倫理的な生活の送り方

Uv how to lead an ethical life

利己心と利他心―倫理的生活の基礎として

仏教の本質を一言で言うなれば、「他者を助けられるなら、それを実行するべきだ。助けられないなら、少なくとも、他者を傷つけることは避けるべきだ」ということになるでしょう。これは、倫理的生活を送るうえで最も大切な考え方でもあります。

どんな行動も動機から生じます。他者を傷つけるのにも、他者を助けるのにも、何らかの動機があるはずです。ですから、他者の力になるためには特定の動機が必要なのです。さらに、そのためには特定の概念が必要です。私たちはどうして人々を助けたり、傷つけるのを避けたりするのでしょう?

たとえば、自分がまさに誰かを傷つけそうなとき、ある種の自覚があれば、傷つけるのを止められることがあるでしょう。つまり、「自分は他者を傷つけない」という一種の決意が必要なのです。心の一部では誰かを傷つけたいと思っていても、心が特定の状態になっていれば、別の部分が「それは間違ったことだ、正しくない」と叫びます。それが正しくないことだと分かっていれば、意志の力を強めて実行に移さないようにすることもできるのです。傷つけるか傷つけないかという選択をするためには、どちらを選ぶ場合でも、「特定の行動は長期的な結果をもたらす」ということを自覚していなければなりません。私たち人間は長期的影響を推測する知性を持っています。ですから、これに気付いていれば、傷つけてしまいそうな自分を押しとどめることができるはずです。

これには二つのアプローチが可能です。どちらでも「他者を助けられるのなら助けよう。助けられないのなら傷つけるのを止めよう」と考えますが、一つは利己的な理由で、もう一つは利他的な理由でこのように考えるのです。利己的に「他者を傷つけるのを止める」というのは、「これをやったらネガティブな結果―法的な処罰も含む-に直面しなくてはならない」と考えて、自分の身の安全のために傷つけないようにする場合です。一方、他者への思いやりによる場合は、「彼らも私と同じなんだ、彼らも苦しみや痛みを感じたくないはずだ。だから、私は彼らを傷つけないようにする」と考えます。

心を鍛えるときには、まず利己的な視点で考え、そのあとで他者のことをよく考えます。有効性という点でいえば、他者を強く想うことの方がずっと大きな力があります。個人の解脱のための戒―僧伽の律である波羅提木叉―の基礎となるのは、自分自身の利益を考えて他者を傷つけないようにすることです。これは、波羅提木叉の目標が自分自身の解脱だからです。菩薩の実践では、主に他者の利益を考えて他者を傷つけないようにします。この二番目―利他心によって他者を傷つけずに助けること―は、おそらく、私がよくお話する普遍的な責任と関連しているでしょう。

ビデオ : ダライ・ラマ法王14世 — 私には夢がある
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人間としての基本的な性質

一般的に言って私たち人間は社会的な生き物です。誰もが自分以外の全人類に依存して生きているのです。個人の生存や幸福が社会全体に依存しているということは、私たちは、自分の基本的な性質ゆえに、他者の幸せを気に掛ける必要があるということです。ヒヒを見てみましょう。ヒヒの群れの中では、一匹のボスが群れ全体の責任を負います。他のヒヒたちがみな餌を食べているときでも、一匹の年かさの雄は常に周囲を警戒しています。力のあるものが他の全員の面倒を見ているのです。

先史時代、人間には教育も技術もありませんでした。原始的な人間社会はシンプルで、皆が共に働き、共に分け合っていました。共産主義者たちはそれ―全ての人々が共に働き、共に楽しむ社会の姿―が原始共産制だと言っています。そして、長い時間の中で教育が発展し、文明が誕生しました。人間の心は洗練されましたが、同時に欲深くもなってゆきました。嫉妬や憎しみが生まれ、次第に膨らんでいったのです。

私たちが生きている21世紀の人間社会ではたくさんの変化が起こりました。人々の間の格差―教育、仕事、社会的背景―も広まりました。しかし、このような違い―年齢や人種の違いでさえ―は、どれもあまり重要ではありません。根本的には、私たちはみな人間であり、みな同じなのです。これは、何千年も前の人々と同じレベルの話です。

これは幼い子供の考え方でもあります。子供は、他の子供たちの社会的背景や宗教、人種、経済状況などを考慮しません。誰もがただの遊び友達です。仲良く遊ぶことができればそれで良いのです。しかし、もっと知的で成長しているはずの私たち大人は、社会的背景で他者を判断します。大人は「にっこり笑えば欲しいものが手に入るかな?顔をしかめたら何か失うかな?」などと計算します。

普遍的責任

普遍的、あるいはグローバルな責任感は人間的なレベルで機能します。私たちが他者のことを気に掛けるのは、「私は人類の一人で、私の幸せは全ての他者に依存している。これは、それぞれの人がどんなに違おうとも関係ない」と考えるからです。違いは確かに存在します。しかし、このように考えるのは有益なことです。

何世紀もの間、地球上の全人口はわずか10億人にすぎませんでした。今は60億以上の人々がこの惑星に暮らしています。あまりにも人口が増えたために、自国民に必要な食物や資源を供給できないような国もあります。それゆえ経済はグローバル化しました。このような現代の状況を鑑みれば、世界がずっと小さくなり、人々が以前よりも強く互いに依存しあっていることが分かります。これが現実です。さらに、環境的な問題もあります。たとえば地球温暖化です。地球温暖化について考えることは、一つか二つの国だけではなく、この惑星の60億人の人々全員のことを考えることです。今日の世界には、地球規模の責任感が必要です。

過去には、この英国の人々は自分たちのことだけを考え、他の地域の人々を搾取していたこともありました。イギリス人たちは自分以外の人々の懸念や感情に配慮しなかったのです。過去にはそれで良かったのかもしれませんが、現代は違います。世界は変わったのです。現在に生きる私たちは、他の国のことも気に掛けなければなりません。

実際、英国の帝国主義者たちが行ったのは悪いことばかりではありませんでした。インドには英語による質の高い教育がもたらされましたし、様々な技術や鉄道網も導入しました。インドが受けた恩恵は多大なものです。これはイギリスの過去の行為をあがなうものの一つに数えて良いでしょう。私がインドに来た頃にはまだガンジーの後継者が何人か存命で、私にガンジーの非暴力主義を教えてくれました。私は当時、イギリスの帝国主義者たちはおぞましいと考えていましたが、インドには独立した司法制度や自由な出版、言論の自由などもあったことを知ったのです。それを期に私はじっくりと深く考え、これらは良いものだったと認める気持ちになりました。

今日、国家同士、あるいは大陸同士は強く依存し合っています。現実を見つめて考えれば、地球規模の責任感は不可欠であることがわかります。私たちの利益は他者の発展と利益に依存しています。ですから、自分自身の利益のためにも、他者を気に掛けなければならないのです。これは、経済の領域ですでに始まっていることです。イデオロギーの違いがあって互いに信頼感を持っていない場合でさえ、グローバルな相互依存的経済の中では互いに影響を与え合わなければなりません。ですから、他者の利益の尊重を基礎とするグローバルな責任感は非常に重要だと言えます。

私たちは他者を兄弟姉妹と見なして親密な感情を持たなければなりません。これは、宗教とは関係なく、絶対に不可欠なことです。特定のレベルでは、当然、「私たちと彼ら」という考え方もできるでしょう。しかし、世界が一体となって、自分を「私たち」の一部だと考えなければならないのです。隣人の利益は私たち自身の利益なのですから。

充足感

つまり、個人として倫理的生活を送るということは、他者を傷つけないこと、そして、可能であれば他者を助けるということです。その実践において、他者の幸せを自分自身の倫理の基礎だと考えると、倫理の範囲はより広くなります。自分のライフスタイルについて考えるときには、これらの点も考慮に入れなければなりません。

米国にも大きな貧富の格差があります。最も豊かな国にさえ貧困地域があるのです。私はあるとき、ワシントンDC―世界で最も豊かな国の首都―に行き、多数の貧困地帯を目の当たりにしました。人々の基本的なニーズが満たされない場所があったのです。世界規模で考えても、工業化された北半球は南半球よりも発展していますし、豊かです。南半球には貧困に苦しむ国がたくさんあります。これは倫理的な意味で間違っているだけではなく、大きな問題の根源ともなっています。ですから、豊かな国の人々は、自らのライフスタイルについて良く考え、充足感を得る方法を学ばなければなりません。

15年前に日本を訪れたとき、私は「『毎年経済は成長するべきだ、毎年物質的な成長が起こるべきだ』という考え方は大きな間違いです。ある日、自国の経済が縮小しているのを目の当たりにするでしょうから、その日が来ても混乱しないように常に心の準備をしておかなければなりません」と言いました。数年後、私の予想した事態は日本で現実となりました。

途方もなく贅沢な生活を送っている人々もいます。彼らは、盗んだり、搾取したり、だましたりしなくても、たくさんのお金を持っています。彼ら自身の利益という視点で考えれば、「倫理的ではない手段でお金を稼いでいないのなら、何の問題もない」ということになるでしょう。他者の利益という視点で考えても、確かに彼ら自身には何の問題もありません。しかし、倫理的には、他の誰かが飢えに苦しんでいるというのは良いことではありません。全ての人が同じように贅沢に生活できているのなら、それでも良いでしょう。しかし、それが実現していないのなら、「足るを知る」ライフスタイルの方がずっと良いのです。日本でのエピソードをお話しましたが、米国でも、他の裕福な国々でも、同じようにライフタイルの是正が必要だと思います。

一つの家族が車を2台も3台も持っているような国はたくさんあります。インドや中国を考えてみてください。この二つの国を合わせると、20億もの人々が住んでいるのです。これらの20億人の人々が20億台、あるいはもっと多くの車を買ったとしたら、大問題が起こります。燃料、物質資源、天然資源などの大きな問題や混乱か生じるはずです。

環境への配慮

ですから、倫理的な生活の送り方として、もう一点、環境への配慮―たとえば節水―が挙げられるでしょう。ばかげているかもしれませんが、個人的な貢献として、私は何年もの間バスタブで入浴せずにシャワーで済ませています。バスタブにお湯を入れるとあまりに多くの水を使ってしまうからです。おそらく私のやっていることはあまり意味がないでしょう。私は1日に2回シャワーを浴びますから、私が入浴に使う水の量を合計すれば、結局バスタブに1回お湯を入れるのとあまり変わらないでしょう。それでも、電気の使用量にも配慮して、部屋を出るときには必ず電気を消していますし、わずかながら環境に貢献しようとしています。倫理的な生活は地球規模の責任感から生まれるのです。

他者を助ける方法

他者を助ける方法にはたくさんあります。どれを選択すべきかは状況に左右されます。私が7歳か8歳のころ、私を指導していたリン・リンポチェはいつも鞭を持っていました。私はそのころ、歳の近い兄と二人で勉強していました。ですから鞭は二本ありました―一本はダライ・ラマ専用の聖なる黄色い鞭だったのです。聖なる鞭の痛みは、聖なるものではありませんでしたよ!しかし、あれはメソッドとしては残酷でしたが、実際、とても役に立ちました。

究極的には、ある行為が有益か有害かを決定するのは動機です。他者の長期的な幸せを真摯に願っていないのなら、同じメソッドでも、残酷であることも優しさであることもあり得ます。ちょっとした嘘が役に立つ場合さえあります。たとえば、異国に住む友達の親が病気で今にも死にそうであることを知っているとしましょう。しかし、友人にそのことを知らせたら、彼は非常に取り乱して失神してしまうかもしれません。それで「君の親御さんは元気だよ」と言うようなケースもあるでしょう。これは、友人を動揺させないための、純粋な配慮から生じた嘘です。このような場合、自分の利益という視点で考えれば嘘は非倫理的ですが、他者の利益という視点から見れば、最も適切とさえ言えるのです。

暴力的・非暴力的メソッド

では、どうすれば最もよく他者を助けられるでしょうか?簡単ではありません。知恵、状況をはっきりと見極める気付き、そして、状況に応じてメソッドを使い分ける柔軟性が必要です。しかし何よりも重要なのは動機です。他者に対する誠実な配慮が必要なのです。

たとえば、あるメソッドが暴力的であるか非暴力的であるかは、動機に大きく左右されます。どんなに罪がないものでも嘘をつくのは暴力的なことですが、動機によっては他者を助ける手法ともなり得ます。その視点で考えれば、嘘は非暴力的なメソッドです。一方、他者を搾取する魂胆で贈り物をする場合も、非暴力的に見えるでしょう。しかし実際は、相手をだまして搾取するためなのですから、究極的には暴力的なメソッドだと言えます。あるメソッドが暴力的か非暴力的かを決めるのは動機です。人間の全ての行いは動機に基づいています。ある程度は目標にも左右されています。しかし、目標達成だけを目指し、その動機が怒りである場合は複雑です。ですから、究極的に言えば、最も重要なのは動機です。

宗教間の調和

これらの議論から皆さんに感じ取ってほしいのは、重要なのは内側の平穏を育むことだということです。これについて考え、実際に自分の内側に平和をもたらそうとしてみてください。さらに、皆さんの中に何らかの宗教を信仰している方がいらっしゃいましたら、私がいつも特に強調したいと思っている点の一つが宗教間の調和であることを理解していただきたいと思います。全ての主要な宗教には―太陽や月を崇める小規模な宗教は分かりませんが―独自の哲学や神学理論があります。特定の哲学を基礎としているからこそ、それらの宗教は何千年もの間存続してきたのです。しかし、哲学がどんなに異なっていても、どの宗教も愛と思いやりの実践を最も重要だと考えています。

思いやりがあれば自然と許しの気持ちが生まれ、その後、寛容や充足感が生まれます。さらに、これらの三つのものから満足感が生まれます。これは、全ての宗教に共通する考え方です。また、これらは、これまでお話してきた基本的な人間的価値観を広めるためにも重要です。このように考えると、私たちの幸せの基礎づくり―倫理的生活を送ること―を助長させるという意味で、あらゆる宗教は有益なのです。それゆえにあらゆる宗教は同じメッセージを伝えているのですし、どの宗教も人類全体を助ける力を等しく持っているのです。

様々な時代、様々な場所で、様々な教えが生まれています。これは重要なことです。異なる時代や場所で異なるライフスタイルが進化する理由は環境の違いです。そして、そのために、宗教間の差異も大きくなるのです。どの時代にもそれぞれ適した宗教観があり、それがしっくりくるために受け入れられてきたのです。ですから、何千年もの歴史がある宗教にはそれぞれ独自の伝統があります。私たちに必要なのは、まさにこのような伝統の多様性です。なぜなら、多様な伝統は多様な人々の役に立つからです。たった一つの宗教しかなかったら、全ての人々には合わないでしょうし、全ての人々の役に立つこともできません。

ブッダの時代のインドには、仏教以外の様々な伝統がすでに存在していました。しかし、仏陀はインドに住む全ての人々を仏教に改宗させようとはしませんでした。他の宗教を信じていても良かったのです。時には宗教間で議論が起きました。仏陀の死後、師たちは何百年にも渡って互いに議論を続けました。これらの議論は特に認識論の領域で非常に有益なものです。ある伝統の一人の学者が他の宗教の哲学や見解を批判的に検討すると、他の人々も自分の宗教や伝統について考え、議論するようになるからです。これによって自然と進歩が生まれます。これらの議論に多少の暴力が使われたこともあります。それは不幸なことです。しかし、全体として見れば健全な発展だったと言えます。

本物の宗教的寛容性という点では、インドはとてもいい例です。寛容性自体が何百年も続く伝統として今まで維持されているのですから。これは世界中の手本となります。

古代の人々は互いに切り離されていました。しかし、現在の私たちを取り巻く環境は、そのころとは違います。たとえばロンドンは、ほとんど多宗教社会と言ってよいでしょう。ですから、宗教的寛容性はとても重要なのです。宗教をお持ちの皆さん、調和と寛容性はとても大切です。できれば、ご自分でもぜひこの点に貢献してください。

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