苦諦・集諦・滅諦
仏陀は、「私たちの誰もが直面する真の苦しみとは、私たちが不幸や満たされることのない幸せの浮き沈みを経験し続けていること、そしてそれらを感じる基礎、つまり制約のある心と身体を繰り返し持ち続けていることだ」と説きました。その真の原因は、私たちが自分自身やこれらの感情の存在の仕方に関して無知(無明)であることです。私たちは、これらが不可能な形で―たとえば、自己完結的で確固とした存在物として―存在しているという投影をし、このような見せかけの姿が現実に即していると信じているのです。このような誤解は煩悩をもたらし、この煩悩がさらに、自分が「自己」だと想像するものが「自己」であると主張したり、その「自己」を擁護しようとしたりする抑えがたいカルマ的な衝動をもたらします。もちろん、これらはただの幻想です。この誤解は、私たちが死にゆくとき、制約のある身体と心を保ったままとめどなく続く転生(輪廻)を再び引き起こすきっかけにもなります。
けれど仏陀は、これらの真の原因を取り除いて真の苦しみが二度と生まれないようにすることが可能だと理解して、それについての教えを説きました。四つ目の真理・道諦は、そのような真の停止をもたらす真の対処法に関係するものです。
正しい理解は無知を永久に取り去るための真の道
不幸や満たされない幸せを感じたり、あるいは何も感じなかったりすると、私たちはたいてい、それが永遠に続くような、何か確固とした特別なことだと考えます。けれどもちろん、私たちが経験する感情は、何も特別なものではありません。絶えず移り変わる無常なものです。ある感情は、存在する限り、強くなったり弱くなったりを繰り返し、いつしか自然に消えてゆきます。この事実に気付かず、正反対のことを考えていると、自分の頭の中の「私はこの幸せを手放したくない、この状態は素晴らしい!」とか、「私はこの不幸から離れたい、ひどい状態だ!私は耐えられない!」とか、「私は何も感じない状態を変えたくない、この状態だと安心できる!」とかいった、大きな叫び声に欺かれてしまいます。この「私」への強迫的な執着と、「私」を何か確固とした存在にまで誇張してしまうことよって、煩悩や衝動的な言動が生まれ、真の苦しみを永続させているのです。
自問してみましょう:「なぜ私は、自分が『私』と呼ばれる確固としたものとして存在していると考えるのだろう?なぜ自分が、頭の中で声を発している、自己完結的で、心身から独立した『私』だと思っているのだろう?」。もし、この問いへの答えが「そう感じられるし、そう思うから」というものであったら、さらに自問してください―「そう思うから」というのは、何かを信じるのに十分な根拠でしょうか?ただ「そう思うから」というだけの理由によって幻想の投影―、それも特に自分に関する幻想の投影を信じているなら、なぜそれについて不安に感じるのでしょう?なぜなら、この誤った考えを支持するものは何もないからです。この考えは、事実によっても根拠によっても裏付けられるものではありません。
実際、幸せや不幸などの感覚にも、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、体感したり、考えたりすることにも、何も特別なことはないのです。これらはどれも、しがみつくようなものではありません。これらをつかもうとするのは、雲をつかもうとするのと同じで、全く無駄なことです。また、「私」にも、「私」がいかなる瞬間に感じていることにも、何ら特別なことはありません。私たちは、頭の中で喋っている、いつも自分の好きにしないと気が済まない、自己完結的で確固とした存在物として存在しているのではありません。私たちは存在します。けれど、私たちが「自分はこのように存在している」と誤解して、「そう感じられるし、そう思うから」というだけの理由で信じているようなかたちで存在しているのではありません。そのように存在するのは不可能です。
この誤解や、自分に関する混乱した信念から抜け出すためには、これらを完全に打ち砕く対抗策が必要です。心を静めてこのように考えるのを止めると、一時的に混乱を抑えることはできますが、再び湧きおこってくるのを防ぐことはできません。真の問題の真の原因の真の停止を達成するための真の道である心は、私たちの無明とは相互排他的な、反対の心の状態であるはずです。無明(気づいていないこと、認識していないこと)の反対は気づき(認識)です。では、私たちは何に関する気付きを得なければならないのでしょうか?「自分が自己完結的な存在物として存在している」という誤解を打ち砕くのは、そのようなものはないということの非概念的な認識、つまり、そのようなものの完全な不在を非概念的に認識することです。不可能な存在の仕方に関する何らかの考えに基づいて―たとえそれが正確な考えであっても―、その不在に概念的に焦点を当てるだけのことではありません。根拠と非概念的な体験に基づいて、真実であると誤って信じていたものが現実に即さないことに気付くと、自分が「そう思うから」というだけで信じていた誤った考えと、それが誤りであることに関する無明が打ち砕かれます。無明の傾向や習慣は深く根付いていますから、一度に根絶するのではなく、段階を踏んで、徐々に取り除いてゆきます。
真の道の四つの側面
仏陀は、真の道は、空の非概念的認識に伴って生じる智慧(ものごとを見分ける気付き)の観点から理解できると説きました。この心所(心の構成要素)は、正しいものと間違ったものとをはっきりと区別します。
- 第一に、この智慧は、様々なレベルの無明を徐々に打ち砕き、最終的には完全に消し去る道となる心です。この智慧によって、私たちは、これまでに身に着け、受け入れてきた信条や価値体系に基づく無明と混乱から永久に開放されます。ここには、家庭や社会全体に植え付けられたものも、広告やソーシャルメディアによって刷り込まれたものも含まれます。
ソーシャルメディアで素敵なセルフィーを見たり、素晴らしい時間を過ごしている写真を目にしたりすると、自分が目指す容姿や生活のイメージが変わりますか?自分のことを良く思いますか?それとも悪く思いますか?「このような投稿は現実の生活を反映していない」ということを見分ける智慧は、「これらの投稿は現実を反映している」という誤解を永遠に捨て去る道です。結果的に、この智慧によって、人々と自分とを比べたり彼らに憧れたりしているときの誤った考えに起因する不幸や憂鬱を、永遠に捨て去ることができるのです。
この最初のステップを超え、「アリヤ」、つまり高いレベルで悟った存在になると、さらに深まった智慧によって、自ら発生する無明―たとえば、ほとんど常に頭の中で喋っている、確固とした存在物である「私」を見つけられると想像するときに生じる無明―をも、段階を踏みながら、永遠に捨て去ってゆけるようになります。そして解脱に至り、最終的には悟りを達成します。「私たちは、空を識別する智慧によって真の苦しみの真の原因から自由になることができる」と理解すると、「真の苦しみの真の原因からの解放を得る道はない」という誤った認識を捨て去ることができます。
- 第二に、「私」と呼ばれる自己完結的で確固とした存在物はないと認識する智慧は、そのようなものがあるという無明や誤った考えを永遠に打ち砕くための適切な手段です。なぜなら、これらは相互排他的な、反対のものだからです。「そのようなものがある」ということと「そのようなものはない」ということを、同時に信じることはできるでしょうか?これよって、「智慧は、真の停止を達成するには不適切な手段だ」という誤った考えを捨てることができます。
- 第三に、空を認識する智慧は、段階的に、解放された存在であるアリヤになり、さらには、悟った仏になるという悉地を成就するための手段です。これによって、「何らかの深い集中状態を得るのが、アリヤや仏になるという悉地を成就する手段だ」という誤解は打ち消されます。
- 第四に、この智慧は、解脱と悟りを阻害する煩悩や、煩悩の傾向と習慣を永遠に、そして完全に捨て去るための手段です。これによって、「煩悩やその傾向と習慣は心の本質の一部であり、完全に捨て去ることはできない」という誤った考えは打ち消されます。
要約
真の道である心とは空の非概念的な認識であり、この認識はものごとを見極める気付き、つまり智慧によって確認されます。真の道である心は、真の苦しみの真の原因に対抗し、破壊します。真の道である心を得ると、段階を踏んで、いくつもの転生を通じて真の苦しみの再発を永続させている真の原因である無明と誤った考えを、永遠に捨て去ることができます。このような心を得るのは、最も努力する価値があることではないでしょうか?