日常の言葉で四聖諦を考える

ハラパに戻ってくることができてとても嬉しく思います。今夜はカルマについてお話することになっています。仏教で扱われるテーマについて学ぶときは、当然、自分がそれを学ぶ理由や意義、あるいは仏教の全体的な枠組みにおけるそのテーマの位置づけについて多少なりとも理解していることが重要です。仏陀が説いたのは、基本的に、誰もが人生で経験すること、全ての人の人生で起きることです。私たちの誰もが経験する最も基本的なことは何でしょう?それは、私たちがときに幸せで、ときに不幸であるということです。私たちは自分の人生をそのように経験しています。そうでしょう?

幸せになったり不幸になったりするという状況について考えてみると、それに関する問題がたくさんあることに気付きます。不幸だと感じるときは、もちろん、それ自体が苦しみです。好んで不幸になりたいという人はいません。そうでしょう?私たちが不幸だと感じるのは、何かを―たとえば、友人が去っていくところを―目にするとき、あるいは何かを―不快な言葉などを―聞くとき、または、様々な気持ちで様々なことがらについて考えるときなどです。しかし、自分が実際に見聞きしていることや身の回りで起こっていることとはまるで関係なく不幸だと感じることもあります。これは悩ましい事態です。

では、幸せはどうでしょう?私たちはときどき幸せを感じます。幸せだと感じるのも何かを見たり聞いたり、愛する人から連絡を受けたり、何かを考えたり―たとえば、誰かと一緒に過ごした素晴らしい時間を思い出したり―するときなどです。しかし、より深く考えてみると、このような幸せも、それに付随する問題をはらんでいることが分かります。まず、このような幸せは決して永続しません。そして、幸せがどれぐらい続くのかは分かりません。さらに、私たちは決してそれでは満足しません。スプーン一杯の食べ物を食べれば幸せを感じるかもしれませんが、それでは不十分です。もっともっと食べたくなるのです。何かを味わって満足するためにはどれぐらいの量を食べたら良いのでしょう?これは非常に興味深い問いです。ご自身で考えてみてください。このような幸せのもう一つの欠点、もう一つの欠陥は、その次に何が起こるか分からないということです。幸せの次の瞬間にも幸せを感じ続けられるかもしれませんが、不幸だと感じるかもしれません。幸せは変容し得るのです。ですから、この幸せが私たちに安心感を与えてくれる保証はありません。

幸せや不幸に関するこのような分析や洞察は仏教に固有のものではありません。世界中の偉大な思想家たちがこのテーマについて考え、教えを説いてきました。しかし仏陀は、より深いところにある問題、より深遠な種類の苦しみについて理解し、その教えを説いたのです。仏陀は誰もが経験するこのような人生の浮き沈み―幸せが優勢になったり不幸が優勢になったりする状況―を深く考察し、「私たちの経験のあらゆる瞬間の一部こそが、このような状態を生み出している原因である」という結論に至りました。つまり、幸せと不幸の浮き沈みを伴う経験の仕方自体が、この不満足な状況を永続させているということです。

仏陀は、この苦しみの原因―あらゆる瞬間の中にあって不満な状況を永続させているもの―の正体を考察した結果、現実に関する混乱だという結論に至りました。これはつまり、自分や他者の存在の仕方、世界の存在の仕方に関する混乱のことです。

これは他の思想家たちが説明してきたこととは大きく異なるでしょう。たとえば、「私たちが経験する幸せと不幸の浮き沈みは、基本的に、掟への服従・不服従に対する報酬と罰だ」と言った人々もいます。多くの精神的な師は、幸せや不幸は基本的に服従によって決まると説いたのです。しかし仏陀はそれを否定し、「本当の原因は私たちの混乱であり、服従するか否かの問題ではない。生について混乱していることが問題なのだ」と言いました。さらに、「混乱は人生に不可欠な部分ではない。私たちがものごとを経験するために混乱は必要ではない。私たちは混乱を捨て去ることができるし、実際、二度と生じないように完全に捨て去ることは可能である」とも説きました。そして、「それを実行するには、ものごとの経験の仕方を変えなければならない」と言いました。

このような混乱を捨て去るためには、それを取り除いてくれるように誰かに頼むのではなく、自分の考え方や現実に関する理解の仕方を自分自身で変えなければなりません。誤解を捨てて正しい理解を身に着け、それを絶えず頭に入れておくことができたら、自分がもはや絶え間ない幸せと不幸の浮き沈みを経験しておらず、それを継続させてもいないことに気付くでしょう。日常的な言葉で言えば、仏陀の最も基本的な教えはこのようなものです。

カルマは言動の因果に関連する

カルマとは、幸せと不幸の浮き沈みを基本的に説明するものです。あるいは、こうも言えるでしょう―私たちの混乱はどのように幸せや不幸、好ましい経験と好ましくない経験を生み出しているのでしょう?あるいは、カルマは因果に関連するものだとも言えます。しかし、この因果というのは非常に複雑なテーマです。「バケツをいっぱいに満たすのは最初の水滴でも最後の水滴でもない。そこに集まった全ての水が満たしているのだ」という仏陀の言葉を考えてみてください。これと同じように、私たちが人生の中で得る経験はたった一つの原因から生じた結果ではありません。ある経験は、その直前、あるいは、永劫の昔のただ一つの原因から生じたのではなく、膨大な数の因(原因となる要因)と縁(条件)の結果なのです。

実は、これは科学的な見解とも一致する考え方です。なぜなら、科学の領域でも「ものごとはそれ単体で生じない」、「全てのものごとは互いにつながり合っている」と考えられているからです。非常にシンプルな例を挙げましょう。皆さんは今この部屋でこの講演を聞いていますが、もしスペイン人が15世紀にアメリカ大陸にやって来ていなかったら、皆さんは今ここにいなかったでしょう。そうではありませんか?スペイン人がアメリカにやって来たのは、私たちが今ここにいる因の一つです。このように、ものごとには直接的・間接的な無数の原因があり、それらの全てが、私たちが今、あるいはあらゆる瞬間に経験することに影響しているのです。

しかし、カルマは特に私たちの心に関連した原因を説明するものです。私たちの経験の原因となっているものは他にもたくさん―物理的要因、天気など―あります。自分の心だけではなく、他者の心から生まれたものも私たちに影響を与えます。たとえば、政治家がある決定をしたらそれは私たちに影響を及ぼしますし、それが混乱と混じり合うこともあり得ます。

カルマは信条や運命、予定説などとは関係ありません。カルマは私たちのものごとの経験の仕方、そして、自分の考え方が人生の経験に与える影響に関するものです。「カルマ」という言葉は言動の因果に関連するあらゆること―私たちの言動や態度に由来する因果関係―について、非常に一般的に使われています。「カルマ」は言動に関する因果全体を指して一般的に使われることも、この因果のプロセスの中の非常に限定的な一つの側面を指して使われることもあります。ですから、カルマのメカニズムを理解するためには、細部に至るまで詳しく検討しなければなりません。

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カルマの説明体系

仏教の枠組みの中で何らかのテーマに関する詳細な説明を検討し始めると、説明は一つではないということにすぐ気づきます。中にはこれを快く思わない西洋人もいます。しかし、一つの問題、一つの状況は、様々な視点から違った説明ができるはずです。西洋では実際にこれを行っています―私たち西洋人は、ものごとを社会的・心理学的・経済的な視点から検討しています。ですから、これはおかしなことではありません。いくつもの説明の仕方があるからこそ、私たちは様々な事象をより包括的に理解できるのです。このような説明の方法はどれも特定の思想体系―心理学、政治学、経済学など―を基礎としています。仏教にもこれに匹敵するものがあるので、カルマの仕組みも、哲学の教義によって様々に説明されるのです。これは、西洋においては一つの分野の中でさえも起こることです。たとえば、心理学の領域にはフロイト派の説明もあればユング派の説明もあります。社会主義者の視点でものごとを説明することもできますし、同じことを資本主義者の視点から語ることもできます。これと同じことが仏教にもあるということです。そして、いくつかの異なる宗派の説明を検討するのは、実際、非常に有益です。なぜなら、カルマの仕組みに関して違った角度から様々な洞察を与えてくれるからです。ここでは宗派ごとの違いを掘り下げる必要はありませんが、様々な説明体系があるということは心に留めておくと良いでしょう。

そしてこれは、当然のことながら、西洋の思想体系の視点からも経験を説明することができるということを暗示しています。それは必ずしもカルマの考え方と矛盾するものではありません。

衝動の心所としてのカルマ

カルマを特定のものとしてとらえた場合、ある説明体系によれば、カルマは心所(精神的な要素)ということになります。「心所」とは何でしょう?心所は、何かを認識する方法です。例を挙げましょう。私たちはある人を見て、その人に向かって歩いてゆきます。この経験には多くの心所が関連しています。これらは全て、認識の様々な側面です。いくつかのものはとても基本的―この人と別の人、あるいは壁との区別―です。相手を見るという体験には、興味という認識の仕方も付随するでしょう。他にも、集中力や様々な感情が伴うかもしれません。これは全て心所です。この相手を目にしてそちらへ行く瞬間に、これらの心所は全て互いにつながり合います。

では、どの心所がカルマなのでしょう?カルマは私たちをその人に引き付ける心所です。その人を見てそちらに行くという行為に伴う衝動がカルマです。それゆえ、いくつかの理論ではカルマはほとんど物理的な力のように説明されるのです。もちろん、他の心所がある場合もあります。たとえば意図です。私たちはその人に何をしようと意図しているのでしょう?その人を抱きしめる意図かもしれませんし、横面を張り飛ばす意図かもしれません。他にも多くの要因が関連していますが、カルマは、相手を見て自分がそちらへ向かうときに、彼らを抱きしめるとか殴るとかいった行動に駆り立てる精神的な衝動のことです。また、この衝動というのは、身体を使った行動に限ったものではないことを心に留めておいてください―私たちを特定の言動に駆り立てる衝動だけではなく、何かを考えさせてしまう衝動もあるのです。何かを考えているときも、言っているときも、身体を使って何かをやっているときも、そこには何らかの精神的衝動が含まれています。

カルマをもたらす言動の影響

仏教は、科学と同じように、因果の法則について多くを説いています。カルマ―今お話したような衝動―に飲み込まれて何かを言ったり、やったり、考えたりすると、相応の結果がもたらされます。カルマは当然他者に影響を及ぼしますが、「自分の行動が他者に与える影響」について多くを説明するものではありません。なぜなら、私たちが誰かに対して何らかの言動を取るとき、相手がどんな影響を受けるかは、多分にその相手自身に左右されるからです。私たちの行為が、単純に物理的・身体的な要因によって他者に影響を与えることもあります。たとえば、私が誰かを殴って、相手の肌にあざができる場合などです。これはシンプルな物理的・身体的な因果です。これをカルマで説明しようとしているのではありません。しかし、私たちが言ったことを相手がどのように感じるかは相手次第です。そうでしょう?たとえば、誰かにとてもひどいことを言ったら、相手はとても傷ついたり悲しんだりするかもしれません。しかし、ただ私たちをバカだと思って気にもしないこともあり得ます。あるいは、たとえば他の事柄に気を取られていて、私たちの言ったことを聞いていなかったり、聞き間違えたりしていることさえあり得ます。ですから、相手の気持ちを傷つけてやろうと企んでも―もちろん、仏教は誰も傷つけないようにするべきだと説いているのですが―それで相手が実際に傷つくとは限らないのです。しかし、ここにカルマは関係ありません。

「カルマの結果」とは、カルマの衝動に突き動かされて強迫的に行動した結果として自分自身が経験する結果のことです。

では、自分自身にどんな影響があるのでしょう?一つは―西洋科学の考え方によく似ていますが―特定の考え方や話し方、行動の仕方をするように条件付け、そのような行動様式を繰り返す傾向(種子、習気)を強めるということです。そして、行動を繰り返す傾向や可能性―「傾向」と「可能性」は多少違うものですが、ここでははっきり区別しなくても良いでしょう―の結果として、その行動を繰り返したいと感じるようになります。

では、この傾向、あるいは可能性は、一体何を生み出しているのでしょう?この傾向は感情―そばに行って抱きしめたいと思ったり、そばに行ってひどいことを言ってやりたいと思ったりする気持ち―を生み出します。そのようなことをしたいと感じたとき、もちろん私たちは実際にやるかやらないかを決めることができます。実行するか否かを自分で決定することができると気付くことはとても重要です。しかし、やると決めた場合、あるいはやるか否かを考えもせずにやってしまった場合、次のステップではカルマが作用し始めます。このように実際に言動をとってしまうときの衝動、欲動がカルマなのです。

これらの傾向から熟して生じるものはほかにもたくさんあります。その一つは、大まかに言えば私たちの経験の中身です。「中身」というのは漠然とした言葉ですから、もう少しはっきり説明しましょう。たとえば、「私はAさんに会うがBさんには会わない」というようなことです。また、人々が私たちに取る態度もここに含まれます。厳密にお話するには、慎重に言葉を選ばなければなりません。誰かが私たちを怒鳴りつけるのは、私たちのカルマのせいではありません。それは、相手が持っている、他人を怒鳴りつける傾向の結果です。しかし、誰かに怒鳴りつけられる体験をするのは、自分自身のカルマによるものです。

もちろん、これを理解するのは簡単ではありません。理解に近づく方法の一つは例を使って考えることでしょう。たとえば、赤ん坊がおしめを汚したら、その赤ん坊はそのまま、自分が生み出した汚物と共に過ごさなければなりません。それを取り替えてくれる人がいるかどうかという議論は置いておきましょう。私たちも人生で汚点を作ります。人生は続き、私たちはさらに多くの汚点を作ります。そういうものなのです。もっと具体的に言えば、私たちが他者に対して特定のふるまい方をすると、他者も私たちに対して似たような行動をとるということです。重要な原則はもう一つあります。それは、カルマはすぐにこのような働きをするのではないということです。誰かに向かってとても優しく、穏やかに話しかけても、相手が怒り狂って暴言を浴びせかけてくることもあるでしょう。

これこそ、カルマを本当の意味で理解するためには転生の議論全体を検討しなければならない理由です。何かの影響が現れるまでには非常に長い時間がかかります。この生の間に影響が発現しないことさえあるのです。事実、ほとんどの場合、この生の中では影響は発言しません。これは、西洋人がたやすく受け入れられる考え方ではないでしょう。仏教があたかも「今生で良いことをすれば、その結果来世は天国に行く。今生で悪いことをしたら、結果的に来世は地獄へ行く」と言っているかのように感じる人もいるかもしれません。

この点に関しては慎重に検討しなければなりません。仏教はこれと同じことを言っているでしょうか?これは簡単な問いではありません。非常に複雑なテーマです。カルマの因果を本当の意味で理解するためには、転生―仏教的ではない転生の概念ではなく、まさに仏教の転生の概念―を理解しなければならないからです。カルマの因を生み出す行動をとるのは誰でしょう?そして、その結果を経験するのは誰でしょう?報われたり罰されたりする「私」が存在するのでしょうか?

しかし、転生や経験の主体の問題からは離れましょう。最初にお話した通り、仏教は掟に従うか否かによって罰や報酬を与える体系ではありません。「人生はある種の試験であり、その結果は来世で受け取る」というのも仏教の考え方ではありません。シンプルに、「何かの影響が生じるには時間がかかる」と言っているのです。たとえばこれは環境について考えてみると理解できるでしょう。私たちが特定の行動をとると、私たちが生きている間に少しはその影響が生じますが、未来の世代にはそれよりはるかに深刻な影響が及びます。これに近いことが起きるのです。

幸せと不幸(楽と苦)

カルマが熟すことに関連する全く別の側面は―言い換えれば、カルマをもたらす言動によって生じる結果の別の側面は―、この講演の始めに触れたように、幸せと不幸の浮き沈みに関連するものです。特定の行動を繰り返すと、特定のこと―自分に対する他の人々の態度かもしれませんし、崖から頭の上に石が落ちてくることかもしれません―を経験することになります。この経験をするとき、幸せを感じるかもしれませんし、不幸だと感じるかもしれません。考えてみましょう。ゴキブリを踏み潰したときに「殺してやったぞ!」と喜ぶ人もいますが、「気持ち悪い」と嫌な気持ちになる人もいるでしょう。誰かに殴られたとき、あるいは怒鳴られたとき、とても悲しくて不幸な気持ちになる人もいれば、「そう、私は罪人だ。ろくでなしの悪人だ。だからこのような仕打ちを受けて当然なのだ」と喜ぶ人もいます。

ここメキシコのことわざだったか、それとも誰かがそういう話をでっちあげたのを私が信じてしまったのか分かりませんが、とにかく、こんな言い方があります―「夫が私を殴ったら、それは彼が私を本当に愛しているという意味だ。彼が殴らなかったら、私に興味がないという意味だ」。

この幸せや不幸は、ほとんど別次元のことのように聞こえませんか?自分が何かを習慣的に、衝動的にやってしまうこと、そして自分の身に何かが起こり、自分がそれを経験することは、一つの、同じ次元のことです。もう一つ、私たちが実際にそれをどのように経験するか―幸せ、あるいは不幸を感じながら―は別の次元のことです。私たちが経験するこれらの二つの次元は、カルマをもたらす過去の様々な行動が熟して生じています。幸せや不幸という次元だけを見るのは、大雑把な見方です。幸せや不幸は私たちの破壊的・建設的な行動によって生じるものです。破壊的に行動すれば不幸がもたらされ、建設的に行動すれば幸せを経験するのです。

破壊的・行動的言動

仏教においてこの「建設的」や「破壊的」が何を意味するのかを研究するのはとても興味深いことです。当然、これは幾通りにも説明できます。しかし、すでに検討したように、他者に与える影響という視点からある行為の本質を特定することはできません。なぜなら、どんな影響が生じるかは―非常に多くの他の要因が関連するため―誰にも分からないからです。ですから、「建設的」や「破壊的」というのは、その行動をとるときの私たちの心の状態に関連しているはずです。貪欲や執着、あるいは怒りや完全な無知から出た行動なら、破壊的です。一方、貪欲も執着もなく、怒ってもおらず無知でもない場合に取る行動は、建設的です。当然、それより優れている場合―つまり慈悲や寛容から出た行動である場合―も、やはり建設的です。

関連する要素は他にもあります。ある行動を破壊的なものにしたり建設的なものにしたりする要素を検討すると面白いことがわかります。この要素の一つは慚(倫理的・道徳的な自己の品格)です。これは自己イメージや自尊心に関連しています。自分を尊重する気持ちがなければ、自分の行動が自分自身に及ぼす影響には無頓着になります。つまり、「どうでも良い」という態度です。このように自己評価が低い場合、私たちは破壊的な行動をとります。つまり、自分自身をポジティブにとらえ、一人の人間としての自分を尊重しているのなら、愚か者のような行動はとらないのです。「私は冷酷で愚かな振る舞いはしない、なぜならそんなことをして自分を貶めたくないからだ。私は自分や自分の能力をもっと高く評価している」と考えるはずです。この慚の有無こそ、自分の行為が建設的であるか破壊的であるかを決める重要な要素です。

もう一つの要素は、自分の行動が他者に与える影響を気に掛けているか否かです。自分は何を言っているだろうか?私がおぞましい行動を取ったら、家族や祖国にどんな影響が及ぶだろうか?私がひどい振る舞いをしたら、人々はメキシコ人をどう思うだろうか?仏教徒が酔っ払って喧嘩をしたら、仏教や仏教徒にどんな影響が出るだろうか?自分の家族や所属するグループ―宗教、国家、町など―を尊重し、自分の行動やそれが他者に与える影響を懸念しているのなら、破壊的な行動をとらないようにするはずです。私たちが破壊的な行動をとるのは、そのような気持ちがない場合です。これは仏教の非常に深遠な洞察です。何が重要な要因なのでしょう?自尊心、慚、そして自分が所属するコミュニティを尊重する気持ちです。

このように考えると、テロリズムに向き合うという文脈において考慮しなければいけない点がいくつか見えてきます。もしあなたが、ある人やその人のコミュニティからあらゆる種類の慚を剥奪し、彼らの生活を悲惨なものにしたり、彼らについておぞましい考えを持ったりするなら、相手は、自分たちが何をしようとしても無駄だと感じます。彼らが自分や自分のコミュニティに何の価値も感じていないなら、破壊的に行動するのを止める理由はあるでしょうか?彼らは、失うものはないと感じているのです。これは、他者との付き合い―特に様々な世界情勢の中で―に関して、覚えておくべきことだと思います。他者の自尊心を剥奪したり、彼らのコミュニティを尊重する気持ちを踏みにじったりするのは、絶対にしてはならないことです。

これらは全て、ある行動を建設的なものにしたり破壊的なものにしたりするのに関連する要素です。これに加えて、「他者に対する自分の言動は相手に影響を及ぼす」という事実を真摯に受け止めるか否かという要素もここに数えられます。つまり、配慮や気遣い―私は「思いやりのある態度」と呼びます―があるかどうかということです。しかし、私たちは時に非常に無知で、「自分は相手に何を言ってもいいし、どうなってもいい。相手の感情など気にしない」と考えてしまうこともあります。このような場合、思いやりのある態度を取ることはできません。

これらの心所―貪欲、怒り、自尊心の欠如、自分の言動が他者に与える影響を考慮しないこと、配慮のなさ、自分の言動が他者だけではなく自分にも影響を与えるという事実を真摯に受け止めないこと―に影響を受けて行動をとってしまったら、どんな結果が待ち受けているでしょう?不幸です。しかし、この不幸は懲罰ではありません。

この点に関してはしっかりと考えなければなりません。これらのネガティブな心所に満ちた心は幸せな状態であり得るでしょうか?こんな心が私たちに幸せをもたらすことはあり得るでしょうか?それとも、不幸しかもたらさないでしょうか?よく考えれば考えるほど、このようなネガティブな精神状態は不幸な経験をもたらし、逆にポジティブな精神状態―貪欲や怒りなどがない状態―は幸せを生み出すことが分かるはずです。それゆえ、このように言動の一般的なカテゴリ―「建設的言動」や「破壊的言動」―が存在するのであり、これらは私たちに幸せや不幸の経験という結果をもたらすのです。

つまり、私たちの行動には特定の種類があるということです。たとえば誰かを怒鳴りつけるとか他者に優しくするとかいった行為には、その行為を繰り返す傾向や、相手も自分に対して同じ行為をする傾向を生み出す作用があります。

カルマを生み出す言動から生じるもう一つの結果は―ここでは詳しくは扱いませんが―転生です。私たちは犬やゴキブリに生まれ変わるでしょうか?それとも人間に生まれ変わるでしょうか?特定の経験をし、特定の言動をとるために、どんな心と身体を手にするでしょうか?他にも考慮すべき多くの点がありますが、この講義では最も基本的な原則だけを扱います。

決定論と自由意志

私たちは特定の種類の言動と経験を繰り返し、その全てには幸せと不幸の浮き沈みが伴っています。幸と不幸の感覚は、自分の言動に見合っているように思えることもあれば、そうでないこともあります。これらは全て絶えず浮いたり沈んだり、良くなったり悪くなったりしているので、次に何が起こるかは誰にもわかりません。当然、自分の身に降りかかることは自分だけが原因で起きているのではなく、またカルマのみによって引き起こされているのでもありません。私の身に起きることは、この世界の他の全ての存在に起きていることや彼らのカルマ、彼らがしていること、物質的な世界に起きていること―天候、自然災害など世界を構成する要素―からも影響を受けているのです。それゆえ、次に起こることを予測するのは大変困難です。影響を与える要素があまりに多いからです。事実、仏陀自身も「理解すべき事柄の中で最も複雑である」と言っています。

ここで、カルマに関連して多くの方から尋ねられる点を明らかにしなければなりません―これは決定論なのでしょうか、それとも私たちには自由意志があるのでしょうか?どちらも正しくありません。これらはどちらも極端な考え方です。「決定論」とは、通常、私たちがやろうとしていることやこれから経験することを他の誰か―自分の外側の存在、至高の存在など―が既に決めているという意味です。仏教ではそのように―私たちがこれからやることは他の誰かによって決められていて、私たちはその人の筋書き通りに行動する操り人形でしかない―は考えません。

一方、「自由意志」というのは、レストランでテーブルについてメニューを見ながら何を注文しようか考えている人のようです。人生はそれとは違います。そのように考えるのは正しくないし、混乱した見解だと仏陀も説いています。それではあたかも生や経験、そして今起きているあらゆることから切り離された「私」が存在し、その「私」がメニューのように人生を俯瞰して、そこから何かを選びとることができるかのようです。生や経験から切り離された「私」は存在しませんし、メニューに書かれた食べ物や自動販売機の飲み物のように選びとれる経験も存在しません。このイメージは、このような考えがばかげていると理解するのに役立ちます。自動販売機のキャンディのように、お金を入れてボタンを押せば好きな経験を選べるわけではありません。人生はそんなものではないでしょう?「今日は幸せを味わおう、それからみんなに優しくされよう」と前もって決めて、お金を入れたら機械からそれが出てくる、ということはありません。それ―自分の身に起こることや自分がやることを決めること―が自由意志ということでしょう。しかし、実際に自分の身に起こることは、これらの二つの極端な考え方よりもずっと微妙で複雑なのです。

カルマの根源としての混乱

この講義の初めの方で、何が仏教に特有かといえば、私たちが経験する絶え間ない幸と不幸浮き沈みや、起きて欲しくないのに自分では制御できないあらゆることの原因について仏陀が説いたことだとお話ししました。この原因とは、私たちの経験のあらゆる瞬間の一部であるもの、そして、この「シンドローム」全体を永続させているもの―つまり、混乱です。それだけではなく、この混乱の影響を受けて行動―建設的に、あるいは破壊的に―をとると、いわゆる「絶え間ない習慣」というもの、つまり常に混乱を伴って行動してしまう習慣が強化され、どんな時も常に混乱した状態で行動をとり続けてしまいます。

では、この混乱とは一体何なのでしょう?これは仏教の重要なテーマです。非常に簡単な言葉で言ってしまえば、私やあなた、そして全ての人や動物の存在に関する混乱です。たとえば、「私が宇宙の中心で、私は最も重要な存在だ。私は常にやりたいようにするべきで、私はいつも正しい。人々はいつだって私のために時間を割けるはずだ」と考えるようなことです。携帯電話に関わる態度にそれが見えることがあります。他者が何をしているかに関わらず、どんなときでも誰かに電話して邪魔をしてもいいはずだと考える人もいるでしょう。「いつだって私のために時間をとれるはずだ。なぜなら、彼らが何をしていようとも、私が伝えなければならないことは、彼らがやっていることよりもずっと重要だからだ」と考えているのです。このような混乱が根底にあるとき、彼らが自分の思い通りに行動しなかったとか、自分が好ましく思わないことをやったとかいう理由で、私たちは他者に対して破壊的言動―相手を怒鳴りつけたり非情になったり―を取ることがあります。相手は私の思い通りに行動すべきなのです。なぜなら、私が欲することは、彼ら自身が欲することよりもずっと重要だからです。あるいは、同じような混乱から他者に優しい態度を取ることもあります。なぜなら、相手に自分を好きになって欲しい、自分といるときに幸せを感じて欲しいと思っているからです。「相手が必要としているだろうことを私がやれば、私を必要としてくれるだろう。私は必要とされたい。だから娘に子供の育て方や家の切り盛りの仕方を教えているんだ」。これは本当に有益なことでしょうか?このような場合、娘が本当にアドバイスや協力を求めているかどうかはどちらでも良いのです。しかし、「自分こそが最も重要な存在で、自分が必要とされたいと感じ、自分は当然娘よりも育児についてよく知っているのだから、娘は自分の話を聞きたいはずだ」と考えているのです。

このような混乱は破壊的・建設的どちらの言動の背後にも存在しています。この混乱こそが、幸と不幸の浮き沈みのサイクルを永続させているのです。ですから、この混乱を取り除く方法を検討しなければなりません。

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混乱を取り除く

種子や薫習(カルマによってもたらされる傾向や習慣)が熟す仕組みに目を向けると、その全ては自分が経験する幸せと不幸の浮き沈みに対する自分自身の態度に関係していることが分かります。幸せや不幸の感覚に伴う心因は二つあり、ここでは重要な意味を持ちます。その一つは「渇愛」と呼ばれます。幸せを感じているとき、私たちはその幸せから離れたくないという渇愛―つまり、非常に強い欲望―を持ちます。「行かないで、いつも一緒にいて!もっとそばにいて!」というこの気持ちは、誰かと一緒にいる喜びを味わっているときに生まれるでしょう。あるいは、チョコケーキを食べているときにその喜びから切り離されたくないとも思うでしょう。そのせいで、もっともっとと食べ続けてしまった経験はありませんか?これが渇愛です。また、不幸を感じているときにはその不幸からできるだけ早く離れたいという渇愛を持ちます。この二つの根底にあるのは二つ目の心因、我執(確固とした『私』と起こっていることを同一視しようとする強固な態度)です。つまり、「私はこの幸せを手にしなければならない、私に幸せを与えてくれるのが何であれ、もっと多くを手にしたいし、私はその幸せから切り離されたくない」、あるいは、「私は好きではないものから切り離されるべきだ。私はお前の言っていることが気に食わないから、口をつぐめ。さもなければ怒鳴りつけるぞ」と考えてしまうことです。

渇愛や、起きていることと確固たる「私」との頑なな同一視―結局のところ、やはり混乱によるもの―によって幸せと不幸の浮き沈みを経験すると、種子が熟します。こうやって、私たちは浮き沈みを永続させ、これまでの習慣を繰り返しています。なぜなら、これが、種子が熟してそこから生じたものだからです。恐るべきことに、このような混乱は幸せと不幸のいかなる瞬間においても存在しています。そして、さらに多くの幸せと不幸の瞬間を繰り返させ、そこにもまた混乱が伴うことになります。つまり、現在経験している混乱は、以前に幸せや不幸を経験したときの混乱の結果だということです。

この絶え間なく繰り返されるサイクル、おのずから永続するサイクルこそ、仏教で「輪廻」と呼ばれるものです。この混乱を取り除くことができれば、カルマのシステム全体が崩壊し、私たちは輪廻から解脱することになります。混乱を捨て去って正しい理解を身に着けることができれば―ここでは詳しくお話しませんが、概要だけ掴んでください―確固たる「私」を支えているもの、「私はこれを手にしなければならない、私はあれを手放さなくてはならない」という考えの基礎になっているものは消え去ります。渇愛もなくなるので、種子(傾向)や薫習(習慣)を目覚めさせるものもなくなります。種子や薫習を目覚めさせるものがなくなれば、「自分にはまだ種子や薫習がある」とは言えなくなります。

例を挙げましょう。「恐竜を見る」という習慣があったとします。しかし、恐竜が絶滅してしまったら、ジャングルを歩いていても恐竜を見る習慣はなくなります。そうでしょう?かつてはジャングルの中でいつも恐竜を見かけていたので、その習慣がありました。しかし、もう恐竜はいなくなってしまったので、その習慣もなくなりました。この例を使って考えてみれば、種子を熟させる原因―自分に向かって歩いて来る恐竜―がなくなれば、その種子はなくなるのです。そして、種子がもう熟さないのなら―種子が存在しないから―、私たちは幸と不幸の浮き沈みを経験することはなくなります。そしてもちろん、それに伴う混乱も経験しなくなります。これらもすべて全て消え去ってしまうのです。

こうして、私たちは輪廻から解放されます。解脱を達成すると、現在のような、心が満たされず安らぎを得られない浮き沈みの状況を味わうことはなくなります。なぜなら、全く違う性質の幸せ―混乱が混じった幸せや「ゲームに勝ったから報酬を得る」といった類の幸せとは全く違うもの―を安定して経験することになるからです。これは、困難な状況から解放された人が味わうことのできる幸せです。簡単な例―正確な喩えではありませんが―は、一日の終わりに靴を脱いだ時のような幸せ、痛みから解放された心地よい安堵の感覚です。

また、解脱を達成すると、カルマによる衝動―あるやり方で行動し、特定の結果がもたらされるような―に突き動かされて行動することはなくなります。もし、解脱より高い目標―仏になること―を目指して自分を高める取り組みを行うなら、私たちは悲、つまり他者が苦しみやその原因から解放されるように願う気持ちに駆られて行動するようになります。

結びの言葉

以上が、カルマに関連するいくつかの原則の紹介です。説明すべきことは他にも山のようにあります。中には特定の基本原則で説明できることもあります。たとえば、ある種類の行動をとると特定の結果が生まれ、そこにある要素が加わると結果はより重大なものになり、要素がなければ―意図してではなく偶然やってしまった場合―別の結果が生じる、などのことです。非常に多くの詳細な事柄があります。

今何が熟そうとしているのかについては、原則を使って一般化して説明することは困難です。なぜなら、私たちの身に起こることは、それ以外の全てのことから影響を受けているからです。誰かが交通事故に遭った場合、その人がそんな経験をした原因は何でしょう?それは、その場に居合わせた他の全ての人々をその道路に存在させた彼ら自身のカルマ、交通状況、天気、道路の状態など、たくさんの原因があります。「交通事故に遭う」という特定の出来事が今まさに熟すためには、非常に多くのものが必要なのです。

このテーマについては様々な角度から非常に多くのことを考えることができます。カルマについて学べば学ぶほど、カルマに支配された状況から脱することが有益だと思えるようになるでしょう。なぜなら、解脱によって、自分自身がカルマの苦しみから解放されるだけでなく、より良く他者を助けることができるようになるからです。

何か質問はありますか?

質疑応答

この文脈では、罪悪感は無関係なのですか?

その通りです。仏教のカルマの考え方には、罪の意識は関係ありません。罪悪感は確固たる「私」、孤立した「私」という存在を念頭に置いた考え方を基礎としています。このとき、「自分の行為」はまた別の確固たるものだと考えます。つまり、「私」と「私の行為」をまるで2つのピンポン玉のようにとらえているのです。それゆえ、「私」という存在が悪かったとか、「私がやったこと」が悪かったなどと信じてしまうのです。この二つのもの―確立されているように見えるもの―に対する判断をして、それを手放さない状態が罪悪感です。これではまるで、ゴミを捨てずに家の中に溜めておいて、それがいかに気持ち悪いか、どんなに汚くて臭いか言いふらしながらも決して処分しないでいるようなものです。

ご説明されたことは非常に理論的で分かりやすく、カルマのシステム全体も、混乱や衝動、傾向などを取り除く方法も理解できました。しかし、経験や強迫的に行動しようとする衝動を今捨て去ることはできないと思います。

その通りです。ですから、まずは倫理的な自己制御の訓練が必要なのです。忘れないようにしてください―「今日の服はみっともないね」と言いたくなることと、実際にそれを言うこととの間には小さな隙間があります。その隙間に気付くことができるのなら、「みっともないね」と言ってしまったら相手にどんな影響を与えるかを考える能力があるということです。そして、それを言うのが建設的ではないと思ったら、言わなければ良いのです。これが倫理的な自己鍛錬と自己制御の訓練のスタート地点です。

また、自分が何かをしたいと思っているときの感情を吟味することもできます。「私が何かをやりたいと願っているのは、貪欲のような煩悩によるものだろうか?私の欲求の根底にあるのは怒りや無明だろうか?『みっともない服だね』と言っても何も影響はないと思っているのだろうか?あるいは、私が何かやりたいと思う気持ちの根底にあるのは優しさなどのもっとポジティブなものだろうか?」と考えるのです。煩悩や悪見の定義を知っておくのは重要です。煩悩は、「それが生じると心の平穏や自己制御が失われる精神状態」と定義されます。

自分が心の平穏を失っているときにはそれと気づくことができます。そんなときには動悸が速くなり、少し不安を感じているはずです。ですから、微細なことに気付くように心がけてみましょう。たとえば誰かが「私にはこれは理解できないな」と言ったとき、つい「私にはわかったよ!」と言ってしまったら、「私は高慢さゆえにこれを言っている」と気付くようにするのです。いくらかの居心地の悪さを感じるとき、その背後にはいくらかの高慢さや傲慢があるのです。これこそ、私たちが注意すべきものです。

現実を理解する―つまり、空などに関する理解を得る―のは非常に難しいことです。たとえ実際に理解できたとしても、それに馴染み、常にその理解を身に着けていられるようにしなければなりません。これこそが、自己鍛錬、つまり破壊的な言動を止めることから始めなければならない理由です。

ちょっと分からなくなってしまいました。先ほど、幸と不幸の浮き沈みを永続させている感情は二つあるとおっしゃいました。その一つは渇愛だとおっしゃいましたが、もう一つは何なのでしょう?

先ほど種子(カルマによってもたらされる傾向)を活性化させる二つの要因についてお話しました。これは十二支縁起の教えに由来する解説です。一つは渇愛です。もう一つは―単純化してお話しましたが―「見取見」(獲得者の態度・感情)と呼ばれるもので、5つほどの異なる種類があります。これは結果を得るものです。ですから、最も深刻なのは、自分が経験しているものや起こっていることと確固とした「私」とを同一視してしまうことです。

つまりそれは、確固たる「私」を何かと混同してしまうということですか?そこに混乱があることははっきりしていますし、その混乱をどうにかして取り除かなければならないことも分かります。しかし、一体私たちは何を誤解していて、何と混同しているのでしょうか?

これをシンプルにご説明するのは簡単なことではありません。私たちは実際に存在する「私」、つまり通常の意味でいう「私」と、実際には存在しない、偽の「私」とを混同しているのです。私たちは実際に存在する「私」が不可能な方法で存在していると考えています。これは誇張、つまり、実際にはないものを付け加えているのです。たとえば、「私は幸せだ」とか「私は不幸せだ」と言うでしょう。このとき、不幸なのはあなたではなく、私です。幸せや不幸を経験するときには、「私は幸せである」という状況です。あなたや他の誰かではなく、私が幸せなのです。この場合の「私」は、通常の意味での「私」です。この「私」は実際に存在します。

通常の意味の「私」を表す例を挙げましょう。私たちは『風と共に去りぬ』という映画を見ます。映画の中には幸せなシーンも不幸なシーンもあり、また別の幸せなシーンがあります。一体何が起きているのでしょう?この幸せなシーンは『風と共に去りぬ』の一場面です。また、この不幸なシーンも『風と共に去りぬ』の別のシーンです。これらの全体、幸せなシーンも不幸なシーンも含めた全ての場面に通常のやり方で名前を付けるなら、それは『風と共に去りぬ』になります。しかし、これはタイトル、名前でしかありません。私たちはタイトルのことを言っているのではなく、実際の映画、このタイトルが示す映画のことを言っているのです。これが、通常の意味で存在する「映画」です。それは存在します。映画はこれらのシーンの一つずつから切り離されて存在するのではありません。シーンから切り離されて、独立して存在する映画は本物の映画ではないでしょう。そんなものは存在しません。通常の意味で存在する「映画」は、いわば全てのシーンに基づいて、ラベル付けしたり帰属させたりすることができるものです。

同じように、私たちの人生にも幸せな瞬間があり、不幸な瞬間があります。これらの全てに言及するとき、私たちはどうしているでしょう?私たちはこれを「私」と呼んでいます。これが通常の意味での「私」で、これは実際に存在しています。そしてこれはあなたではなく「私」です。これと同じように『風と共に去りぬ』は『スターウォーズ』ではありません。しかし、幸せや不幸を感じる瞬間から切り離されて、これらの瞬間を経験している「私」は存在しません。それは偽の「私」、存在しない私でしょう。そして「私」はただの単語ではありません。「私」とは、人生の経験の全ての瞬間に基づいて、この言葉が指しているもののことです。

ですから、この「混乱」とは、この身体の中に独立した「私」が住んでいて、何らかの方法でつながっており、ボタンを押せば「私」が足の痛みを感じ、不幸で嫌な気持ちになると考えることです。あたかも、「身体」と呼ばれるよそ者の中で起きる経験とは別に独立した「私」が存在するかのようです。この切り離された「私」、偽の「私」と、通常の意味でいう「私」とを同一視すると、強い欲求と共に「このような不幸や痛み、この身体の痛みから生じる不幸から切り離されなければならない」と感じるのです。これは、もしこのような確固たる「私」という誤った考えがなかったとしたら、そこでじっと痛みに耐え続けなければならないという意味ではありません。足が燃えていたら当然火を消します。しかし、この場合の「私」の概念は全く異なるものです。このとき、パニックはないのです。

しかし、この「偽の『私』と通常の意味での『私』」というのは非常に複雑で高度なテーマです。ですから、今回はここまでです。代わりに、深い祈りを捧げて今晩のセミナーを終わりにしたいと思います。この講演から得られたあらゆる理解、あらゆる功徳がより深く、より強くなり、全ての衆生の利益のために悟りに至る因となりますように。

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