釈迦牟尼仏陀、あるいはガウタマ・シッダールタは、伝統説によれば紀元前556年から紀元485年にかけて北インド中部に生きたとされています。彼の生涯についての記述は非常に多く、資料によって多種多様なバリエーションがあり、その後長い時間をかけて徐々に詳細が付け加えられてきました。仏教文献が初めて記されたのが仏陀の死から三世紀後のことであることを考慮すると、追加された詳細の正確性を検証するのは困難です。これらの情報やエピソードの一部は他のものより後から書き加えられましたが、だからといってその信憑性を疑う理由にはなりません。なぜなら、それらの多くは口承された可能性があるからです。
一般的に、仏教の偉大な師の伝記―仏陀本人のものも含みます―は歴史的な資料としてだけではなく、教えを伝える目的で編纂されました。もっと具体的に言えば、仏教徒たちに教えを授け、解脱と悟りに向かう精神的な道を歩むためのインスピレーションを与える目的で作られていたのです。仏陀の生涯から利益を受けるためには、このような背景的枠組みの中で伝記を理解し、そこから得られる教訓を分析する必要があります。
仏陀の伝記の出典
仏陀の生涯について書かれた最初期の典拠は、上座部のものでは「中部」(巴: Majjhima Nikaya、経蔵を構成する『五部』の二番目)に含まれる複数のパーリ語の経が、小乗諸宗派のものでは、僧伽の規則に関する複数の律蔵のテキストが挙げられます。しかし、これらの文献からは仏陀の生涯について断片的な情報しか得ることができません。
より幅広い記述が初めて登場するのは、紀元前2世紀ごろに著された部派仏教大衆部の『マハーヴァストゥ』(梵: Mahavastu)などの仏教的な詩作品です。このテキストは三蔵(梵: Tripitaka、『三つのバスケット』の意)には含まれないもので、仏陀が王族として生まれたなどの詳細が付け加えられています。部派仏教説一切有部の『方広大荘厳経』(梵: Lalitavistara Sutra)にもこのような詩作品が含まれます。のちに作成された大乗バージョンはこの初期のバージョンを借用し、詳しい説明―たとえば、釈迦牟尼仏陀はずっと前に悟りを開いていて、シッダールタ王子として出生したのはただ人々に悟りに至る方法を示すためであったという説明など―が加えられています。
その後、三蔵にもこれらの伝記の一部が収録されるようになりました。最も有名なのは紀元1世紀に詩人の馬鳴(アシュヴァゴーシャ)によって書かれた『ブッダチャリタ』(仏所行讃、梵: Buddhacarita)でしょう。さらに時代を下ると、タントラの中にもチャクラサンヴァラ(勝楽尊)の文献など、他のバージョンが現れるようになります。その中では、般若経(梵: Prajnaparamitasutra)を説く釈迦牟尼として現れた仏陀は、同時に持金剛仏の姿をとってタントラを教えたとされています。
このように様々な記述がありますが、私たちはそのどれからも何かを学び、インスピレーションを得ることができます。しかし、最初はまず、歴史的仏陀の姿を描くバージョンを見てみましょう。
生誕、青年時代、出家
最初期の文献によれば、釈迦牟尼はシャカ国の貴族階級に属する裕福な軍人の家系に生まれました。シャカ国の首都は現在のインドとネパールの国境線上に位置するカピラ城(Kapilavastu)でした。釈迦牟尼が王族として生まれたという記述は元々なかったもので、彼が王子であったというのも、「シッダールタ」という名前も、後になって初めて登場する情報です。父親の名前はシュッドーダナ(梵/巴: Shuddhodana、浄飯王)ですが、母親の名前とされるマーヤー(梵/巴: Maya, Mayadevi、摩耶夫人)は後のバージョンで初めて登場します。さらに、マーヤー夫人が六牙の象が脇に入ってくる夢を見て仏陀を懐妊したという伝説も、アシタ仙人が仏陀を見ていずれ偉大な王か聖者になると予言したという説話も、やはり後に書き加えられたものです。仏陀がカピラ城近郊のルンビニの園でマーヤー夫人の右脇から清らかに生まれ、7歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったという説話や、マーヤー夫人が出産時に死亡したというエピソードが加わったのは、さらに後の時代です。
青年時代の仏陀は放蕩生活を送っていました。ヤショーダラー(梵/巴: Yashodhara、耶輸陀羅)という女性と結婚し、ラーフラ(梵/巴: Rahula、羅睺羅)という息子も生まれました。29歳の時、仏陀は家庭生活も王子の地位も捨て、流浪の身で托鉢をして生きる求道者になりました。
この仏陀の出家は、彼が生きた時代や社会の枠組みの中でとらえなければなりません。彼が求道者になったことによって妻子が苦境に陥ることはありませんでした。彼らは裕福な大家族の手に委ねられ、十分な保護を受けたはずです。また、仏陀はクシャトリヤ(戦士のカースト)にも属していましたから、いずれにしてもいつかは家族を置いて戦に行かなければならなかったはずです。当時、それは男性の義務とされていました。
外部の敵と終わりのない戦いを続けなければならないこともありますが、本当の戦いとは、自分の内なる敵との戦いのことです。これこそが仏陀の赴いた戦でした。その目的ために家族の元を去った仏陀の姿は、精神的探求のために人生の全てを捧げるのが求道者の義務であることを示しています。私たちの生きる現代で家族を置いて出家する場合も、彼らが確実にケアを受けられるように手配しなければなりません。このとき、パートナーや子供たちだけではなく、年老いた親の面倒を見てくれる人も必要です。家庭を去るか否かに関わらず、仏陀がしたのと同じように、快楽への耽溺を克服して苦しみを軽減するのは私たち仏教徒の務めです。
仏陀は生老病死や転生、悲しみ、無明の性質を理解して苦しみを克服したいと願っていました。彼は自分の馬車の御者であるチャンナ(車匿)と共にカピラ城を出て町に向かいました。そこで彼は病人、老人、死者、苦行者を目にし、チャンナはそれぞれについて説明しました。こうして、誰もが経験しなければならない苦しみを認識した仏陀は、そこから逃れる方法を考えようとしました。
精神的な道において御者の助けを借りるこのエピソードは、『バガヴァッド・ギーター』の中で、親族との戦いにおいてアルジュナがクリシュナから戦士の義務について助言を受けるくだりに類似しています。仏教とヒンドゥー教のどちらでも、安穏とした生活を脱して真実を見つけ出そうとすることに深い意義が認められているのです。馬車は解脱に向かう心の乗り物、御者の言葉は真実を見出すための駆動力と見なすこともできるでしょう。
修行と悟り
放浪の苦行者となった仏陀は、二人の師と共に禅定と無相三昧を達成するメソッドを学び、これらの完全な三昧の中でも最も高いレベル―粗雑な苦しみも通常の世俗の幸せも感じない境地―に達しましたが、満足することはできませんでした。このような境地が一時的なものであり、汚れた感情から永遠に解放されるわけではないこと、そして当然、彼が乗り越えようとしたより深く普遍的な苦しみを取り去るものではないことを見て取ったのです。その後彼は五人の修行者と共に過激な苦行に取り組みましたが、これもまた輪廻(とめどなく繰り返される転生)に関わる深遠な問題を取り去るものではありませんでした。ナイランジャナー川のほとりで村娘スジャーターから乳粥を差し出され、六年間の断食を破ってそれを食べたというエピソードは、後世の記述にのみ登場します。
このような仏陀の逸話を私たちに当てはめて解釈すれば、瞑想によって―ドラッグなどの人工的な手段を使う場合は言うに及ばず―完全な心の平穏を達成したりハイになったりしても満足するべきではないということになるでしょう。深い恍惚状態に逃避したり、過激な実践で自分を痛めつけたり罰したりするのもまた、解決策ではありません。私たちは解脱と悟りへ向かう道を歩き通さなければならないのです。また、私たちをこれらのゴールに導かないメソッドで満足するべきでもありません。
苦行を放棄した仏陀は一人で密林の中で瞑想し、恐れを克服しました。全ての恐れの根底にあるのは我執(不可能な方法で存在する『私』への執着)と、それよりもさらに強力な、自分だけを大切にする態度―衝動的な快楽や娯楽の追求の基礎となるもの―です。10世紀のインドの師であるダルマラクシタは『武器の輪』の中で毒草の生い茂るジャングルの中をさまよう孔雀のイメージを使いました―孔雀は菩薩を表し、貪欲・瞋恚・愚癡という有毒な感情を変容させて、自分だけを大切にする態度や我執を克服するために使っているのです。
仏陀は瞑想を重ね、35歳の時に完全な悟りを達成しました。恐ろしい姿や魅惑的な姿を取って瞑想を妨げた悪魔マーラを撃退したのちに現在のブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いたという詳細は後世に付け加えられたものです。
最初期の記述では、仏陀は三種類の知識を得ることによって完全な悟りに至ったとされています。その三種類とは、彼自身の全ての前世の完全な知識、他の全ての衆生のカルマと転生に関する知識、そして四聖諦です。後の記述では、悟りによって仏陀は全知となったとされます。
[ 参照: 四聖諦とは何か ]
説法と仏教僧伽の設立
悟りを開いたあと、仏陀はその成就の方法を他者に示すことに対して消極的でした。誰も理解しないと思ったからです。しかし、インドの二神―宇宙の創造者である梵天と神の王である帝釈天-が仏陀に教えを説くように懇願しました。その際梵天は、「あなたが教えを説かなければ世界は終わりのない苦しみを味わうことになる。少なくとも何人かは仏陀の教えを理解できる人がいる」と言いました。
この部分は、当時のインドの宗教のメソッドよりも仏陀の教えの方が優れていることを示す風刺要素かもしれません。最高位の神々さえもが「自分たちは全ての人々の苦しみを恒久的に終わらせるメソッドを持っていない、それゆえ、世界には仏陀の教えが必要である」と認めるのなら、普通の人々がいかに仏陀の教えを必要としているかは言うまでもありません。さらに、仏教において梵天は尊大不遜のイメージを持ちます。自分が全能の創造者だという彼の誤った信念は、不可能な方法で存在する「私」が実在し、人生の全てを自分でコントロールできるという誤った考え方の典型的な例です。このような考えは必ず不満や苦しみを招きます。私たちの真の存在の仕方に関する仏陀の教えだけが、この真の苦しみとその真の原因を真に停止させることができるのです。
梵天と帝釈天の要請を受けて仏陀はサールナートに赴き、鹿野苑でかつての5人の修行仲間(五比丘)に四聖諦の教えを説きました。仏教において鹿は穏やかなイメージを持ちますから、仏陀が快楽主義や禁欲主義といった極端さを避け、穏やかなメソッドを説いたことが分かります。
次第に近隣のヴァラナシから多くの若い男性が仏陀の元に集まってきました。彼らは厳格な独身主義を貫き、彼らの親は在家信者となって、施しをしてこの集団をサポートするようになりました。集団の誰かが十分に修行を積んで相応の資質を身に着けると、他の人々に教えを説くために外部に送り出されました。こうして、仏陀の托鉢集団はすぐに大きくなり、各地で「僧伽」と呼ばれるコミュニティを作って定着しました。
仏陀は実務的なガイドラインに沿ってこれらの集団を統制しました。僧侶たち―このようなごく初期の時代にそのような名称を使うのが許されるのなら―は志願者を集団に受け入れることもありましたが、世俗権力との衝突を避けるために特定の制限に従う必要がありました。ですから、この時点で仏陀は犯罪者、軍人など王室に仕える者、解放されていない奴隷、ハンセン病などの感染症の罹患者を僧伽に加えることを認めていませんでした。トラブルを避け、僧伽やダルマの教えに対する一般大衆からの敬意を確保しようとしていたのです。仏陀の弟子である私たちも、人々が仏教に良い印象を持って仏教徒に敬意を払ってくれるように、各々の地域の慣習を尊重し、礼儀正しく振る舞わなければなりません。
まもなく仏陀はブッダガヤのあるマガダ国に戻り、彼の庇護者にして弟子となったビンビサーラ王から首都・王舎城―今日のラージギル―に招待されました。そこで、いよいよ大きくなりつつあった仏陀の教団に、のちに仏陀の二大弟子となるサーリプッタ(シャーリプトラ、舎利弗)とモッガッラーナ(目連)も加わりました。
悟りに至ってから一年経たないうちに仏陀はカピラ城に戻りました。そこで息子のラーフラが僧伽に加わりました。容姿端麗な異母兄弟であるスンダラ・ナンダ(孫陀羅難陀)もすでに出家して僧伽の一員となっていました。仏陀の父親である浄飯王は家系が途絶えたことを非常に悲しみ、今後男子が僧伽に加入するには両親の同意を条件とするように要請すると、仏陀はこれを了承しました。このエピソードの重要な点は、仏陀が父親に残酷なことをしたように見えるということではなく、仏教に対する反感―特に自分自身の家族の内からの―を生み出さないようにすることの大切さです。
この家族との再会のエピソードに関連して、仏陀が超物理的な力を使って忉利天に向かった逸話が後に付け加えられました。文献によっては、忉利天ではなく兜率天に赴き、そこに転生した母・マーヤー夫人に教えを説いたとされています。これは、母の優しさに感謝してそれに報いることの重要性を示す逸話です。
比丘僧伽の発展
初期の僧伽はそれぞれ20名足らずの男性で構成された小規模なものでした。各僧伽が自立しており、比丘たちの托鉢のルートには境界線が定められていました。それぞれの団体の活動や判断は不和を避けるために合意形成の投票によって決定され、誰か一人が権力を握るということもありませんでした。仏陀は、ダルマの教えそのものを権威と見なすように指示しました。僧伽の規律自体も必要に応じて変更することが可能でしたが、その場合もやはり僧伽全体の合意が必要でした。
ビンビサーラ王は、他の托鉢集団の習慣を取り入れることを仏陀に提案しました。たとえば、月4回の集会を行うジャイナ教団です。ジャイナ教のコミュニティでは各月相の始めに教えについて議論を行っていました。仏陀は同時代の慣習を受け入れることについて寛容でしたから、これに同意しただけでなく、ジャイナ教を僧伽の様々な側面や教えの構成の手本としました。ジャイナ教の始祖・マハーヴィーラは仏陀より半世紀ほど前に生きた人です。
また、サーリプッタは僧伽における比丘の行動規範を定めて欲しいと願いました。仏陀は、特定の問題が生じたときに、類似の問題の再発防止のために戒を制定するのが最善であると考えました。この方針は、性罪(誰が行っても有害である本質的に破壊的な行動)についても、遮罪(特定の状況におかれた特定の人々にのみ特定の理由で禁止されるが倫理的には中立的な行動)にも踏襲されました。つまり、律(規律)は、特定の目的のために制定された実用的・現実的なものなのです。制定の際に仏陀が第一に考慮したのは、問題を避け、人に不快感を与えないようにすることでした。
次に、仏陀は律に基づいて月四回の集会で戒を朗誦することを定め、その場では比丘たちが自ら犯した違反を公表しました。特に重大な違反をした場合は僧伽から追放されることもありましたが、そうでなければ不名誉な謹慎期間が与えられるだけでした。後になって、この集会は月二回の開催に変更されました。
仏陀はまた、比丘たちが一カ所に留まって一切移動しない三カ月間の雨安居を定めました。そのねらいは、雨で道が水浸しになったときに比丘たちが畑の中を歩いて作物を傷つけるのを防ぐことでした。この慣習から、実用のための固定の僧院が誕生しました。ですから、この展開もまた、一般人のコミュニティへの損害を防いで人々の尊敬を獲得するという文脈の中から生じたのです。
第二回の雨安居以降、仏陀はコーサラ国の首都・舎衛城近くの祇園精舎で計25回の夏を過ごしました。祇園精舎には商人であった給孤独(アナータピンディカ)が仏陀と弟子たちのために僧院を建て、さらにプラセーナジット王が僧伽を支援しました。祇園精舎のこの僧院は仏陀の生涯におけるいくつもの重要な出来事の舞台となりました。中でも最も有名なのは、神通力の競い合いにおいて六師外道を打ち破ったことです。
現代、神通力を駆使できる人はおそらく一人もいないでしょう。しかし、仏陀が理論ではなくそのような力を使って相手を打ち負かしたというのは、相手の心が理論を受け入れない場合、私たちの理解の妥当性を受け入れさせる最善の方法は、理解のレベルを行動で示すことだということを物語っています。英語にも「行動は言葉よりも大きな声で話す(actions speak louder than words)」という慣用句があるでしょう。
比丘尼僧伽の設立
あるとき仏陀は叔母の摩訶波闍波提(マハー・プラジャーパティー)の要請を受けて毘舎離(ヴァイシャーリー)に比丘尼の僧伽を設立しました。はじめ彼はそのような団体を作ることに消極的でしたが、比丘よりも多くの戒を比丘尼に定めるならそれが可能だと確信しました。しかし、女性の方が男性よりも自制心がないとか、だからより多くの戒を与えて自制させなければならないと考えていたのではありません。彼は、女性の教団設立によって悪評が生じることや、それによって教えを説く活動を打ち切りにしなければならなくなることを恐れたのです。彼は何よりも僧伽全体が軽蔑されることを避けようとしていたので、比丘尼僧伽はいかなる不品行も疑われないようにする必要がありました。
しかし、一般的に言って仏陀は規則を定めるのに乗り気ではなく、必要でないと分かれば些細な規則は廃止しようとしました。この方針は二諦のダイナミクス―最も深い勝義諦と、現地の習慣に合わせた世俗諦の尊重―を表しています。勝義諦の視点で考えれば、比丘尼僧伽を持つことには何の問題もありません。しかし、当時の普通の人々が仏教を軽蔑するのを防ぐため、比丘尼たちにはより多くの戒が必要だったのです。勝義諦では社会の意見や考えは関係ありません。しかし、世俗諦の視点から見れば、仏教のコミュニティが大衆の尊敬や信頼を勝ち得るのは重要なことです。現代社会において、もし比丘尼や女性一般、あるいは他のマイノリティグループが仏教の慣習によって差別されていたら、仏教はひどく軽蔑されるでしょう。時代の規範に釣り合うように慣習を修正してゆくのが仏陀の精神なのです。
煎じ詰めれば、仏陀の教えは常に寛容と思いやりの心を基調としてきました。たとえば仏陀は、それまで別の宗教集団を支持していた入門者がその団体を支持し続けることを奨励しました。彼はまた、教団内で、たとえば誰かが病気のときなどはメンバー同士が助け合うように指示しました。なぜなら、誰もが仏教徒という家族の一員だからです。これは、全ての在家仏教徒たちにも当てはまる重要な指針です。
[より詳しく学ぶ: インドにおける比丘尼戒の成立 ]
仏陀の教えの方便
仏陀が人々に教えを伝えるやり方には、言葉で教えを説くだけではなく、自ら行動して模範となることも含まれました。説法を行う際は、相手が集団であるか個人であるかによって二つのメソッドを使い分けました。集団が相手の時は対話形式を用い、しばしば聴衆がより良く理解して記憶できるように重要な点は別の言葉を使って繰り返し伝えました。相手が一人の時―通常は彼や弟子が招かれた昼食の後でした―のアプローチは別のものです。彼は相手の見解を否定したり楯突いたりすることは決してせず、相手の立場を受け入れ、彼ら自身の考えをはっきりさせるために質問を投げかけました。そうすることで相手の見解は洗練されてゆき、彼らは徐々に現実をより深く理解するようになりました。一例を挙げれば、仏陀は、バラモン階級出身のある高慢な人物に、人間の優越性は生まれついたカーストではなく良い資質を身に着けることに由来すると理解させたことがあります。
もう一つ例を挙げましょう。ある母親が仏陀の元に子供の亡骸を運んできて、子供を生き返らせてほしいと請いました。仏陀は彼女に「これまでに死が訪れたことのない家から辛子の種を持ってきたら自分にできることを考えよう」と言いました。この母親は家々を訪ねて回りましたが、死者を出したことのない家は一軒もありませんでした。そのうち、彼女は誰もが死ななければならないことを理解して、最後には心穏やかに子供を荼毘に付すことができました。
仏陀の教えのメソッドから得られる教訓は、一対一で向き合っている誰かを助けるときは対立を避けるのが最善であるということです。そしてこの場合、相手が自分自身のために考える手伝いをするのが最も効果的です。しかし、集団に対してはもっと直接的で簡潔にものごとを説明した方が良いでしょう。
仏陀に対する陰謀と教団の分裂
仏陀が亡くなる7年前、彼を妬んだ従兄弟の提婆達多(デーヴァダッタ)が教団の指導者の地位を奪う陰謀を企てました。当時、ビンビサーラ王の息子であるアジャータシャトル王子も同じように父王の位を奪ってマガダ国の指導者になることを策略していたので、この二人は手を組みました。アジャータシャトルはビンビサーラ王の暗殺を企て、結果的に王は息子に王位を譲りました。アジャータシャトルの成功を見た提婆達多は仏陀を暗殺するように依頼しましたが、いかなる試みも全て失敗に終わりました。
腹を立てた提婆達多は、自分が仏陀よりも「聖なる者」であると主張してさらに厳格な戒を提案し、弟子たちを仏陀の元からおびき出そうとしました。上座部の師であるブッダゴーサによって4世紀ごろに書かれた『清浄道論』(巴: Visuddhimagga)によれば、提婆達多の案は以下のようなものでした:
- 糞掃衣(ぼろ布の切れ端を縫い合わせた衣を着る)
- 但三衣(着るものは3枚の衣に限る)
- 常乞食(托鉢のみで食べ物を手に入れ、食事への招待は絶対に受けない)
- 次第乞食(托鉢の際は訪問する家を選り好みしない)
- 一坐食(何を施されても一日に一度、一座のみで食べる)
- 一鉢食(托鉢の器からのみ食べる)
- 時後不食(施されたものを食べたら、その日は以降何も食べない)
- 阿蘭若住(森の中だけで暮らす)
- 露地住(屋内ではなく屋外に住む)
- 塚間住(主に尸陀林で暮らす)
- 随所住(放浪し、滞在場所はどこであれ満足する)
- 常坐不臥(決して横にならず座って眠る)
仏陀は、これらの追加の戒に従いたければ従って良いが、全員にこれを強制することは不可能だと言いました。実際、多くの比丘が仏陀の教団を去って提婆達多に従い、独自の団体を設立しました。
上座部では、提婆達多が定めた追加の戒は「十三頭陀支」と呼ばれます。森林派の伝統―今日でもタイなどで存続しています―はこの実践を源流としているものと思われます。この一層厳格な戒の実践者の中で最も有名なのは仏陀の弟子であった大迦葉です。今日でも、これらの戒の多くはヒンドゥー教の放浪の修行者・サドゥーによって守られています。彼らの実践は、仏陀の時代の放浪の托鉢求道者の伝統を受け継ぐものと考えられます。
大乗にもこれに似た「十二頭陀支」があります。これには次第乞食が含まれず、代わりに著弊衲衣(ごみ捨て場に捨てられた衣を着る)が加わり、常乞食と一鉢食はまとめて一つに数えられています。この戒の多くはのちにインドの大成就者の伝統―大乗仏教とヒンドゥー教のどちらにも見られます―によって踏襲されました。
確立された一つの仏教の伝統から離脱して別の組織を作ること―現代で言えば「別のダルマセンターを設立すること」にあたるでしょう―は問題ではありませんでした。そのようなことをしても五逆罪(五つの重罪)の一つである破和合僧(教団を分裂させること)には数えられなかったのです。しかし、提婆達多は実際に分裂を引き起こしました。なぜなら、仏陀から離反して提婆達多に従ったグループは、仏陀の教団に強烈な敵意を持ち、激しい批判を浴びせさせたからです。いくつかの文献では、このような分裂状態は数世紀間続いたと伝えられています。
この分裂の記述から読み取れるのは、仏陀は大変寛容で、全く原理主義的ではなかったということです。自分が定めたものより厳格な戒に従いたいと弟子たちが望むならそうすれば良いし、望まないのなら従わなくて良いと考えました。つまり、仏陀の教えの実践を強制された人は一人もいなかったのです。比丘や比丘尼が僧伽を去りたいと願うなら、それもまた受け入れられました。しかし、仏教教団を―特に僧伽を―いくつもの敵意を持ったグループに分裂させ、互いの評判を落として傷つけ合わせようとするのは非常に破壊的です。後からどれか一つの派閥に加入して、そのグループが展開する嫌がらせに参加するだけでも深刻な悪影響が生まれます。もし、これらの集団のいずれかが破壊的な行動に従事したり有害な規律に従ったりしているなら、思いやりの心から、そのような集団に加わることの危険性を人々に警告すべきです。しかしその際、怒りや憎しみ、あるいは復讐心がその動機に決して含まれないようにしなければなりません。
[より詳しく学ぶ:13世紀以前のインド仏教史 ]
入滅
仏陀は解脱を達成していたため、何も手を打たずに通常の死を経験する必要はありませんでした。しかし、81歳のとき、弟子たちに無常を教えて肉体を去るのは有益だろうと考えました。それに先立って彼は、侍者のアナンダに、もっと長く生きて多くのことを教えて欲しいと自分に頼む機会を与えましたが、アナンダは仏陀が与えたヒントに気付くことができませんでした。このエピソードから、仏は請われたときだけ教えを説き、誰も頼まなかったり興味を持たなかったりする場合はその場を去り、他のどこかでより大きな利益をもたらそうとすることが読み取れます。つまり、師や教えが存在するか否かは生徒によって決まるのです。
クシナガラの純陀(チュンダ)という布施者の家で提供された料理を食べた仏陀は体調を崩し、危篤に陥りました。死の床で彼は弟子たちに向かって、「疑念や答えの得られていない疑問があるなら、今後は私のダルマの教えと戒に頼るように。これからはそれらがお前たちの師なのだ」と言い残しました。つまり彼は、全ての答えを示してくれる絶対的な権威は存在しなくなるから、誰もが自分自身のために自分で教えを理解しなければならないと言ったのです。そして、仏陀はこの世を去りました。
純陀は自分が仏陀に毒を与えてしまったと考えて完全に取り乱してしまいました。しかしアナンダは、純陀は仏陀の入滅前の最後の食事を提供したことで非常に多くの功徳を積んだのだと言って彼を慰めました。
仏陀は荼毘に付され、遺灰はいくつかの仏塔に分けて納められました。以下の場所にある仏塔はのちに仏教徒の四大巡礼地となりました。
- ルンビニ―仏陀生誕の地
- ブッダガヤ―仏陀成道の地
- サールナート―初転法輪の地
- クシナガラ―仏陀入滅の地
要約
仏陀の生涯に関する記述は宗派によってそれぞれ異なります。その違いから、各伝統の仏陀のとらえ方や、彼の前例から得られる教訓を読み取ることができます。
- 小乗では歴史的人物としての仏陀の生涯のみが解説される。仏陀が悟りに至るために自分自身を高める取り組みを熱心に行った様子が読み取れる。私たちは、自分たち凡夫も同様のことができると理解し、自分を磨く努力をすることを学ぶ。
- 大乗では、一般的に、仏陀は遥か昔にすでに悟りを開いていたとする。彼は生を通じて十二相成道を示し、私たちはそこから、悟りには全ての衆生のための絶え間ない努力が含まれることを学ぶ。
- 無上瑜伽タントラでは、仏陀は、釈迦牟尼の姿で般若経を教えると同時に、持金剛仏の姿でタントラを教えたとされる。これは、タントラの実践は完全に中観派の空の教えを基礎としていることを示している。
このように、私たちは仏陀の伝記の各バージョンから多くのことを学び、様々なレベルのインスピレーションを得ることができるのです。