ソーシャルメディア時代に仏教の考え方を適用する

インターネットなどによる情報化時代が進み、フェイスブック、ツイッターといったソーシャルネットワークが築かれ、携帯電話での簡易メールが浸透した、ソーシャルメディア時代となりました。これによって、人々は互いに結びつくようになりました。これに、iPodの利用増加、音楽鑑賞中毒、ビデオゲームの蔓延が拍車をかけた結果、今や多くの人がどこにいても夜昼なく一日中、音楽、ゲーム、携帯メール、ソーシャルネットワーキングをしています。こういった進歩の所産のひとつひとつが、有益・有害の両面で影響をもたらしました。いずれにせよ、このような発展というものは人々に深く影響を及ぼします。仏教が、このような社会の変化から来る恩恵をいかに増し、弊害を減じる助けとなれるかを私は探りたいと思います。そこで、このようなソーシャルメディアの恩恵、そしてそこにある弊害であるいくつかの点と、仏教がこのような進歩の局面に示さねばならないことを指摘させてください。

ビデオ : チョニ―・テイラー博士 — ソーシャル・メディアと自己愛
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テロリズム、気候変動、核拡散、世界的同時不況から生じる、ぞっとするような予想に直面すると、人はしばしばちっぽけで、無力で、孤独だと感じてしまいます。フェイスブックのようなソーシャルネットワークは彼らに、自らの行動や見解が、― 日常生活と見解の投稿に対して気に入ったという合図で返事ができる友人グループにとって、かかせないものなのだという気にさせてくれるかもしれません。彼らは、とても無力に感じるこの世界で、どこかしら自分の存在、重要性を確認しているように思えます。

けれどもこの「いいね!」をつけられるという機能の弊害は、不適切なうぬぼれの感覚を与えてしまいかねず、さらには自己陶酔を助長する可能性があります。また、「いいね!」は極めて浅薄で、かつ、実際何も意味し得ないのです。さらに人々にとって、フェイスブック頁上で迎え入れる友人の数と受け取る「いいね!」の数の方が、友人の人柄や真心よりもっと重要だと思ってしまう可能性があります。[ゆえに彼らは「いいね!」をひとつも受け取らないと、がっくりきてしまいます。]昼に食べたばかりのものや気に入ったというような、その人自身に起きている最もありきたりなことを投稿することにより、無意味で無駄なおしゃべりで自分と相手の時間の浪費を著しく拡大することにもなりかねません。そしてもちろんのことながら無駄なおしゃべりは、仏教の教えの中で触れられているように、四つの破壊的な言葉の行為のひとつです – すなわち、無意味なことを重要なこととみなしているのです。

このことに関して仏教は何を提供すべきなのでしょうか? 慈悲についての仏教のひとちの瞑想では、私たちがどんな風に全ての生き物の思いやりに全面的に頼っているかが強調されます。私たちの食する物も享受する物も、その全てが他者の骨折りの結果もたらされるのです。そんな風に私たちはまさに繋がり合っています。それが真相です。私たちは私たち自身をも含め、各々が為すことにはどれも価値があり、他者の人生に貢献しています。食糧を育てる人達、それを輸送する人達、それらが輸送されるための道路を建設する人達、車両を組み立てそれを販売する人達など – あらゆるものは互いに繋がり合っているのです。私たちは自分をいい気持ちにさせ、なんとかして私たちの存在をわからせ認めさせるために、昼食を堪能したことに「いいね!」をつける友人を持つ必要はありません。私たちは確実に存在し、相互に繋がり合っているのです。

通常世間が考えている「私」と呼ぶものと、我執の対象としての「私」との間の、仏教哲学における違いに目を向けることにより、私たちは単なる事実である他者と繋がっていると感じことができます。通常世間が考えている「私」とは、ちょうど以下のようなものです。 – ここに私がいる;私は話している;私は食べている;私は眠っている;等。そして我執の対象としての「私」とは、とても重要であり、間違いなく誰もが昼食に私が何を食べたか知らなくてはならないと自分が感じる、この慢心した「私」であり、;このようなうぬぼれが強い、肥大した実体的なエゴたる:「私」です。ですから仏教は、たとえ通常世間が考えている「私」・・・つまり私たちは存在こそすれ、「私」というこの慢心した感覚は当然のことながら幻であると指摘します。それがまさに投影なのです。そしてもし、「私がするどんな事もとても重要で、誰でもがそれに対して興味を引かれるのだ」と大いに強調し、自己陶酔的に力説するのを再確認してそこから立ち去り、「もちろん私は存在している」ことをこそ再び是認できれば、私たちは単なる事実である他者と繋がっているのを感じ、この事実によって、うぬぼれと自己陶酔に集中するように、私たちを実体的に存在している肥大したエゴ – 実体的な「私」 – にしてしまうことはないとわかるのです。私たちは、存在するとわかっているのでそれを証明する言明を必要としない、通常世間が考えている「私」という角度からもっと安心すると、認めてもらうために他者の顔色をうかがわなくなります。

さらに私たちは仏教から、もっと誠実であるよう教えられます。浅薄で無意味でしかない「いいね!」ではなく、必要とされるどんな方法ででも手助けするために、相手に対してもっと意味深長なものを書くことができるのです。真の相互理解という見地から、それはとても重要なことだと思います。無意味な「そう、そう、それって最高」というのは – ちょうど「いいね!」の表示ボタンを押すように – 実のところ誰とも繋がってはいないのです。そこで、これを重要視したり、私の「今日昼食に食べたもの」にそれが10個つくと気分が良くなる – といったことが極めて無意味で浅薄だということに、人はやっと気付くのです。

このようなソーシャルメディアのまた別の恩恵は、職場と自宅の往復だけの孤独に暮らしている – 孤立した人生を生きる人々にとってのものです。ソーシャルネットワークはそのような人に、共同体の一員だと感じさせてくれます。このことによって彼らは、幸福の感覚を抱くような親近感を得るのです。つまるところ、人として私たちは共同体の一員だと感じる社会的動物であり;それがとても重要です。そのことについての弊害は、自分が属していると感じる、非常にささいなことによってまとまりかねない友達のグループとでは、いかなる意味深い接触もない可能性があるということです。

仏教は精神の繋がり合った仲間の重要性を強調します。そしてそういった仲間はグループの一員だと感じさせてくれます。そしてもちろん僧院にもいますし、世界中のダルマセンターにもいます。けれども実際それは私たちの属するような仏教のグループや精神的なグループである必要はなく、ポジティブな価値で結びついていて、他者を手助けしようと努めるものであればいいのです:もしソーシャルネットワークの一員になるとするなら、そのソーシャルネットワークが、シェアすることのできるポジティブなものや建設的なものによって繋がっていれば、はるかにずっと有益になります。

また別の恩恵とは、ソーシャルネットワークによって家族が互いにずっと繋がり合っていられるようになり、家族全員が各々していること、家族の成員それぞれのことがわかるようになることです。これはアジアの家族の場合とりわけ役立ちます。彼らのアイデンティティーはしばしば個としての自分達よりも、家族全体が基になっており、年上の家族が年下の家族のことを自分の延長のようだものだと感じていることが多いのです。それはとても有益です。しかしその弊害は、プライバシーが容易に何もかもなくなりかねないということです。フェイスブックや電子メールを通じてたったひとりの人物にのみ連絡が取れるとは言っても、書くことについて – と言うのは、特にフェイスブックですが – たとえ他言無用と知らせても、それを受け取る誰か他の人によって公に拡散されてしまうことがあります。個人的なメッセージには、携帯メールをすることや電子メールの方がふさわしいのですが、携帯メールはやはり特にこれといった目的のない単なるおしゃべり:全くのナンセンスなものを書くことへと堕ちてしまう可能性があります。

仏教によって私たちは、慧眼認識を養うことを学びます。このケースでは、公的であることと私的であることとを正しく区別することです。密教では、例えば、他者は私たちの言うことを誤解したり誤用したりしますから、私的に、あるいは人に知られず特定の教えを保持することを学びます。そして、私たちに関する全てのことが世間一般に公表されるのを望まないなら、このような慧眼認識が人生のあらゆる領域に拡大されてもよいのです。それはまさに自制心の問題です。もしあなたがフェイスブック上に何かを掲せていくのなら、世間一般に知れ渡っていくのを厭わないようでなくてはなりません。そうでなければ携帯メールか電子メールの方が良いのです。

ツイッターに戻りましょう – 知っての通り、とても短いメッセージを送る場です。ひとつ有益なことは、ツイッターで、あなたが啓発されたと思う人々からの更新情報や新着情報を毎日受け取ることにより、孤立した孤独な人生を送る人々に、実際他者と関わり合う必要なしに一種の人的交流を感じさせられるということです。弊害は、良い気分になるためにこそこの機能を利用しているのに、実はそうはならず、あなたが啓発されたと思う人物の模範や忠告に従属するようにしてしまうことです。多くの人がダライ・ラマ法王猊下や他の偉大な人物から毎日ツイッターの新着情報を入手しています。

仏教には、グルヨーガとして知られているものがあります。グルヨーガでは、あなた自身の身、口、意と、グルの身、口、意が統合された感覚になるという完全な目的で、精神的教師からの啓発を促進します。つまりそれは、実際にあなたのグルのように振る舞い、話し、考えるよう努力するということであり;単なる理論におけるものではなく、実際的な人生におけるものなのです。ですから、この方法は、宗教的存在だけという枠を越えて、ツイッターの新着情報内に受け入れる啓発してくれる人物にまで拡張させることができるのです。言い換えれば、もしあなたが、より意義深いことと少し繋がったと感じ、あなたの人生に実際それを統合しようとするためにツイッターのメッセージを毎日受信しているのなら、単に気分を良くするためだけにそれを利用しないことです。

もうひとつ有益なことは、そのお陰で内気な人達が、かつて直に接したことがあったのに比べずっとオープンなやり方で他者とやり取りすることができるようになるということです。特にその人の友人が別の国にいたり、主要言語ではない言語で書いている場合です。人々は往々にして、口頭でより、書面での方がずっと自らを表現できるものです。その弊害は、直にやり取りをする能力を狭めてしまうことです。そうする人もいるように、特に、もしチャットルームで偽りの個性を装うであるとか、未熟なメッセージを受け取ったりそれが気に入らないと思う時に、スイッチを切る傾向があったり単に答えないようなら、面と向かった直接の出会いにおいて不可欠な要素である他者への感受性を失ってしまう可能性があります。実はそれは大きな問題です。

逆に私たちは、持ってもいない資質を持っている振りをすることなく、実際に持っている短所を隠そうとしないよう仏教に教えられます。もし私たちがソーシャルメディアを通じて自信を得たならば、 – と言っても私たち自身について正直である土台の上に – 実生活の状況へとこれを拡張していく必要があります。このようなソーシャルメディアがあることで、実は非常に助かるのです:もしそのおかげでやり取りをしてもっともっと自信をつけたならば、外に出て行って、顔と顔を合わせたやり取りをすることです;それをコンピュータ画面の後ろに隠したままにせずに。

ツイッターと携帯メッセージは私たちの考えを迅速かつ簡潔に表現できるようにしてくれるので、能率的に伝えることができるのがもうひとつの利点です。電話やスカイプのビデオ会話を通じた伝達に費やす時間が、とんでもなく長くならずに済むのです。これは、旅をしている場合や緊急事態の際に特に役立ちます。また、他の人からの緊急メッセージを受け取ることもできるのです。ですからかなり有益です。しかし、ほんの数語で私たち自身のことを表現し、ちゃんと綴ることさえしない弊害によって、自らを完全に表現したり、なんとか表現したり、会話を続ける能力さえも失いかねないのです。集中したり注意を持続したりする能力もまた、極めて迅速にわずかの間に物事を行っている – このような場のせいで、かなり減じられてしまうのです。

他者を手助けするには、彼らと意義深くかつ充分に理解し合えることが重要だと仏教は強調します。ですからツイッターのようなものは、メッセージに書くことができる字数に制限があるので、 – 全ての本筋からはずれたくだらない話ではなく;まさに核心を突き:実際に人との出会いにおいて意義深い肝心なところを理解させようとするなら、そのお陰でどうでもよい冗言を取り除くよう鍛えられるのです。しかしながら、実際に伝えていない範囲にまでとはならないよう、意義深い肝心なところをわかってもらえるよう、 – ツイッターでも – 気をつけなくてはなりません。

そしてまた仏教には、的を絞っていって、物事の欠くことのできない核心であるものを理解させてくれる、実に豊かな方法論があります。また当然のことながら、集中を養うことを促してくれる、それはそれは多くの瞑想法もあります。思うにこれが、将来仏教が期待をもって役立てられるようになる、とても重要なことになっていくことでしょう。ニュースを見るとして、例えば、ニュースのレポーターが何か語っていたとしても、ニュース報道の字幕に何か他のことが書いてあったり、二つか三つの事が同時に画面に出てきたら、的を絞り集中するのは実に骨が折れます。注意は、ほんの少しそれに注がれ、ほんの少しあれに注がれ、映像や内容はどんどん矢継ぎ早に切り替わり続けます。ですから、これは集中にとって甚だ有害です。けれども私の言うように、仮に人々が自らを成長させる見地から本当にさらに一段踏み込みたいのなら、集中を養うために仏教はとりわけ役に立つでしょう。実際、人々はメディアの影響により集中力ががますます持続しなくなっているので、多くのさらなる問題に直面することになります;しかしながら私はそれに取り組まねばなりません。

もうひとつの点は、インターネット接続機能を備えた携帯電話に関するもので、私たちはいつでもどこでもやり取り可能で、いつでもどこでもつかまり得るということです。これについての弊害は、画面上に映し出される点滅光のまさにその性質上、これらの電子機器があなたの注意を引きつけ、引き込み、中毒にさせる傾向があるということです。由々しきことなのです…ベルリンの地下鉄(私たちはそれをウーバーンと呼んでいますが)で非常に興味深いことには、各車両にテレビ画面(なんと、ふたつのテレビ画面です)が据え付けられており、ニュースと広告と天気とその類いのものが提供されています。そして、たとえあなたがそれを見たくないとしても、まさにあなたの注意を引く様子は驚きです;まるでなんだか私たちは虫や動物か何かのように、 – 点滅光が光ると見ないではいられません。

ですからそのように、携帯電話とコンピュータの画面もまた非常に強く興味を引きつけるので、私たちは中毒になってしまうのです。しかも、それらにひどく病みつきになってしまうために、あなたが自分のメッセージを逐一チェックしなくてはならいと感じてしまうので、ひとつたりとも見逃そうとしないのです。それに加えて、あなたは常にどこか心もとなく感じているために、日がな一日携帯電話を手にしていることによって偽の安心感を得ます。それによって私が思い起こすのは、一日中手に携帯を持っていないではいられないように – ロタ( lota )、つまりガンジス川の水を入れた小さな容器を携えて放浪しているサドゥーです 。それから、ささいな事についてがほとんどなので、携帯メールとフェイスブックのメッセージを日がな一日チェックし答えることで、あなたは膨大な時間を浪費してしまいます。

尊大という見当違いな感覚を以て、どんなときも自分のメッセージや電話で誰かしらを邪魔してしまう可能性があるとも感じてしまうかもしれません。そしてまた、きわめて無礼で非社交的になりがちなことがあります;誰かと一緒にいる時でさえ、携帯電話で誰か他の人にメールを打ったり話しかけたりしかねないからです。十代の若者達の間では、本当にまったく当たり前に見かけます。

そこで私たちは仏教から、あらためて執着を減らすよう学ぶのです。執着とは何でしょうか? 執着とは、何かの良い性質 – その利点 – を誇張してしまうのです。そこには存在しない、さらなる投影さえもしてしまったり、ネガティブな性質にはすっかり目をつむってしまうこともあります。それにもかかわらず、手放したくありません。これが執着です。また、もし仮に私たちがソーシャルメディアの恩恵についてもう少し客観的になり、 – 確かにそこには良い面がある – としても弊害もまた認識できるなら、そのことが、機器があると抱いてしまう執着や、実に愚かな行為をほんの少しは克服させてくれるのです。

仏教はまた、他者を思いやり、無意味なおしゃべりで彼らの時間を邪魔して浪費させることのないよう教えてくれます。無駄なおしゃべり – 無駄話 – という破壊的な行為を考察するならば、何故それは破壊的なのでしょうか? 単に、無意味であるものが大きな意味を持つと思っているだけなのですが、他者の邪魔をしてもいるのです。私たちは自分の時間を浪費し、他の人々の時間を浪費しています。特に、非常に重要で有益なことをしている人を無駄話で邪魔することは、非常にネガティブであり非常に有害です。ですからもし私たちが仏教からそれを学ぶなら、大いに役立つものとなるでしょう。

もうひとつの恩恵ですが、一般的に、世界の圧倒的で巨大で複雑な問題にさらされながらも、ソーシャルメディア、iPod、ビデオ、ゲーム等のお陰で、人々は自分自身の注目を向ける範囲を絞り込み、刺激やアクティビティーといった焦点が極めて絞られた領域に熱中することができることです。このように、世界情勢とあなたの個人的な問題について考えることの絶望から逃げ込む場を提供してくれます。それはとても複雑で困難なものであるため、失業や、そうなりかねないどんなこと – 経済的困難 – についてのあなた自身の個人的問題もが、友人とゲームで遊ぶ画面上の守られた小さな世界にすっかり夢中になりたいのを打ちのめしてしまっているのです。あるいはそれが:音楽鑑賞 ― そんな類いのことであれ何であれ。ですからある意味、あなたが守られた場にいるのだと感じるのは、ほんのわずかなのです。

では、その弊害とは何でしょうか? それは、あなたが自分の問題に実際直面しないことです。つまり現実逃避です。そこで、当然のことながらこのために仏教は四聖諦を示したのです。これはやはり、仏教の教えの主要なもので;その教えの中核となる重要な部分とは、私たちの問題に直面し、その課題つまり困難さを認識するということです;問題という現実を受け止めるのです。それはそこに存在しています;それが存在しないという振りをただするのではなく、対処するのです。そしてどのようにそうするのか?ですが、原因を考察します。つまり、あなたは本当にそれについて考え、調べてみたりしなくてはなりません。そしてただの表面的な原因ではなく、最も奥にある原因を見つけるのに充分なくらい深く入り込むのです。ひとつの原因についてそれを単に非難するのではなく、その問題はとてつもなく多くの原因と条件の膨大な相互作用から生じているのだということを理解するのです。そうすれば、その問題を阻止し取り除くことが本当に可能であるとわかるので、もう二度と起きません。

大事なのは、真に極めて深いものと、実際にもし私たちが仏教の実践をするようになったら納得するようになる必要がある、大事な大事な核心であるものです。 – 実際に上述のような問題は取り除くことができるので二度と再び起きません。私たちはただ問題を軽視しようとするような – 単に超お手軽版仏教をしているのではなく、問題というのは、まあ必ず再来するのだからとにかくその状況に最善を尽くしていこうと考えることです。それは実は、仏教の「実際の事物」ではありません。そこで、こういった問題は真に終わらせられると悟ることに取り組むので、それらは二度と再び起きなくなるのです。そうすると、私たちは一体何がそうさせることになるのかがわかります。何がそうさせるのか、それは普通、道として知られています。ここでの道( Path )とは身、口、意の行為の道筋のことですが、本質的に、誤解すなわち誤認の真逆となる理解の仕方のことです。ですから、誤認によって自分自身に問題をどんどんと創りだすのではなく、それを理解と置き換えるのです。もし私たちが四六時中そのような理解を持つことが出来るなら、問題が再び起きることはありません。

このように、ビデオゲームやフェイスブックのチャットに夢中になることで問題から単に逃避することに目を向けるよりもむしろ、それに直面しようとすることです。かと言って、このようなものにちょっとした一時的な気晴らしも得られないということではありません。仏教の教えにおいてそれは興味深く、;もしある人が帰依の別の源に向かうとしたら – えぇ、まあいいでしょう、つまりそれは一時的なこと;まさにうわべのことだとされています。とにかくそれを帰依の究極の源にはしないことです。ここでの帰依( Refuge )とは、人生において向かっていくべき対象や、直面している困難を克服できるようにしてくれるもののことを意味しています。

さて、もし私たちがさらなる恩恵へと進んでいくなら、;たとえ一方でこのようなソーシャルメディアのせいで私たちの関わるものの範囲が狭められてしまいかねないとしても、もう一方では、フェイスブックやツイッターが、広く世の人に容易に情報を広める手段を手にすることを可能にしくれます。例えば、政治的、精神的メッセージを拡散するためにそれを使うこともできます。一般に友人や人々が有用だと思うウェブサイトへのリンクを広めることもできます。そして、私たちの心をオープンにし、他者を手助けし、同様に彼らの心をもオープンにするためにそれを使うことも可能です。ただ、プロパガンダを拡散し、憎悪を起こさせるために使われることもあり得るという欠点があります。その点ではこれは、ツイッターやソーシャルネットワークだけではない、一般にインターネットに関する実に深刻な問題です。

そのことがおそらく、非常に多くの入手可能な情報があるという ― インターネットが試される最大の課題のひとつだと私は思います。識別は一体どうやってするのでしょう? ウェブサイトを持っていて、それに関して少しでも調べたことのある人なら誰でも、単語のグーグル検索対策として、あなたのウェブサイトをグーグルの最初の頁上のリストの先頭に持って行くことができるようにするトリックがあるのを知っています。それは、単にトリックをしているだけなので、最初の頁にあるものが、検索中の事項の最良の記事であるということではないのです。ですからこれは、とても由々しきことなのです。あなたが仮に、グーグルのような検索エンジンに「仏教」と入力すると、なんとまあ、一体何百万くらい、記事やインターネット頁の候補が出てくるでしょう? しかも、その多くがどうでもよいものである可能性があるわけですから、どうやってその全てを正しく見分けるのでしょうか? 非常に信頼のおけるものもあり;そうでないものもあるのです。

ではまず、ツイッターやフェイスブックなどを用いて掲載するものや送信するものという観点から、当然仏教は好ましい動機を持っていることを強調します。では、動機とは何でしょうか? 仏教において、動機には側面がふたつあるので興味深いものです。ひとつは:私たちの目的とは何か? ということです。私たちは – 伝統的ラムリムの説示(階梯)におけるように – より良い生まれ変わりを得ることを目指し、解脱を目指し、悟りを目指しているか?というものです。 そして動機の二番目の側面とは:何故?です。あなたが目標を達成しようと望むよう駆り立てている、背景にある感情とは何なのか? それは出離:まさに苦しみや転生にうんざりしているので解脱を欲するということであるのか? それは、あなたを悟りたいと望むよう駆り立てる、慈悲、愛、菩提心であるのか? それは、三悪趣に対する危惧と、あなたをより良い生まれ変わりに貢献するよう駆り立てる解決法があるとわかることであるのか? このようなことです。以上のように、こういった二側面があるのです。それからまた、非常に興味深いことは(通常ならば言うところではありませんが)、いったんその目標、その目的を達成したなら、何ををするつもりなのか?ということです。 思うにそれはまた、動機の一部でもあります。私たちは、もし菩提心の目的を達成したなら、出来る限り他者のためになるよう、あるいは、ためになろうとします。そしてまた、悟りを目的として、菩提心が私たちをそこへと導くのです。

さらに、私たちがインターネット上で物事を拡散していくなら、ツイッターであろうが、ウェブサイトであろうが、どんなものであれ – あるいは単に友人同士のサークル向けのフェイスブック上であろうが – 動機はとても大切だと私は思います。自分は何故これをそこに載せたいのだろうか? 自分が今日の昼に食べたものと、それが気に入ったことを皆に伝えることによって、一体何が果たされるのだろうか? あるいは、テレビ番組を見たけれども大したことはない;自分はそれが気に入らなかった、などと? その目的は何なのでしょう? こうすることであなたが目指しているのは一体何ですか? そして何故ですか? 何故あなたはこれを載せているのでしょうか? また、その情報を送信することによって、はて、皆がそれを知ることでどんな風に役立つのでしょう? このようにそういったことを考えるのは大事だと思います。そしてもしこのような側面において仏教の実践をするなら、単に昼に何を食べたかを広めるよりも、もっとずっと有益に – もっとずっと意義深く – ソーシャルメディアを使うことができます。

この点でのもうひとつの側面、ないし恩恵は、ツイッターの場合、例えば、その人のことを好んでいるか否かと関わる必要なく、自らの考えを表現することができることです。フェイスブックで言えば:他の人達が「いいね!」をつけるか否かのことです。ツイッターで言えば:誰ひとりとしてあなたの言うことに答えてくれない、というものです。このことは、特に人々がある件について不満や怒りを感じていて、誰も自分の吐露することについて思うところを全く論じたがらず、ただ世間に対して鬱積した感情を漏らしたいといった場合に役立ちます。ということはその弊害は、人々が悪態を垂れ流し、さらに、憎悪と暴力をも喚起させ得るということです。

そこでもう一度言いますが、あらゆるものは動機によって決まります。仏教は私たちに、何かを行ったり発言する前に動機を常に確認するよう教えてくれます。またコミュニケーション能力の見地から、読み手を知ろうとし、彼らに話しかけるためのうまいやり方を使おうとするよう教えてくれます。要は、うまいやり方とは何かということです。その真意は、絶妙なやり方;理解し合ったり、他者を手助けするそのやり方において絶妙であるということです。そしてまた、もう一度言いますが、読み手はとても大切です。そして、仮に私がちょっと「ああ、私は人生に対してものすごい不満がある。それは、とても悲惨だ」とか、そんな愚痴を言ったなら、私たちの言葉は他者にどのような影響を及ぼすでしょうか? 他者にふりかかる投稿の影響とはどんなものでしょう? このような不満と怒りを実際に表現できることで私たちはほんの少し解放されたと感じるかもしれませんが、どう考えても他者にとっては無益なのです。このように、仏教を実践したら、単に自分自身の基準であったり、自らを表現する必要性の基準から考えるのではなく、どんな風に相手が反応するか ― 誰もが興味を持っているか否か、また誰もが得るところがあるか否か、から考えるのです。

もうひとつの恩恵は:ツイッターによって、他のメディアでは報告されていないかもしれない、あなたが目撃しているニュース価値のある出来事についての情報を、即座に知らせられることです。携帯電話のカメラとフェイスブックを通じて、起きている通りに、出来事についての写真やビデオを知らせることができます。そしてこれは、戦争や抗議やそのようなものが存在する、大変な事態になっている地域で特に非常に役立ちます。さもなければ、実際決してニュースになることのない事 – たいてい、悲惨な出来事よりむしろ良い出来事を広めるのにぴったりです。

弊害は、くだらない事を広めるためにもこのようなメディアを利用できるということです。人々は最もばかばかしい事を広め、わいせつ、その類いのもの、暴力といった方向に進んで行くことさえあります。仏教は私たちに識別力のある認識を教示してくれますが、これはきわめて重要な仏教の行の側面だと私は思います。そして識別力のある認識は、究極の真実と幻想 – 真の世界の有り様、私たちの存在の仕方とはいかなるものであるのか、 – を見分け、私たちの誤認された投影からそれを区別し識別する、最も深いレベルでだけではなく、意義深いものと無意味なもの;役立つものと害のあるものを見分けるための世間的レベルにおいてもまた存在します。そしてこれは、鍛える必要のあるとても重要な能力です。

私が言っておきたい最後の恩恵とは、これほど音楽の揃った;iPodと関係があります。ベルリンの家に居る際、本当にまったくもって甚だしいのですが、地下鉄(ウーバーンと呼ばれています)に乗ると、人々の優に80%はイヤホンをして音楽を聴いているのです。また通りを歩いたりする時もいつでも彼らは音楽を聴いています。ですから、鑑賞する音楽にもよりますが、一日のうちかなり長い時間iPodで音楽を聴くことは、とてつもない程のプレッシャーがあると感じる人々の心を穏やかに保つのに役立つのかもしれません。あるいは、もし彼らがテクノミュージック – 本当に本当に強烈な音楽 – をかけているなら、疲れ果てたと感じている場合に元気づけられる気分にさせてくれるかもしれません。このように、これは明らかに存在する恩恵です。ただ、考えることを妨げ、心を鎮めることにとっての障害ともなり得るのは重大な弊害です。

ですから、多くの人は、ドイツで「イヤーワーム(音楽幻聴)」と呼ばれるものにかかっています。頭の中から追い出すことができないメロディーや歌があると、それが何度も何度も何度もただ繰り返し続けるというものです。つまり、当然のことながら音楽を絶えず聞くということは、考えることを実際に阻んでしまいます。そしてさらに、もし人々が「やれやれ、もし何かについて考えることがあったとしても、まさに憂鬱な気分になってしまった。だから、何もかも考える気がしない。」と感じたら – どんな精神的な向上や成長をしてもどうすることもできません。しかも彼らの心は決して穏やかではないのです。私たち自身の成長面で多少なりとも真に向上するには、頭の中の雑音を静め、もう少し意義深いものを取り込む必要があります。

それゆえに仏教は、自己修養を進めるための実践を教示してくれるわけですが、どうやって自己修養を進めていくのでしょうか? 私たちの行動の、恩恵をもたらす部分と弊害をもたらす部分についてあらためて考えを巡らすことによってです。したがって願わくば、必要な時のみ、また瞑想を通じた心の沈静化の付加物としてのみ、音楽を聴くことになればと思います。熱心なねばり強さ – 喜びに満ちた忍耐 – を育むことについての教えは、一休みすべき時を知るようにと説きます。もし自ら無茶をしたなら、きわめて有害になり得るということを。ですから、休憩を取るべき時がわかっていてもそれを誤用しないことです;自分を赤ん坊のように扱ったり、しょっちゅう休憩を取らないのです。 ― ちょっとした休憩を取るのを楽しんで ― 相手を活用しますが、その相手を利用すべきでない時を知っているのです。

しかもこのことを、音楽を聴くということだけでなく、テレビを見たり、DVDを見たり、そういったことにも適用することが大切です。このようなメディアは ― 点滅光やその種のもの全てが、前述したようにとても中毒性があります。ゆえに、動物のように私たちは魅了されてしまうため、それを食い止めるのは至難の業です。とは言え、時間制限を設ける戦術は大抵役に立ちます:30分間以内であれば何であっても、あるいはどれ位の制限時間枠でも、私は音楽を聴いたりテレビを見たりネットサーフィンをするつもりです。その制限時間枠がどれくらいかはどうでもよいのです。

こういったことは、倫理的な自己修養に関する教えにとって非常に興味深いものです。ゲシェー・ワンチェン(幼少のリン・リンポチェの家庭教師です)とこのことを議論したのを覚えていますが、ゲシェーは、最も重要なことは限度を設定することだと言ったのです。人々それぞれ、もちろん限度は多少異なるでしょう。別の著者による別の経典の破壊的行為などについての議論を考察してみると、わずかに異なって説明されているわけで、;つまり破壊的であることと破壊的でないこととの境界線はわずかながら違うのです。例えば不適切な性的行為についてその歴史を考察してみると、異なった経典ではかなり違った説明がなされています。また彼は、ゲシェー・ワンチェンですが、重要なのは、ここまでという線を持つこと、「私がするのはここまでであって、それ以上はしない。ここまでという線を越えてやらない。」と口に出すことだと言っていました。

ある状況やある物事が有害で不利益であると判断するような、識別力のある認識を培うことが大事な事です。それはただ弊害をもたらすだけなので、私は単にそういったことをやろうとしません。また何であれ、そのようにここまでという線を設けることができるならそれを守るわけですが … 仮に私たちにとって特別に困難な事案だとしても、もちろん初めに合理的に守れるような合理的な限度を設定したなら、やはりある程度短期間のうちはそれを守ることです。一週間は私はネットサーフィンや何にしても一切やるつもりはないですよ:何であれ構いません。大事なのは、修養を向上させ、その人が設定したある限度内で暮らすことです。気まぐれではないのです。何らかの法律や権威が課すことではなく、ただ有害 – 自分にも有害、他者にも有害 – な特定の物事があるという私たち自身の識別力に基づいてなので、私はそれをやりたくはないのです:それは問題や困った状態をひき起こすだけです。そして、もしある限度を守ることができるなら、対処していることが何であれ、限界を設定すべき問題がどんなものであれ、それをもっともっともっときつくしていくことができます。

そしてまた、私たちがiPodや携帯メールのようにかなりの潜在的中毒であるものに対処しているとき、これはとても重要なことです。そういったものは確かに役に立ちます – それらが不道徳であるとかそのようなことは全くなく、その限界を知るということです。そこでもしその限界を知り、利用を制限するとしても、実際に役立つことになる時は利用することです。有意義にそれらを利用してみるのです…例えば、単に同じ音楽を何度も何度も何度も聞き、他の音楽を検索しまくったりするようなことをするより、iPodで:精神的教え、仏法の講話といったものを傾聴するのです。もっと有意義に利用してみて下さい。

これが、世界で起きている事について、あなたと分かち合いと思った私の見解です。なぜなら、もし私たちが仏教に関わり、仏教の教えを他者に役立つ、 ― そして、他者に有益で意義のある ― ものにしようとすることに携わるのなら、私たちは今日世界で起きている事について考える必要があるからです。また、世界はあらゆるソーシャルメディアと共に、それはそれは急速に、しかも著しく変化しているのですから、この社会の発展と向き合い、仏教がいかにして役立ち得るかということになんとしても取り組み、それについて理解しなくてはなりません。

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