概要
私たちは三学について考え、八正道の実践を通じて三学を日常生活に生かす方法を学んでいます。三学とは以下のものでした:
- 戒学(倫理的自己鍛錬)
- 定学(集中力)
- 慧学(ものごとをはっきりと見分ける気付き)
戒学を修めるためには正語・正業・正命を実践することを学びました。次は、定学の三種類の修行、つまり正精進・正念・正定について考えてゆきましょう。
正精進とは、破壊的な思考の流れを断ち切り、瞑想から良い結果を引き出すための精神状態を育むこと。
念(マインドフルネス)は、「心の糊」のように何かにくっつき、手放さないようにして、私たちが何かを忘れることを防ぐもの。
- 身体、心、心因の法性(真の本性)を忘れないようにして、これらが私たちの集中力を乱すことを防ぐ。
- 様々な倫理的規範や指針、受戒している場合は戒を手放さないようにする。
- 集中の対象から気を逸らしたり、忘れたりしないようにする。
ですから、念は、瞑想中には集中の対象から意識を逸らさないために必要ですが、誰かと話しているときにも相手や会話に集中し続けるために欠かせないものです。
定(集中力)自体は、集中の対象の上に置かれます。ですから、誰かの話を聞いているときには、集中力は彼らの話の内容、身振りや表情などの上に置かれています。念は集中力を維持するのに役立ちます。精神的な糊として機能して私たちを会話の中に留め置き、ぼんやりしたり気が散ったりするのを防いでくれます。
精進
精進(努力)は八正道の最初の項目で、集中力を高めるために使われます。私たちは、集中力を乱す考えや集中に適さない精神状態から抜け出し、徳を高めるために努力します。一般的に言って、人生の中で何かを達成したいと望むなら、そのために努力しなければなりません。ものごとは無から生じませんし、簡単に目標が達成できたという人は誰もいません。しかし、行動・発話・人間関係において自己鍛錬を積み、ある程度の強さを身に着ければ、心や感情の側面において自分を高める努力をするための力を得ることができるのです。
誤った努力
誤った努力をすると、私たちのエネルギーは有害で破壊的な思考の流れに注がれてゆきます。すると集中力は逸らされ、集中することは―全く不可能ではないにせよ―困難になります。
- 貪(妬む考え)
- 瞋(悪意のある考え)
- 癡(敵意のある、歪んだ考え)
貪
貪とは、他者が達成したものや喜び、持ち物などを羨ましく思うこと、「どうしたら私も同じものを手にすることができるだろう?」と考えることです。このような気持ちは執着から生じます。自分が持っていないもの―成功、素敵なパートナー、新車など、何でも―を他者が持っていることに我慢できないのです。私たちは延々とこのように考え続けます。これは非常に厄介な精神状態です。貪がある限り、私たちは全く集中できません。そうでしょう?
完璧主義もここに含まれる可能性があります。自分が自分に打ち勝つのを見たいのです。これはほとんど自分に対する嫉妬とさえ言えます!
瞋
瞋とは、「こいつが私の気に入らないことを言ったりやったりしたらやり返してやるぞ」というように、どうやって人を傷つけるかという考えです。私たちは、嫌なことを言った相手に次に会ったらどうするかを考えたり、言い返さなかったことを後悔したりします。このような考えに取りつかれると、止めることができなくなります。
癡
癡とは、たとえば誰かが自分を磨こうとしたり、他者を助けようとしたりしているときに、「バカな奴だ、そんなことをしても意味がないだろう。誰かを助けようとするなんでくだらない」と考えることです。
スポーツが好きではない人は、テレビでサッカーを見たり、スタジアム観戦に行ったりすることはくだらないと感じます。しかし、スポーツが好きであることには何の問題もありません。それが馬鹿げているとか時間の無駄だとか考えるのは、敵意に満ちた精神状態です。
あるいは、物乞いにお金をあげて助けようとしている人に対して「そんなことをするなんて馬鹿だ」と考える人もいます。他の人々がどれほど馬鹿で、彼らの行動がいかに不合理かということばかりを考えていたら、決して集中することはできません。このような思考は断ち切らなければなりません。
正しい努力
正しい努力は、破壊的で有害な思考の流れからエネルギーを逸らし、徳を積むことに向かわせます。そのためには「四正勤」―パーリ語で「四つの正しい努力」と呼ばれるもの―が必要です。これは、チベット語とサンスクリット語の文献では「正しい解放を達成する四つの要素」、つまり「短所を克服するための四つの要素」という意味で「四正断」と呼ばれます。
- まず、まだ生じさせていない悪い性質が生じるのを防ぐ努力をします。たとえば、何かに依存しやすい性格の人は、オンラインのストリーミングサービスに加入するのを避けようとするでしょう。加入してしまったら、ドラマシリーズを毎日延々と鑑賞してしまうからです。ドラマをだらだらと見続けてしまうと集中力が低下してゆきます。そのような弊害を避けるために努力するのです。
- 次に、すでに身に着けている悪い性質を捨て去る努力をします。何かに依存しているなら、依存対象を制限するべきです。たとえば、iPodに依存している人々は音楽なしではどこにも行きません。あたかも静寂を恐れ、何かを考えることを避けているかのように、常に音楽を聴いているのです。もちろん、大音量の音楽は長距離運転の時の目覚ましやエクササイズのBGMとして役立ちますし、穏やかな音楽が流れていれば仕事中にリラックスしやすくなるでしょう。しかし、誰かと会話するときに音楽は役に立ちません。当然のことながら、集中力を途切れさせます。
- その後、新たに良い性質を身に着けます。
- さらに、すでに身に着けている良い性質を維持し、さらに磨きをかける努力をします。
日常生活で四正勤を応用する方法を考えるのは大変興味深いことです。私自身の例を挙げましょう。私には非常に悪い習慣がありました。これは自分のウェブサイトに関連することです。およそ110人の人々が私のサイトのために働いていますから、翻訳したテキストや編集したファイルに関するメールが絶えず送られてきます。一日に受信するメールは膨大です。私の悪癖とは、後から自分やアシスタントが見つけやすいようにメールをフォルダ分けせず、全てを一つのフォルダにまとめてダウンロードしていたことでした。これは本当に良くない癖でした。なぜなら、私の効率の悪さのせいで、メールを見つけて整理するのにあまりに多くの時間を浪費して、やるべき仕事に集中できなくなっていたからです。では、これに代わる良い性質とは何でしょう?送られてきたメールをただちに適切なフォルダに分類するシステムを構築することです。すると、怠けてものごとを放置するのではなく、ものごとをまず正しい場所に配置する習慣がついてゆくからです。
この私のエピソードには、悪い性質、非生産的な習慣、そして良い性質の例が含まれています。悪い性質を避けること、そしてそれを断ち切るために適切なファイルシステムを構築することに尽力しなければならないのです。これはまさに、今学んでいることを最もシンプルなレベルで実践する例です。
五蓋を克服する
正しい努力には、五蓋(集中力の妨げとなる五つの障害)を克服する努力も含まれます。
欲愛蓋(五境のいずれかを求めようとする意図)
五境とは、心地よい眺め、音、香り、味、触覚の五つを指します。つまり、望ましい五感の対象ということです。この障害は、何かに集中しようとしているときに現れます。たとえば、仕事中に「映画を見たいな」とか「冷蔵庫を覗きたいな」とかいう考えに邪魔されて集中が途切れることがあるでしょう。ですから、これは、感覚的な快楽や欲望、つまり何かを食べたいとか、音楽を聴きたいとかという欲求のことです。このような気持ちが湧きおこっても、その対象を求めないように努力して、集中力を維持しなければなりません。
瞋恚蓋(敵意のある考え)
誰かを傷つけようと考えることです。「こいつは自分を傷つける奴だから大嫌いだ、どうやってやり返そう?」などと、常に悪意のある考え方をしていたら、集中するのはとても難しくなります。他者に対してだけではなく、自分自身に対しても、意地の悪い有害な考えを持たないように努力しなければなりません。
惛沈・睡眠蓋(心の曇りとだるさ)
心に霧がかかり、ぼんやりして、はっきりとものごとを考えられない状態です。睡眠とは文字通り眠気のことです。コーヒーを飲んだり新鮮な空気を吸ったりしてこれらと戦い、屈しないようにしなければなりません。しかし、どうしても集中するのが難しい場合は、境界線を引きましょう。つまり、制限を設けるのです。家で仕事をしているときは「20分だけ昼寝をしよう」、「20分だけ休もう」と考えましょう。オフィスでは「10分だけコーヒー休憩をしよう」と考えます。時間制限を設けて休憩を取り、そのあとで仕事に戻るのです。
掉挙・悪作蓋(心の気まぐれと後悔)
掉挙とは、FacebookやYouTubeなどへと気まぐれに心が飛んで行ってしまうことです。悪作とは、「前にあんなことをしなければよかった、申し訳ない」という罪悪感から心が別のところへと飛んで行ってしまうことです。これらは心を乱し、再び集中するのをひどく妨げます。
疑蓋(優柔不断な気持ちの揺れ動きと疑念)
取り除くべき五つ目の障害は、「どうすればいいんだろう?」という優柔不断な気持ちの揺れ動きと疑念です。「お昼に何を食べればいいんだろう?これかな?それともあれだろうか?」というように決心がつかない状態が続くと、非常に多くの時間を浪費します。疑念や優柔不断な気持ちに取りつかれていたら、集中することも、何かに取り掛かることもできません。ですから、努力して克服しなければなりません。
つまり、正しい努力とは、以下のことに注力することです:
- 心を乱す有害な考え方を避ける
- 悪癖や欠点を克服する
- すでに身についている徳に磨きをかけ、不足している徳を高める
- 集中力を妨げるものを取り除く
念
集中力に関わる次の道は正念です。
- 念(マインドフルネス)とは、基本的に、「心の糊」である。集中しているとき、私たちの心はその対象にくっつく。この「くっつく」ものこそが念であり、対象を手放すことを防ぐ。
- 念は正知(警戒心)に伴われる。正知は、心の散乱や惛沈・睡眠を感知する。
- そして、作意(留意)によって集中の対象に注意を払ったり、検討したりする。
では、自分の身体や感情、心、そして様々な心所のとらえ方に注目してみましょう。私たちは、身体や感情の誤った認識に固執したり、それを手放さなかったりすることを避けたいと思っています。気が散って集中できなくなるからです。誤った念と正しい念を交互に検討してゆきましょう。
身体について
「身体」という言葉は、通常、私たちの身体や、様々な身体感覚・側面を指して使われます。「身体はもとより快適で、清潔で、美しいものだ」という見解は誤っています。私たちは自分の見た目に気を取られて莫大な時間を浪費します。髪、メイク、服装などに途方もない時間を遣っているのです。もちろん、人前に出ても見苦しくないように身だしなみを整えるのは良いことです。しかし、「自分の身体の見た目は喜びの源だ」とか「他者を惹きつけるためには常に完璧なルックスでなければならない」などという極端な考えに走ってしまうと、集中したり、他の有意義なことに使ったりする時間はなくなってしまいます。
現実的な目で身体を見つめてみましょう。あまりにも長い時間座り続けていると、身体に違和感が生じ、私たちは動かざるを得なくなります。寝転がっていると、ある姿勢がしっくりこなくなって、別の姿勢を取りたくなります。しかし、次の姿勢もやはり快適とは言えません。私たちは病気にもなります。身体は年老いてゆきます。運動と食生活に気を配り、自分の身体の健康を維持することはとても大切です。しかし、「身体は永遠に続く喜びの源だ」という考えに取りつかれてしまうのは問題です。
これこそが取り除かなければならない誤った念です。「自分の髪はこの世で最も大切なものだ」とか「身に着けるもののカラーコーディネーションは完璧でなければならない」とか、「見た目を完璧にすれば幸せになる」などという思い込みは手放さなければなりません。そのような考え方に固執するのを止め、正しい念、つまり「髪や服装は幸せの源ではない。外見にこだわりすぎるのは自分の時間の浪費であるだけでなく、もっと有意義なことに集中することを妨げてもいる」という考えを身に着ける必要があります。
感情について
幸せや不幸の感覚について考えてみましょう。これらは苦しみの源に直結しています。不幸な時、私たちには「渇き」、あるいは「渇愛」と呼ばれるもの―不幸の原因を取り除くことへの渇望―が生じます。小さな幸せを手にしているときも、同じように渇き―もっと多くのものを得たいという渇望―が生じます。これは基本的に、問題を生み出すものです。
自分の不幸こそがこの世で最悪のものだと考えてしまうと集中力がおろそかになります。「少し気分が悪い」とか、「今日は機嫌が悪い」とか、「自分は不幸だ」などと感じたら―それがどうしたと言うのでしょう?とにかく、自分がやっていることをやり続けるのです。自分が嫌な気分であることが世界で一番重要な問題だと考えて、その思いにしがみ付き続けると、やるべきことをやり続けるための集中力がひどく乱されます。
また、自分が幸せな時に「この幸せがさらに大きくなり、永遠に続くといいな」と願う場合も、集中力が途切れてしまいます。これは望ましくない状態です。たとえば、瞑想をしていて気分が良くなりはじめ、「なんて素晴らしいのだろう」と感じたときにこれが起こってしまいます。あるいは、好きな相手と一緒にいるときや美味しいものを食べているときに「これは素晴らしい」という気持ちに固執する誤った念が生じると、それによって気持ちが逸らされてしまいます。手にしているものをありのまま楽しむこと、必要以上に大げさにとらえないことが大切です。
心について
もし、「心とは元々怒りや愚かさ、無明に満たされているものだ」とか「心には本質的に間違っていたり欠けていたりする点があるものだ」と思っているのなら、集中するのは簡単ではないでしょう。私たちはしばしば、自分が十分に立派な人間ではないと考えます―「私はあんなに素晴らしくない、こんなに素晴らしくない、無意味な存在だ」。あるいは、努力もせずに「私には理解できない」と考えることもあるでしょう。このような考えに固執していたら、確かに望みはありません。しかし、「今の段階では確かに理解できないし、混乱しているかもしれないが、それが私の心の本質だということではない」という正しい念があれば、集中力を使って問題に取り組む自信が生まれるはずです。
心所について
次に、心所―知性、優しさ、忍耐など―について考えてみましょう。心所が不動のものであると思い込み、「これが私なのだから、他の人々はこの私を受け入れなければならない。私の心所を変えたり、改善したりするためにできることは何もない」と考えるのは誤った念です。「これらは一定のレベルに固定されて動かないのではなく、改善してゆくことができるものだ」と考えるのが正しい念です。現在の文脈では、「自分の集中力はもっと高められるはずだ」理解することがこれに当たるでしょう。
自分を制御する
自分自身の不機嫌や罪悪感に対処する方法について考えてみましょう。奇妙なことに、私たちはそれらの感情にしがみついて、自らどっぷりとはまりこんでしまうことに気付きます。罪悪感があると、自分が犯した過ちから気持ちを逸らせなくなります。私たちはみな人間ですから、間違いを犯すものです。過ちや嫌な気持ちにしがみついてそれらを手放そうとしなかったり、自分がいかにひどい人間であるか考えて自分を鞭打ったりするのは誤った念です。「気分は因縁(原因と条件)から生じるものだから、一定ではなく移り変わるものだ。因縁自体も絶えず変化しているのだから。不変不動のものなど何もない」と考えるのが正しい念です。
仏教の教えの中から非常に役立つアドバイスを一つご紹介するなら、それは「自分を制御せよ」というものです。たとえば、朝、目を覚ましてベッドに横になっているとき、それが心地良いしまだ眠くて、起き上がりたくないことがあるでしょう。それでも私たちは自分を制御してベッドから出ています。そうでしょう?もしこの能力がなければ、半数の人々は絶対に起き上らないでしょう!嫌な気分のときやちょっと落ち込んでいるときもこれと同じことをするのです。「こら、やるんだ!」と自分に言い聞かせて自分をコントロールし、気分に飲み込まれないようにして、やるべきことに取り掛かるのです。
念に関する他のポイント
一般的な話ですが、念は非常に重要です。念は、私たちがものごとを忘れるのを防いでくれます。やらなければならないことがあるときには、正しい念がそれに集中する手助けをしてくれます。念は記憶に関連しています。好きなテレビ番組が今夜放映されることを覚えているのも念があるからです。しかし、このようにあまり重要ではないことを覚えていると、もっと重要なことを忘れてしまいます。
何かの訓練を行っているなら、それを続けるための正しい念が身についているはずです。エクササイズをしている人は、毎日ワークアウトを繰り返さなければなりません。ダイエットをしているなら、そのことを心に留める念によって、ケーキを差し出されても断るようにしているでしょう。
念とは自分がやっていることを忘れないようにすること、そして、他の些細な、どうでも良いことに気を取られないようにすることです。
家族と一緒にいるときに念を保つこと
友達や他人よりも家族と一緒にいるときの方が道徳的な規範に意識を向け続けるのが難しいと感じる人はたくさんいます。その場合は、前もって「私は絶対に彼らに対して怒らない。彼らは私に対してとても優しい。彼らは私に近い存在だから、私の態度は彼らの気持ちに影響を与える」と非常に強く心に念じることをお勧めします。初めが肝心です。
また、「家族も人間だ」ということを思い出さなければなりません。彼らは母、父、兄、姉などという役割を果たしているだけではありません。自分と彼らとの役割関係だけに固執していると、「母とはこういうものだ」とか「父とはこうあるべきだ」などという自分の投影や家族の歴史、これまでの彼らに対する期待や失望に基づいた反応をしてしまいます。そうではなく、家族とも人間同士としての付き合いをした方が良いのです。相手がそのことを意識せず、私たちを子供のように扱っていたとしても、私たち自身は子供のようにふるまうパターンに陥らないようにしなければなりません。彼らも人間だということを忘れないようにして、彼らのゲームに加わらないようにするのです―「タンゴを踊るには二人が必要」、つまり、結局責任は両者にあるのですから。
最近、姉が私の家に一週間滞在していました。彼女は基本的に早く寝る人なのですが、私に対してもまるで母親のように「もう寝なさい」と言うのです。しかし、もし私まで子供のように「まだ早いよ、まだ眠くないよ!僕はまだ起きていたいんだ、何で僕に早く寝ろって言うの?」と言っていたら、またいつものゲームが始まってしまいます。そして、結局二人とも嫌な気持ちになってしまうのです。ですから私は、「姉が私に忠告するのは私のことを気遣っているからであり、私を怒らせたいからではない。彼女は私が早く寝た方が良いと思っているのだ」と自分に言い聞かせなければなりませんでした。このように、自分の考えを投影するのではなく、起こっていることに対して現実的な目を向けようと努力する必要があるのです
家族に会う前に自分の動機を思い出さなくてはなりません。つまり、このようなことです:
- 目標:家族と気持ちよく交流すること。私たちは家族を気遣い、家族は私たちを気遣っている。
- これに伴う感情:人間としての家族への気配り。
家族との交流を厳しい試練だと考える代わりに、自分を成長させるための良い機会だと思ってこのように考えることもできます:「腹を立てずに家族との夕食を切り抜けることができるだろうか?」
家族に―特に親に―「どうして結婚しないの?」、「なんでもっといい仕事に就かないの?」、「なんで子供を作らないの?」などとうるさく聞かれることもあるでしょう。私の姉は私に会うとまず「髪を切りなさい!」と言いますよ!そんなときは、彼らが私たちのことを気遣っているから聞いているのだと考えて、ただ、「気遣ってくれてありがとう」と言えば良いのです。
また、彼らがこのような質問をする背景について考えても良いでしょう。家族はきっと、周りの人々から「息子さんはどうしているの?」、「娘さんは今何をしているの?」と聞かれているのでしょう。私たちの家族も、友人たちと交流しなければなりません。人々が「なぜ結婚していないの?」と聞くのも、悪意があるからではなく、私たちの幸せを願っているからなのです。まずはそれを認め、彼らの気遣いに感謝しましょう。そして、必要であれば、なぜ結婚していないのかを穏やかな口調で説明すれば良いのです。
誤った念がある場合、私たちは全く生産的ではないことにしがみつきます。「10年前にどうしてあんなことをしたんだ?」とか、「お前は30年前にそう言っただろう!」とか、まるで古代史のようなことに固執し、他者に一切の隙を与えません。すると、私たちは彼らの現在の姿に集中することができなくなります。あるいは、「両親がやって来たら面倒なことになるに違いない」などと、思い込みにこだわることもあります。「面倒なことになる」と決めつけてしまっているのです。そのせいで、夕食が始まる前にもうピリピリし始めるのです。ですから、このような誤った念を正しい念と入れ替え、思い込みを捨てて、「人々の現在の姿を見る良い機会にしよう」とか、「状況に合わせて反応しよう」などと考えるべきなのです。
念を保つための実用的なアドバイス
困難な状況でも念を保つには、以下のものを身に着ける必要があります:
- 意志―忘れないようにしようとする強い意志
- 慣れ―何度も同じプロセスを繰り返し、自然と思い出せるようにする
- 警戒心(正知)―念を失ったときにそれに気付くための警報装置
これらの全ての基礎となるのは不放逸、つまり、自分の行動が自分自身や他者に与える影響を気に掛ける態度です。自分の行動を気にしなければあらゆる規律が失われてしまいますから、念も保たれなくなります。どうして気にしなければならないのでしょう?それは私たちが人間であり、私たちの両親も人間だからです。私たちはみな幸せになりたいと思っています。不幸になりたい人は一人もいません。他者への接し方や話し方は相手の感情に影響を与えます。それゆえ、私たちは自分の振る舞いを気に掛けなくてはならないのです。
自分自身や自分の動機をよく研究してみましょう。他者に好かれたいという理由だけで他者に優しくしようとするのは子供じみていますし、少しばかげています。不放逸によって他者を気にかけるのは、自分の行動に気を配り、その念を維持する最善の動機です。
定
集中に応用できる三つ目の道は「正定」、つまり「正しい集中」―集中そのもの―です。集中とは、集中の対象の上に実際に心を「配置する」ことです。自分が集中したいものを掴んだら、それを手放さないように念を使って固定します。集中とは、最初に対象を「掴む」ことに他なりません。
何かに集中するときには注意力を使います。昔よりも今の方が、注意力が細切れになること―つまり、何かに完全に集中することができないことが増えています。テレビを見ていても、画面の真ん中では今日のニュースを伝えるキャスターが喋っていて、下の方には他のニュースを伝えるテキストが流れ、隅にある小さな画面にはまた別の映像が映っているでしょう。そのどれか一つに完全に集中するのは簡単ではありません。自分ではマルチタスキングができると思っていても、本当に全てのタスクに同時に100パーセント集中できる人は誰も―仏以外―いません。
誰かと一緒にいて、相手が話しているとき、実際には心が自分の携帯電話の上に置かれていることはよくあります。これは誤った心の配置です。相手が話しかけているのに、私たちは相手に注意を払ってさえいないのですから。たとえあるもの上に心を配置しても、それを維持するのは困難なことです。現代の私たちはものごとの猛スピードの変化に慣れてしまっていますから、簡単に退屈してしまいます。このような集中力―一瞬あるものに集中して、次の瞬間には別のものに集中する―を持つことも障害の一つです。これは誤った種類の集中力です。「正しく集中できる」というのは、興味を失ったり、退屈して別のものに気持ちを向けたりすることなく、一つの対象に必要なだけ集中し続ける能力があることを言うのです。
私たちが抱える主な障害の一つは「楽しみたい」という気持ちです。これはすでにお話した誤った念―一時的な快楽は実際には更なる渇望しか生まないのに、自分を満足させると考えること―です。社会科学者たちの研究では、私たちが見たりやったりできることが多ければ多いほど―インターネットは私たちに無限の可能性を与えます―、私たちは退屈し、緊張し、ストレスを強く感じるという結果が出ています。何かを見ているときには、もっと面白いものがあるのではないかと考え、それを見逃すことを恐れます。私たちはさらに多くを求め、何にも集中できなくなります。簡単なことではありませんが、自分の生活をよりシンプルなものに―一度にあまり多くのものが起こらないように―するのは賢明な考えです。集中力が高まれば高まるほど、より幅広いものに対処できるようになります。
優れた集中力があれば、様々なものに集中できます。しかし、一度に集中できる対象は一つだけです。一度に一人の患者を診察する―前後の患者に気を取られずに―医師をイメージしてみてください。医師は一日のうちに多数の患者を診察しますが、一度に診察できるのは一人だけです。その方が集中できるのです。
これはなかなか難しいことです。私自身も、ウェブサイトに関連する膨大なタスクを処理し、様々な仕事を多言語でこなしていますが、一つのタスクに集中するのは簡単ではありません。様々なことが同時になだれ込んでくるのです。複雑なビジネスに携わる人はみな同じ経験をしているでしょう。しかし、段階を踏めば、徐々に集中力を高めてゆくことができるのです。
要約
集中の障害になるものを取り除く方法はたくさんあります。やるべきことに完全に集中するためには、シンプルに、仕事中に携帯電話の電源を切っておいたり、一日に一度か二度、決まった時間にメールをチェックするようにしたりすれば良いでしょう。多くの医師や教授は面会時間を設定し、患者や学生が訪問できる時間を区切っています。私たちも、これと同じようなことを自分自身に対して行うべきです。そうすることで集中力が高められるからです。
社会の発展の歴史を紐解くと、面白いことが分かります。かつて、集中の妨げとなっていたものは自分自身の心の状態―心の散乱、白昼夢など―でした。現在、私たちの気を散らすものは他にもたくさんあります。そして、ほとんどのもの―携帯電話、Facebook、メールなど―は、自分の外側にあるものです。これらに圧倒されないようにするには努力が必要です。さらに、そのためには、これらのメディアの有害な点を正しく認識しなければなりません。その一つは、注意の幅がどんどん狭くなってゆくということです。この経験がある方は少なくないでしょう。Twitterに投稿できる文字数は決まっていますし、Facebookのフィードは絶えずアップデートされてゆきます。何もかもが恐ろしいスピードで過ぎ去ってゆくので、集中力に悪影響を及ぼす悪癖が身に付き、何にも集中し続けられなくなります。ですから、これには十分気をつけなければなりません。