貴重な人間としての生を最大限に生かす方法

私たちはみな、貴重な人間としての転生を得ることができました。私たちには貴重な人間の身体もあります。ですから、精神的な進歩を最大限に実現することが可能です。人間として生きている今以上に、悟りを得るのに適した機会に恵まれることは―たとえ神の王・インドラに転生したとしても―ありません。

現在よりも優れたツールや土台はありませんから、この転生を最大限に生かす手順を学んでおかなくてはなりません。精神を成長させる最良の方法は、優しく暖かい心を徐々に育ててゆくことです。そして、その暖かい心を基礎として世俗菩提心を育みます。世俗菩提心とは、悟りを達成したいという願い―つまり、全ての衆生の最大の利益となるために、自分のあらゆる欠点を取り除き、潜在能力を最大に発揮できるようになりたいという願いのことです。他者のため、そして悟りを得るために心を捧げるなら、それこそが貴重な人間としての生を生かす最善の方法です。

前世での言動から生まれた功徳が今生の成功の因となる

世の中には実に様々なタイプの人がいますが、来世に利益をもたらすことに少しでも関心を持っている人に出会うのは非常に珍しいことでしょう。悟りを開くことに興味を持っている人などなおさらです。ほとんどの人は、この生涯に限った自分の幸せを見つけることだけに気を取られています。しかし、誰もが幸せを求めていますし、苦しみや問題を求めている人は誰もいません。その意味で全ての人はみな同じです。

今生で幸せになることだけに意識を傾けている人は、幸せには二つの種類、つまり、身体的な幸せと精神的な幸せがあることを知らなければなりません。ほとんどの人が関心を持つのは何かしらの身体的な幸せだけです。しかし、身体的な幸せだけに限って考えても、誰もが人生にそのような幸せをもたらそうと努力していますが、ほとんどの人はその方法さえよく分かっていません。たとえば、食べ物や着るもの、安全な避難所や地位などを求める人が誰かを殺したり、暗殺したり、罪のない生物を屠ったりすることがあります。盗みや詐欺、強盗などを働く人もいます。これらはどれも、幸せを求めて、何らかの身体的な幸福を追求する試みの中で行われていることなのです。しかし、幸せを求めていても、実際にその幸せを手に入れる適切な方法を知らないのです。その結果、彼らは幸せではなく、より多くの問題を手にすることになります。

一方、ビジネスや商業、農業、教育、芸術などの分野においてできるだけ実直に生計を立てようと力を尽くしている人々は二つのグループに分けられます。つまり、成功して多くの富や所有物を得る人々と、成功しなかったり大失敗したりする人々です。この差の理由―どうして成功する人と失敗する人がいるのか―は、前世で積んだ種子と潜在力です。前世で破壊的だった人は多くの悪業を積んでいるので、結果として今生で失敗します。前世で建設的な言動をとっていた人々は功徳を積んでいるので、それが今生でのさらなる成功や幸せの因となります。

成功する人と失敗する人がいる理由に関するこの説明を受け入れないのなら、そのような差が存在するべき理由はないということを良く考えてみてください。誰もが同じ能力を持っていて、同じだけ努力しているなら、誰もが同じように成功しているはずです。今生でお金を稼ぐための仕事―ビジネスや商業―の種類によって成功するか否かが決まると考える人もいます。しかし、それだけが全ての理由ではないでしょう。成功の本当の因は、前生で建設的な言動をとることによって積み上げた功徳です。私たちが今生で携わっている仕事や活動は、これらの因が熟すための環境や条件として作用します。

それゆえ、成功は因縁―因(直接原因)と縁(間接原因)は一緒に生じます―に左右されるのです。因は前世に積み上げられた潜在力ですから、前世から生じます。縁は、現世で費やした時間や努力に基づいて生まれるものです。これらの二つは必ず一緒に生じます。

来世への懸念

現世でどんなに裕福になっても、どんなに豪華な生活を送っていても、それまでに蓄積したもので満足している人は誰もいません。誰も、「もう十分だ、もうこれ以上何も手に入れなくてもいい」とは言わないでしょう。手にしたもので満ち足りる人はいません。誰もが常にもっと多くのものを欲しがり、人生の全ての時間を仕事に捧げます。そして、その仕事が終わることは決してないのです。

これは延々と繰り返されるサイクルです―種を蒔き、畑仕事をして、収穫して、一年じゅう働き続ける農家のサイクルと同じです。農家の人々は、再び春が来ればまた種を蒔き、同じサイクルがもう一度始まります。これは、私たちがただ延々と仕事を続けることによく似ています。

私たちは今生での仕事に終わりが来るとは全く考えていませんが、実際には終わる時がやって来ます―つまり、死ぬときです。そのとき、喜びではなく、悲しみと嘆きのただ中で、私たちの仕事が終わります。

ですから、食べ物や着るもの、今生で評価されることのみを求めて働いている人々は、自分を欺いているのです。なぜなら、彼らは確かに身体的な慰めを手にすることができるかもしれませんが、精神的な幸せを獲得することは不可能だからです。精神的な幸せなければ人生が満たされることはありませんから、彼らは不幸な状態で死ぬことになるのです。

ですから、より長く続く、精神的な幸せのために努力することが肝心です。今生で得られる身体的な幸せはあまり長続きしません。真に持続的な幸せを求めているなら、来世について考える必要があります。なぜなら、来世を考慮に入れると、本当に長続きする幸せのために努力できるようになるからです。

来世の幸せのために努力すると、「ダルマの精神的実践に取り組む精神的な人物」という定義を満たすことになります。今生のこと―壊れやすいものごと―だけに関心を持っている限り、私たちは世俗的で物質的な人物のままです。来世に関心を向け始めれば、精神的な人物になることができます。

来世に幸せをもたらすために破壊的行動を避ける

来世における幸せを確実にする方法には、ダルマの「予防策」を取ることが含まれます。これは特に、自分を制御して破壊的な行動を避けることを意味します。破壊的な言動には10つのものが定められていて、これらはまとめて「十悪」または「十不善業道」と呼ばれ、3つの身体の悪(身業)、4つの発言の悪(口業)、3つの心の悪(意業)から成っています。これらの破壊的言動を取ることを避け、予防すると、来世に幸せをもたらすことができます。

さて、「建設的な言動を取ることで、今生と来世でものごとが上手く行くようにするための精神的実践が始まる」ということがはっきりしました。ここで言う「建設的な言動」には、たとえば、生物・昆虫を意図的に殺すことや意図的な窃盗がもたらす不利益やネガティブな結果を理解することが含まれます。このとき、どんな結果が生まれるかを理解したら、殺したり盗んだりしないと固く心に決めなければなりません。誰かが本当にこのような決心をしたときには、彼らが本当にそれに応じた建設的な行動をとるように強制する警察や軍隊は必要ありません。道徳観や倫理が、彼らを破壊的行動に走らせないように制御するからです。

それゆえ、厳格な倫理に従うことは、幸せな精神状態で死ぬための予防策なのです。この策を取らなければ、非常な悲しみや不安に苛まれながら死んでゆくことも十分にあり得ます。倫理的な人間として生きるという予防策を取っていれば、死の床にあっても何も心配することはないでしょう。人間として、あるいは天道に神―インドラのような―として転生すると確信できるのですから。

どの生でもとめどなく繰り返される問題

人間、あるいは神の王として転生した場合でさえ、生きている間には問題が起こります。どこに、どのように転生したとしても、とめどなく繰り返される問題に直面しなければなりません。ですから、破壊的言動を避けるという倫理にしたがっていても、ただ悪趣への転生を避けたいがためにそうしているのであれば、意味がありません。なぜなら、どの世界にどんな姿で転生しても問題は起こるからです。

このことから、より広い視野が必要だということが分かります。たとえば、六道の最高位である天道に神として転生した結果、「止」と呼ばれる穏やかで安定した心の状態―サンスクリット語では「shamatha」、チベット語では「shinay」と呼ばれます―を育むことができたとしましょう。天道はエーテル状のものの世界、形のない存在の世界です。そこでは、その転生の素晴らしさを全て味わうことができます。しかし、そのような世界の住人に転生できても、それは何ら特別なことではありません。高層ビルの最上階に行くようなもので、一番上まで行ってしまったら、降りてくるより他はないのです。

仏陀の言葉を確信する

ですから、どの世界に転生しても、自分の問題を捨て去ってさらに成長しようと努力しなければならないのです。そのためには、ものごとをはっきりと見分ける気付きを使って現実と幻想を明確に区別し、問題や苦しみの原因を突き止める必要があります。そうすることによって、いつしか私たちは不可能な存在の仕方の完全な欠如、つまり空を認識できるようになります。現実を正しく理解できれば、誤った投影は排除されます。さらに、それによって、私たちがあらゆる転生において経験しうる全ての問題や苦しみは永遠に取り除かれ、永遠に続く幸せがもたらされます。これらはみな、私たち自身が実際に達成できることなのです。

空に関する教えは、仏陀の言葉を記録した古典的な文献から学ぶことができます。しかし、これらの文献の正当性を―空についてだけではなく、仏陀が語った全てのことの妥当性を―確信するにはどうすれば良いのでしょう?正当性は、論理的思考と分析によって立証することができます。空を例にとって考えてみましょう。空の妥当性は、理論的推論によって立証することができます。また、完全な集中や穏やかで落ち着いた精神状態を獲得する方法に関する教えの妥当性は、実践の中で自らその教えの指示に従い、その状態を自分で実際に獲得することによって立証することができます。それだけではなく、このような実践によって様々な種類の超感覚的認識―このような集中力獲得の副産物とされています―をも得ることができます。仏陀の教えの様々な点の妥当性は、自らの経験によって立証することができるのです。

このように、仏陀の教えのうち、理論と経験によって妥当性を立証できるテーマについては、自らの努力によってそれらを顕在化し、彼の言葉が概して正しいという確固たる信念を育んでゆきます。その確信から安心感を得られれば、仏陀が説いたさらに抽象的な教えの妥当性も信じられるようになります。

たとえば、仏陀は、「建設的な行動をとれば、その結果として人間か神として善趣に転生あする。一方、破壊的でネガティブな言動を取れば、その結果、地獄の生き物―いわゆる『餓鬼』―か動物に転生する」と説きました。これは言動の因果に関する言説で、自分自身の経験や純粋な論理的思考によって立証したり妥当性を確認したりすることは困難です。しかし、文献の著者の権威だけを盲目的に信頼して、これらを受け入れる必要はありません。なぜなら、完全な集中力や空の正しい理解に関する仏陀の教えを理論と経験で立証できるなら、言動とその結果に関する仏陀の教えを受け入れるのも完全に理に適っていることになるからです。

ですから、空や現実、あり得ない存在様式の完全な欠如について仏陀が語ったことを非常に慎重に検討しなければなりません。これらが正しいと認識したら、仏陀の他の言説―「建設的な言動の結果は幸せである」、「破壊的でネガティブな言動の結果は苦しみである」など―も検討しなければなりません。そして、これらの主張も正しいと確信したら、その信念に基づいて、仏陀の言葉に沿って自分の言動を変えてゆくという決意を固めます。幸せを手にしたいなら、幸せを生み出すような行動を取らなければなりません。つまり、建設的でポジティブに振る舞う必要があるのです。

出離:全ての問題と決別する決意

現在自分が手にしている人間としての生という素晴らしいツール―そしてそれに付随する精神的成長のためのあらゆる機会―もまた、無から生じたのではないということも、しっかりと考えなくてはなりません。これもまた、これまでの生で積み上げられた膨大な功徳の結果なのです。私たちは以前の生で建設的でポジティブな言動をとってきたので、現在のような転生や機会を得られたのです。ですから、この機会を無駄にするべきではありません。今生限りのこと―食べ物や着るもの、名声や評価を得ることなど―だけに気を取られていたら、この生を浪費することになってしまいます。このようなものだけを手に入れることだけに関心を向けていたら、この生涯への執着から逃れられなくなってしまいます。

一方、インドラのような神として転生するために全力を挙げることにも問題があります。神として生きることについて考えてみましょう。神は抱えきれないほどの幸せを手にしていて、一時的・表面的な問題は何もありません。しかし、死ぬときには、途方もない後悔や自責の念に襲われます。なぜなら、そのような喜びに満ちた生がただの夢のように見え、臨終のときには信じがたい苦しみと不幸に襲われるからです。ですから、このような転生を目指すのは、問題の解決策としてふさわしいものではありません。

さらに、人間の身体というツールをできる限り有効に活用しなければなりません。なぜなら、私たちのこの身体はいずれ失われるものだからです。これまでに生まれた人の中で、死を免れた人は誰もいません。死は、いつかは、誰にでも訪れます。いつ訪れるかは誰にも分かりません。この現実について考えると、私たちは目を覚まし、元気に生きている間に手にしているこの機会を最大限に活用したいと願うようになるのです。

ですから、この人生のためだけに何かを得ることへの強い執着には背を向けなければなりません。そのためには、今生のさまざまなはかないものには永続的な要素が何もないことをよく考える必要があります。そうして、この生におけるものへの執着と決別し、そのような執着によって起こる問題から自由になる決意を固めるのです。この決意は「出離」と呼ばれます。

同じように、来世と、自分が転生し得る様々な世界についても考えなければなりません。人間や神としての転生の素晴らしさや幸せについて考えるときには、それらの転生にも問題があることを思い出す必要があります。どんなに裕福でも、問題はとめどなく繰り返されます。ですから、来世の豊かさや幸せに対する強迫的な執着とも決別しなければならないのです。そのためには、二番目の種類の決意―つまり、来世への執着に伴う問題から自由になる決意―を固める必要があります。

ですから、自由になる決意には、今生の問題から自由になる決意と、全ての来世における問題から自由になる決意の二種類があるのです。

無常

精神的な実践者とは、人生におけるいかなる状況も不変ではないことに気付いていて、無常と死を心に留めており、自分自身が直面している問題や人生で起こり得るあらゆる問題をいつも気に掛けている人のことです。実践者は、これらを絶えず心に留めておくことによって様々な問題を防ぐための予防策を取ろうとします。忘れてしまえば無常や問題や死が消え去ってしまうとしたら、なんて素晴らしいのでしょう。しかし、実際にはそんなことはあり得ません。自分がいつか死ぬとか、人生には問題があるとかいう事実を無視したところで、これらの事実はなくなりません。ですから、問題を自覚してそれに向き合い、解決するための様々な策を取った方がよっぽど良いのです。これも、精神的実践の一部です。

仏陀自身も、「不変のものは何もない」という無常の教えを説くことによってこれらの予防策を伝え始めました。彼の精神的探求は無常に気付くことから始まりました。そして彼の生涯が終わって臨終を迎えたときにも、自らの死をもって人々に無常を伝えたのです。

四聖諦

問題は無から生じるわけではありません。理由もなく生まれる問題などないのです。真の問題や不幸はどれも真の原因、つまり、衝動的な言動、煩悩、悪見などの悪業や思い込みから生じています。私たちが抱える全ての問題の原因は、煩悩や悪見に影響を受けて衝動的な行動をとることです。

全ての問題のこの二つの原因のうち、衝動的な行動の根源は煩悩と悪見だと分かっています。そして、仏典で解説されている8万4千種類の煩悩や悪見を検討してみれば、その全ては一つの源から生じていることが分かります。その源とは、真に成立している存在や真に確立された同一性に私たちを執着させる無明です。

真に確立された同一性などというものは―自分自身にも他のどんなものにも―存在しません。しかし、私たちは、さまざまなものが真に確立された存在であるかのように執着します(諦執)。それゆえ、そのようなものはあり得ないということに気付き、はっきりと見分けることができるようになれば、その気付きは「ものには真に確立された同一性が存在する」という思い込みに執着することへの対抗手段として機能します。

「真に確立された存在」というものはないこと―つまり、確立された同一性を持っているものはなにもないこと―の理解は、四聖諦の一つである「道諦」、「真の心の道」です。これはアリヤ、つまり高度に悟った人々の心の道です。アリヤはこの心の道が真であり、解脱と悟りの達成につながるものだと考えています。

真の心の道―つまり、真に確立した存在などないというはっきりとした気付き―を得たとき、私たちは全ての煩悩や悪見から自由になります。なぜなら、それらの思い込みは、あり得ない存在の仕方の投影と、それを信じることに基づくものだからです。あらゆる煩悩や悪見を捨て去ったら、衝動的な行動をとることはなくなります。そして、衝動的な行動をとらなくなれば、自分自身に問題をもたらすことがなくなります。自分の経験の中に問題が起こらない状態は「滅諦」、「真の停止」と呼ばれます。

これが四聖諦―高度に悟った存在であるアリヤによって真実と見なされている四つの真理―です。第一と第二の真理、つまり苦諦と集諦は、心を乱すもの―つまり、真の問題とその原因である衝動的な言動と煩悩・悪見―に関連しています。第三と第四の真理、つまり滅諦と道諦―これらは解脱をもたらすものに関連しています―に注目すると、原因を取り除くことによってあらゆる問題を永遠に排除したいと考えるようになります。それを実現するために、真の心の道を育みます。こうやって、高度に悟った人々によって真実と見なされる四つの事実を認識し、理解するのです。

人間としての貴重な転生で手にしている素晴らしいツールを使いながら、四聖諦を実現するために力を尽くさなくてはなりません。それが実践できたら、今生で得た機会をしっかりと生かしたということになります。有益な心の習慣として、真に確立された存在というものがないことを常に安定して心に留められるようになったときには、自分の問題を完全に、そして永久に捨て去ることができるでしょう。

悲を育む

自分自身の問題を全て取り除くのは素晴らしいことです。しかし、それだけでは十分ではありません。なぜなら、自分は一人だけですが、他者は無数にいるからです。数えきれないほど多くの他者がいて、その全員が問題を抱えています。誰もが、何らかの意味で苦しんでいます。ですから、自分自身だけのために努力するのはフェアではありません。全ての衆生のための解決策を見つけなければならないのです。

よく考えてみると、全ての衆生が自分に対して大変に親切であったことがはっきりと分かるはずです。実際、他者以上に優しいものはありません。仏たちの優しさと衆生の優しさについて考えると、それらが同等であることに気付きます。たとえば、ハチミツが好きなら、そのハチミツがどこからやってきたか考えなければなりません。ハチミツはたくさんのミツバチによってもたらされます。たくさんのミツバチがたくさんの努力をして―多くの花から花へと飛び回って花粉や蜜を集め、巣の中で蜜を加工し、貯蔵して―出来上がったのがハチミツです。おいしいハチミツを食べたいなら、ミツバチという小さな虫の仕事と優しさに頼らなければなりません。同じように、肉―病気で身体が弱っているとき、体力をつけるために肉を食べる人もいるでしょう―はどこから来るか考えてみてください。私たちに体力や栄養を与えるために自分の命を投げ打った動物が与えてくれているのです。

ですから、自分が抱えている全ての問題から自由になるという強い決意を固めたら、他者にも同じ姿勢を取らなければなりません。自分の問題から自由になるという決意と同じように、全ての衆生が問題から解放されるように願うべきです。このような姿勢は「悲」と呼ばれます。

自分自身の問題について、そして自分が問題を抱えたくないということについて真剣に考えないのなら―そして、それゆえに、問題から自由になろうという決意を固めなかったら―他者の問題を真剣にとらえることはとても難しくなります。他者が問題から自由になることを望む真摯な悲を育むことはできないでしょう。たとえば、仕事の中で大いに苦しんだ経験を持つ役人が昇進したら、部下に対して共感や悲を持つでしょう。このような人は、苦しみの意味さえ知らずに気楽に生きてきた人よりもずっと上手く人を助けることができるのです。

菩提心

他者が苦しみから自由になるように願う心は「悲」と呼ばれます。一方、誰もが幸せになって欲しいと願う心は「慈」、あるいは「愛」と呼ばれます。あらゆる衆生に対する慈悲についてよく考え、「誰もが自分に対して非常に優しくしてくれたのだから、自分も何か―表面的なことではなく、彼らが実際に全ての問題から自由になる手助けを―しなければならない」と心に決めたとき、責任を引き受けようとするこの態度は、「たぐいまれな決意」という意味で「深心」、あるいは「増上意楽」と呼ばれます。

自分だけの身勝手な関心に囚われているだけなら、仏性を開発したり、磨いたりすることはできません。しかし、身勝手さと決別して他者の苦境を憂慮するようになれば、それは自らが悟った仏になる土台になります。自分のために富を得ようとして殺しや盗みをはたらくのも身勝手な関心ゆえです。そのような未熟なやり方からは多くの問題しか生まれません。そして、その全ての根源は身勝手さなのです。

他者の幸せのみに関心を持った結果として、仏陀は完全に清明な心を獲得し、最大限の進化を遂げ、悟りの境地に至ることができました。実際、どの時代のどの仏も、他者への配慮を基礎として悟り―可能性を最大限に開花させた状態―に至ったのです。ですから、現実的に考えれば、たとえ「すべての衆生に幸せをもたらし、彼らを全ての問題から解放する」という並外れた決意をし、いかにそれを強く望んだとしてとも、私たちにはそのような能力はありません。全ての衆生が問題を克服して幸せを得るための手助けができるのは仏だけです。

ですから、他者への利益となること、そして、最良の方法でそれを実現するために悟った仏の境地に達することのために心を完全に捧げなければなりません。これは「世俗菩提心」と呼ばれます。

世俗菩提心で満たされたひたむきな気持ちで、簡単な供物―一輪の花など―を捧げます。このような奉納に、全ての衆生への利益や、それを最もよく実現するための悟りの達成などの意図が含まれているなら、行為自体はシンプルであっても膨大な功徳を積むことになります。実際、全ての衆生に利益を与えられるようになることを目指しているのなら、利益はその目標に見合ったものとなります。つまり、衆生の数が膨大であるのと同じように、利益も莫大なものになるのです。このように純粋に、そして誠実に心を捧げると、黄金や宝石で満たされた世界を仏陀に捧げるよりも多くの利益が生まれます。一瞬でも世俗菩提心で満たされた心を持つなら、世界の全ての衆生に食べ物を与えるよりも多くの利益が生まれるのです。

この点については、「世界中の人々に食べ物を与えても、彼らの飢えを満たすことができるのは一度だけだ」と考えればその論理が立証されます。人々はまたすぐにお腹を空かせるので、彼らの飢えという問題は継続します。しかし、世俗菩提心を持って、全ての衆生の苦しみを永遠に和らげることを望み、彼らを最も良く助けるために悟りを達成することを目指して努力するなら、全ての衆生の飢えを軽減するだけではなく、彼らの問題を永遠に終結させる能力を得ることができるのです。

終わりに

ですから、世俗菩提心を育むための第一歩として、「どんな衆生も傷つけない」という決意を固めなければなりません。他者―それが誰であれ―を傷つけることによって生じる様々な不利益や損失に気付いてそれを避けるという誓いを立てれば、素晴らしい利益が生まれます。ですから、これは非常に立派な行為だと言えます。誰も傷つけたり苦しめたりしないという誓いは、誰もが今すぐにでも立てることができるものです。「精神的な実践は高尚すぎて自分には縁遠いものだ」などと考える必要はありません。

つまり、精神的実践者になるには、何か風変わりな生活を送る必要はないのです。歴史の中には、非常に優れた精神的実践者として生涯を送った在家の記録が数多く残っています。古代インドの84人の大成就者の伝記を読めば、その中にも何人もの在家がいたことが分かるでしょう。

歳をとっているからといって気を落とす必要もありませんし、高齢の人々は精神的実践者になれないと考える必要もありません。過去の記録を紐解いてみれば、スリジャティ(Shrijati)という在家は80歳の時に精神的実践者になり、生きている間に阿羅漢、つまり解放された存在の境地に達しました。ですから、歳をとりすぎているということはないのです。

一方、若いからといって分別のない行いはせず、精神的実践においてきっぱりとした態度を取るためにあらゆるエネルギーを有効活用するべきです。そして、自分がもっと歳をとるまで精神的な予防策を取るのを先延ばしにしてよいと考えてはいけません。なぜなら、死がいつ訪れるかは誰にも分からないからです。また、老齢とは一気に訪れるものです。訪れたときには、まるで自分の人生が突然過ぎ去ってしまったかのように感じられるでしょう。

小さくても実行に移せるポジティブなことはたくさんあります。他の国には、たくさんのお金とエネルギーを使って鳥に餌をやっている人がいます。莫大なお金を使って自分の家の外に餌をやる人を雇い、鳥が飢えるのを恐れて休暇も返上したのです。これは素晴らしい実践です。私はこのような例を見ると幸せな気分になります。これこそが菩提心の実践だからです。巡礼としてインドに行って鳩にはパンを与え、他の鳥には米を与えたチベット人の例も知っています。これは、長い生をもたらす素晴らしい実践です。

要約

今回の考察の要点をまとめると以下のようになります:

・すべての他者の利益となるべく努力し続けるために、優しく暖かい心を育てる。

・誰も、何も、絶対に傷つけない。損害や問題を絶対に生み出さない。

これらは、素晴らしい精神的実践の重要な点です。人間として生きている今、世俗菩提心を持って、他者と悟りの成就に純粋に心を捧げ、この心と身体という優れたツールを最大限に活用しなければなりません。すると、完全に清浄な心を持ち、最大限の進化を遂げた存在―すなわち、完全な悟りを得た仏の境地に達することができるでしょう。

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