破壊的なカルマを考察する

破壊的または建設的なカルマから生じる破壊的・建設的な行動には無数の種類があります。私たちの行動はどれも、身・口・意という三つの門のいずれかを通って現れます。しかし、私たちの行動・発言・思考の全てをいくつかのカテゴリにきれいに分類することはできません。

仏陀は、多くの破壊的行為を代表するものとして、十の悪業道、あるいは十不善(蔵: mi-dge-ba bcu、梵: daśa-akusalāni、破壊的な言動)を挙げました。これらは特に気を付けて避けるべき悪業です。なぜなら、十不善を犯した結果生じるカルマは引業(‘phen-byed-kyi las)となり、私たちの意識を悪趣へと導いて、三悪趣のどれに転生するかを決定するからです。一方、十不善から生じる悲惨な結果を理解してそれらを避けることは十善であり、こちらは善趣への転生につながります。

IV.66: 世親は『阿毘達磨倶舎論』第四品第66偈で以下のように述べています:

(一切智者は、様々な種類の)これら(の行為)を集約し、善・不善の十の業道として説いた。

まずは不善、つまり破壊的なカルマについて考えてみましょう。

破壊的なカルマの具体的な内容

身業・口業・意業のいずれの破壊的行為であっても、その行為が成立するためには四つの要素(四支)が必ず必要です―

  • (gzhi): 行為の対象
  • 動機(kun-slong): 行為を動機付ける精神的な枠組み
  • 着手(sbyor-ba): 行為を実行するために取られる手段
  • 究竟(mthar-thug): 行為の完了

さらに、動機には以下のものが必ず含まれます:

  • (蔵: ’du-shes、梵: saṃjñā)―行動の対象をそれと識別すること
  • (蔵: ‘dun-pa、梵: chandas)―特定の目標達成のために行動を取りたいという願い
  • 煩悩や悪見

これらの要素が一つでも欠けると、破壊的な言動は不完全な不善(yongs-su mi-rdzogs-pa’i mi-dge-ba)となります。その場合、破壊的なカルマの力や種子、そこから生じる結果は、完全な不善の場合ほど決定的でも強いものでもありません。

世親は『阿毘達磨倶舎論』第四品第十偈で、動機は二つのレベルに分けられると説いています―

  • 因となる動機(rgyu’i kun-slong-gi blo)は意業三種のいずれかに付随して生じ、身業・口業七種のいずれかを実行に移すことを考え、決定する。
  • 同時に起きる動機(dus kun-slong-gi blo)は意業三種のいずれかによって決定された身業・口業に付随して生じる。

誰かの顔を殴るという悪業道を例にとって考えてみましょう。以下のような場合、相手の顔面を殴るという破壊的な行為は完全には成立しません―

  • 「顔を殴りたい」という衝動の対象となる相手を見つけられなかった
  • その人物を見つけたが、誤って他の誰かを殴ってしまった
  • 実際にその相手を殴ったが、故意ではなかった、あるいは偶然だった
  • 煩悩からではなく、正当な理由があって殴った
  • 腹を立てて殴りたいと感じたが、実行に移さなかった
  • 殴ろうとしたが止めた、あるいは痛みを感じさせないほど軽く殴るだけにとどめた

私たちが蓄積する破壊的なカルマの力は、その行為を成立させる要素がどれだけ備わっているかによるのです。

ですから、十不善業を成立させる全ての要素を理解しなければなりません。それができれば、たとえ不善を犯したいという衝動が湧き起こっても、その行為を完全に成立させることを避けられるため、破壊的なカルマの力や種子の蓄積が減り、不善業の結果として生じる苦しみや問題の経験が軽減されます。

身業三種

身業の三種(lus-kyi mi-dge-ba gsum)は以下の通りです―

  1. 殺生(蔵: srog-gcod-pa、梵: prāṇātighāta)―他者の命を奪うこと
  2. 偸盗(蔵: ma-byin par-len-pa、梵: adattā-dāna)―自分に与えられていないものを取ること
  3. 邪淫(蔵: log-par g.yem-pa、梵: mithyā-cāra)―不適切な性行為に耽ること

どれも、先述した要素に照らして分析することで、その破壊的な行為が完全な不善業として成立する状況と、その結果として生じる苦しみが最も重くなる条件を説明することができます。

殺生

殺生をする、つまりある衆生を殺すとき、その行為の基は自分以外の特定の衆生です。それは人間であることもそうでないこともありますし、すでに生まれている場合も、まだ胎内にいる場合もあります。自殺(bdag-srog gcod-pa)は当然破壊的な行為ですが、他者を殺す場合と比べてその深刻度は低く、自分自身にもたらす影響も少ないと言えます。その理由は、行為の成立の複雑さにあります。自殺という行為が完全に成立するとき、私たちは死んでしまいますから、自殺から生じる破壊的なカルマの力とその種が蓄積される心相続は、すでに次の生、または中陰に移っていることになります。自分が生きている間には、自分を刺すなどの行為は成立しますが、命を断つという行為は成立しません。

殺生が成立するとき、私たちは誰を殺そうとしているのか正しく識別しているはずです。誤って誰かの命を奪ってしまった場合、それは意図した場合ほど深刻な行為ではありません。さらに、この「意図した場合」というのは、相手の命を断つという意図が明確である場合のことです。誤って誰かを殺してしまった場合、その結果は、あらかじめ意図していた殺しと同じにはなりません。ですから、うっかりアリを踏みつけてしまうのは、ハエや蚊を叩き潰す場合ほど深刻な問題にはなりません。意図して虫を殺すことの破壊性を軽視してはいけません。

ダライ・ラマ法王14世もおっしゃいました―「ハエを叩き潰すのは些細なことだと思うかもしれません。しかし、何かが自分をいらだたせるたびに、その原因となるものを攻撃して殺すことで問題を解決していたら、非常に危険な心の習慣を身につけてしまいます。自分の問題を解決するために誰かを殺すことをどこで止めるべきなのか、線引きをするのが難しくなってしまうでしょう」。

殺生は貪・瞋・痴の三毒のいずれかを動機とし、また、行為の際にもそれが付随します。瞋(憤怒)によって私たちは敵や虫、蛇などを殺します。貪(渇望や執着)によって、たとえば肉を得るために羊を殺したり、娯楽のために魚を殺したりします。痴(無明)によって、たとえば土地の神に血を奉納すればその見返りが得られると思い込み、動物や、ときには人間の命を奪うことさえあります。

殺生の着手は、毒、武器、自分自身の手、黒魔術など様々な手段によって他の衆生を殺すことです。また、自分自身が殺す場合だけでなく、他人に誰かを殺させたとしても、その下手人と同じぐらい強い悪業を積むことになります。自分が食べるために動物や鳥、魚などを殺させたり、戦時中に兵士を派遣したりする場合も同じです。たとえば、ある将軍が千人の兵士を戦場に送り、その兵士たちが千人の人間を殺したら、その将軍は自分が千人の人間を殺すのと同じだけ多くの破壊的なカルマの力を蓄積するのです。

これについては世親も『阿毘達磨倶舎論』第四品第72偈bで以下のように説いています―

戦の際など、その(戦を指揮したり命じたりする)者は、(実際に行為に携わる)全ての人と同じ(苦しみの)結果を得る。なぜなら、指揮したものも実行したものも、その意図は同じだからである。

肉を食べるという行為自体は、自分が動物を殺したり、誰かに殺させたりすることとは異なります。肉を食べれば、たとえば、肉食動物に転生したり、自分が食べられたりすることにつながる悪業を積むことはあります。しかし、殺人者に転生したり、殺されたりすることにつながるカルマを積むわけではありません。

殺生が究竟する、つまり完全に成立するのは、犠牲者が自分より先に死んだときです。これは自分の殺害行為によってすぐに起きる場合も、時間が経ってから起きる場合もあります。自分が犠牲者より先に、あるいは犠牲者と同時に死んだ場合、自殺の場合と同じように、破壊的なカルマの力の蓄積は不完全に終わります。なぜなら、このカルマの力が積まれる心相続はすでに中陰の状態にあるか、次の生を得ているからです。

殺生はいかなる場合でも必ず破壊的です。自己防衛のためでも、誰かを助けるためでも、それは変わりません。たとえその行為が煩悩や悪見に基づくものでなかったとしても、万が一殺生を犯すなら、前世で船長だった仏陀が、500人の命を脅かしていた漕ぎ手ミニャグ・ドゥムドゥムを殺害したときと同じほどの勇気が必要です。そして、前世の仏陀と同じように、その動機は大いなる悲の心でなければなりませんし、その行為から生じるどんなに苦しい結果も―たとえそれが地獄への転生であっても―進んで引き受けなければなりません。

偸盗

偸盗の基は、他人に属する、価値のあるものです。これは自分が手に入れたり、使ったり、自分のものとして保持する権利がないものなら何でもあり得ます。また、借りたまま返していないものや、支払う義務がある税金、罰金、通行料、入場料、運賃なども含まれます。道で落とし物を見つけたら、それを自分のものにしてしまうのではなく、正当な所有者を見つける努力をしなければなりません。誰かが落した財布を見つけて返してくれたらほっとして、嬉しい気持ちになるでしょう?ものを失くしたとき、誰でもそれと同じように感じるのです。

偸盗が究竟するためには、自分が盗もうとしているものを正しく識別していなければなりません。その対象を入手したあとすぐに手放そうと考えているか否かに関わらず、これを入手しようという明確な意思が必要です。そして、偸盗の成立には三毒のいずれかが必ず付随します。瞋によって、憎むべき敵の富を強奪することがあります。貪によって、私たちは抗いがたい魅力を感じるものを盗みます。痴によって、自分は聖人だから欲しいものは何でも手に入れる権利があるとか、何かの敬虔な信者だから主のためなら盗んでも良いなどと考えます。あるいは、傲慢でばかげた反抗心から、政府を欺いたり、できる限り多くのものを持って逃げたりしても良いと考えたりすることもあります。

偸盗が成立するためには、万引きをする、人を脅して強盗する、商店や家屋に押し込む、誰かに盗ませる、通行料を払わずに逃げる、などの着手が必要です。そして、偸盗が究竟するのは、奪ったものが自分のものであると考えるようになったときです。

邪淫

邪淫には以下の四つの種類があります―

  • 不適切な相手と性行為をする
  • 不適切なやり方で性行為をする
  • 不適切な場所で性行為をする
  • 不適切な時に性行為をする

「不適切な相手との性行為」に含まれるのは、相手にパートナーがいる場合、また、相手にパートナーがいない場合でも、相手が望んでいない場合、相手の親や保護者などが許可しない場合、もし彼らがそれを知ったらひどく動揺するような場合、あるいは、相手が禁欲の誓願や戒を受けている場合などです。子供、動物、自分自身などを相手にする場合のように、将来問題を引き起こす性行為を行うのは自己破壊的であり、不適切です。また、自分自身にパートナーがいる場合、彼または彼女以外と性行為をするのは不適切です。

たとえ自分のパートナーを相手とした性行為であっても、やり方・場所・時によっては不適切になり得ます。不適切なやり方に含まれるのは、過剰な欲望を満たすことや欲求不満を解消することを目的として、奇抜な方法や体位、あるいは道具を用いたり、痛みを伴う暴力的な方法で行ったりすることです。不適切な場所に含まれるのは、寺院の中や祈祷殿、仏塔の脇、師や親、あるいは群衆の面前、仏像やタンカの前などです。また、自分やパートナーが苦痛を感じるような場所、たとえば岩だらけで濡れた地面の上などもここに含まれます。家に部屋が一つしかない場合は、性行為の前に、敬意の徴としてタンカの前にカーテンを引いたり、仏像を布で覆ったりしましょう。これは、師と同じ部屋で寝るとき、誰かと共にベッドを使う場合は特に、自分たちのベッドと師のベッドをカーテンや衝立で区切ることが礼儀であるのと同じことです。

不適切な時に含まれるのは、自分またはパートナーが八斎戒(蔵: bsnyen-gnas sdom-pa、梵: upavāsa-saṃvara)を受けたときや、性行為によって悪化したり、相手に感染させてしまったりするおそれのある病気に罹患しているときです。

また、過剰な回数の性行為を立て続けに行う場合や、誰かがうっかり見てしまったり、部屋に入ってしまったりして気まずい思いをする可能性がある昼間もここに含まれます。また、女性については、生理中、臨月間近、授乳中なども避けるべきです。

四種のいずれの場合も、邪淫の基は、たとえば不倫の場合なら、パートナー以外の誰か、あるいは誰かのパートナーです。性行為をしようという意図が生じたとき、相手が自分のパートナーではないと確実に認識し、この相手と性行為をしようという明確な意図があるはずです。ほとんどの邪淫の動機は執着や渇望などの貪ですが、敵の妻子を犯す場合など、瞋によって邪淫を犯すこともあります。また、性的な結合は高度な精神的実践だとか、かっこいいとか、不倫は全く無害だなどと考える痴が動機となる場合もあります。

授戒した出家者の場合、あらゆる非梵行(蔵: mi-tshangs-spyod、梵: abrahmacarya、純潔ではない行為)は不適切です。性行為の基となる相手の認識が正しくても間違っていても、破壊的なカルマの力は同じように蓄積されます。

邪淫の着手は二つの性器の接触です。邪淫が究竟するのはオーガズムを感じたときです。

口業四種

口業の四種(ngag-gi-mi-dge-ba bzhi)は以下の通りです―

  1. 妄語(蔵: rdzun-du smra-ba、梵: mṛṣā-vāda)―嘘
  2. 離間語(蔵: phra-ma、梵:  paiśunya)―人々の間を引き裂く言葉
  3. 粗悪語/悪口(蔵: tshig-rtsub、梵: pāruṣya)―相手を傷つける言葉
  4. 綺語(蔵: ngag-’khyal、梵: saṃbhinna-pralāpa)―無意味なお喋り

四支全てが揃ったとき、口業四種は最も深刻な結果を生みます。

妄語

妄語は、自分が実際に目や耳などの感覚器官を通じて経験したことを否定すること、あるいは、自分が見ても聞いても、実際に経験してもいないことを見聞きしたとか、知っているとか、経験したなどと主張することです。また、わざと他者に誤った情報を与えて誤解させること、意図的に不適切な助言を与えること、意図的に不正確な教えを説くこと、他者の資質を否定したり欠点を捏造したりしてその人を中傷すること、そして、誰も傷つけないと考えて「罪のない嘘」をつくことも妄語に含まれます。仏たちや精神的な師、自分の親を中傷する嘘は特に深刻です。出家者の場合、自分の精神的な達成について嘘をつくことは重大な過失です。

妄語の基は、私たちの嘘を理解できる人物です。言葉を発したり身振りを示したりしようとする意図が生じるとき、私たちは自分が示そうとしていることが真実とは異なることを認識しているはずです。言い換えれば、事実をはっきりと認識していて、その事実を意図的に捻じ曲げているのです。確信が持てないまま誤ったことを言ってしまった場合、妄語は究竟しません。

妄語の動機は嘘をつこうというはっきりとした意図です。そして、それには必ず三毒のいずれかが伴います。貪によって、私たちは富や名声、権力を得るために嘘をつきます。瞋によって、自分の敵を欺いたり、嫌いな人の評判を貶めたりするために嘘をつきます。あるいは、痴によって、嘘をつくのは面白いと考えたり、それが間違いだと認めなかったりするために嘘をつくこともあります。あまりに頻繁に嘘をついていると、事実をあやふやにしか認識できなくなり、自分のでっち上げを信じ込むようになります。

妄語の着手には、嘘を口に出して言うことや書くことだけでなく、たとえ言葉でなくても身振りで示すことやうなずくこと、さらに、他人に嘘をつかせることも含まれます。もし、誰かが「あなたはとても優しいですね、聖人なんでしょう」と言ったときに黙って微笑んでいたら、それはひどい嘘です。あるいは、「『ブッダガヤ郊外の火葬場に行って、何事もなく一人で一夜を明かせたら、その人は阿羅漢である』と経典に書かれているのを読んだ。私はそこで一夜を明かしたよ!」と言うのも妄言です。私たちが阿羅漢でないことは明らかですから、これは暗示による妄語です。妄語が究竟するのは、相手が私たちの言葉を理解してそれを信じたときです。そうでない場合、それはただの綺語に留まります。

嘘は破壊的な行為ですが、命を救う場合など、この禁を破らざるを得ない状況もあります。たとえば、恐怖におののきながら逃げている鹿を見かけたとしましょう。しばらく経って鹿を追っている猟師たちが現れ、鹿を見たかと聞いてきても、真実を言う必要はありません。「私は今ここに来たばかりなんだ」とか、「今からどこそこに行くところなんだ」などと答えれば良いのです。あるいは、質問に答えるのを避けたり、長々とおかしな話をして彼らの気を逸らし、鹿の追跡を遅らせたりすることもできるでしょう。

何かを言うときには、言葉を選ぶ必要があります。誰かが作ってくれた料理がひどい味だったとしましょう。彼らが私たちに感想を聞いたとき、本当のことを言って相手の気持ちを傷つける必要はありません。彼らは私たちを喜ばせようとして作ってくれたのですから。「あまりお腹がすいていないんです」、「こういう料理には慣れていなくて」、「ちょっと苦手なんです」、「あまり気分が良くありません」などと言って、無理に食べなければ良いのです。

離間語

離間語とは、仲の良い人々を引き離す、あるいは、対立している人々の間の憎悪をさらに駆り立てるような発言をすることです。一般的に言って、離間語は不和や敵対的な感情を生み出します。離間語の基は、仲の良い、あるいは対立している二人以上の人々です。師弟関係にひびを入れたり、サンガ内で分裂を起こしたりする離間語は特に深刻な結果をもたらします。

離間語を発したいという衝動が起きるとき、私たちはその対象となる人々も、彼らが互いに抱いている感情も正しく認識しているはずです。その動機は、もめごとを起こしたいとか、不調和や不和を起こしたいというはっきりとした意図です。離間語には三毒の一つが必ず付随します。貪によって、私たちは、ある夫婦のどちらかを自分のものにしたいと考え、彼らの仲を引き裂こうとします。瞋によって、たとえば、「分断して統治せよ」の方針に基づいて、敵のグループに潜入して対立をあおることもあります。また、痴によって、「自分が考えこそが相手にとって最善だ」と考え、それに従わせるために、ある宗教の信者グループの中で分裂を起こすようなこともあります。

離間語の着手は、介入して真または真ではないことを言って親しい人々の間に不和を生むこと、あるいは、対立し合う者同士の和解を阻むことです。他の誰かにこれをやらせる行為も同等に破壊的です。自分の言葉には細心の注意を払わなければなりません。たとえ本当のことであっても、それが他者の気持ちを害することが分かっている場合、それを言う必要はありません。離間語が究竟するのは、相手がみな私たちの言葉を信じ、その結果、反目し合うようになったときです。

有害で反社会的な活動を企てている人々がいるとしましょう。他の人々が被害を受けるのを防ぎたいという純粋な悲の心によって、彼らを仲間割れさせたとします。その場合、離間語を犯すという行為はやはり破壊的で、苦しみの結果をもたらしますが、その結果の深刻度は緩和されます。なぜなら、この行為を実行に移す前に生じた意図には煩悩や破壊的な動機が伴っていなかったからです。

粗悪語

粗悪語には、皮肉、侮辱、嘲笑、罵倒などが含まれます。つまり、他者を傷つける言葉や身振り、表情のことです。粗悪語は真であることもそうでないこともあります―障害のある人を、その障害を理由に侮辱的な名前で呼ぶことも、誰かを豚と呼ぶことも、相手の気持ちを害することに変わりはありません。たとえどんなに穏やかな口調で言っても、相手の心を傷つけるのです。これは相手ばかりではなく自分自身も不幸にするので、重大な破壊的行為だと言えます。自分の精神的な師や親に向けられた粗悪語は特に深刻です。

粗悪語の基は、私たちの言葉によって傷つく可能性がある他者です。残酷なことを言いたいという願いが生じるとき、私たちはその相手を正しく認識しているはずです。その動機は、そのような言葉を発そうという明確な意図です。そして、これには三毒のいずれかが必ず付随します。貪によって、悪党の集団に入りたいと願い、残酷で汚い言葉を発することがあります。瞋によって、敵や自軍を焚きつけて戦わせようとすることもあります。痴によって、粗悪語はしゃれていて賢いことだと考たり、人を傷つけても問題ないと考えたりして、そのような言葉を好んで用いたりすることもあります。

粗悪語の着手は、他者の欠点や弱点を執拗に言い立てることです。その内容は真であることもそうでないこともあります。また、人の気持ちを深く傷つける言葉を他者に言わせることもここに含まれます。粗悪語が究竟するのは、相手が私たちの言葉を理解し、私たちが本気であると信じ、気持ちを害したときです。無生物に対して粗悪語を犯した場合、誰かの気持ちが傷つくことはないため、その結果は衆生を傷つけた場合ほど深刻にはなりません。

綺語

綺語には三つの種類があります―

  • 邪悪な内容の言葉。黒魔術の呪文を唱えたり、惨事が起こるように悪魔の祈りを捧げたりすること
  • 自分には関係ないどうでもいいことについて無意味なおしゃべりを繰り返すこと
  • ふさわしくない相手に真実を語ること。たとえば、興味も敬意もない相手に仏教の教えを説くこと

最も深刻な結果をもたらす重大な綺語は、瞑想している人や祈りを捧げている人を無意味なおしゃべりや歌によって邪魔することです。

綺語の基は、私たちがあたかも有意義で重要であるかのようにとらえているけれど実際には無意味でどうでもいいことです。これまでに挙げた他の三つの口業とは異なり、私たちがまくし立てる相手や、その内容を理解する人物は必ずしも必要ではありません。このような言葉を発したいという願いが生じるとき、自分の言いたいことが意義深くて重要だという認識があるはずです。このとき、その動機はこのような言葉を発したいという明確な意図です。そして、綺語には三毒のいずれかが付随します。貪によって、相手と時間を過ごしたいと感じ、くだらないおしゃべりに耽ることがあります。瞋によって、何か建設的なことを成し遂げようとしている人を邪魔しようとすることもあります。しかし、最も多いのは、痴によって、綺語には何の問題もないと考えて噂話や雑談に耽る場合です。綺語の着手には、必要もないのに無意味な言葉を発することや、誰かに雑談をさせることも含まれます。綺語が究竟するのは、実際に言葉を発した時です。

綺語は、その基によってさらに七種に区別されます―

  • 些細なことで口論すること、誰かの陰口を言うこと、喧嘩腰で挑発的に話すこと
  • 建設的な理由もなく、他宗教の儀式で使われる言葉を朗誦したり、政治的スローガンやコマーシャルソングを繰り返し口にしたりすること
  • 不平、不満、嘆き
  • 特に建設的な理由もなく冗談を言ったり、おどけたり、ふざけたり、歌ったり、口笛を吹いたりすること
  • 政府の首長やセレブ、政治問題、戦争、犯罪などについて、自分がその状況を変えたり改善したりする可能性がないにも関わらず何にでも首をつっこみ、喋ったり噂をしたりすること。
  • 酔っ払いや狂人のように、ばかげた話し方で意味のないことを話すこと
  • 五邪命に関わる発言。すなわち、おべっか、強要、いじめ、脅し、買収、自慢、虚勢、格好つけ、偽善など

仏たちは、無意味で不必要なおしゃべりから完全に離れています。誰かと議論しているとき、相手が私たちの言葉に全く耳を傾けていなかったら、相手が腹立たしい言葉を言ったとしても、ただ「へえ」と言っていればいいのです。言い返すのは言葉の無駄遣いで、ただの綺語です。自分が絶対に正しいと考えて、意見を押し通そうとしてはなりません。

冗談や雑談はときには有用です。いらだっている人を落ち着かせたり、分かりやすくダルマを伝えたりするときに役に立つこともあります。目的がない場合、たとえば注目を集めたり、自分の賢さを印象付けたりするために言っている場合、それは綺語でしかありません。歌ったり音楽を演奏したりするのも同じことです。落ち込んでいる人を慰めたり、自分の気分を高揚させたりするという目的では有意義でしょう。そうでない場合、たとえば周囲の人を惹きつけたり、他にやることがない場合の暇つぶしが目的だったり、もっと建設的なことから逃げるために行う場合は、貴重な人間としての生の無駄遣いでしかありません。

これら全ての綺語は無害に見えることもあります。しかし、綺語は時間を無駄にするので非常に破壊的であり、私たちは綺語によって多くの過ちを犯します。知りもしない人物について話した相手が、その人物の友人であることもあります。その相手は非常に強い影響力を持っているかもしれませんし、菩薩でさえあるかもしれません。結果的に私たちは大きな問題に巻き込まれます。

サキャ・パンディタ(Sa-skya Pandita Kun-dga’ rgyal-mtshan)は『善説宝蔵』(Legs-bshad rin-po-che’i gter)第六品第36偈で以下のように言っています―

多くを語ることは(多くの)欠点をもたらす原因であるが、話さないことは欠点を克服する基礎である。しゃべるオウムはそれゆえに鳥かごに閉じ込められ、しゃべらない鳥は自由に空を飛び回っている。

何か建設的なことをしようとするとすぐに疲れ、遅くまで起きていられないこともあるでしょう。しかし、友達とたわいもないおしゃべりに耽っていれば、夜が更けるほどに私たちは生き生きとして、目も覚めてきます。これについてキャブジェ・トリジャン・リンポチェは非常に実用的な指針を示しました。誰だって、建設的なことをする気にならないことがあるでしょう。しかし、イライラしたり落ち込んだりしているとき、気分を切り替えるために誰かとおしゃべりをしてはいけません。そんな時には一晩眠って気分を変えるか、少し昼寝をした方が良いのです。それによって良い習慣を身につけることはできないかもしれませんが、悪い習慣も身につけません。リラックスするためには、だらだらと友達と噂話に耽るより、眠りという中立的な状態の方がよっぽど有益です。目が覚めたときには気持ちが切り替わって、建設的なことに取り組む準備が整っているはずです。

これらの全てについて言えることですが、自分の習慣を改善したり変えようとするとき、極端になったり熱狂的になったりしてはいけません。いつも生真面目で堅苦しく、絶対に笑ったりくつろいだりしなかったら、自分が多くの問題を抱えることになります。さらに、そのような自分自身の態度に反発し、また反対の極端な態度に走ってしまうでしょう。自分の行動のあらゆる細かな点を修正するのは、修行をもっと先まで進んだあとのことです。初めのうちは、他の人々と距離を置いたり、聖者ぶって人々が引いてしまうほど厳格な行動を取ったりするのではなく、自分の最も粗雑な行動を観察しつつ、幸せな生活を送ることに専念するべきです。

ミラレパやツォンカパのような優れた実践者の域に達して集中的な実践に取り組む準備が整ったら、歌ったりしゃべり続けたりすることを完全にやめることを考えても良いでしょう。しかし、私たちの段階では、業の因果に関する知識を身につけ、他者への深く真摯な思いやりの気持ちをもって、楽しく毎日を送ることが重要です。

意業三種

もし本当に怠惰であったら、身業や口業を犯そうという気にもならないでしょう。しかし、どんなに無気力であっても、簡単に破壊的な考え方に陥ってしまいます。ダルマの実践における主な取り組みは、何よりも心に関するものです。私たちは自分の考え方を変え、より暖かくて優しい心を持つように心がけなければなりません。誰かが良い人間であるかどうかを決めるのは、その人の容姿や見た目ではなく、人生への向き合い方です。私たちの身体の動きや発言は、考え方や態度の表れなのです。

アティーシャは『菩薩摩尼鬘論』(蔵: Byang-chub sems-dpa’i nor-bu’i phreng-ba、梵: Bodhisattvamaṇyāvalī)第28偈で以下のように述べています―

人々の中にいるときは自分の言葉に注意を払い、一人でいるときは自分の心に注意を払えますように。

破壊的な思考はいつでも生じ得ます。透視能力がある人と一緒にでもいない限り、破壊的思考が生じたとき、それに気づくのは自分だけです。

防ぐべき意業の三種は以下の通りです―

  1. 慳貪(蔵: brnab-sems、梵: abhidhyāyā)
  2. 瞋恚(蔵: gnod-sems、梵: vyāpāda)
  3. 邪見(蔵: log-lta、梵: mithyā-dṛṣṭi)

具体的に言えば、意業とは、身業と口業のいずれかを犯すことについて考えをめぐらし、それを実行に移す決断をすることです。意業が究竟して最も不幸な結果をもたらすのは、身業・口業で述べたのと同じ要素が全て備わっている場合です。

慳貪

慳貪は何かを「自分のもの」として所有したいという強固で身勝手な欲望です。このような考えの基は、他者に属する外的な対象や内的な性質です。たとえば、富や名声などがここに含まれます。権力や名声などを得る目的で入手したいと考えるものなら、店の商品から仏の資質まで、何でもあり得ます。さらに、相続することになっている遺産や順番待ちの列での自分の番など、すでに自分のものになることが約束されているのに、より早く入手したいと考えることも慳貪の一種です。

慳貪を犯すとき、自分が欲しているのがまさにその対象であると、明確に、そして具体的に認識しているはずです。慳貪の動機は、その対象を自分のものにしたいと願う態度であり、三毒のどれかが付随します。貪によって、ありとあらゆる不要な商品が必要だとか、それがあれば幸せになると考え、それを切望することがあります。瞋によって、嫌いな人より先に何かを買って、彼らがそれを入手する喜びを奪おうと考えたり、ライバルが必要としている本を図書館から取り去ろうと思ったりするかもしれません。痴によって、多くのものを所有するのは良いことだとか、それは経済を回すためにも良いことだなどと考えることもあるでしょう。

慳貪の着手は、その対象を実際に入手することをじっくり考えるような、強い所有の欲求です。この意業が究竟するのは、その対象への執着が強まり、それを入手するために行動を起こそうと決断したときです。慳貪の動機・着手・究竟は一つの思考の流れの中で起きます。つまり、まず何かを入手したいと願い、次にその入手を考え、その結果、それを実行するための方法を決めるということです。慳貪が究竟するのは、何かが欲しいとただ願っているときではなく、それを入手するために行動することを固く心に決めたときです。この決断は、必ずしも表明されたり、実際に行動に移されたりするとは限りません。ここで問題にしているのは、行動自体ではなく、破壊的な精神状態と、そこから生じる思考の流れです。

慳貪が究竟して最も深刻な結果が生じるには、動機に以下の五つの誤った態度が付随する必要があります―

  • 自分が使用し、楽しむ対象への特別な執着
  • より多くを蓄積したいという貪欲さ(btkam-chags)
  • 他人の貴重品などを全て見て自分でも試してみたいという抗いがたい詮索(’chums-pa)の衝動
  • 他人が持っているものは何でも自分が持たなければならないという競争的な態度(’khu-ba’i sems)
  • 貪欲であることを一切恥じず、また貪欲は捨て去らなければならないという認識も全くないまま誰かを出し抜こうとする頑固な態度(zil-gyis non-pa’i sems)

ですから、「ああ、上司を奴隷にしてこき使えたらいいのになあ、上司の権力も名声も全部私のものになったらいいのになあ」とか、「私がどんなに素晴らしくて教養があって気前の良い実践者であるか、いかに人々のために努力しているか、みんなが知ってくれたらいいのになあ」とか、「世界中の人々が私を尊敬してくれたらいいのになあ」などと夢想しているだけでは、慳貪は究竟しません。慳貪が究竟するのは、五つの誤った態度が全て揃っていて―つまり、対象に強く執着し、貪欲で、詮索好きで、競争的で、他者を出し抜きたいと思っていて―、さらに、それを得たいという強い欲望と、そのために何かをする明確な意図があり、「私は神のような富と権力を手に入れたい」とか「世界中のお金を手に入れたい」などと意識的に考えているときです。五つの誤った態度が一つでも欠けている場合、慳貪は究竟しません。

瞋恚

瞋恚は、人間や生き物を殺したり、殴ったり、叩いたりするなど、相手にとって不快なことをして傷つけたり痛めつけたりしたいという願いのことです。瞋恚の対象となるのは、粗悪語の場合と同じように、自分の願いを実行したら傷つく衆生です。瞋恚は、瞋と同じく、生きている相手に向けられます。一方、怒りや憎しみの対象は生物の場合もありますが、たとえば壊れたコンロや車のように無生物であることもあります。

瞋恚を犯すとき、傷つけたいと思っている人間や生き物は正しく認識されているはずです。その動機は、相手を殺したり殴ったりしたいという願いや、「私や他の誰かが突然こいつから全てを奪ってやれたら最高だろうな!」などという考えです。瞋恚には三毒のいずれかが付随します。貪によって、自分が相続することになっている金を手にするために父親を殺すことがあるでしょう。瞋によって、気に障るハエを叩き潰したいと思うこともあります。あるいは、痴によって、暴力は良いことだとか、他者に対する行為は問題にならないと考えて、誰かを傷つけるかもしれません。

瞋恚の着手は、自分の願いを実行に移そうと考えることです。瞋恚が究竟するのは、対象となる人間や生物を傷つけることをはっきりと心に決めたときです。ですから、反感を持ったり、誰かが傷つくことを願ったりするだけでは瞋恚ではありません。そこからさらに発展して、誰かを傷つけることを決意したときに瞋恚が究竟するのです。

慳貪の場合と同じように、瞋恚が究竟するためには、以下の五つの誤った態度が必ず動機に付随しなくてはなりません―

  • 誰かを傷つけたいと思う原因となる人や物に執着する敵意
  • 傷つけなければいても立ってもいられない、傷つけずにはいられないという気持ち(mi bzod-pa’i sems)
  • 恨(蔵: khon-du ’dzin-pa、梵: upānaha)―自分が怒ったりいらだったりしている理由を誤った考察(tshul-min yid-bcas)に基づいてあれこれ考え続けること
  • 「ライバルを殴ったり殺したりしたら素晴らしいだろう」と感じるような競争心
  • 勝つために相手を傷つけることを一切恥と思わず、そのような考えが欠点であり捨て去るべきものとは全く考えずに、誰かを負かそうとする身勝手な態度

自分を傷つけた相手が痛い目に遭ったり、誰かが全てを失ったり、地獄に落ちたりすることを単に願っているだけなら、それは「ただの悪意」(gnod-sems tsam-du ’gyur-ba)です。一方、瞋恚が究竟するのは、敵意を持ち、これ以上耐えられないという気持ちがあり、恨を持ち、誰かを出し抜こうという競争心が全て揃ったうえで、相手の首を絞めてやりたいと強く願い、それを実行に移そうと実際に考えている場合です。

精神の成長にとって、瞋恚は非常に有害です。誰かを傷つけたいという願いは、誰もが苦しみから解放されること、そして自分自身がそれを実現したいと願う大悲の対極です。ですから、このような破壊的な考えに向かう衝動を感じたら、その思考の流れが究竟する前に止めようとしなければなりません。始まりのない転生の繰り返しの中で、私たちはこのような有害な傾向に馴染んでいます。ですから、自分が瞋恚を犯そうとしていることに気付いても、驚くには値しません。そのような考えを素早く振り払い、慈悲の心で考えるなどの対治を用いて捨て去らなければなりません。

龍樹は『勧誡王頌(友人への手紙)』第17偈で以下のように記しています―

思考には、水に描かれたようなもの、地面に描かれたようなもの、石に刻まれたようなものがある。煩悩を持つ者は最初のもの(のように思考するの)が、ダルマを願う者は最後のもの(のように思考するの)が一番良い。

邪見

邪見は、否定(蔵: skur-’debs、梵: abhyākhyāna)したり退けたりしようと執拗に考える、視野の狭い、無知な心の状態です。その対象となるのは実在する現象や事実、誰かの資質、状況などです。その際、たとえば、犯罪者が自分の行為は正しかったと考えて法廷で争おうとしているときのように、その対象を否定することは正しいと認識しているはずです。邪見の動機は、実在する何かを否定したいという願望です。これには三毒のいずれかが必ず付随します。貪によって、敵対的で歪んだ考えを持つ有力な友達に迎合すれば好意を得られると考え、彼と同じような考えを持つかもしれません。瞋によって、正しい見解を持つ人を嫌い、絶対に彼に同意したくないと感じるあまり、何があってもそれに反対しようとすることもあります。そのような口論好きな人々は非常に幼稚です。ある人は、自分の敵が馬の顔の方を向いて鞍に乗っているからと言って、自分は尻尾の方を向きながら馬に乗りました。まさにこのような人々です!しかし、最も多いのは、痴によって、たとえ自分が間違っていたとしても、何が正しいか分かっている人はいないと考える場合です。

邪見の着手は、誤ったプロパガンダを広めたり、自分の考えを人々に話したりすることによって何かを否定しようとする考えです。邪見が究竟するのは、その対象を否定するとはっきり決断したときです。つまり、邪見は、単に転生の存在などの事実を信じないだけではなく、積極的にそれを否定したり反論したりすることを固く心に決めることです。

邪見とは、因、果、働き、あるいは実在する現象を否定する考えのことです。例を挙げましょう。たとえば、善い行いや悪い行いは存在しないと考えること、つまり、行為には適切なものとそうでないものがあるということを否定することです。結果を否定するというのは、そのような行為が結果をもたらすことを冷笑的に否定することです。何かの作用を否定するというのは、実質的に、種を蒔いたり世話をしたりすると結果が生まれるということを否定することです。たとえば、自分の身に起きていることには全く理由がないと考えるような場合です。これはつまり、親がいなくても子供が誕生すると考えるようなことです。そうやって、利益を得るために必要な建設的行動を否定することもあるでしょう。あるいは、生起と消滅の働きを否定することもあります。たとえば、実際には生のどんな瞬間にも継続している心相続が、無から生じて自分が死ぬときにぷっつりと途切れると主張して、前世や来世を否定することもあるでしょう。あるいは、たとえば、中陰にいる者や地獄にいる者、神などは、心相続の直前の瞬間に存在していたカルマの顕現として一瞬のうちに出現しますが、このような特定のものが出現する仕組みを否定することもあります。「あらゆる煩悩障から解放された阿羅漢などというものは存在しない」と言うことは、実在する現象を否認することです。

さらに、邪見が究竟するための動機には以下の五つの誤った態度が必ず付随します―

  • 認識することのできる現象の存在の仕方、あるいはそれが実際にどのようなものであるかを知らないことに由来する盲目(zhva-ba)
  • 否定的であることを楽しむ歪んだ感覚に由来するけんかっ早い態度(drag-shul-gyi sems)
  • 誤った考察に基づいて現象を確定的に分析してしまったことから生じる、歪みに染まりきった態度(log-par rgyun-du zhugs-pa’i sems)
  • 慈善、人類愛、善行、精神的実践などの価値を否定することから生じる完全な卑劣さ(rab-tu nyams-pa’i sems)
  • 他者の信念を否定したり敵対したりすることを全く恥だと思わず、それは欠点であり捨て去らねばならないという認識も一切もなく、誰かを出し抜いてやろうとする身勝手な態度

邪見には様々なレベルがありますが、いずれにしても、それが究竟するのは、何かについて盲目で、喧嘩腰で、捻じ曲げられた考えに染まりきっていて、完全に卑劣で、誰かを打ち負かそうとしていて、その相手の正しい主張を否定することをはっきりと心に決めているときだけです。邪見は意業の中でも最も深刻なもので、これを犯すと、建設的なカルマの力が精神的成長と幸福の根となる可能性を断ち切ってしまいます。ですから、このような自己破壊的な態度を取らないようにしっかりと自分を制しなければなりません。

要約してみましょう。十不善はどれも三毒のいずれかによって着手されます。しかし、殺生・粗悪語・瞋恚は瞋によってのみ究竟します。偸盗・邪淫・慳貪は貪によってのみ究竟します。邪見は痴によってのみ究竟します。妄語・離間語・綺語は、三毒のいずれによってでも究竟します。

[世親『阿毘達磨倶舎論』第四品第68~71偈、アサンガ『阿毘達磨集論』257-2-3~6に引用]

身業と口業の計七種のうち、邪淫をのぞく六種は、自分がそれを犯しても、他者にそれを実行させても、同じ破壊的なカルマが私たちの心相続に蓄積されます。しかし、邪淫については、その行為者は必ず自分自身であるはずです。なぜなら、他者にオーガズムの恍惚を経験させることはできないからです[世親『阿毘達磨倶舎論』第四品第67偈に引用]。

「いくつの不善を同時に犯すことがあり得るか」、「存在の各レベルにおいてどの不善を犯し得るか」などのテーマについては世親『阿毘達磨倶舎論』やアサンガ『阿毘達磨集論』で詳しく学ぶことができます。これらの細かな点を見分ける方法を学んで、自分の行動をもっとよく意識できるようにしなければなりません。ものごとを見分ける気付きを使って、破壊的行為をしないように自らを制し、毎日何気なく積み重ねている破壊的なカルマの力を弱める取り組みを始める必要があります。

不善業の結果の重さを決定する要素を区別する

不善業から生じる結果の深刻さを左右する要素には六つの種類があります(lci-yang-gi khyad-par drug)―

  1. 行動の性質
  2. 思(精神的な欲求)
  3. 実際の着手
  4. 頻度(dus rtag-pa、lan-mang)
  5. 対治の不在(gnyen-po med-pa)

1. まず、行動の性質について考えましょう。身業・口業七種のうち、その性質上、殺生からは最も深刻な結果が生じます。その後、七番目の綺語に至るまで深刻さは徐々に下がっていきますが、綺語も多くの時間を無駄にします。深刻さが軽減される理由は、巻き込まれる相手が感じる苦痛が徐々に小さくなってゆくからです。どんな衆生にとっても、所有物より自分の命のほうが大切ですから、その性質上、殺生は偸盗より深刻です。

意業三種のうち、慳貪の結果が最も軽く、邪見の結果は十悪のどれよりも深刻なものです。邪見は、建設的なカルマが結果を生み出す能力を殺生よりも深く傷つけるからです[世親『阿毘達磨倶舎論』第四品第79偈に引用]。

2. 次に、思(精神的な欲求)について考えましょう。ある不善業を犯したいという願いに伴う煩悩や悪見が強ければ強いほど、その結果も深刻になります。一般的に言って、瞋を伴う考えは、その性質上、貪や痴を伴う考えよりも深刻です。なぜなら、瞋は自分にも相手にも苦しみや傷をもたらすからです。しかし、不善業の結果の重さを左右するのは、煩悩や悪見の種類ではなく、動機となる特定の煩悩の度合いと大きさです。ぶっきらぼうに誰かを「バカ野郎」と呼ぶのは―もちろんそれはひどいことですが―あまり深刻ではありません。しかし、煮えたぎるような敵対心を持って怒りに任せて誰かに「バカ野郎」と言えば、それは重大な結果をもたらします。

3. 不善業の結果の深刻さは、私たちが相手に与える苦しみの大きさに比例します。これは殺し、盗み、強姦、不倫、嘘、虐待などの場合に当てはまります。生き物を殺す場合を例にとって考えてみましょう。

虫を踏みつぶしてしまったとき、その虫は比較的小さな苦しみを感じながら短時間のうちに死に至ります。しかし、大きな動物を何度も殴打して殺した場合、死に至るまでには時間がかかります。動物の身体が大きく、長時間にわたって大きな苦痛を感じなければならないため、私たちが受ける結果もより深刻になります。つまり、自分が与えた苦痛に比例した苦しみを味わうことになるのです。また、同じ小さな虫を殺したとしても、羽や脚をもいでから火の中に投げ込んだような場合は、単に叩き潰した場合よりもはるかに深刻な結果が生じます。巨人が自分の足をもいで炎の中に放り込むと想像してみてください!

犠牲となる生き物を苦しめ、時間をかけていたぶってから殺すのは大変に深刻です。なぜなら、肉体的な苦痛だけではなく精神的な苦しみも与えているからです。たとえば、誰かの人間的尊厳を奪い、怖がらせ、飢えさせ、ひれ伏して慈悲を請わせてから処刑するような場合です。さらに、拷問や殺人を犯すときにサディスティックな快感を味わい、それを自慢したり、身の毛もよだつような雄叫びを上げたりしていたら、恐ろしい結果を受けることになります。たとえ、そのような、強制収容所にいた狂った戦争犯罪者のような行いはしていないにせよ、自分がノミやナンキンムシ、ゴキブリや蚊、あるいは畑を食い荒らすイナゴを退治するときにどのような気持ちになるか、よく確認しなければなりません。自分の中にあるものを見つめたときに戦慄してしまうかもしれません。

4. 破壊的な行為の結果は、その行為の対象となる人やものから自分または他者が受けた、あるいは今後受けるであろう恩恵や助力の量に応じて重くなってゆきます。それゆえ、精神的な師やサンガの一員、両親などには、嫌な顔を向けるだけで深刻な結果がもたらされるのです。

殺生の場合、結果の深刻さは、相手が虫、小動物、大きな動物、胎児、人間、親友、兄弟、親、師、菩薩、阿羅漢、そして仏の順に上がってゆきます。

偸盗がより深刻な結果をもたらすのは、盗んだものが大量である場合、高品質である場合、困窮している人の所有物を盗んだ場合、それが教育のためのものである場合、祈祷書や仏典、精神的な師や阿羅漢の所有物、僧団や仏塔などに属するものである場合です。

邪淫がより深刻な結果をもたらすのは、その相手が親、出家者、親友のパートナーである場合、発話のために使うべき口を性的な目的で使用して貶めた場合、仏塔や僧院の敷地などで行った場合、自分あるいは相手が八斎戒を受けている場合、さらに、どちらかが病気、あるいは女性が妊娠後期である場合です。

妄語が深刻な結果をもたらすのは、真摯な問いを投げかけた人に対して意図的に誤った情報を渡した場合、多くの有意義なことがらについて嘘をついた場合、そして、身業三種と同じように、嘘をつく相手が親、師、サンガ、そして仏などだった場合です。最も深刻なのは、僧団内に分裂を起こすことを目的とした妄語です。

離間語が深刻な結果をもたらすのは、その対象となる相手が古くからの親友たちや家族―とくに親子―である場合、師弟関係にある人々や僧団内のグループである場合です。精神的な師に対して、その弟子のことを悪く言わないようによく注意しなければなりません。これは非常に破壊的な行為です。

粗悪語が深刻な結果をもたらすのは、相手が親や師などである場合、誰かを傷つけたり、叱ったり、脅かしたりする目的で意図的に粗悪語を使った場合、真っ当で尊重すべき対象や出来事に関するひどい嘘が含まれている場合です。

綺語が深刻な結果をもたらすのは、口論や陰口が含まれている場合、喧嘩腰な態度を取っている場合、挑発的な場合、執着によって典礼や他宗教の文献を朗誦する場合、あるいは、皮肉っぽく、無礼で、侮辱的な言葉遣いをする場合、そして、親や師について、あるいは親や師に対して不適切なことや全くのたわごとを言う場合などです。

慳貪が深刻な結果をもたらすのは、僧団や師、仏塔に捧げられた供物、あるいは彼らの所有物を求めている場合、また傲慢な強迫観念や虚栄心によって、王族や、倫理的に優れた知識人だけが味わう特権や尊敬を得たいと願う場合です。

瞋恚が特に深刻になるのは、それが親や親戚、師、非の打ちどころがない人、貧しい人、抑圧された人、苦境に陥っている人や配慮すべき状況にある人に向けられている場合、そして、自分が犯した過ちを悔いて心から謝罪した人に向けられている場合です。

邪見が非常に深刻になるのは、仏や解脱、業の因果の法則などというものは存在しないと積極的に否定する場合です。このような考えは、「現代社会には阿羅漢はいないし、良いものも価値あるものも存在しない」というような単なる冷笑的な考えよりもはるかに深刻です。

5. 破壊的な行為を繰り返す頻度が上がれば、その結果も重くなります。これは、繰り返すことによって、その習慣から逃れることがますます難しくなるからです。ですから、無意味なおしゃべりを一度するだけならあまり深刻ではありませんが、絶えず長々と繰り返していたら重大な結果につながります。

6. その結果を打ち消すような対治となる建設的な行動を取らずに、いくつもの破壊的行為をしていたら、その結果はますます深刻なものになります。

パボンカは『掌の中の解脱』で六つの要因を挙げましたが、ツォンカパは『菩提道次第広論』の中で以下の五つを挙げています―

  • 意図
  • 着手
  • 対治力の欠如
  • 歪んだ固執(log-par mngon-par zhen-pa)

頻度という要素は行為に含まれていますが、この五つの区分では、行為の性質は議論されていません。歪んだ固執とは、行為の背後に悪見があるということです。つまり、たとえば動物を殺すとき、行動の因果に関する歪んだ見解に基づいて、血を捧げる目的で行われたのなら、それは歪んだ固執です。

ツォンカパは、無著が『攝事分』(蔵: Sa’i dngos-gzhi、梵: Vastusaṃgraha)に記したまた別の六つの要素も列挙しています―

  • 性質
  • 作加行(蔵: mngon-par ’du-byed-pa、梵: abhisaṃskāra)
  • 習慣
  • 不調和な要素の確実な存在(mi-mthun-pa’i phyogs gcig-tu nges-pa)
  • 不調和な要素の根絶(mi-mthun-phyog sel-ba)

作加行は、パボンカとツォンカパのリストにおける意図と同じように説明されます。習慣は頻度に近いもので、不調和な要素の確実な存在・根絶は、それぞれ、対治力の欠如・存在とほぼ同じことを意味します。

世親『阿毘達磨倶舎論』には、行為の結果の深刻さを見分けるまた別の六つの要素が列挙されています―

  • 結末あるいはその後の展開
  • 場所
  • 着手
  • 着手を究竟させる意図
  • 着手を動機づける意図(意楽)

結末とは、その行為を将来にも繰り返すか否かということです。ここでいう「場所」は、無著やツォンカパ、パボンカのリストで「基」と呼ばれているものです。一方、世親が「基」と名付けたものは、他の師の著作で「性質」と呼ばれているものです[ダライ・ラマ一世(rGyal-ba dGe-’dun grub)『解脱道解明』(mDzod-tik thar-lam gsal-byed)第275偈に引用]。

破壊的な行為を行うことが避けられない場合、その深刻さを最大にする要因を全て含めないようにする必要があります。たとえば、ナンキンムシを燻し出すときには、できる限り虫を苦しめないように注意して、回数も最小限にとどめ、自分が過ちを犯していることをはっきり認め、後悔などの対治力を即座に生み出して、煩悩や悪見をできる限り減らした状態で行うのです。六つの要因全てを具えた人物の古典的な例として、「常に破壊的で、建設的なことは何ひとつせず、怒りに任せて最もおぞましい九つの拷問によって両親を殺害する屠殺の専門家」がありますが、私たちはそのようにならないように心がけなければなりません。

何よりも良いのは、自分が破壊的なカルマに汚染されるのを完全に防ぐことです。重大な結果をもたらす破壊的行為を行っている人を非難する一方で、「自分の行為は軽いものだから続けても良い」と考えてはいけません。

提婆は『広百論本』(蔵: bZhi-brgya-pa、梵: Catuḥśataka)第三品第22偈でこのように言っています―

し尿にまみれた人々(のうちの誰か)がハンセン病にかかっていたら、その全員が同じにはならない。(ハンセン病に罹患していないが)し尿にまみれた人々はハンセン病に罹患した人々に向かって鼻をつまむが、他の全ての人々からは避けられる。

言い換えてみましょう―ある集団の全員がし尿にまみれていて、その一部がハンセン病(※訳注:当時、強い社会的偏見の対象であった)に罹患していたとしたら、ハンセン病患者ではない人々は、患者たちに対して非難の意味を込めて鼻をつまむかもしれません。しかし、そうしている自分自身もし尿の悪臭を放っているのですから、その集団の外にいる人々は皆彼らに向かって鼻をつまみます。これと同じように、軽い破壊的行為を行いながら、より深刻な破壊的行為をした人に対して鼻をつまんでいたら、他の人々が私たちの行為を見て鼻をつまむだろうということです。どんなに軽くても、破壊的行為は苦しみの結果をもたらすということを心に留めておかなければなりません。

破壊的な言動の結果

全ての破壊的な行為は三種類の結果をもたらします―

  1. 異熟果
  2. 等流果(蔵: rgyu-mthun-gyi ’bras-bu、梵: niṣyanda-phalam)
  3. 増上果(蔵: bdag-’bras、梵: adhipati-phalam)

まず、異熟果は、衆生の心相続(rnam-shes-kyis zin-pa)と結合した無記(蔵: lung ma-bstan、梵: vyākṛta)の現象で、不善、または有漏善を異熟の因とします。つまり、異熟果は、次の生における五蘊―身体や心、感覚器官などによって経験される要因の集合体―であり、それ以前の衝動的な言動によって蓄積されたカルマの力の結果として熟します。五蘊は建設的な行動にも破壊的な行動にも含まれ得ますが、それ自体は仏陀によって善とも不善とも規定されていない無覆無記、つまり中立とされています。

1. 重大な破壊的言動の異熟果は、生を受ける瞬間に意識が地獄の住人の五蘊へと駆り立てられることです。地獄の住人の五蘊とは、その身体、彼らが見る恐ろしいものや自分の身に起きていることを感じること、痛みの感覚、恐れなどです。中ぐらいの破壊的な言動の異熟果は餓鬼が感じる五蘊へ、小さな破壊的言動は地を這う生き物の五蘊へと駆り立てられます。破壊的な言動の重さは、その動機・実行・究竟に付随した煩悩や悪見の強さ、また、その言動が全ての要素を具えているか否か、そしてその深刻さによって決まります。ですから、あらゆる破壊的言動は、もしそれが完全で、十分に深刻で、煩悩に満ちた心で行われた場合、死の瞬間に地獄への転生に駆り立てられることがあるのです。

2. 破壊的な言動の異熟果として悪趣での五蘊を経験したあとも、その行動によって積まれたカルマの結果である業の影響(蔵: las-mtha’、梵: karmānta)は残ります。前世で積んだ建設的なカルマの異熟果として再び人間に転生しても、原因に応じた結果、つまり等流果としてその影響を経験することになります。これらは、その生で経験すること(myong-ba rgyu-mthun-gyi ’bras-bu)や行動すること(byed-pa rgyu-mthun-gyi ’bras-bu)に反映されます。

例として、殺生を犯した場合を考えてみましょう。最初に、悪趣への転生という異熟果が熟します。その世界に生きるというカルマが尽きて再び人間に転生しても、誰かの人生を短くして人体という素晴らしいものを傷つけたという事実に応じて、私たちは病に苦しみながら、不幸で短い生を送ることになります。さらに、自分の過去の行いに応じて、子供のころから本能的に動物をいじめたり虫を殺したりすることを楽しみ、抗いがたいカルマの衝動に駆り立てられて、もう一度殺人を犯してしまうことさえあります。

前世で偸盗を犯した場合、たとえ人間に転生したとしても貧困にあえぎ、自らが強盗の被害に遭い、自分の所有物を手放したり他の人々に分け与えたりするように強いられるでしょう。また、その場合、子供のうちから盗みを働くともあります。

邪淫を犯した場合、不誠実な相手と不幸な結婚生活を送り、婚姻も友情も長続きせず、自分自身も不倫を好むようになります。

妄語を犯した場合、誰も私たちの言うことに耳を貸さず、誰からも信用されず、他の人々は私たちの陰口を言ったり噂を流したりします。私たち自身も、誇張や歪曲なしには話せなくなります。

離間語を犯すと、友達ができにくくなります。たとえ何人かの友達ができても彼らは私たちを見捨てたり距離を置いたりします。精神的な師や親しい人々とも離れ離れになります。私たち自身は秘密を漏らしたり求められてもいない意見を言ったりして誤解を生み、問題を起こして人々の悩みの種となります。

粗悪語を犯すと、私たちは常に批判の対象となり、あらゆる人に関する不快なニュースを聞き、様々な雑音に囲まれて生きることになります。私たち自身は習慣的に粗野な言葉遣いをしたり、罵倒したりするようになります。

綺語を犯すと、他の人たちから信用を得られなくなります。人々は常に私たちを笑い者にして、誰も私たちの言うことを真剣に聞かなくなります。私たち自身もおしゃべりをして他者の邪魔をすることが止められなくなります。誰かが深い瞑想に入っているときさえ喋らざるを得ないという気持ちになり、相手の脇をつついて注目を引こうとさえするかもしれません。

慳貪を犯すと、どんな計画も完遂できなくなります。数えきれないほどのことに手を出そうとしても、そのどれかに着手するやいなや、他のことをやりたいと感じます。自分が見るものすべてに触れたいと思い、全てのものの値段を知りたがり、誰かが新しく何かを買ったと聞くと、それを実際に見て自分で試さないと気が済まなくなります。

瞋恚を犯すと、私たちは絶えず罪の意識にさいなまれ、他者を疑ったり被害妄想に陥ったりします。また、サディスティックに人や動物を傷つけたり、いたずらをしたりすることに喜びを感じるようになります。道路に石を置いて車を故障させたり、誰かのキッチンにネズミを放ったり、犬を見るたびに抑えがたい衝動に駆られてからかったりいじめたりするようになります。

邪見を犯すと、常にやる気がない状態が続きます。ダルマを実践しようとしても頭に鍋がかぶさっているような感覚を覚えますが、下世話な活動に取り組むときは頭がすっきりとします。常に他者を批判し、あらゆる欠点をあげつらい、他人がすることは全て間違っているとか、良くないと考えますが、自分自身はダルマを誤って理解しています。このように、破壊的な言動の結果は、その原因に応じたものとなるのです。

本能的な行動において、原因に応じて生じる果は、最も苦いものです。過去生でとった破壊的な言動と同じものを本能的に繰り返すように生まれつくと、とめどなく繰り返される問題と存在の凶悪なサイクル、つまり輪廻が生じます。輪廻を断ち切るには、ダルマの教えを取り入れるしかありません。

3. それまでの破壊的な言動の結果の種類は私たちの転生する世界や社会的地位に影響を及ぼし、抗いがたいカルマの衝動は私たちの行動を方向づけます。一方、増上果は環境や所有物、そして人間に生まれた場合はそれらとの関わり方という形で熟します。また、増上果は、同じ環境を共有する多くの衆生に影響を与えるため、「命令する結果」と呼ばれることもあります(dbang-gi ’bras-bu)。

殺生を犯すと、なんの尊厳もない劣悪な環境に身分の卑しいものとして生まれます。医療設備は乏しく、食糧や医薬品も質が悪くて量も不足しています。理屈の上では私たちの健康を維持するはずの食べ物や医薬品を入手できたとしても、その食べ物から十分な栄養を得ることはできず、薬品は効果がありません。

偸盗を犯すと、たとえ植物の苗を植えても全く育たないか、ほとんど実りをもたらさなくなります。誰かから牛を買ってもミルクをあまり出さなくなります。土地は頻繁に洪水や干ばつ、雹によって荒らされます。

邪淫を犯すと、汚れて泥だらけで、不便で、便所の臭いがする非常に不快な場所で生きることになります。

妄語を犯すと、不誠実で堕落した人々が住む土地に生まれます。事業は失敗し、資本を失い、従業員は私たちから金品を奪い、誰もが私たちを欺き、つけ込みます。

離間語を犯すと、私たちは岩だらけで崖や谷の多い不快な場所で暮らすことになります。これは、私たちが他者の心の調和を乱したからです。

粗悪語を犯すと、棘やごつごつした岩、割れたガラスが散乱した場所で生活することになります。殺伐としていて、乾燥した不毛な土地で、水場はありません。サソリや蛇がうごめく塩の荒野で生きることになります。

綺語を犯すと、私たちの植えた果樹は適切な季節に実をつけず、おかしな時期に成長するようになります。その根はぐらついて、簡単に倒れたり切り倒されたりします。私たちの身近な公園や森林、湖などは混雑して荒らされます。

慳貪を犯すと、私たちの財産や家、所有物はすぐにすり減ったり壊れたりします。新しい部屋に引っ越すたびに家具がバラバラになり、塗装は剥げ落ち、すぐにぼろ小屋のようになります。新しいシャツを買っても、初めて着た瞬間に破れたり穴が開いたりします。

瞋恚を犯すと、絶えず戦争や災害、疫病に巻き込まれ、毒虫や毒ヘビ、危険な動物がはびこる環境で暮らすことになります。また、悪霊や亡霊に脅かされることにもなります。

邪見を犯すと、周囲の天然資源は枯渇し、泉は涸れ、環境は汚染され、法や秩序は失われ、何の保護も受けられなくなり、神聖なものは何もなくなります。

 [龍樹『宝行王正論』第14~18偈、ダルマラクシタ『武器の輪』第10~45偈に引用]

これらの出来事が理由もなく起きていると考えてはなりません。転生、経験、本能的な行動や環境は全て、これまでの言動によって蓄積されたカルマの力によって起きているのです。これらの様々なできごとは、私たちが今生で取った言動の結果だと考えるかもしれませんが、それは極めて珍しいケースです。もしそれが事実だとしたら、いつも不幸な目に遭っている優しい人はどうしてそんな人生を送っているのか説明がつきません。今生で経験することのほとんどは、前世で取った言動の結果であり、私たちの今の行いは、多くの場合、今後の転生に影響するのです。

ダルマラクシタは『武器の輪』第46偈でこのように説いています―

つまり、私たちの頭に落ちる稲妻のように、全く望んでもいなかった(災害などの)ものが当たることは、悪業の鋭い武器が私たちに戻って来るということなのだ。刀鍛冶が自分(で作った)の刀で殺されるようなものだ。だからこそ、自分の悪業に気を付けなければならない。
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