自らの動機を再確認することと復習
あなたの周りの人々を見てみて下さい、近い/近しい人か遠い/疎い人、金持ちか貧しいかに関係なく、私たち全員が幸せを欲し、苦は欲さないと言う点で同じです。それを達成するには、仏法の実践が最善です。私たちは人間の恵まれた身体を持ち、倫理的な規律、大乗、密教の完璧な教えに出会い、同様にりっぱな資格を持つ導師にも出会いました。ですから、私たちはすべての心を乱す感情や態度(煩悩)を除去し、すべての善き資質(徳)を得て、悟りに到達するという大乗の完全な動機を持つ必要があります。
基本的には温かく、親切な心(ハート)を発展させることです。これが表面的にも究極的にも、自分自身や他者のための、すべての幸せの根本です。それが菩薩の決意で、自らには悟りをもたらし、それ故に誰にでも幸せをもたらすことが可能になります。そのためには、できる限り親切な心を発展させることが必要です。
ただ「親切な心(ハート)を発展させることができますように」などと言わないで下さい。私たちがすべきことは、実際に訓練して、親切な心を得るための諸段階を実践することです。まず方法を知り、それを実践に移す必要があるのです。すべての仏法(ダルマ)の教えは、仏陀の言葉のカンギュー(Kangyur )百巻とインドの偉大な師たちの注釈のテンギュー(Tengyur )二百巻に収められています。チベットに段階的な心の訓練と態度の浄化の教えである、完全なラムリムをもたらした主なラマ(導師)は、アティーシャです。彼の『菩提道灯論』 (チベット語 Lam-sgron、サンスクリット語 Bodhipathapradita) は、このテキスト『三十七の菩薩の実践』の典拠です。この『三十七』は短く分かりやすいので、暗記して、その意味を考えながら何度も復唱して、そしてその教えを実践に移す必要があります。
ここで、このテキストの教えの続きを聞いて下さい。最初に、私たちは人間の貴重な身体のことに気づき、それを活用することを考える必要があります。私たちは死ぬと、この身体を失うことは確実なので、今生の執念から目を背け、ゆくゆくは後生の執念からもまた目を背ける必要があります。
これをやるには、まず死と無常について考え、それから、死ねば三悪趣の一つに転生するかもしれないということを、考える必要があります。私たちは地獄(喜びのない世界)にとらわれたものや、餓鬼を見ることはできませんが、畜生(動物)やその苦については知っています。彼らがどのように虐待され、打たれ、労働のために酷使されているかを、医学の実験のために残酷に使用され、その肉のために屠殺されていることなどについては知っています。ある地域では、動物を殺すことは木を切り倒すことや、野菜をとることと同じものだと感じられています。しかし、仏教では違います。私たちは実際に動物の苦しみを真剣にとらえ、自分自身も簡単に動物に輪廻転生するかもしれないと考えます。
動物(畜生)に転生することを避ける道を教えた人が、完全に悟った仏陀です。仏陀は行動の因果関係の道を教え、どの行動を捨てて、どれを採用すべきかを教えました。私たちは仏陀の完璧な教えを、できる限り学ぶ必要があります。何故なら、それらには何一つ欠点はなく、完全に安全で健全な人生の方向を提供しているからです。昨日も言いましたように、仏陀、仏法(ダルマ)、僧伽(サンガ)が安全な方向の三宝(仏・法・僧)です。これらの三つのみが、決して間違うことのない安全で、守られて、安定した人生の方向を提供しています。世俗的な神々に、友人として助けを請うことには、何の問題もないのですが、私たちの究極の帰依を彼らに求めることは、適切なことではありません。
タイやビルマの寺院の僧侶たちを見て下さい。彼らは本当に素晴らしいです。寺院には釈迦牟尼仏陀のみで他の像はありません。チベットの寺院では、釈迦牟尼仏陀の仏画だけでなく、その他のエキゾチックな見かけのさまざまな守護尊などがいます。日本では、三人の主な教師の仏画だけで、釈迦牟尼仏陀の像はほとんど見かけません。もちろん、仏陀を導師たちと切り離すことはできませんし、仏陀が多くの姿で現れることは事実ですが、これはちょっと違うのです。ポイントは私たちが主にインスピレーション(加持)と悟りの影響を求めて向かう人は、釈迦牟尼仏陀のはずです。しばしば、人々はチベット人が仏陀のことを忘れ、守護尊の仏画の前で太鼓を叩いていると批判しますが、これには大きな危険があります。注意して下さいね。まあ、この点に関してはこの位でいいでしょう。
僧伽(サンガ)の宝に関して、タイやビルマにおける修行は、また素晴らしいものです。僧侶たちは大いに尊敬され、在家の人々と、その供物により、支援されています。これは素晴らしいことです。しばしば、人々は実際には安全な方向には、仏陀と仏法の二つの宝しかなく、僧伽は無用だと感じるようです。彼らには僧伽は忘れても良いもので、誰もが僧侶や尼僧になる必要はないと考えますが、私たちは自分自身の気質をチェックしてみて、適しているのであれば僧侶/尼僧になるのが最善です。しかし、僧侶や尼僧を批判することだけは、決してやらないで下さい。私たちは自分自身だけを調査して、批判する必要があります。サンガは模範を示して、仏陀の教えを象徴するために重要です。私たちは自分自身の業(カルマ)について、自分の言動について慎重になる必要があります。
破壊的な行動を避けること
(8) 悪趣への輪廻転生での、極めて堪え難い苦しみは、ネガティブな行為の結果であると、 釈迦牟尼(聖者)は宣言したのだから、命をかけてでも、決してネガティブな行為を犯さないことが菩薩の実践です。
平たく言えば、私たちが善いことをすれば、善いことがそこから生じ、悪いことをすれば、悪いことがそこから生じます。とても簡単です。結果は原因と同じカテゴリーに従います。必ずそうなるし、しかも小さな原因から広範囲にわたる結果を得ることもあるのです。
国のレベルにおいても、どのような恐ろしい状況も、過去の破壊的な行動のネガティブな力が蓄積して生じるのです。例えば、チベットでは時々干ばつが起き、農作物が枯れます、時には戦争や侵略なども起きます。これらがすべて私たちの過去の破壊的な行動と、ポジティブな力(功徳)の欠如によるのです。過去の行動により蓄積されたポジティブな力がなければ、私たちが何をしても、よい条件をもたらすことはないのです。それ故、私たちはいつも他者の幸せを望む必要があるのです。中国人に関しても同様に、彼らが良い方向にいくことを望むのです。彼らに悪いことが起きますようにと、望むべきではありません。彼らが経験することは、彼ら自身の行動の結果です。
破壊的な行動は私たちの心を乱す感情と態度(煩悩)から生じますが、このように行動することで、私たちはネガティブな力を蓄積するだけで、それは私たちに苦をもたらすだけです。破壊的な行動は、身体(身)、言葉(口)、心(意)に関わります。身体の例としては殺生がありますが、人を始めとして昆虫に至るまでの命を取ることです。殺すことは非常にネガティブなことなので、できる限り避ける必要があります。
すべての生きとし生けるものが同等に生きる権利を持ち、その命をできる限り大切にする権利を持っています。指をとげで刺されたら「あいた、痛い」と言います。誰もが、すべての生きとし生けるものが全く同じ思いをします。 動物を生け贄にすることは特にひどいことですが、まだそれを行う土地もあります。昔は、キノーや、スピティや、ネパールの一部、そしてチベットの一部でさえ行われていました。表面的にはそこの人々は私、ダライ・ラマに帰依していますが、それでも動物を生け贄にします。これは非常に悪いことです。慈悲のマントラの「オーム・マニ・ペメ・フム」を唱えながらも、生け贄を捧げることは決してやってはいけません。
次は盗み(偸盗)です。これもまた非常にネガティブなことです。不適切な性行為(邪淫)は、他人の配偶者、あるいは誰かと関係にある人と関係を持つことですが、それに対して何も悪くないと考えることです。歴史上の書物を見れば、王室のほとんどの不和や争いは、不適切な性行為が原因になっています。とても破壊的なことです。
次が噓をつくこと(妄語)です。これもまた非常にネガティブです。もちろん、誰かの命を助けるために噓をつくことは別ですが、私たちはいつも正直になる必要があります。噓をつけば、不幸をもたらすだけです。誰かが噓を見抜くのではないかと不安になります。それは非常に落ち着かない心の状態ですね。
次が、他者が仲違いをするような原因となる両舌です。私たちは誰かの悪口を聞くとそれを広めますが、これは非常に破壊的です。他者が一緒になるように心がけるべきです。人々が共に住んで働くときは、お互いが自信を持ち信頼することを基盤にして調和するのです。例えば、中国を見てみると、誰もが同志であると言いますが、それはあくまでも卓上の議論です。外では、お互いが石けん一個だって分かち合うことはありません。これは彼らに自信はなく、お互いを信頼していないからですが、互いが仲違いするようなことが原因で起きているのです。ですから、両舌は決して使ってはいけません。
次が、他者を「乞食」と呼ぶなどの、乱暴な言葉(悪口)を使うことです。相手の気持ちを傷つけますし、幸せをもたらすことはあり得ません。うわさ話はおしゃべり(綺語)ですが、いつも無意味なことを言うことで、全く時間の無駄です。
そして、貪欲の思いがあります。誰かが何か良いものを持っていると、自分も欲しくなり、そしてこの物にすべての注目が行き、ただこれが欲しいと望むばかりになる。注意しなければ、歩きながら壁にぶつかるだけです!
悪意を持つことが、次です。これもまた、非常にネガティブで、私たちを不幸にするだけです。悪意は普通、他者を傷つけることはなく、自分自身を傷つけます。他者を恨んだり、悪意を持つことは、非常に自己破壊的です。恨むことで問題を解決することは決してありません。諸問題は慈悲や慈愛や忍耐を通してのみ解決できるのです。最後が、歪んだ対立的な思いで、存在するものや真理を否定すること、あるいは存在しないものをでっち上げたり、真理でないものを真だとすることです。
命を取ることから歪んだ対立的な思いまでのこれらの十項目は、十の破棄的な行為(不善業)です。私たちはこれらの不利な点に気がついて避ける必要があります。実際の訓練は殺生や、盗みなどのその欠点が分かることからはじまり、意識的に喜んで努力する(精進)ことで、自分を抑えることです。完璧に抑制することができなくても、自分にできる限り減らそうとすることです。これが安全な方向を取ること(帰依)に続くことです。
ここで、私たちが中級の動機を持った時の教えがきます。
解脱のために取り組むこと
(9) 強迫衝動的な存在である三界での快楽は、草の葉の先端の露のように、ほんの一瞬にして消滅する現象なのだから、至高なる不変の解脱の境地に強い関心を持つことが菩薩の実践です。
強迫衝動的な存在である、三悪趣の世界のどこに輪廻転生しようが、それは燃えている建物の中の違う階に住んでいることと同じで、どこも苦に満ちています。ですから、何としてでもそこから解放されることが必要です。輪廻(Samsara)は、制御できない何度も繰り返される存在は、心の混乱(誤った見方)が混同して苦しんでいる集合体(蘊 うん)を指しますが、それは業と心を乱す感情と態度(煩悩)により受けるものです。これについて考える必要があります。私たちは人間への貴重な輪廻転生を得ましたが、それでも私たちが業や心を乱す感情の下にいて、自立ができなければ、さらなる苦を作り出すことしかできません。ですから、これらの繰り返される症状から、自分自身を解放しようと努力することが必要です。いかなる世俗的な快も究極のものではありません。それらは単に表面的で一時的なだけです。私たちは悪しき輪廻転生に、いつでも落ちることもできます。
私たちの苦がまさに自分自身の身体と心の集合したもの(五蘊)から生じるのであれば、それは業と心を乱す感情に支配されていますが、それでは一体私たちはどこに逃げることができるのでしょうか?それについて考えて下さい。私たちの五蘊そのものが苦の性質(nature)であれば、一体どうやってそれから逃れることができるのか?
苦の源は心を乱す感情と態度(煩悩)で、その主なものは執着と嫌悪です。両者が無知(無明)に由来します。本質的に独立して存在する(自性)と我執する無明ですが、これは歪んだ見方(邪見)です。他方では、これに対抗することを培うことができれば、それは具体的には本質的に独立して存在するものは無い(無自性)とすることで、それに慣れていくことで、無明が減少していくことです。
心を覆う無明のしみは漂うだけで、それらは取り除けます。本質的に独立して存在すると我執する無明と、そのようなものは存在しないとの理解は、両者ともに同じ対象を目指しています。ですから、一つを持てば、同時に他方は持てません。このようにして、無明の対抗として判別する認識、空性の智慧が作用します。この判別する認識(智慧)で、私たちは自分の執着と嫌悪を除去して、苦からの解放(解脱)を得るのです。
ある人々は執着や嫌悪/敵意は自然なことで、心の性質の一部だと言います。そのようなフィーリングを持たなければ、その人は生きていないこととほぼ等しいと言います。しかし、これらが心の本質の一部であれば、執着や敵意のフィーリングは、いつでも存在する必要があります。ところが、怒りを鎮めることができ、怒りがいつまでも続くことはありません。ですから、それらが人生の本質的な一部で、執着心と嫌悪心を持つことが心の性質だと感じることは間違った見方です。
私たちは二つの真理をみる判別する認識(智慧)が必要ですが、最も甚深な見方はすべてが本質的に独立して存在しないこと(無自性)ですが、慣習的には相互依存して、生起することは決して偽ではありません。これは判別する認識の高度な訓練ですが、それを得るには、心のさまよいなどを持たないように、その土台として、高度な集中の訓練が必要になります。これには、出家者としてまたは在家者としての高度な倫理規律の訓練が必要です。例えば、在家者の戒がありますが、その五戒だけでも守ることが大切です。ですから、私たちは高度な三学(三勝学)の訓練が必要なのです。
次は、私たちが上級の動機を持った時の教えです。
菩提心の目標を発展させること
(10) 無始以来、私に親切にしてきた母なる者たちが、苦しんでいるのであれば、自分だけの幸福だけで何ができるのか?無限の衆生が解脱するという、菩提心の目標を発展させることが菩薩の実践です。
すべての限られたもの(有情)が、空間に広く存在し、私たちと同様に幸せを欲し苦がないことを欲します。その数は数えきれないほどで、私たちが彼らを無視して自分の目的だけを考えれば、それはもちろん不当で痛ましいことです。私たちは一方に自分自身を、他方にはすべての生きとし生けるものを置く必要があります。私たち全員が幸せを欲し、苦しまないことを欲しますが、唯一の違いは、私は一人で、他者は数えきれないほどだということです。ですから、すべてのものに対して、一人を優遇することが妥当/正当かどうか、を考えてみる必要があるのです。
菩薩は他者の幸せを欲し、そのためにだけ働きます。ここで菩薩が悟りを得ることと、それ以外にも、その道のりで不幸になることはない、ということを言う必要はありません。他者のために一生懸命働けば働くほど、菩薩は自らを無視してより幸福になりますが、それがまた彼らをより一層努力するよう励ますのです。しかし、私たちが自分自身だけの目標のために取り組んで、他者を無視すれば、得るものは不幸と、不満足と、落胆だけです。面白いですね。ですから、私たちは自分の自己本位を減らして、他者への思いをできる限り増やす必要がありますが、そうすることで、副産物として自分がより幸せな人になることを知るのです。
仮に私たちが他者の目的のためにだけ取り組めば『入菩薩行論 菩薩行を生きる』の中でも説明されているように、私たちは自分がどこに何へ輪廻転生するのかを決して恐れることはありません。どこに転生しようが、そこで他者を助けるために取り組むのです。龍樹(ナーガールジュナ)はその『宝行王正論』の中で、同じ点を強調しています。他者のためだけに取り組んで自分の目的を無視することが仏陀として成就する道です。
私たちは自分を大乗仏教徒だと言いますが、ツォンカパ大師も述べたように、大乗仏教徒として見なされるには大乗仏教徒の特性を持つことが必要です。ですから、他者のために働く必要があるのです。どのようにして助けようかと見回せば、そして菩薩の決意を発展させれば、そうすれば自ずとみんなを利益することになるでしょう。ですから、大乗仏教の訓練と修行に自分ができる限り従う必要があるのです。分かりますか?
さて、菩薩とは何でしょうか?仏陀と言う言葉について説明したように、チベット語の「菩提 bodhi」の最初の音節は「jang (byang) 」で、それは欠点を除去すると言う意味ですが、二番目の「 chub (chub) 」はすべての良き資質(徳)を得ることです。実際には、二つの「菩提」または浄化された状態がありますが、ここでは下方の阿羅漢の意味ではなく、高度な仏陀の悟りを意味します。サンスクリット語の「サットヴァ Sattva」はすべての生きとし生けるものを利益(りやく)するために高度な浄化の状態である菩提、悟りを得ることを目標にしている者を指します。
ですから、二つの目標を一緒にする必要があります。私たちは有情の利益のためとそれを可能にするために自らが悟りを得ることの二つの目標が必要です。それが菩薩の決意であり、これを発展させる必要があるのです。どのようにしてやるのでしょうか?
自他の交換
(11) 自分のすべての苦しみは、例外なく、個人的な幸せを欲することから生じるのだから、完全に悟った仏陀は、他者の良い状態を願う態度から生じるのだから、純粋に自分の個人的な幸せを、他者の苦しみと交換することが菩薩の実践です。
どのようにしてすべての苦は自分自身の幸せだけを望むことから生じるのでしょうか?そのような自己中心的な願いは自己本位の目標を得るために多くの破壊的な行為を犯すために、その結果として私たちは苦を体験します。他方では、仏陀の状態は他者を助けることから生じます。ですから、他者の苦を無視して、自分の個人的な幸せを望む態度の代わりに、私たちは自分を無視して、他者の幸せを望む態度に交換する必要があるのです。
これをするには「トンレン」として知られる「与えて受け取る」修行を訓練します。具体的には、他者の苦を受け取り、他者に自分の幸せを与えることです。これをするために助けとなる非常に役立つ観想法があります。右側には自分自身を普段のかたちで、利己的で自分自身だけの幸せを欲する姿を観想します。左側には、無数の数えきれない幸せを欲するすべての生きとし生けるものを観想します。それから、心の中で「誰がより大切か?ここにいる利己的な人か、それともすべての他者か?」と諦観者と判断者として距離を置く必要があります。どの側を好むのか考えてみて下さい。利己的な人か、それともすべての哀れな者たちの側か、彼らも同等に幸せになる権利があります。これや他の方法が『入菩薩行論 菩薩行を生きる』の中で述べられていますが非常に有益です。
菩薩の行い 害に対処する
(12) ある者が大きな欲望に圧倒され、私のすべての富や財産を盗んだり、他者がそうするような原因を作ったとしても、その者に自分の身体、資産、三世の建設的な行為を捧げることが菩薩の実践です。
さて、私たちは菩薩の決意を発展させました。しかし、悟りを得るには、菩薩行に取り組む必要があります。もし誰かが私たちから盗めば、怒りが生じる危険があります。しかし、私たちが悟りを得るために修行しているのであれば、他者にすべてを施します。ですから、盗人と呼ばれている者は、私たちの過去の所有物を手にしているのです。彼はそれらを今手に入れたのですが、実際にはそれらはすでに彼の物です。ですから、私たちは彼が取った物だけでなく、あるいは彼が盗んだと考える物だけでなく、さらには三世(前世、現世、来世)にわたる自分の身体も、建設的な行為もすべてを捧げる必要があるのです。
(13) 私自身には何の過ちもないのに、ある者が私の首を切り落とそうとしても、慈悲の力を貫いて、その者のネガティブな結果を、自分に受け入れることが菩薩の実践です。
もし他者が私たちを害しても、彼らに慈悲を持ち、他者からの害を自分自身に受ける必要があります。
(14) ある者が三千大世界に、私についてありとあらゆる不快なことをふれ回ったとしても、慈しみの態度を保ち、その者の善き資質(徳)について述べることが菩薩の実践です。
他者が私たちを虐待したり、悪いことを言うとしても、見返りに悪いことを言うことは止める必要があります。決してひどいことを言い返さないで、シャーンティデーヴァが『入菩薩行論 菩薩行を生きる』の中で説明しているように、彼らに親切に話して下さい。
(15) 多くのさまよう者たちの集まりの真ん中で 、ある者が私の過失を暴露して、(私について)汚い言葉を使うとしても、精神面での師だと識別して、その者に敬意を持ってお辞儀することが菩薩の実践です。
他者が他人の前で私たちを屈辱したり、恥をかかせたりしたとしても、心の訓練で教えられている、態度を浄化する諸方法を行う必要があります。他者が賛同しなかったり、こちらの欠点を指摘したりすれば、彼らは実際私たちの教師です。ですから、自分の欠点を気づかせた彼らに感謝して、敬意を示す必要があります。
(16) 私が世話をして、自分の子供のように大事にした者が、私を自分の敵と見なしたとしても、母親が病に倒れた我が子に対するように、その者に特別の好意を抱くことが菩薩の実践です。
子供が病気の時にやんちゃなことをしても、どんなに悪いことでも、その母親はそれでも子供を愛しています。これがすべての生きとし生けるものを見る時に必要な視点です。
(17) 私と同等か私に劣る人が、高慢の力をかりて私を軽蔑して扱おうとしても、上師の時のように、その者に敬意を持って、頭頂に受け入れることが菩薩の実践です。
同じことが、他者が自分と競争しようとしている時にも当てはまります。忍耐を発展させることが必要です。『入菩薩行論 菩薩行を生きる』で述べられているように、敵がいなければ忍耐を発展させることはできません。ですから、寛容な態度を発展させる迷惑な相手が要るのです。自分の導師や仏陀に対して、忍耐を発展させることはできません。そのためには敵が必要なのです。
例えば、私自身のことを考えています。新聞で誰かがダライ・ラマは弱い難民だと書けば、もし私が真剣に修行しているのであれば、彼/彼女に対して忍耐を発展させようとするでしょう。私たちには忍耐を訓練するために手助けする教師が必要ですから、敵や自分を憎む人はこの師として非常に大切です。
これについてさらに考えれば、敵は極めて重要なのですよね。大乗仏教を修行しているのであれば、忍耐を培い、困難な状況に耐えることが必要です。敵なしで一体どうやって大乗仏教を修行できるでしょうか? 手短には、自他を交換するためには、多くの試行錯誤、多くの挑戦が必要です。ですから、敵や、非常に迷惑でやりにくい人々は極めて重要で貴重です。
仏法の実践が要求される二つの重大な状況
(18) 生活に貧窮し、いつも人々に軽蔑されていても 、恐ろしい病に冒され、悪霊に憑かれていても、引き換えに、すべてのさまよう者たちの、ネガティブな力と苦を受け入れ、落胆しないことが菩薩の実践です。
仏法(ダルマ)の実践には、二つの重大な状況があります。過去の因によるものですが、一つには私たちは貧困などの非常に困難な難局におかれ、勇気を失うことです。他方では、極端に大金持ちで快適な時ですが、高慢で傲慢になります。
両者のケース共に、注意深くなる必要があります。例えば、非常に病んでいる時には、自他の交換を訓練すると、自分が病気であることが幸せだとなります。実際には、他者の病気や苦しみを取り除きたいのです。
(19) 甘い言葉で賞賛され、多くのさまよう者たちが頭をたれ挨拶しても、毘沙門天(富の守護尊)の財宝に等しい富を得たとしても、世俗の幸運には本質がないと分かり、決してうぬぼれないことが菩薩の実践です。
これが他の極端ですが、危険な状況の可能性があります。私たちは多くの称賛を得てすべてがうまくいくと、それに対して非常に自慢してしまい、怠慢で傲慢になることもあります。これは自分の修行を妨げるので、そのような世俗的な幸運には何の本質がないことを知る必要があります。
悪意と愛着/執着を乗り越えること
(20) 自分自身の悪意と言う敵を制圧しなければ、外部の敵を制圧したとしてもさらにやってくるのだから、愛と慈悲の軍隊で、自分の心相続を調教することが菩薩の実践です。
怒り以上に、悪い敵はいません。世界を見てみれば、例えば第二次世界大戦の状況を見れば、すべてが怒りと憎しみから生じたことが分かります。その時には、西洋諸国とロシアは同盟国でしたが、戦争に勝っても、自らの敵対心を征服することはありませんでした!今でもこの立場におかれたままで、ソビエト連邦は西洋を敵として対抗していることが分かります。もし戦争が将来、再度起きることがあれば、それは怒りと憎しみの再来が故です。ここで、私たちが平和と幸福を望むのであれば、これらのネガティブな態度を除去しないことには決して実現できません。平和と幸福は、私たちが愛と慈悲を発展させた時にのみやってくるのです。ですから、憎しみを乗り越えるために、私たちは愛と慈悲の武道を訓練する必要があるのです。
(21) 欲望の対象は塩水のように、思いのまま飲めば飲むほど渇き(渇望)は増すだけだから、自分の執着と愛着を増大させるようなどの対象をも、すぐさま捨て去ることが菩薩の実践です。
何に愛着したとしても、私たちは決して満足することはありません。決してそれを十分に持てないのです。それは塩水を飲むようなもので『宝行王正論』の中で説明されているように、決して渇きをいやすことはありません。例を考えてみて下さい。例えば、かゆい時です。引っ掻けば、気持ちよく感じます。しかし、そのいい気持ちに執着すれば、さらに引っ掻きますが、それは状況を悪化させるだけで、ひりひりし始め、出血が始まり、感染し、さらにひどくなるばかりです。最善策はその根元からかゆみを治療することで、そうすれば引っ掻きたいとの欲求は生じません。
最も甚深な菩提心と空性の理解を発展させること
(22) 事象がどのように現れようが、それは自分の心から生じたもので、そして、心そのものは始めから、心的捏造(戯論)の両極端から離れています。事象の在り方を理解することで、対象の本質的な性質と、それを生じさせる心にとらわれないことが菩薩の実践です。
これは[慣例的には本質的な性質(実体性)は存在するが、最も甚深な勝義の究極的な視点からは全く存在しないとする]中観自立論証派の見方の表現に思えますが、必ずしもそうではありません。ここで現れは「自分の心から生じた」とは、それらは私たちの心を通して蓄積してきた業がすべての現れをもたらすという意味で、私たちの心のゲームだということを意味します。始まりから、心そのものは、本質的に自立した存在という心的捏造(戯論)から解放されています。
これを理解すれば、私たちは「これ」が空性/無自性を理解する意識で、「あれ」がこの意識の対象だと、つまり空性だと考えることはしないでしょう。むしろ、単に心を(無自性の)純粋な遮詮(否定立的否定)に禅定することに置きます — すべてのありもしない在り方の絶対否定、つまり一切法は無自性です。これがここで要約された実践です。
(23) 心地よい対象に出会うときは、夏の虹のようにどれほど美しく現れようとも、それらに実体があるとは見なさず、それ故、自分自身から執着と愛着を捨て去ることが菩薩の実践です。
事象は虹のように美しく現れますが、それらは本質的に、自立して存在しないこと(無自性)を分かり、執着しない必要があります。
(24) 逆境に遭遇する時には、さまざまな苦しみは夢の中での我が子の死のように錯覚だと分かり、そのような錯覚を真とすることは、ただ疲れるだけの浪費と受け止めることが菩薩の実践です。
ですから、私たちはすべてが虚偽の現れであり、困難な状態でも落胆しないようにすることが必要です。これらが世俗と最も甚深な(勝義の)菩提心を発展させる教えです。
次は、六つの彼岸に到ろうとする態度(六波羅蜜)の修行についてです。
[ダライ・ラマ法王による『三十七の菩薩の実践』における最も甚深な(勝義の)菩提心を発展させることへの注釈(仮)を参照]
六波羅蜜(六つの彼岸へ到ろうとする態度)
(25) 悟りを得ようと望む者は、自分の身体さえも与えなければならないのだから、外界の所有物などなおさらのことだと、見返りや業の果報を期待せずに、寛大に与えることが菩薩の実践です。
これは彼岸に到ろうとする、布施の実践です。
(26) 倫理的な規律なしに、自分自身の目的を叶えることはできないのだから、他者のための目的を叶えることの望みなどは冗談でしかない。世間への関心抜きに、自己規律を守り抜くことが菩薩の実践です。
最も重要なことは倫理的な規律を持つことで、特に、破壊的な行為を避ける規律がそうです。規律なしには、どうやって他者を助けることができるでしょうか?
(27) ポジティブな力の富を望む菩薩にとっては、害を作りだす者のすべてが宝珠の財に等しいのだから、誰にも悪意や嫌悪心を持たずに、忍耐を修習し、習慣として蓄積することが菩薩の実践です。
私たちには多くの忍耐が必要です。悟りを得るためにポジティブな力(功徳)を蓄積したいと望む菩薩にとっては、私たちを害する敵は宝珠のように貴重です。何故ならば、彼らのおかげで私たちは忍耐の訓練ができるからです。これが蓄積して、私たちのポジティブな力のネットワーク(福田/福徳の集積)を強固にして、それが悟りの成就をもたらすのです。
(28) 己のためだけに成就しようとする声聞や独覚でさえ、自分の頭に突然おきた火事を無視しようと必死に精進するのだから、すべてのさまよう者たちの目的のための善き資質(徳)の源である、精進を喜んで行ずることが菩薩の実践です。
これは建設的な行動のために熱心に喜んで精進することを指しています。小乗の修行者たちがそのゴールに達するために必死に取り組むのであれば、大乗仏教徒の私たちは、すべての生きとし生けるもののために働くことに、さらに努力する必要があるのです。
(29) 完全に穏やかで落ち着いた状態(止)を授かった、例外的に知覚的な心の状態(観)が 、心を乱す感情や態度(煩悩)を完全に克服できることを知り、四無色定を純粋に超越できる禅定を修習し、習慣として蓄積することが菩薩の実践です。
これは禅定の彼岸に到ろうとする態度(禅定波羅蜜)についてです。ですから、例外的に知覚的な心の状態(観)を実現させるには、それを持続させるために、前もって穏やかで落ち着いた状態(止)を得る必要があります。そうして、二つを伴うかけ離すことのできない止観を得るのです。
(30) 判別する認識(智慧)なくしては、五つの彼岸に到ろうとする態度だけでは、完全な悟りの成就をもたらすことはできない故、方便を伴う三輪について概念のない判別する認識(三輪無分別智)を修習し、習慣として蓄積することが菩薩の実践です。
最初の五項目の彼岸に到ろうとする態度の、方便の側だけでは悟りを得ることはできません。智慧の側も、また必要です。ですから、私たちはかけ離すことのできない智慧と方便を培う必要があります。私たちはこれらの彼岸に到ろうとする態度(波羅蜜)を土台にした、建設的な行為の三輪、つまり行為者、対象、行為そのものは、本質的に自立して存在することはない(無自性)と分かる判別する認識(智慧)が必要なのです。
次は、菩薩の日々の実践についてです。
菩薩の日々の実践
(31) 自分自身の自己欺瞞を調べなければ、外面上は仏法のかたちを持ちながら、非仏法のことを犯すことが可能な故、自分自身の自己欺瞞を継続して調べて、取り除くことが菩薩の実践です。
言い換えれば、私たちは自分自身の心を乱す感情や態度(煩悩)を、毎日チェックする必要があるのです。ここで述べているように、外面上は適切に映っても、実際は決して適切でないことがあり得るからです。
(32) 心を乱す感情や態度(煩悩)に圧倒されると、菩薩である他者の欠点について話し、自分自身が退行することになる故、大乗行に入った者の欠点について、口にしないことが菩薩の実践です。
他者の欠点を見つけようとの思いで他者を見ることは止める必要があります。他者が一体誰なのか、その成就したことなどを知る由はありません。特に大乗仏教の実践者としては、他者の欠点ではなく、他者を助け利益することだけの思いを持つことが必要です。
(33) 報酬と敬意を欲しがることに圧倒されると、互いに争い、聞き(聞)、考え(思)、瞑想(修)する行為はおろそかになる故 、自分自身から、親戚や友の家や、支援者の家への、執着を捨て去ることが菩薩の実践です。
支援者や、親戚などの家に常に滞在すれば危険があります。いずれは、議論や論争などの複雑な状況に巻き込まれることでしょう。ですから、そのような場所への執着を避ける必要があるのです。
(34) きつい言葉は他者の心を乱し 、菩薩としての自分の生き方が退行する原因となる故 、他者の心を不快にする 、きつい言葉を(自分自身から)取り去ることが菩薩の実践です。
怒りの根本は自分自身の側への執着です。ここで、乱暴な言葉(悪口)になる時には、怒りが強調されます。そのような乱暴に聞こえる言葉は、ポジティブな力(功徳)を破戒し、他者の心を乱し、害することになります。
(35) 心を乱す感情や態度(煩悩)が習慣となれば、対抗する力でそれらを退散させるには困難な故、執着などの心を乱す感情と態度が生じるがいなや手厳しく打ち砕くため、マインドフルネス(憶念)と正知を持つことが菩薩の実践です。
執着や嫌悪が生じるや否や、それに対抗するために、すぐにマインドフルネス(憶念)と正知を用いる必要があります。
(36) どこであろうが、自分の従う行動がどのコースを取ろうが 、自分の心の状態がどういうものかを知る、マインドフルネス(憶念)と正知を継続して保ち、手短には、他者の目的を叶えるために取り組むことが菩薩の実践です。
『入菩薩行論 菩薩行を生きる』の中で述べられているように、私たちは継続して自分の心を調べる必要があります。そして、心を乱す感情や態度(煩悩)があれば、マインドフルネス(憶念)を伴い、すぐにさまざまな対抗を適用します。例えば、キャラバンでチベットの北方の頂きにたどり着こうとすれば、私たちはただあちこちどこかに行くというようなことはしないように、非常にマイドフルで正知/警報を使うでしょう。非常に注意深く正しい道を選ぶはずです。同じように、私たちの心があちこちにいかないようにする必要があります。
(37) 数限りないさまよう者たちの苦しみを取り除くために 、このような努力(精進)によって得られた建設的な力(善)を 、三輪の完全な清浄さを判別する認識(三輪無分別智)で 、悟りのために廻向することが菩薩の実践です。
このようにして、ここで示された最後の菩薩の実践は、悟りと他者の利益(りやく)のために、これらのすべての行為のポジティブな力(功徳)を廻向することです。これで、テキストの本文が完結しました。次は、アウトラインの第三部目の結論です。
結論
経と、タントラと、論書での神聖なるものたちの言葉に従うことで、そして宣言されたことの意味に従うことで、菩薩道で訓練したいと望む者たちの目的のために 、私はこれらの菩薩の実践/修行の三十七項目をまとめました。
著者はこれらの教えをさまざまな出典から取り出し、これらの三十七の実践に短縮しました。
私の知性は不十分で教育は乏しいので 、博学者を喜ばせるような、詩的な韻律(詩韻)を踏んでないかもしれませんが 、経典と神聖なるものたちの言葉に頼ったので、これらの菩薩の修行/実践は間違っているとは思いません。
次に、著者は間違いを犯したのであればと誤っています。
それでも、私自身のように機智に疎いものには 、菩薩行の偉大な波の深さを計り知ることは困難なので 、矛盾、関連のなさなどの私の過失の多さに対して、神聖な者たちが忍耐することを要請します
そして、彼は最後の廻向で締めくくっています。
これにより生じる建設的な力(善)により、すべてのさまよう者たちが、至高の深甚なる菩提心と慣例/世俗の菩提心を通して、強迫衝動的な輪廻の存在と涅槃の満足の両極端に決してとどまらない 、守護尊の観自在菩薩と同等になれますように
これでトクメー・サンポによる『三十七の菩薩の実践』は完結しました。