らしてみましたが、結局ドイツのベルリンに腰を落ち着けました。すでにドイツ語を知っていたので言葉の問題はありませんでしたし、最も自由に活動できるのもベルリンでした。私はどんな組織にも縛られたくなかったので、これは重要なポイントでした。さらに、私がよく講義を行っていた東欧諸国やロシア、旧ソ連諸国などへ行く際にもベルリンは便利な土地でしたし、この街には特に親密なつながりを感じてもいました。

私は、3万ページ以上の未発表の手稿を携えて西洋に戻りました。手稿の内訳は、それまでに書いてきた未完の本が数冊、それらを書くために使用した文献からのメモ、自分が研究した文献の翻訳、自分が行った講義や、私が通訳・翻訳を務めた師の講義の書き起こしなどです。さらに、ダライ・ラマ法王、法王の3人の師、そしてゲシェー・ダルギェイの教えを書き留めた膨大なメモもありました。私は、自分が死んだときにこれらの全てがゴミとして捨てられてしまうことを危惧しました。

ベルゼン・アーカイブス

当代最高のラマたちの下で長期間学ぶという経験ができたことは、信じられないほど恵まれた、特別な栄誉です。私が学んだことや記録してきたことはあまりにも貴重なので、どうしても世界中の人々と分かち合わなければなりませんでした。本は、見た目も良いですし、実際に手にできれば素晴らしいのですが、ベストセラーでも書かない限りは、多くの人々には届きません。そして、私の著作は一冊としてベストセラーにはなっていません。本を作るのには概してお金がかかりますし、本を買うのにもお金がかかります。出版までには途方もない時間が必要ですし、間違いを直すには改訂まで待たなければいけません。私は歴史を学ぶことが大好きですが、未来を見通すことも大好きです。そして未来とは、インターネットの時代なのです。実は、この時代はもう始まっています。このような思いを胸に、私は全ての著作をインターネット上に公開することに決め、2001年11月、berzinarchives.com を開設しました。

私が常に守ってきた基本原則は、「ウェブサイト上のコンテンツは全て無料であること、広告を出さないこと、何も販売しないこと」というものです。ウェブサイトにはチベット仏教の様々な側面についての解説が掲載されています。主にゲルク派に重点を置いていますが、四大宗派全てが扱われています。比較資料もありますし、チベットの医学や占星術、仏教史、アジア史、チベット史に関する資料も、仏教とイスラム教のつながりに関わる資料もたくさんあります。そして私は、これらのコンテンツは様々な言語に翻訳されるべきだと考えています。

私は、ウェブサイト全体の中でも、イスラム教に関連する記事は特に重要だと思っています。ダライ・ラマ法王も、これを強く支持してくださっています。イスラム教を信仰する国々の大学を回って講義を行ってきた経験から、私は、かの地の人々が世界全体に関する知識に飢えていると強く感じています。イスラム教の国々の人々をのけ者にせず、彼らにもチベット仏教の教えにアクセスできるようにすること、そして、仏教へ改宗を勧めるようなことは一切しないこと-これは、世界の調和を実現するために不可欠な態度です。

エピローグ

2015年までに、ベルゼン・アーカイブスのウェブサイトは21の言語でアクセスできるようになり、年間200万人の方が訪問していました。これは、100人以上の有給・無給スタッフの努力のたまものです。近年、ダライ・ラマ法王は、21世紀の仏教の必要性を繰り返し強調されています。これに触発されて、私もミレニアル世代のスタッフを何人か採用し、彼らと協力して、さらに多くの人々がアクセスできるようにウェブサイトをリニューアルしました。こうして、studybuddhism.com が誕生しました。

リニューアルしたウェブサイトは、デスクトップでもスマートフォンでもタブレットでも快適に閲覧できます。ユーザーテストや統計を使って、サイトを訪問する人々のニーズに合ったウェブサイトデザインを決定しました。さらに、ソーシャルメディアへの投稿頻度も格段に増やし、オーディオ・ビジュアルコンテンツも充実させました。このウェブサイトは、チベット仏教に関心を持っている人々の拠点になることを目指しています。入門レベルから発展レベルまでの知識を分かりやすく提供するだけでなく、ユーザー同士で一緒に勉強するコミュニティを作り、受講できる良質な教えの情報を交換するオープンプラットフォームも提供したいと考えています。

現時点では、この新しいウェブサイトはまだ多くの言語には対応していませんし、掲載されているコンテンツも限られています。しかし、特に初心者向けの多くの新しい記事が追加されています。旧サイトに掲載されていた記事を完全に新サイトに移植するまでは、新サイトを通じて旧サイトにもアクセスできるようにする予定です。

終わりに

これが私の人生の短い物語です。この物語の初めから終わりまで、私は常に、厳格な仏教の実践を続けてきました。例えば、長い年月の間、ほとんど毎日約2時間の瞑想をしてきましたし、長期間の瞑想リトリートも行いました。最近は瞑想の時間を短縮しましたが、それでも、一日に30分は欠かさず行っています。そして、教えを授ける際には、思いやり、適切なモチベーション、利己主義の克服などの点に常に重点を置いています。私の師たち-まずゲシェー・ワンギャル、彼を介して出会ったダライ・ラマ法王、そして法王の師たち-からインスピレーションを受けて、私はこれまで意義深い人生を送ってくることができました。仏教の実践と仏教学、すなわち、仏教の実践的な側面と客観的な側面を融合させてきたこの人生が、他の人々の役に立ち、利益をもたらすことを願っています。ひょっとしたら、この物語を読んで、同じような生き方をしようと思ってくださる方も、いるかもしれません。

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