背景
戒 (チベット語(以下略) sdom-pa) は、心相続において微細で目には見えないかたちで私たちの行動を形作ります。具体的には「非難されるべき勧められない行動」(kha-na ma-tho-ba)を避けることですが、それには自ずと破壊的なもの (rang-bzhin-gyi kha-na ma-tho-ba) とある特定の目標に到ろうと修行している特定の個人に対して仏陀が禁止したもの (bcas-pa'i kha-na ma-tho-ba) があります。避けるべき前者の例としては他者の命を奪うこと(殺生)があり、後者にはその夜と翌朝に瞑想する時に心がより明晰になれるように、僧侶/尼僧が午後に食事することは避けなくてはならないことがあります。
菩提心を発展させるための二つの段階には、発願心(smon-pa'i sems-bskyed 発願の菩提心) と発趣心(' jug-pa'i sems-bskyed 発趣の菩提心) がありますが、発趣心の段階のみで私たちは菩薩戒を授かります。
菩薩戒(byang-sems sdom-pa) を授かることは、できる限り他者を利益するために自らが悟りに到ろうとする菩薩として修行している者が、仏陀が禁じた二つのネガティブな行動を避けることを約束することです。
-
犯せば、根本の堕落 (byang-sems-kyi rtsa-ltung根本罪) になる十八の行い
-
四十六種の過失の行い (nyes-byas 支分)
根本の堕落(root downfall)は菩薩戒のすべて(ひとそろい)を失うことを意味します。それはスピリチュアル(精神的)な発展を衰退させポジティブな資質の成長を妨害すると言う意味で「堕落」です。「根本root」という言葉はそれが取り除かれるべき根元であることを表しています。表現を簡潔にして、これらの二セットは根本と二次的な菩薩戒と呼ばれています。これらの戒は私たちができる限り純粋でかつ十分なやり方で他者に利益することを願望するのであれば、そのために避けるべき行動の種類についての優れたガイドラインを提供しています。
十世紀後期のインドの偉大な師アティーシャは、スマトラ(サンスクリット語 Suvarnadvipa)出身の師ダルマキールティ(ダルマパラ 法称)より、この独特のバージョンの菩薩戒を授かりましたが、それを後にチベットに伝えました。シャーンティデーヴァにより八世紀に編纂された『学処集成 修行の要約』(チベット語 bSlabs-btus、サンスクリット語Shikshasamuccaya)) によれば、このバージョンは『虚空蔵菩薩経』(チベット語 Nam-mkha'i snying-po mdo, サンスクリット語 Akashagarbhasutra)に由来します。チベット仏教のすべての宗派がこれに従っていますが、中国を通じて派生した伝統ではさまざまなバージョンの菩薩戒が混合しています。
菩薩戒を保持するとの約束は、今生だけでなく悟りに到るまでの今後のそれぞれの来世にも当てはまります。そのため、これらの戒は私たちの諸来世における心相続に微細なかたちで続いていきます。前世で菩薩戒を授かったのであれば、今生でも新たに菩薩戒を授かり違反を犯せば菩薩戒を失いますが、今知らずに完全な違反を犯したとしても戒を失うことにはなりません。今生で初めて新たに菩薩戒を授かることで(前世において)最初に授かった時から成長し続けてきた悟りへの努力を強化することができます。ですから、大乗仏教の偉大な師たちは菩薩戒を損なわずに固く守って死んでいくことの大切さを強調しています。私たちの心相続に菩薩戒が引き続き存在することで、それを再度授かることで活性化される前でさえも、諸来世においても引き続きポジティブな力(福徳)を蓄積し続けるのです。
ゲルク派の宗祖であるツォンカパの『菩薩の倫理的規律の説明 菩薩正道』(チベット語 Byang-chub sems-dpa'i tshul-khrims-kyi rnam-bshad byang-chub gzhung-lam)による十五世紀の菩薩戒への注釈に従い、根本の堕落となる十八のネガティブな行動を検討してみましょう。それぞれの項目に、私たちが知る必要のあるいくつかの条項があります。
十八の菩薩の根本の堕落
(1) 自己賞賛することそして/または他者をけなすこと
この堕落は下位の地位にいるものに対してそのような言葉を発することを指しています。その動機は発言した者が利益、賞賛、愛、敬意などを欲すること、あるいはそれを言われた者への嫉妬が含まれなくてはなりません。発言されたことが真実であるか嘘であるかは関係ありません。仏教徒であると自己宣伝する専門職の人々はこの堕落をしていないか気をつける必要があります。
(2) 仏法の教えや富を分かち合わないこと
ここでの動機は明確な愛着/執着とけちさでなければなりません。このネガティブな行動は自分のノートやテープレコーダーに関しての独占欲だけでなく、私たちが必要とされても助けることを拒む自分の時間を惜しむことも含まれます。
(3) 他者の謝罪を聴かないことあるいは他者を攻撃すること
これらのそれぞれの動機は怒りでなくてはなりません。前者は実際に誰かに対して怒鳴ることや叩くことがあった時、その人が許しを請うかあるいは他の誰かが私たちに止めるようにせがんでも私たちがそれを拒否することを言っています。後者は誰かを単に叩くことです。時には、やんちゃな子供やペットが道に飛び出すことを引き止めるために叩くこともあるかもしれませんが、怒ってしつけようとすることは決して適切でもなく何の役にも立ちません。
(4)大乗の教えを捨てることと作り上げられたものを提示すること
これは倫理的な行動などの菩薩に関するトピックについての正しい教えを拒否して、その課題についてのもっともらしいが間違った方向へのインストラクションを正統であると宣言し、自分に従う人を得ようとの目的でそれを他者に教えることです。この堕落の例としては、進歩的な倫理的行動を認めるような学生候補の者たちが逃げていかないようにと、教師たちが他者を傷つけないのであればどのような行動も許されると説明することがあげられます。この罪を犯すのに教師である必要はありません。他者との普段の会話の中でも犯すことがあります。
(5) 三宝のために供養されたものを取ること
この堕落は仏陀、仏法、僧伽の三宝に供養されたものあるいは三宝に属するものを、個人的であったり誰か他の人が代理したにしても、盗んだり横領しては、その後自分たちのものだと考えることを指しています。ここでの僧伽は四人以上の僧侶や尼僧のグループを言います。例としては、仏教関連の記念碑を建設するため、仏法の本を印刷するため、あるいは僧侶や尼僧の食事のためなどに寄付された金を横領することが含まれます。
(6) 神聖な仏法を見捨てること
ここでの堕落は声聞(サンスクリット語shravaka、チベット語nyan-thos) 乗の経典の教えを見捨てることまたは自分の意見を発言することで他者が声聞乗、縁覚(rang-rgyal) 乗、あるいは菩薩乗の経典の教えが仏陀の言葉ではないと拒否するようになることです。声聞とは現存する仏陀の教えを聴く人々のことで、縁覚(pratyekabuddhas)とは仏法がもはや直接には入手できない主に暗黒時代に生きる中で自己進化する修行者のことです。スピリチュアル(精神的)に進歩するために、彼らは前生において行った勉学と修行により得られる直感的な理解に頼ります。両者にとっての教えが集合的に、輪廻からの個人的な解脱を得るための小乗あるいは「謙虚な/慎ましい乗」を構成します。大乗は完全な悟りを得るための方法を強調します。どの乗であれそのすべての経典がまたはその中のある特定の経典が仏陀に由来することを否定することは根本の堕落です。
この戒を保つことは歴史的視点を見捨てることを意味しません。仏陀の教えは書かれたものとして規定される前に何世紀もの間口頭で伝承されていました、ですから間違いなく退廃や偽造はおきたはずです。チベット仏教の正典を集成してきた偉大な師たちは正統でないと見なしたものは拒否しました。しかし、彼らは偏見を基に決定したのではなく、ある資料の妥当性を判断するために、七世紀のインドの偉大な師であるダルマキールティの基準を – 仏教徒のゴールであるより良き転生、解脱、あるいは悟りをもたらすことができることを – 採用しました。諸々の仏教経典やさらにはある特定のテキストの中での形式の違いは、しばしば教えのさまざまな部分がいつ書式化されたのか、いつ別の言語に翻訳されたのかを示すことがあります。そのため、現代のテキスト分析法で経典を研究することは良い成果があることがあり、この戒と相反しません。
(7) 僧侶/尼僧を還俗させることあるいは僧衣を盗むことなど
この堕落は、一人、二人、三人の僧侶や尼僧に対して、彼らの倫理的な状態や修行のレベルに関わらず、何らかの打撃を与えることを指します。そのような行為は叩いたり、言葉の上で虐待したり、その所有物を没収したり、寺院から追い出したりすることを含みますが、その際は悪意や敵意で動機づけられる必要があります。僧侶や尼僧が四つの主要な戒を破った時に寺院から追放することは堕落にはなりません。主要な戒とは殺生、その中でも特に他人を殺生してはいけないこと、そして盗んではいけないこと、特に僧院に属するものを盗むこと、噓をついてはいけないこと、特にスピリチュアルな達成についての噓をついてはいけないこと、そして完璧に独身を維持する(僧侶であれば妻帯しない)ことです。
(8) 五逆罪の一つでも犯すこと
五逆罪(チベット語mtshams-med lnga) は(a)父親を殺すこと(b)母親を殺すこと(c)阿羅漢(解脱した人)を殺すこと(d)悪意で仏陀に血を流させる(傷つける)こと(e)僧団が分裂する原因を作ることです。五逆罪の最後の項目は仏陀の教えや僧院を否認して、僧院のメンバーを引き離すことで、自分自身の新たな宗教と僧団の伝統に入るように説得することです。これはダルマ・センターや組織を離れること − 特にそれが組織やスピリチュアルな師たちの退廃によるもので、仏陀の教えに従う別のセンターを築くためであれば – を指してはいません。さらには、五逆罪での僧伽(sangha)という言葉は(伝統的に)僧団のことを示しています。西洋の仏教徒たちが「僧伽/サンガ」を伝統的にはそうではないダルマ・センターや組織の信者と同等であると考える時の「サンガ」のことではありません。
(9) 歪んだ対立的な見方(邪見)を持つこと
これは真理で価値のあることを否定することを意味しますが、その中には行為の因果関係の法則(縁起)や人生において正しいポジティブな方向をとること(帰依)、輪廻転生について、輪廻からの解脱があります。そのような考え方やその考えを持つ者に対立することです。
(10) 町などを破壊すること
これは意図的に町、市、地域や田舎/田園地帯を破壊したり、爆撃したり、その環境を悪化させたりして、人や動物がそこに住むことを困難にすることが含まれます。
(11) 心がまだ訓練されていない者に空性を教えること
この堕落の主な対象は菩提心の動機を持っているが空性(無自性)をまだ理解する準備ができていない人々です。そのような人々はこの教えで混乱してしまい恐怖におびえることがあり、その結果として個人的な解脱のための道としての菩薩道を捨て去ることがあるのです。もしすべての現象には本質として見いだせる存在はないのなら、誰も存在しない、そうであれば何故他者の利益のために取り組むのだと考える結果です。またこの行動には誤解をして仏法を完全に捨てるかもしれない人に空性(無自性)の教えを説くことも含まれます。例えば、仏教は何も存在しないと教えていると考え、全く無意味だと考える人がいます。超感覚的知覚なしには、他者の心が十分に訓練されていてすべての現象の空性についての教えを曲解することはないと知ることは困難です。ですから、これらの教えの複雑さを段階的に説明することで、そして定期的に彼らの理解度を調べながら導いていくことが重要です。
(12) 完全な悟りから他者を引き離すこと
この行動の対象は菩提心の動機をすでに発展させ悟りに向かって努力している人々です。彼らに布施や忍耐などをいつも行うことはできないと言うことで、彼らが仏陀に成れるはずがないと、だから個人的な解脱のみに努力した方がはるかに良いことだと言うことが堕落です。しかし、その人たちが実際に悟りの(成就という)目標から離れてしまうことがなければ、この根本の堕落は完結しません。
(13) 個人的な解脱のための戒から他者を引き離すことs
個人的な解脱のための戒(サンスクリット語Pratimoksha、チベット語so-thar sdom-pa)は在家の男女、新参の僧侶/尼僧、正式に出家した僧侶/尼僧(比丘/比丘尼)が授かることができます。ここでの対象はこれらのPratimoksha(波羅提木叉)の戒律を受け保持している人々です。彼らに対して菩薩として波羅提木叉を守ることは何の価値もない、何故なら菩薩にはすべての行動が純粋なのだからと言うことが堕落です。この堕落が完成するためには彼らが戒を実際にあきらめることがなければなりません。
(14) 声聞乗をけなすこと
第六の根本の堕落は声聞乗や縁覚乗のテキストは仏陀の正統な言葉ではないと否認することです。ここでは、テキストの正当性を認めてもその教えの効果を否定して、例えば観行(vipassana 洞察の瞑想)などのインストラクションにより心を乱す感情や態度(煩悩)を取り去ることは不可能だと言い張ることです。
(15) 空性の直観の体験を偽って宣言すること
私たちは十分に空性を直観していないのに、偉大な師たちへの嫉妬から自分も体験した振りをしてそれについて教えたり書いたりすればこの堕落を犯します。生徒や読者が私たちの見栄にだまされるかそうではないかは問題になりません。それでも、私たちが説明することを彼らが理解しなくてはなりません。彼らがこちらの論議を把握できないのであれば、この堕落は完成しません。この戒律は空性の直観について虚偽の主張をすることですが、菩提心や他の仏法のポイントについて教える時もまた同様に避ける必要があることは明らかです。空性を完全に直観する前にそれについて教えることには問題はないのですが、この事実を公的に認め、自分の現在のレベルでの暫定的に理解している事だけを説明しているのだとなれば問題はありません。
(16)三宝から盗まれたものを受け入れること
この堕落は誰かが個人的にまたは他人を介して仏陀、仏法、僧伽(一人、二人、または三人の僧侶/尼僧に属するとしても)の三宝に属するものを盗んだり横領したものを、贈り物や、供物、サラリー、報酬、罰金、または賄賂として受け入れることです。
(17) 不公平な方針を確立すること
これは怒りや敵対心のせいで真剣な修行者に対して偏見を持ち、彼らに劣る者たちを好み、執着心から彼らの達成度より劣る者たちを、あるいは何の達成もない者たちをえり好みすることを意味します。この堕落の例としては教師として修行には熱心ではないが高額の授業料を支払うことができる個人的な学生と自分の時間を割き、授業料の支払いができないまじめな学生を無視することがあげられます。
(18) 菩提心を捨て去ること
これはすべての生きとし生けるものの利益のために悟りを得ようとの願いを捨て去ることです。菩提心の二つのレベルで、願うこと(発願心)と実践すること(発趣心)の内、ここでは最初のレベルの菩提心を捨て去ることを示しています。そうすることで、後者のことも諦めるからです。
しばしば、十九番目の根本の堕落も特定されることがあります。
(19) 皮肉な言葉で他者を見下すこと
しかし、これは最初の菩薩戒の根本の堕落に含まれているともいえます。
戒を保つこと(持戒)
このような戒について学ぶ時、人々はしばしばこれらを守ることは難しいと感じて戒を授かることを恐れたりします。しかし、戒が何であるかをしっかりと知ることでこのような脅迫感を避けることができます。それには二種の説明があります。一つ目が、戒とは人生においてある種のネガティブなやり方から自分自身を抑制するために採用する態度だということです。もう一つは、戒は自分自身の人生に与える微細なかたちであるということです。どちらにしても、戒を保つにはマインドフルネス(正念dran-pa)、正知(shes-bzhin)、そして自己制御が関わってきます。マインドフルネスで、その日毎に自分の心に戒を保持します。正知で、自分の行動が戒と一致しているかどうかをチェックして観察することを持続させます。もし違反していることが、あるいは違反しそうだと分かれば自己制御を適用します。このようにして、自分の人生における倫理のかたちを定義し維持します。
戒を保ったりそれに対するマインドフルネスを維持することはそれほど異質で困難なことではありません。私たちは車を運転すれば、なるべく事故を最小限に減らし安全性を最大限にするために、ある規則に従うことに同意します。これらの規則が、スピードの出し過ぎを抑え、道路の自分の側で運転することなどと運転方法を形作り、目的地に着くために最も実践的で現実的な方法で行こうとします。経験を重ねれば、規則に従うことは自然になり、それにマインドフルでいることも無理なく負担も感じません。同じことが菩薩戒や他の倫理的な戒を保持する時にも起きます。
戒を失う四つの拘束要素
自分の人生から戒のかたちが完全に失われた時、またはそれを維持しようとしなくなった時には戒を失ったことになります。これは根本の堕落(重罪)と呼ばれています。それが起きると、この倫理のかたちを回復するには、自分の態度を改め、親愛や慈悲などの瞑想をすることで浄化して、再度戒を授かるしか方法はありません。菩薩戒の十八の堕落の中でも、九番目と十八番目の心の状態を発展させる – 歪んだ対立的な態度を持つことあるいは菩提心を捨て去ること – と同時に、心変わりしたという事実そのものにより菩薩戒にのっとり整っていた人生における倫理のかたちを失い、それ故それを保持しようと努力することをすべて止めてしまいます。結果として、私たちは自分が捨てた戒だけではなく、菩薩戒のすべてを直ちに失います。
菩薩戒の他の十六の項目を違反する(transgress)ことは根本の堕落にはなりませんが、その行動に伴う態度が四つの拘束要素 (kun-dkris bzhi) を持つのであれば根本の堕落になります。これらの要素は戒を破るとの動機が生じた直後の瞬間から違反の行為を完成させるその直後まで持ち続けていなくてはなりません。
四つの拘束要素とは、
(1) ネガティブな行為を有害とは思わず、有益なだけだと見なし何の後悔もなく行動に移すこと
(2) 以前から違反を犯す習慣に慣れていて、今あるいは将来においても繰り返すことを抑制しようとの願望や意図を持っていないこと
(3) ネガティブな行為を喜び楽しんで行動に移すこと
(4) 道徳上の自己尊厳(道徳心)を持たず(ngo-tsha med-p 廉恥心の欠如)、自分の行動が教師や両親などの他者にどのように反映するかを気にもかけず(khrel-med名誉心の欠如)、そのため自分自身に対して自分が与えている打撃を修復しようとの意図を全く持たないこと
十六の戒のどれであれ私たちがそれに違反する時には、これら四つの態度のすべてが伴わなければ、自分の人生で菩薩のかたちとそれを保とうとの努力もまだ存していますが、両方ともに弱体化しています。十六の戒については、単に破ることと失うことには大きな違いがあります。
例えば、私たちがその本への執着とけちさのために誰かに自分の本の一冊を貸さないとしましょう。これが間違っているなどと思いもしません – 結局、この人は本にコーヒーをこぼすかもしれないし、返してくれないかもしれません。以前にこの本を貸したことは決してないし、この決まりを変える意図は今でもないし将来にもない。さらには、断るときは自分の決心に対し満足しています。道徳(モラル)上の自己尊厳(道徳心)を欠いていて、ノーと言うことに関して恥じることはありません。断ることが自分自身にどう反映するのか気にもかけません、自分自身はみんなを悟りまで連れて行きたいと願っているはずの個人であるという事実にもかかわらずです。一体どうして自分の持つ知識の情報源をシェアできないのでしょう?恥もなく、自分が断ることが自分のスピリチュアルな(精神面での)教師や仏教一般にどのように反映するのかを気にもかけないのです。そして、自分の自己本意の行いを相殺するために何かをする気もありません。
自分の本を貸す時にこのような態度であれば、間違いなく自分の人生における菩薩のかたちは失われるでしょう。私たちは大乗の修行で完全につまずいたのであり、菩薩戒のすべてを失ったことになります。他方では、これらの態度のいくつかが欠けていたのであれば、私たちは自分の人生で菩薩のかたちを保とうの努力を単に弱めただけです。まだ菩薩戒は保ってはいるが、それは弱まった形になっています。
戒の弱体化
十六の戒律の項目のうちの一つを違反する時に、四つの拘束要素のどれをも伴わなければ実際に菩薩戒が弱体化したのではありません。例えば、本を貸してくれと頼まれた人に本を貸さないにしても、それは基本的には悪いことだと知っているときです。これを方針にしているのではなく、ノーと言うことはうれしくなく、自分が断ることが自分自身や教師にどう反映するのかを気にかけています。自分自身がどうしてもその本を必要としているとか、誰か他の人にすでに貸す約束をしているとかなどと本を貸すことを断る妥当な理由があります。私たちの動機は本への執着でもなくけちさでもありません。その人に今貸すことができないことを誤り、その理由を説明し、できる限り早く貸すことを約束します。損失を埋めるために、ノートをシェアすることもできます。このようにして、自分の人生で菩薩流の生き方を完全に保ちます。
私たちは執着と強欲さの影響の下にいればいるだけ菩薩流の生き方が弱体化し始めて菩薩戒を手放し始めます。仏法の教えや他の知識の情報源を共有しないようなことは避けるという戒を保つことで、自分の本への執着心やけちさを取り除くことにはならないということを覚えていて下さい。それは単に私たちがその影響の下で行動することを避けただけです。本を貸すかもしれないし、どうしても必要なために今は貸さないかもしれませんが、それにまだ執着していて基本的にはけちなのです。しかし、これらの心を乱す感情を捨て去り、その問題や苦から解放されるために苦闘する時に戒が助けてくれます。それでも、問題を起こすものが強ければ強いほど、自分の行動をそのようなものには指示されないとの自己制御を下すことはより困難なことです。
私たちはさらにさらにと執着とけちさに支配されつつあり – 戒は弱体化しつつあり – 本を貸さない時は、それが間違いだと知っていても、他の三つの拘束要素の一つ、二つ、あるいは三つすべてを持っています。これらは戒の軽度の腐敗(zag-pa chung-ba)の軽度、中度、主要なレベルを構成します。自分が断ることについて悪いことだと感じて、自分や教師たちにどのように反映するかを恥じ入るようであれば、自分の人生の中で菩薩流に生きたいとする菩薩のかたちはまだそれほど弱まっているのではありません。しかし、私たちが断ることに加えて、自分のポリシーをよく思い、そしてさらには自分や教師たちにどのように反映するかも気にかけないようであれば、私たちは自分の執着とけちさの餌食へとさらに落ちていくだけです。
自分の人生でこの流儀/かたちを保とうとする時に、本を貸すことを断ることは何も悪いことではないと非を認めないときはさらに弱体化したレベルに入ります。これは中度の腐敗(zag-pa 'bring)の中の軽度のレベルです。これにあと一つや二つの他の拘束要素が足されれば、そのかたちをさらに弱体化させ、それぞれが中度の腐敗の主要なレベルと主要な腐敗(zag-pa chen-po) になります。四つのすべての拘束要素がある時には、根本の堕落を犯し菩薩戒を完全に失うことになります。この時点では、私たちは完全に自分の執着とけちさの虜になってしまっているので、もはやそれらを乗り越えようとすることもなく他者を利益できるようにと自分の可能性を実現化させようとすることもありません。もし菩提心への取り組みの段階(発趣の菩提心)を見捨てれば、その段階を構成する菩薩戒を失います。
弱まった戒を強化する
菩薩戒が弱体化していたりあるいはそれを失った時に、戒を修復するための最初のステップは、自分の違反は間違いであったと認めることです。これを改悔儀式(phyir-'chos, phyir-bcos) で行うこともできます。そのような儀式は誰か他の人に自分の過ちを懺悔することでも、仏陀に許しを請うことでもありません。私たちは自分が犯したことに自分自身に対して正直になる必要があります。特定の戒の条項を実際に破った時にそれが間違っているとすでに感じたのであれば、その過ちを再度認めるのです。そうして、対抗する力 (gnyen-po'i stobs-bzhi) として働く四つの項目を生起させます。その四つとは、
(1) 自分の行為について後悔を感じる。戒の違反を犯す時または後であれ、後悔することは罪悪感と同じではありません。後悔は自分がやっている/いたその行為を犯す必要がなければいい/よかったのにと願うことです。それは自分の行動を快く思ったり後に随喜することの反対です。他方では、罪悪感は自分の行為は本当に悪い/悪かったと強く感じることで、だから自分は本当に悪い人間だとなります。このアイデンティティは本質的なもので永久的だと考え、私たちは病的にあれこれ考えてそれを手放すことはしません。しかし、罪悪感は自分の過ちに対する反応として決しては適切ではなく手助けになりません。例えば、自分を病気にするような食べ物を食べれば、その行為は間違っていたと後悔します。しかし、食べ物を食べたという事実は私たちを本質的に悪い人にはしません。自分の行動とその結果についての責任はありますが、自分の自己価値や自己尊厳の思いを奪うようなとがめる罪悪感を感じるのではありません。
(2) 過ちを二度と犯さないよう最善を尽くそうと約束すること。戒を破った時点でそのような意図があったとしても、自分の決意を意識的に再確認します。
(3) 自分の土台に戻ること。これは自分の人生の中で安全でポジティブな方向を再確認することを、すべての他者の利益のために悟りを成就することに心(ハート)を捧げることを意味します。言い換えれば、帰依と発願心を再活性化させ保守することです。
(4) 違反したことを相殺する対治策をとる。対治策としては、親愛と寛大さの瞑想や、不親切な行動を謝るとか、他にもポジティブな行いに携わるなどがあります。建設的に行動することは道徳上の自己尊厳感と自分の行動は自分が尊敬する人々にどのように反映するかを気づかうことが要求されるので、その欠如が自分のネガティブな行動に伴ったかもしれないことを対治策で相殺します。違反を犯した時に、恥ずかしいことだと感じたとしても、これらのポジティブなステップをとることは自尊心を高め、他者が自分の教師たちへの評価を高めるようになるでしょう。
終わりの言葉
菩薩戒を完全に失うことは実は非常に困難だと見てきました。ガイドラインとして心から尊敬し保とうと努力している間は、実際に戒を失うことはありません。これは何故なら仮に自分の心を乱す感情が一つの戒を破ることを生じさせたとしても、四つの拘束要素は決して完全ではないからです。そして菩提心について歪んだ対立的な態度を持っていたり菩提心を捨てたりしたとしても、過ちを認め、後悔などの対抗する力を奮い起こし、再度戒を授かれば、立ち直って自分の歩む道に戻ることができます。
ですから、戒を受けようか否かと決心しようとする時は、戒を完璧に保てるかということより、それをガイドラインとして保とうとすることが自分には可能なのかどうかの評価を下すことに基盤をおく方が無難でしょう。もちろん、戒を弱体化させたり失ったりすることは決してない方が最善です。足を折った後でも歩くことはできますが、びっこをひくことになるかもしれません。