建設的なカルマ
建設的なカルマとは、破壊的なことをやったり、言ったり、考えたりしないようにすることです。破壊的な言動が十不善に分類されるのと同じように、建設的な言動も十善に分類されます。これらは、自制の対象となる破壊的行動に対応して、身の三善・口の四善・意の三善に分かれています。しかし、単に破壊的な行動を避けることだけが建設的なカルマを行動に移す道ではありません。善を完全なものとするためには、まず、不善を犯すことが自己破壊的であり、多くのネガティブな結果をもたらすことを理解する必要があります。さらに、その理解に基づいて自らを律し、最終的に、実際にそのような行動を思いとどまることができるようにしなければなりません。
善が最も強力な結果を生むには―それと対になる不善と同じように―四つの要素(四支、yan-lag bzhi)が全て揃っている必要があります―
- 基(gzhi): 行動の対象
- 動機(kun-slong): 行動を動機付ける精神的な枠組み
- 着手(sbyor-ba): 行動を実行するために取られる手段
- 究竟(mthar-thug): 行動の完了
たとえば殺生を避けること、つまり不殺生について考えてみましょう。ここではハエを例とします。殺しを避けるという建設的なカルマの対象、すなわち基はハエです。ハエを叩くことを止める動機は、まずハエを殺すことから生じる不利益を理解し、それを理由として、叩くことは全く適切ではないと考え、最後に、実際にそれを止める強い意志を持つことです。この意志が強くなると、ハエを叩き殺すことから生じる不利益をしっかりと見据え、意識的に自分を制御して殺生を止めるようになります。不殺生が究竟するのは、殺生から生じる苦しみの結果を理解して、ハエを殺さないことを固く心に決めたときです。
他の九種の建設的な行動の究竟についても、同じように四つの要素の観点から分析することができます。そのような分析をして、お金を払わないでレストランを出たり、スーパーの商品をハンドバッグに隠したり、隣人と浮気をしたり、妊娠後期の女性と性行為をしたり、過去について嘘をついたり、師に兄弟弟子の悪口を言ったり、友人が過ちを犯したときに彼を手厳しく非難したり、取るに足りない馬鹿げた質問をいくつも投げかけて師の邪魔をしたり、最新の車を買った隣人に張り合うために自分もそれを買いに行こうと考えたり、鳴き声が気に障るからという理由で赤ん坊を叩こうと考えたり、地獄という考え方が気に入らないという理由で地獄の存在を否定しようと考えたり―このようなことを避けるように、自分を制御するのです。
私たちはこれらのあらゆる不善を犯さないように自分を抑えます。なぜなら、自分を律さないことから生じる苦しみの結果を強く意識しているからです。不善を犯さないよう自分を押しとどめるという建設的な行動をとるとき、私たちは、将来―悪趣においても、今後人間として転生したときにも―起こり得る問題や苦しみを避けるために、意識的に対抗措置を取るのです。
破壊的な言動から生じるカルマの種やネガティブなカルマが三種類の結果を生むのと同じように、建設的な言動のカルマの種や功徳からも三種類の結果が生まれます―
- 異熟果
- 等流果(蔵: rgyu-mthun-gyi ’bras-bu、梵: niṣyanda-phalam)
- 増上果(蔵: bdag-’bras、梵: adhipati-phalam)
1. たとえ現実のあり方を理解していなくても、強い力と適切な祈り、そして波羅蜜をもって十善を実践するという自己鍛錬を続けていれば、輪廻の中のより高い境地、つまり色界または無色界の神々の五蘊を持って転生するという最初の結果を受けることができます。中程度の力を使った場合は欲界の神々の五蘊、弱い力の場合は人間の五蘊を持って転生します。建設的な行動を取る際の力の強弱を決定する要素は、破壊的な行動の場合と同じです。
2. 人間の身体を持つ転生のいずれかにおいて、私たちは等流果を受けます。この等流果は、対を成すネガティブなカルマの力から生じる等流果と正反対のものとなります。つまり、殺生を避けることによって長寿を得て、本能的に殺生を避けるようになります。偸盗を避けることによって大きな富を手に入れ、自然と正直になります。邪淫を避けることによって、結婚生活は幸せで平穏なものとなり、不倫に心を惹かれることもなくなります。妄語を避けることによって、私たちの言葉は権威あるものとされ、本能によって真実を語るようになります。離間語を避けることによって、人々と良好な関係を築く親しみやすい人物となります。他の善についても同じことが言えます。
3. 増上果についても、破壊的な行動の場合を思い出し、その対極を考えれば理解できるでしょう。たとえば、栄養満点の食べ物や飲み物に事欠かず、心身の健康をしっかりと支える医療が受けられる土地に生まれるかもしれません。楽しむことができるものがふんだんにある、豊かで実り多い土地で人生を謳歌することもあり得ます。あるいは、パートナーが乱暴される危険のない、清潔で風光明媚な環境に生まれるかもしれません。いずれにしても、建設的な行動を取れば、その結果として有益で望ましいあらゆる結果を手にすることになるのです。
仏陀は『十地経』(蔵: mDo-sde sa-bcu-pa、梵: Daśa-bhūmika Sūtra)で以下のように説いています―
とめどなく繰り返される輪廻の問題を恐れ、心からの悲を欠いたまま、他者の言葉に従ってこれらの十の有益な習慣を身に着けようとする場合、声聞の境地に達することができる。心からの悲が欠けていても、他の誰にも頼らずに自分の能力を最大限に開花させたいと願い、縁起を理解した上で十善を実践すれば、縁覚の境地に達することができる。非常に広大な視野、深い悲の心と方便、そして大きな発願を持ち、あらゆる衆生の境遇を決して見捨てることなく、諸仏のきわめて広大で深遠な智を目指して十善を実践するならば、菩薩の心のあらゆる境地と全ての波羅蜜を達成することができる。そして、あらゆる点で十善を完全に実践するなら、ダルマの道を全て成就して仏となることができる。
ですから、ポジティブで建設的な思考・発話・行動の力を決して軽んじてはいけません。
補足―あらゆる行動から生じ得る結果の強さに影響する要因の要約
一般的に言って、私たちが建設的・破壊的な行動を取るとき、その結果の大きさは、四つの要因(stobs-ldan-gyi las-kyi sgo-bzhi)に応じて変化します―
- 行動の場(蔵: zhing、梵: kṣetra、田、土)
- 依止の程度(rten)
- 関連する事柄(蔵: chos、梵: dharma)
- 動機
1. 行動の場(田、土)とは、私たちの行動の対象、あるいは受け手となる人物や生き物のことです。普通の人や両親、出家者、菩薩、仏、そして自分の師に物質的な援助をすることには、行動の結果を強めるという有益な効果があります。自分を悟りに導く姿で師を観想し、供養を行うのはとても有効な実践です。なぜなら、師は私たちの精神的な成長にとって実り多い田であるからです。
今お話している結果の強さというのは、私たちが与える物質的な援助が取り除く苦しみやニーズの大きさによって決まるものではありません。もっと単純に、受け取る人が私たちや他者に示す優しさ、つまり、彼らが目指していたりすでに達成していたりする純粋な目標、そして彼らの功徳によって決まるものです。
同様に、もしこのような実り多い田に対して破壊的な言動を取ったら、普通の人に対して同じことをした場合よりも深刻な結果が生じます。自分が帰依する対象に対しては礼を失したり、破壊的な行動を取ったりしないように特に気をつけなければなりません。その結果は悲惨なものになるからです。もし、ある在家が、サンガの所有物やサンガにしか使用が許されていないものを許可なく取った場合、重大な結果を受けることになります。また、すでにお話した通り、菩薩に向かって怒りを表すと、私たちが持っている全ての功徳が損なわれることもあります。
2. また、事実をどれほど深く信じているか、また、行動の因果の法則をどれだけ真剣に考えているかも、行動の結果を左右します。ある行動が破壊的だと知っていても、十分に自制ができなければ結局その行動を取ってしまいます。しかし、自分が犯してしまった過ちをはっきりと認め、四つの対治―後悔すること、それを繰り返さないと誓うこと、帰依と菩提心を再確認すること、修復のための言動を取ること―を実践すれば、苦しみの結果を浄化することができるのです。このことを理解した上で実行に移せば、苦しみの結果を―たとえ完全に消し去ることができないとしても―弱めることはできます。しかし、このことを知っていても、対治の力を軽んじ、わざと破壊的な行動を取って、傲慢にも苦しみの結果を浄化しようとしない場合、その結果は遥かに深刻なものになります。
さらに、どのような戒を受けているか、あるいは全く受けていないかによって行動の強さは大きく変わります。たとえば、ハエを殺すことを避けているとしましょう。ただその場の思い付きで、気まぐれにそれを決めた場合と、在家ならば五戒(dge-bsnyen sdom-pa lnga)、沙弥・沙弥尼なら36戒、正式に具足戒を受けている比丘ならば253戒を今生守り続ける場合、あるいは、悟りに至るまでの全ての生で菩薩戒を守り続ける場合、さらに、タントラの戒を守り続ける場合と、不殺生という建設的な行動の力は段階的に強くなってゆきます。これと同じように、同じ「羊を殺す」ということについても、自分が飢え死にしそうなときに一度だけこれを行ってしまった場合と、夏の間だけ食肉処理場で働くという決断をした結果である場合と、今後一生食肉処理を生業とする契約をすることで殺生に関する不律儀(sdom-pa ma-yin-pa)を受けた場合を比較すれば、徐々に殺生から生じる結果は重くなってゆくことがわかります。この違いは、破壊的になることを避ける、あるいは全く避けないことについての誓約のレベルの差から生じます。
強い動機による衝動的な身業・口業には、その建設的・破壊的なエネルギーの表色と無表色があります。これと同じことが、戒を受けること、不律儀を受けること、あるいは正式に誓約していない一時的な戒または不律儀を受けることにも当てはまります。「殺生を避ける」というシンプルな行為には、カルマと功徳の表色と無表色があります。
しかし、殺生を避けるという行為自体からさらに無表色が生じることはありません。なぜなら、その動機は、無表色を生じさせるには弱すぎるからです。もし同じように殺生を避ける場合であっても、正式な誓約によらない一時的な戒との関連の中でそうするのであれば、さらに「建設的なエネルギーの無表色」(蔵: rig-min-gyi dge-ba、梵: avijñapti-kuśala)が蓄積されます。しかし、この無表色は、一時的な戒が有効である期間が終わった瞬間に失われます。一方、この生涯を通じた戒や悟りに至るまでの全ての生に渡る戒を受けている場合は、この生が終わるまで、あるいは、後者の場合は悟りを達成するまでずっと、戒によって蓄積された建設的なエネルギーの無表色は功徳として保持されます。私たちが寝ている間も起きている間も、心相続に蓄積された功徳は存在し続けるだけでなく、成長しさえするのです。破壊的な行動の場合も、単純な破壊的行動、一時的な不律儀を受けたうえで取る破壊的行動、一生続く不律儀を受けたうえで取る破壊的行動について、これと同じことが言えます。
戒から生じる建設的なエネルギー、あるいは、不律儀から生じる破壊的なエネルギーの無表色は、私たちが何をしているかに関わらず、さらにポジティブ・ネガティブなカルマを心相続に蓄積してゆきます。この仕組みを理解しやすくするために、喩え話をしましょう。私たちは、ある寺院の建設のために寄付をしたり、労力を提供したりしています。このとき、ポジティブなカルマの表色は、労働や寄付という行為が完了すると同時に消えます。一方、ポジティブなエネルギーの無表色は私たちの心相続に留まり続け、その寺院で師を讃える儀式が行われたり、法話が行われたりするたびに、このエネルギーの功徳はさらに増えてゆくのです。ネガティブなカルマのエネルギーについても、寺院を食肉処理場や絞首台に置き換えれば同じ構造だと言えます。私たちが建設を手伝った施設で殺生や処刑が行われるたびに、私たちの心相続の中でネガティブなカルマの力が増えてゆくのです。[世親『阿毘達磨倶舎論』第四品第25~44偈、ツォンカパ『中論註釈書・正理海』第300~301偈に引用]
3. 私たちの行動の内容も結果を左右します。誰かにダルマの教えを授けることからは、物質的な援助を与えるよりも大きな利益が生まれます。同じように、師に対してダルマの実践を捧げることからは、花を贈るより強い結果が生じます。
4. 最後に、動機は結果の強さに大きく影響します。同じ建設的な行動でも、自分の利益を目的にする場合と他者を助けることが目的である場合、また、今生をより良いものにすることが目的である場合、来世を良くすることが目的である場合、衆生の利益となるために解脱や悟りを目指す場合では、結果の強さに大きな違いが生じます。世俗菩提心によって師を讃える儀式を行う場合、義務感によって参加する場合やただ新しい衣服を見せびらかすために参加する場合よりずっと強力な結果を経験することになります。
破壊的な行動がより深刻になるのは、より大きな被害を出す意図があるときです。さらに、いかなる行動も、その動機の強さと、それを持っていた時間の長さに応じてその力を増します。何年もの間、何かを実行に移そうと考えていたのなら、同じことを衝動的に行った場合よりも大きな結果が生じます。これと同じように、強い衝動(従わざるを得ない力)によって意図的に何かをする場合は、本気ではなく、なんとなく行った場合よりも深刻です。
無著は『阿毘達磨集論』の中で、行動の結果を強める九つの要因を挙げています―
- 行動の場(田)
- 関連する現象
- 行動の性質
- 行動を向ける相手の状態
- 作意
- 動機
- 行動を支持する条件
- 頻度
- 一緒にその行動を取る人の数
田による違いというのは、行動の対象となる人が持つ優しさや功徳の量の違いです。一方、相手の状態による違いというのは、相手が長期にわたる隠棲を終えたばかりだとか病気だとか、つまり相手の状況や達成のことです。作意(蔵: yid-la byed-pa、梵: manasikāra)は相手に向ける敬意の量、行動を支持する条件(grogs)は私たちの戒のレベルです。建設的・破壊的なあらゆる行動に関わる人の数(skye-bo mang-po)が多くなればなるほど、行動の力は強くなります。
この最後の要素について言えば、羊を殺すのに関わった人が一人だけなら、その一人の心相続にだけネガティブなカルマが蓄積され、十人で殺したなら、同じ行為によるネガティブなカルマが十の異なる心相続に蓄積されるということです。十人で殺したからといって、それぞれの心相続に蓄積されるカルマが、単独で殺した場合よりも強くなるわけではありません。一方、大勢で師を讃える供養を行い、その功徳をポジティブな目的のために回向する場合にも同じことが言えます。
自分の行動の結果を強める全ての要因についてよく考えなければなりません。なぜなら、行動の因果を意識していれば、ほんの小さな建設的行動を力強いやり方で実践して、苦労や困難を最小限にしながら、途方もない量のポジティブなカルマを蓄積して莫大な利益を経験することができるからです。また、破壊的な行動から生じる悲惨な結果を小さくすることもできます。
カルマを生む行動を区別するその他の方法
引業と満業
カルマには、引業(牽引するカルマ、’phen-byed-kyi las)と満業(円満させるカルマ、rdzogs-byed-kyi las)という区別の仕方があります。どちらも死の瞬間に生じる意業のカルマで、私たちの転生に影響を与えます。これらはその生におけるより早い時期、あるいは以前の生において取った身業・口業の結果として生じます。
引業を生み出すのは、これまで見てきた身業・口業の計七種のいずれかです。これらの行動や発話が行われたあと、カルマの種として、一連の瞬間的な反復が続きます。その後いつかの転生においてこのカルマの種が死の瞬間に活性化され、引業による働きかけが生じて意識を促し、意識はその次の瞬間に、次の転生の身体の要素を拠り所として取ります―まずは中陰身を取るのです。中陰の期間が終わると、引業による新たな働きかけが生じ、転生における実際の身体の要素を受けるように意識を促します。この一連の流れを引き起こす最初の身業・口業が建設的であれば、善趣のいずれかに転生することが確実です。一方、破壊的な身業・口業によって引き起こされたのであれば、三悪趣のいずれかに転生することになります。
満業は行動・発話のカルマに続くカルマの種の一連の反復が終わるときに発現します。これが発現するのは、その行動・発話が身業・口業七種に含まれるが建設的・破壊的な感情に強く動機づけられていない場合、あるいは、行動・発話が身業・口業の計七種に含まれない場合です。満業は引業とともに熟し、転生の境遇を確立します。しかし、転生後に待ち受けている困難の大きさや、善趣と悪趣のどちらに転生するかを決定するものではありません。
転生には四つの可能性があります(mu-bzhi、四句分別、テトラレンマ)―
- 引業・満業がどちらも建設的である場合、転生して転輪聖王となる
- 引業は建設的だが満業が破壊的である場合、貧困のうちに生きる物乞いとなる
- 引業・満業がどちらも破壊的である場合、地獄に囚われる身となる
- 引業は破壊的だが満業が建設的である場合、ダライ・ラマ法王の犬に転生する
引業の数が反映される転生の数にも四つの可能性があります。一つまたは複数の引業が集まって、一つまたは複数の転生を生み出すことがあります。貴重な人身を得るためには多くの建設的な行動が必要ですが、一つでも重罪を犯せば、何度も地獄に転生することになり得ます。いずれにせよ、全ての転生の状況を整えるには多くの満業が必要です[無著『阿毘達磨集論』に引用]。
無著の『阿毘達磨集論』によれば、カルマがその結果として来世の五蘊を引き出す働きを持つには、粗大なレベルの心を伴って生じる必要があります。ですから、粗大なレベルの心が一時的に停止する三昧の状態では、引業が生じることはありません[世親『阿毘達磨倶舎論』第四品第95偈参照]。
カルマの結果が経験され始める生が確実な場合と不確実な場合
身業・口業の中には、その結果が経験され始める生が確実なもの(myong-nges-kyi las)と不確実なもの(myong-ba ma-nges-pa’i las)があります。ここで問題となっているのは、私たちが確実にその結果を経験するかどうかではありません。「カルマによって蒔かれた種は、心相続から浄化されない限り消えることはない」というのはカルマの法則の一つですから、いつかは確実に熟すことになります。ですから、ここで考えるのは、その結果をどの生で経験し始めるか、それが確実な場合とそうでない場合という違いだけです。また、ここでいう結果とは、破壊的なカルマから生じる不幸と、建設的なカルマから生じる幸せのことです。
結果が生じる時期が確実なカルマには三つの種類があります―
- この生でその結果が経験されるカルマ(mthong-chos myong-’gyur-gyi las)―現在の生で幸せまたは不幸を発生させることが確実である
- 転生後にその結果が経験されるカルマ(skyes-nas myong-’gyur-gyi las)―この生の直後の転生においてその結果を生じさせることは確実である
- 何度か後の転生においてその結果が経験されるカルマ(lan-grangs gzhan-la myong-’gyur-gyi las)―この生のあとのいつかの転生でその結果を生じさせることは確実である
これらの結果が最初に生じたときに、それを経験しつくしてしまうとは限りません。はっきり示すことができるのは、その結果が経験され始める生だけです。
積集されたカルマと実行されたカルマ
あるカルマについて、その結果がどの生で経験され始めるかが確実であるか否かを決める要因は、行動・発話を引き起こすそのカルマが実行に移された(byas-pa)かどうか、そして、それが積集された(蔵: bsags-pa、梵: upacaya)かどうかです。
行動・発話を引き起こすカルマが実行されるのは、その行動が着手され、究竟したときです。それに先立って、意業によってそれが作意され(蔵: ched-du bsams-pa、梵: saṃcintya)、実行が決断されていた場合、そのカルマは積集されます。そのような意業があった場合、たとえ行動・発話が実行されなくても、未至の行動・発話のカルマの種が心相続に蓄積されます。
これにも四つの可能性があります。殺生を例にとって考えましょう―
- 意図せず、あるいは夢の中で、特に理由もなく「ただ面白そうだから」(ched-du ma-byas-pa’i las)、自身の意に背いて誰かに強制されて、計画していたこととは別に、誤って、うっかりして、本気ではなくただ一度だけ犯し、すぐに後悔して二度と殺生をしないと誓う―このような場合、行動は実行されたが積集されない(byas-la ma-bsags-pa’i las)
- 長い時間をかけて綿密に殺人計画を練ったが実行には移していない―このような場合、未至の行動のカルマは蓄積されるが、実行されていないため、積集はされない(bsags-la ma-byas-pa’i las)
- 計画した殺人を実行する―このような場合、行動のカルマは実行され、積集されている(byas-la bsags-pa’i las)
- 誰かを車で轢きかけた―このような場合、行動は実行されておらず、積集もされていない(ma-byas-shing ma-bsags-pa’i las)
実行され、積集された行動・発話のカルマに関してのみ、どの生で異熟が始まるかがはっきりしています。他のカルマが熟す時期は確実ではありません。
意業(行動・発話を起こすことを考え、実行を決断する)のカルマに関して言えば、実際にその意業を行うことなしに積集すること―つまり「私たちがそれを考え、決断せずに意図した」ということ―はあり得ません。実際に行った意業についても、「特に理由もなく『面白そうだから』考えた」とか、誰かに強制されて自分の意に反して考えたなどということはあり得ないのです。しかし、他のあらゆる可能性はあります[無著『摂事分』および『摂決択分』(蔵: gTan-la dbab-pa bsdu-ba、梵: Viniścaya-saṃgraha )に引用]。
無著は『阿毘達磨集論』の中で、結果を経験し始めるのがどの生であるかが不確実なカルマを五種類挙げています―
- 誰かの命令によって生じたカルマ。たとえば、上官に命じられて兵士が誰かを殺したとき。
- 誰かの執拗な要求に答えて生じたカルマ。たとえば、末期の病に侵されている人や重傷を負っている人に殺してほしいと懇願されたとき。
- 気づいていないことが原因で生じたカルマ。たとえば、自分の行動が破壊的だと気付いていなかったとき。
- 貪瞋痴の三悪のいずれかを根源とする抗いがたい煩悩から生じたカルマ。
- 誤った理解から生じたカルマ。たとえば、自分が何かを有益だと考えて実行したが、無知ゆえにそれが誤りであった場合。
上に挙げた五つのうち、最後の二つが意図され、実行された場合、いつその結果を受けることになるかは不確実ではなくなります。また、その結果を経験することは確実です。
今生で明らかな結果を確実に生む行動には八つの種類があります―
- 自分の身体、所有物、輪廻の中の存在に対する極端な関心から生じる破壊的な行動
- これらの三つのものに対する極端な無関心から生じる建設的な行動
- 衆生に対する極端に悪意ある思考
- 極端に強い悲の思いと、他者の役に立ちたいという願い
- 三宝や師を傷つけたいという極端に強い思考
- 三宝や師に対する敬意と信念から生じる極端に強い行動
- 感謝の念の欠如から生じる破壊的行動、両親や師など自分を助けてくれた人々と張り合うような破壊的行動
- 自分を非常によく助けてくれた人への恩に報いようとする感謝の念から生じる極端に強い行動
[無著『摂決択分』に引用]
今生の直後の生でその結果を経験することが確実な行動の例としては、次の生で私たちに人身を取らせる力を持つ十善が挙げられます。いくつかの生を経た後にその結果を経験することが確実な行動の例としては、次の生よりあとのいずれかの生で人間として生まれるという結果を生む建設的行動が挙げられます。
無著の『阿毘達磨集論』には別の区分が挙げられています―
- 共業(las thung-mong-ba、皆が共通して経験する結果を生む行動)
- 不共業(las thun-mong ma-yin-pa、共通して経験されない結果を生む行動)
- 複数の衆生が共通して経験する結果を生む行動(sems-can rnams-kyi phan-tshun-gyi dbang-gis ’byung-ba’i las)
共業は皆が共通して取る行動なので、皆が住んでいる現世の状況に影響を与える結果となったり、誰もが罹患する伝染病の流行を引き起こしたりします。不共業は特定の一人が取る行動で、その行為者の内側にある世俗的な経験の世界にだけその結果が生じます。ですから、他の誰とも共有されません。たとえば、その人だけが非常にまれな病気に罹るような場合です。三つ目は、複数の人の行動です。それを実行した人々だけがその結果を受けることになります。たとえば、悪趣に転生したり、集団ヒステリーを経験したりするようなことです。
行動の因果の法則の特定の側面
三悪趣のあらゆる苦しみや問題について考え、それらが破壊的な思考・発話・行動の結果として生じていることを理解すると、私たちは三宝が示す安全な方向へ進むことを固く誓います。十不善を犯すことを避け、十善のみを実践しようと決めるのです。その結果、私たちは来世で三悪趣には転生せず、人間か神の五蘊を得ることになります。
しかし、これではまだ不十分です。善趣への転生だけではなく、解脱や悟りなどの至高の境地に達して自分の可能性を最大限に発揮することを願うなら、最も好ましい基礎を手に入れなければなりません。その基礎となるのは、八有暇十具足を具えた人身と異熟による八つの徳(rnam-smin-gyi yon-tan brgyad)です。これらの徳によって、私たちは精神を最も早く成長させ、障碍を最小限にすることができます。
異熟による八つの徳
異熟によってもたらされる八つの徳は以下のものです―
- 長寿(tshe ring-ba)―長い寿命、実り多い人生
- 妙色(gzugs bzang-ba)―健康で美しい身体。感覚器官は完全で、肢体も顔貌も美しく、誰もが好感を持つ容姿
- 高種(rigs mtho-ba)―高名で、社会や国家全体、あるいは世界中から尊敬と高い評価を集める家系
- 素晴らしい豊かさ(dbang-phyug che-ba)―物質的な意味でも友人や親戚関係においても豊かで、その富を自ら管理し、影響力を持てること
- 誠実で信頼に値する発話(tshig-brtsun)―誰もが私たちを信用できると感じ、疑問や論争を解決するために頼れる人物だと考える
- 人を助ける優れた力を持つ人物であるという高い評価(蔵: dbang che-bar grag-pa、梵: maheśākhya)―勇気があって勤勉だという名声があるため、人々は私たちを喜ばせようと思う
- 男らしさ(skyes-pa-nyid yin-pa)―強く、勇敢で、執着しないなどの建設的な男性的性質を持つという意味
- 身体の強さ(lus-stobs)と心の強さ(sems-stobs)―どんな状況でも病気になったり疲れたり、打ちひしがれたりしないだけの持久力と強い意志
別の言葉で言えば、これらの特質は、より良い転生、より良い身体、出自、物質的なものや友人、信用、名声、全ての良い資質を成就する器となる能力、そしてどんな課題にも立ち向かえる強さに関連しています。
異熟による八つの徳がもたらす利益
この八つの徳は異熟果であり、それ自体としては建設的でも破壊的でもなければ、良いものでも悪いものでもありません。しかし、この八つの徳を身に着け、それによって何が達成されるのかを理解して正しく利用すれば、自分にとっても他者にとっても有益な福徳資糧(功徳のネットワーク)を築きやすい状況を生み出すことができます。八つの徳を持っていなくとも、その機能や利益に気付いているなら、これらを手にしようという気持ちになるでしょう。八つの徳を身に着けて生まれることだけではなく、それらを有効に使う能力も身に着けることを祈るのです。権力と同じように、八つの徳も誤った使い方をすれば危険だからです。
1. 長寿があれば、自分と他者のための建設的な取り組みの完成を数多く見届けることができます。長い時間をかけて人々を助け、彼らのために尽くすことができるので、人々が成長するために必要とするものに気を配り続けられます。人々に幸せをもたらす根となる多くのポジティブな目標を実現し、さらにその実現された状態を保つ時間があるので、私たちは精神的な道を最後まで歩ききることができます。有益な心の習慣を身に着けるには長い時間がかかりますから、若くして死んでしまったら、何かに熟達することは困難です。
2. 強健で端麗な身体があれば、弟子となり得る人々が私たちの姿を見ただけで惹きつけられることもあります。私たちの周りには自然と人々が集まり、言葉に耳を傾け、受け入れようとするでしょう。アティーシャとミラレパの弟子であったレチュンパがそうであったように、その姿によって人々は尊敬の念に満ちた信頼を寄せるようになります。そうやって、簡単に多くの人々と接することができるのです。もし私たちの姿が醜悪であれば、人々はその無明や迷信によって私たちに嫌悪感を抱き、距離を置くでしょう。それゆえ、彼らの力になるどころか、コミュニケーションをとるために偏見を取り去るのにさえ非常に苦労するでしょう。
3. 評判の良い名家に生まれれば、人々は幸福に関するアドバイスを聞き入れたり、私たちの提案を素直に実行したりしやすくなります。私たちの能力を疑うこともありません。低い地位に生まれた人々を見下す社会もありますが、下層にいる人々よりも私たちの方が人生について多くを知っているなどということがあり得るでしょうか?そのような態度は無知と傲慢から生じるものですが、社会的な偏見を受ける立場に生まれてしまったら、偏見に囚われている人々に言葉を届けるのは簡単ではありません。
4. 豊かな財産を持ち、友人にも恵まれ、発言力のある人は、まずは人々の物質的なニーズを満たして気前よく与えることによって彼らを惹きつけることができます。そのあと、少しずつ、人生に取り入れるべきダルマの道を示して彼らの精神的なニーズも満たしてゆくのです。貧しく、影響力のある友達もいなければ、困って訪ねてきた人を助けるのは難しくなります。
5. 誠実で信用できる言葉を話せば、人々は私たちを信頼し、真実を話していると考えるでしょう。やさしい話し方をして勇気を与え、自ら手本として振る舞えば、人々は私たちの良い影響に惹きつけられるようになります。こうやって、彼らを優しく暖かい心を持つ人へと熟させてゆくのです。誰も私たちの言葉を信じず、私たちのことを偽善者だとか馬鹿だとか考えているのなら、誰かに教えを説いたり、自ら手本を示したりすることは大変困難でしょう。
6. 他者を助ける素晴らしい力を持っているという評判があれば、いつも人々の建設的な目標達成を支え、皆から感謝されるでしょう。私たちの言うことなら、だれもがためらわずに実行するでしょう。相手にとって有益なことを行わせたいのなら、攻撃的になるよりも力を貸す方がはるかに有効です。情け深い君主の臣下は善意の助言に背こうとはしません。一方、暴君や独裁者の臣下は謀反を起こすことばかり考えます。他者の利益となることは何もせず、助ける能力があるという評判もなければ、誰も私たちの提案に耳を貸そうとしないでしょう。
7. 実際の性別を問わず、強く、勇敢で、執着しないという意味で「男らしい」人は、強い意志と熱心な勤勉さによってあらゆる良い資質を持っています。どんな人々に囲まれていようとも恐れません。自分が正しいと信じることのために立ち上がり、ためらうことなく人々にダルマを示します。執着せず客観的であれば、ものごとを見分ける気付きを幅広く身に着け、あらゆる微細なものごとを見分けてどんな状況にも対処できます。弱々しく、臆病で、過剰に感情的だとか、粗暴で戦闘的で冷淡な人は、自分や他者を助ける能力が大きく制限されるでしょう。
さらに、男性であるということ自体にいくつかの利点があります。堕落した現代において、女性は無明による社会的な差別を受けて大変な苦難を経験しています。国によっては、女性は家を出ることさえ許されていないのです。男性は、どこに行くのも、誰と喋るのも、誰かと食事をするのも比較的自由です。これは、他者が男性について誤った考えを持ったり、言い寄ったりすることが―皆無ではないにしても―少ないからです。男性が一人で住んでも干渉を受けたり邪魔をされたりするような障害はそれほど多くありません。男性は暴行されたり嫌がらせを受けたりする危険が比較的少ないので、静かな場所に隠棲することにも女性ほど多くの問題はないのです。
これは、女性がこの生において悟りに達せないということではありません。女性が悟りを得られることは間違いありません。
[ツォンカパ『(龍智著)「秘密集会安立次第論」註訳』(rNam-bzhag rim-pa’i rnam-bshad)18bに引用。これには『秘密集会タントラ』第十三品第24偈が引用されている。『秘密集会タントラ』同箇所には月称 が『燈作明』(蔵: sGron-gsal、梵: Pradīpa-uddyotana)で註釈を加えている]
つまり、女性の方が多くの社会的な障害を克服しなければならないということです。特に、女性の地位が男性と平等ではなく、個人の権利も自由もない場所に生まれてしまった場合はなおさらです。しかし、それでくじけてはなりません。完全な悟りを得た多羅菩薩は前世では普通の女性でした。彼女が菩提心を育み始めたとき、精神的な道を完全に歩み切ろうという勇気や自信を持った女性がほとんどいないことに気付きました。それゆえ、彼女は果敢にも、全ての生で女性の身体を持って生まれ、女性として悟りを得るように誓願を立てました。多羅菩薩はこれを達成し、心地よい暖かさ、優しさ、深い理解によって無数の人々を助けています。
8. 強健な身体があれば、ミラレパがそうであったように、優れた持久力によって激しい身体的苦痛にも耐え、悟りの達成に必要ないかなる実践も行うことができるでしょう。強靭な精神があれば、自分や他者の目標を達成するための努力を決して厭わない、不屈の意志を持つことができます。絶対にうんざりすることなく、これらの努力を心から楽しむのです。そこから生まれる安定や自信によって、自分が出会うあらゆる人々や状況を分析して理解する力を身に着けます。これは、他者の心を読んだり彼らの過去を見抜いたりする高度な知覚である千里眼を素早く手に入れる因となります。この能力を身に着ければ、よりよく人々を助けることができます。
異熟による八つの徳を手に入れるための因
貴重な人身に加えて、これらの異熟による八つの徳があれば、精神的な目標を達成しやすくなります。八つの徳にはそれぞれ因があります。これらの徳から得られる利益を確信すると、八つの徳の獲得へと熟す建設的なカルマを積もうという強い意欲が自然に湧いてくるはずです。
1. 長寿を得るための因は以下のようなものです―いかなる生き物も殺さず、傷つけないこと。人間、動物、昆虫の命を守ること。たとえば、飼育場から犬を買い受けたり、お金を払って羊を食肉処理場から救出したり、バケツの水の中で溺れている虫を助けたりすること。拘束されている人々や動物などを解放する取り組みを行うこと。たとえば、金魚鉢の中の金魚を放流したり、鳥を鳥かごから放ったりすること。他者に食べ物を与えること。病んだり苦しんだりしている人間や動物を看病し、薬を与えること。
2. 頑健で容姿端麗な身体の因は以下のようなものです―忍耐の習慣、怒りを抑える習慣を身に着けること。仏たちの姿が描かれたタンカや彫像、彼らの著作や仏塔にバターランプやろうそくを奉納すること。新たな仏像、タンカ、仏典、仏塔を注文したり、自ら作成したりすること。仏の身口意を表す作品が傷ついたり古くなったりした場合、それを修繕すること。像や絵画を塗り直したり金箔を貼ったりすること。仏像には新たな衣を、仏典には新たな覆い布を奉納すること。他者に新たな衣服や宝石を贈ること。
3. 評判の良い名家に生まれるための因は以下のものです―在家であっても出家であっても、自分の技能や教育、社会的地位、倫理的自己鍛錬、知性、支持者、衣服、財産などについてうぬぼれたり尊大になったりしないこと。師に五体投地したり、人類全体に奉仕したりすることによって他者を敬い、へりくだること。低い立場に立ち、謙虚であること。師、出家者、年長者を敬うこと。自分に優しくしてくれた人、特に、両親や素晴らしい資質を持つ人に仕えること。助けが必要な人、病気の人や貧しい人に力を貸すこと。
4. 物質的な富にも友人にも恵まれ、しかもそれを上手く生かせる立場に立つための因は以下のものです―仏像などを塗り直して金箔や新たな衣を捧げること。物乞いや助けを求める人に食べ物、衣類、お金を渡すこと。助けが必要な人がひれ伏したり乞い求めたりしないで済むように、私たちの方から手を差し伸べること。優れた資質を持つ人や問題に直面している人が物資に恵まれていないとき、贈り物をすること。誰もが幸せになるように願う強力な慈の習慣を身に着けること。離れ離れになった友人や家族を結びつけること。誤解を取り除くこと。
5. 誠実で信頼できる言葉を発するための因は以下のものです―自分の言葉に細心の注意を払うこと。自分の言葉に忠実に行動すること。口業四種をきっぱりと断つこと。
6. 他者を助ける力があるという評判を得るための因は以下のものです―特別な畏敬の対象となるべきもの、たとえば、精神的な師、三宝、両親、年長者などに対して敬意を表すこと。彼らに仕えたり贈り物をしたりすること。異熟による徳を全て手に入れられるように祈ること。自分が持ついかなる力も乱用しないこと。
7. 男性となるための因は以下のものです―建設的な「男らしい」性質を持つのを喜ぶこと。女性が無明な世界に直面しなければいけない運命にあることを喜ばないこと。現代という堕落した時代に女性の身体を持つことの不利益や制限を理解すること。女性の身体を持つことが、妨げなく集中的な実践を行う際にいかに不便であるかを考え、そのような身体を持つことに失望すること。女性の身体に執着する人々を思いとどまらせること。『文殊真実名経』(蔵: ’Jam-dpal mtshan-brjod、梵: Mañjuśrī-nāmasaṃgīti)を朗誦すること。男性に転生し、建設的な「男性らしさ」を持てるように祈ること。子供っぽくふるまったり、敵対者を罵倒したりしないこと。人間や動物が去勢されるのを阻止すること。
8. 頑強な心身の因となるのは以下のものです―他者が達成できないことや、彼らの心身では達成し得ないと考えることを達成すること。他者を助けること。他者の重荷を肩代わりすること。身体的・精神的に負荷がかかる作業を遂行すること。他者を殴らないこと。人々に食べ物や滋養のあるものを提供すること。
異熟による八つの徳を育む因
思考・行動・田の清浄さ(bsam-sbyor-zhing dag-pa)によって八つの徳の成長を促す因を集めると、これらの徳をふんだんに手に入れることができます。
1. 思考の清浄さには自分についてのものと他者についてのものがあります。自分については以下のものです―
- 八つの徳の因として行う建設的な行動について、私たちはそこから生まれる建設的なカルマを自らの悟りの達成のために奉納する。このとき、その異熟果を受け取ろうという望みも、期待も持たない。
- 強さと決意をもって、心から真摯に、これらの因の成就に取り組む。
他者については以下のものです―
- これらの八つの徳に似たものを誰かに見て取った場合、それが大きくても、中ぐらいでも、小さくても、嫉妬したり、張り合ったり、見下したりせず、彼らの徳に随喜する。
- 今はまだ彼らのようになれなくても、毎日何度も、固い決意をもって、彼らのような幸運を味わおうと試みる。
2. 自分に関する行動の清浄さとは、長い時間をかけて、絶えず、強い意志をもって、これらの因の成就に励むことです。他者については、徳を持っている人々がそれを生かしていない場合、それを活用するように力づけることです。また、徳を上手く活用している人に対しては、その行動に更なる喜びを感じられるように彼らを賞賛し、そのままその行いを続けてゆくように励ますことです。
3. 田の清浄さというのは、これらの徳の成就の因として、私たちが何をするかということです。たとえば、金持ちになるために他者を欺くことはしません。そうではなく、これまでに挙げた思考や行動を、異熟による八つの徳という素晴らしく豊かな作物を生み出す田だと見なすのです。この八つの徳があれば、自分にも他者にも最大の利益を与える人物となり、人生の本質を最大限に味わうことができるのです[アサンガ『菩薩地』(蔵: Byang-chub sems-dpa’i sa、梵: Bodhisattvabhūmi)に引用]。
行動の因果の法則と建設的な行動に従事する方法について考え、破壊的な行動に背を向ける
『入菩薩行論』第二品第62偈で寂天は以下のように説いています―
「破壊的な行動からは苦しみ(のみ)が生じる。そこからどうすれば確実に解放されるのか?」。私にとって、これは昼夜を問わず、絶えず考えるべきことである。
私たちは問題や苦しみから―現在も将来も―完全に自由になりたいと考えているので、行動の因果の法則という事実を確信しながら生きることを固く心に決め、仏・法・僧の三宝に帰依します。
瞑想の間、私たちは自分の建設的・破壊的な行動を繰り返し見つめ、それらがもたらす幸せと苦しみの結果や、それらの結果がもたらされる確実性などに基づいて見分けます。こうすることによって、行動の因果を意識するという有益な心の習慣を身に着けるのです。また、自分の心地よい、あるいは困難な経験を思い起こし、それをもたらし得た原因という観点から見分ける実践も行います。
また、瞑想の合間には、破壊的なカルマをさらに蓄積するような思考・発話・行動を避け、常に行動の因果を心に留めて、建設的に行動するように最大限の努力をしなければなりません。
行動の因果の法則は人生の事実です。自分がそれを好きではないからとか、何か破壊的な行動を正当化したいからというだけで、自分をごまかして、行動の因果を否定したり退けようとしたりしようとしてはいけません。そのような態度を取ると、外道の順世派(蔵: rgyang-phan-pa、梵: cārvāka、 lokāyata)の開祖のようになってしまいます。彼は、自分の娘と性行為を行うことへの非難を避けるために、行動に結果が伴うことを頑なに否定しました。
また、万物の空について聞きかじったからといって、あらゆる法則や規則は無意味だから何をしても問題はなく、自分がやりたいことは何でもやる権利があると考えてはいけません。空とは、空想されたものが完全に欠如しているということです。そして、私たちの最大の空想の一つは、自分の行動には何の結果も伴わないとか、自分の行動からは何の影響も、結果の波も起こさず、ただそれだけが起こると考えることです。
ツォンカパは『道の三つの要点』(Lam-gtso rnam-gsum)第13偈cdで以下のように説いています―
空を因果として理解し始める(ことを知っている)なら、極端な見解に心を奪われることは決してない。
偽善に陥ることなく、行動の因果の理解を日常生活に生かすように努力するのです。ゲシェー・ポトワ(dGe-bshes Po-to-ba Rin-chen-gsal)の記述のようにならないように気をつけなければなりません―
天と地の間、大海のこちら岸とあちら岸の間、東と西の山脈の間には大きな隔たりがある。凡夫とダルマの間にもだ!
ゲシェー・ベン・グンギャルは洞穴に住んでいた時、石の小山を二つ作っていました。その小山の一つは白い石、もう一つは黒い石でできていました。毎日、ゲシェーは自分が建設的なことを考えたりやったりするたびに白い石を、破壊的なことを考えたりやったりするたびに黒い石を山から一つ取って横に置きました。一日の終わりに、横に置いた白い石の方が黒い石よりも多ければ、彼は自分の右手と左手を握手させて「よくやった」と自分を褒めました。
しかし、黒い石の方が多い日には左手で右手を強く握りしめ、「お前は建設的な習慣を身に着ける瞑想者のはずではないか?他者の手本となるべきだろう!今から谷を駆け下りて、お前は偽善者で、詐欺師で、ずる賢い黒い心を持っているとみんなに話してやるぞ。その時のお前の師や庇護者の顔が見たいものだ!」と言って自分を強く叱るのでした。
毎晩、寝る前に、自分がその日のうちにやったことを振り返り、評価するのはとても有益です。行動の因果の法則という視点で自分の経験や行動を分析すると、自然と、多くの洞察が得られるのです。
ゲシェー・トルンパ(dGe-bshes sTod-lung-pa chen-po rin-chen snying-po)は言いました―
(行動の因果の)概念を理解している人が(自分自身を)調べると、それはまるで山の斜面を転がり落ちてゆく岩のようなもので、調べれば調べるほど、ますます多くのものが出てくる。
このように自分の人生を誠実に検討してゆくと、因果の法則の働きが分かってきます。そして、これ以上問題や苦しみを味わいたくないという願いが強くなればなるほど、有益な心の習慣も強化され、因果の観点からものごとを見分けられるようになります。そして、私たちは自然に、自分の行動を改め始めるのです。
ドムトンは以下のように述べました―
わが師アティーシャは、「縁起はとても微細であるから、粗暴な振る舞いをしたり、愚かなことを言ったりしてはならない」といつも私に言っていた。
ゲシェー・プチュンワ(dGe-bshes Phu-chung-ba)は日中書物を読んでダルマを学び、夜にはその内容について考えを巡らせていました。ある晩、彼の弟子が、師の部屋から物騒な物音を聞きました。弟子がどうしたのか聞くと、ゲシェーはこのように答えました―
具合が悪いのではない。しかし、「破壊的な振る舞いをすると、ひっくり返された砂袋の砂のように、喜びのない地獄に落ちる」という仏陀の教えを読んだのだ。そのことについて考えると、私は絶望感に襲われる。
プチュンワは晩年、このようなことを繰り返し口にしていました―
私は年老いたので、『賢愚経』だけを読むことにしている。自分の行為の結果として何が起きるか知ることができるからだ。
行動の因果の法則が真実であることを確信したら、たとえ誰かに強いられたとしても、破壊的な行動を取ることは二度とありません。なぜなら、ゲシェー・シャラワ(dGe-bshes Sha-ra-ba)の言葉の通り、私たちは気付くからです―
「それは全て自分の行いによるものだ。お前の取ったあの行動がカルマを生み、この結果が自分の身に降りかかったのだ」ということだけだろう。
私たちの未来は全て私たちの手の内にあります。龍樹は『友への手紙(勧誡王頌)』第14偈でこう説いています―
これまで無頓着だった人が注意を払うようになれば、ナンダ、アングリマーラ、アジャータシャトル、ウダヤナのように、雲から顔を出した月がごとく美しくなる。
ナンダは仏陀の従兄弟で、自分の妻に激しく執着していました。アングリマーラは大量殺人を犯し、アジャータシャトル王は実の父親を暗殺しました。ウダヤナは自分の母親を殺した王です。しかし、彼らはみなネガティブなカルマを浄化して解脱を達成しました。どうしてそんなことが可能だったのでしょう?自分が間違っていたことを素直に認め、四つの対治力を応用したからです。
四つの対治力については、加行に関連してすでにお話しました。しかし、これはとても重要な点ですので、慣例に従ってここでもう一度確認しましょう。
四つの対治力
一つ目の対治力は、自分の行いを心から悔いることです。この基礎となるのは、行動の因果の法則への完全な確信です。自分の破壊的な行動を思い出して目の前に思い浮かべ、その結果を経験している様子を想像します。こうして、毒を飲んでしまったときのように、自らの行いを後悔するのです。この最初の対治力が強ければ、他の三つの力も自然と実践するようになります。
二つ目は、破壊的なカルマを打ち消す行動を取ることです。寂天の『学処集成』(蔵: bsLab-btus、梵: Śikṣāsamuccaya)にはその方法が六種類紹介されています―
- 『般若心経』のような深遠な経を唱える
- 空について瞑想する―これは破壊的なカルマや傾向を浄化する最も強力な対抗策である
- 金剛薩埵(rDo-rje sems-dpa)の百字明呪や観音菩薩の六字真言などのマントラを唱える
- 仕事としてではなく信心によって仏の像や絵画を制作したり、制作を依頼したりする
- 仏や仏塔に供物を捧げる
- 三十五仏(ltung-bshags de-bzhin gshegs-pa so-lnga)など、仏や菩薩の名前を唱えて過ちをはっきりと認める
三つ目の対治は過ちを繰り返さないと誓うことです。一方、
四つ目は、私たちが頼りとすべきもの、つまり帰依と世俗菩提心を再確認することです。
これらの対治力を応用し、浄化の兆しが表れるまでそれを継続します。この兆しは夢に現れます。その夢の内容は、吐く、牛乳を飲んだりヨーグルトを食べたりする、太陽や月が上るのを見る、空中を歩いたり飛んだりする、火を建設的なものとして見る、犯罪者や発狂した野生の雄牛を制圧する、僧や尼僧を見る、白い樹液を出す木に出くわす、馬や象に乗る、山に登る、美しい家に滞在する、法話を聞く、などです。さらに、これらの夢を兆しだと認めるには、一回だけたまたま見るのではなく、繰り返し見なければなりません。
心相続に蓄積したネガティブなカルマがどんなに大きく、また、その結果を経験することが確実な行動から生じたものであったとしても、これらの四つの対治力を真摯に応用すれば、浄化することは可能です。浄化には様々な形があります。たとえば、悪趣での大きな苦しみの因が悪趣での小さな苦しみの因になったり、経験する予定だったものではなくなったりすることがあります。あるいは、この生において頭痛という形に熟し、それを経験したら消えることもあります。また、非常に長い期間経験することになっていた苦しみが短期間で終わることもあります。さらに、カルマを完全に浄化することによって、それが異熟(蔵: rnam-smin、梵: vipāka)するのを防ぐこともできるのです。全ては、浄化を行う心の強さ、対治力の強さ、四つの対治力を全て応用しているかどうか、応用する期間と継続性にかかっていますから、どの程度弱められるか、あるいは消し去ることができるかについて確実なことは言えません。
空の非概念的な直接知覚に達する前に四つの対治力を応用した場合、ネガティブなカルマを取り去ることはできますが、心相続に蓄積された破壊的な傾向は浄化できません。しかし、これらの傾向の異熟を防ぐことはできます。空を直接知覚できる無漏道(蔵: zag-med lam、梵: anāsrava-mārga)だけが、カルマから傾向だけでなく習気(蔵: bag-chags、梵: vāsanā、本能、習慣的傾向)も取り除くことができるのです。
対治力を応用するときはいつもこれらの点を心に留めておきましょう。そして、対治のあとには心相続からネガティブなカルマが浄化され、完全に清められた状態を観想します。そして、いかなるものも固定されているとは見ない不可得(蔵: mi-dmigs-pa、梵: anupalabdha、対象を実体視しない状態)の状態にとどまって、一連の対治を締めくくります。このように対治力の応用を繰り返すことによって、行動とその結果に関する無知と迷信の間の中道を歩んでゆくのです。
破壊的なカルマを打ち消すことができるのは、それがまだ異熟していない場合だけです。たとえば、失明するカルマを持っていたとして、それを浄化できるのは実際に視力が失われる前です。目が見えなくなってからでは遅すぎます。トウガラシの苗の根に砂糖をまぶしても甘い実を成らせることはできないのと同じです。
たしかに、どんなに強力なカルマであっても、異熟する前であればこのようにして打ち消すことはできますが、結局のところ、破壊的な行動は一切取らない方が良いのです。脚を失ったら、義肢を装着することができます。木やプラスチックでできた義肢を使って生活することはできますが、脚を失わない方がずっといいでしょう。これと同じように、破壊的なカルマの結果を経験しないようにすることは可能ですが、実際に十地と道心の証悟に至るには、初めから破壊的な行動を取らない場合よりもはるかに長い時間がかかります。これこそ、高度な悟りを開いた人々が、たとえそのために命を失うことになっても、意図的に破壊的な行動を取らない理由です。
ツォンカパは『菩提道次第集義』(Lam-rim bsdus-don)第12偈でこのように説いています―
至高の道心を達成するための最大の進歩は、修行の基礎として人身の定義となる(八つの)要素すべて(を具えた貴重な人身)を得なければ起こり得ないのだから、その要素を欠くことなく手に入れられるように、その因(となる建設的な行動)を実践できますように。私の身体・発話・思考の三つから破壊的なカルマや(戒の)破綻という汚れを―特にカルマから生じる障を―浄化することはどうしても不可欠ですから、四つの対治力全てを応用し続けることを喜びと感じられますように。
高潔で非の打ちどころがないラマはそのように実践されました。この私も、解脱を目指す者として、どうかそれと同じように修習できますように。
以前の私たちは、今生で世俗的な現象を追求(don-gnyer)していて、何の作為(bcos-ma)もなしに、完全に没頭(snang-zhen)していました。来世に興味があったとしても、ただ口先でそう言っていただけです。しかし、今は違います。私たちは、精神的な師と貴重な人身を手にしている幸運、迫りくる死や悪趣に転落する可能性についてじっくりと考えました。そして、これらを恐れ、三宝がそれを避ける安全な道を示す力を持つと確信したために、私たちは三宝に帰依したのです。
これまで、行動の因果の法則について深く考えてきました。私たちは、建設的に行動し、破壊的な行動はとらず、破壊的なカルマを浄化すれば、八有暇十具足の人身、好ましい環境、精神的な成長を続けるための異熟による徳を具えた転生を得ることが確実になると知っています。自分の未来の転生に利益をもたらすために全力を尽くすことが主な関心となり、今生の些細なことは二の次だと考えられるようになったとき、小士の道心を得たと言えます。
ツォンカパは『菩提道次第論』(Lam-rim chem-mo)第132偈b4でこのように言っています―
(初級レベルの理解に達したとしても、)(理解したことについての確信を)揺るぎないものにしなければならない。そして、(強い確信を)得たならば、(自分が信じることを)精力的に実践しなければならない。
この小士のダルマの実践を日常生活に完全に組み込むことができたら、それを基礎として、中士・大士の道心の構築に真剣に取り組むことができるのです。これらの道は、今生への執着との決別を基盤として、あらゆる衆生の利益となる解脱と悟りへと私たちを導いてくれます。