業の因果を考える方法

ラムリムの幅広い文脈における位置づけ

私たちはあらゆる資質を備えた精神的な師に出会い、八有暇十具足を具えた人身を持っています。しかし、このような理想的な状態は永遠に続くものではありません。死は必ず訪れます。しかも、それがいつなのかは決して分かりません。自分がこれまで悪趣への転生を防ぐための予防策を―たとえ全くではなくてもほんのわずかしか―講じてこなかったことを考えれば、来世、悪趣に転生することは明らかでしょう。

悪趣への転生を恐れ、仏・法・僧がこの差し迫った転落を回避するための安全な道を示してくれているという確信を強めたとき、私たちはこの三宝の導きに従うことを決意します。このような態度を―とくに臨終の瞬間に―取ることだけが、この生の直後に悪趣に転生することを防ぐ方法なのです。しかし、それ以降はどうなるのでしょう?三宝は、私たちを問題から遠ざける安全で永続的な道をどのように示してくれるのでしょう?

想像してみましょう―ある犯罪者が有力な政府関係者から支援を取り付け、執行猶予を手にする―そんなこともあるでしょう。しかし、彼がその後も反社会的行動を取り続ければ、どんな人脈があろうとも再び逮捕されます。自分の言動を変え、法に従うことによってのみ、心穏やかに安全な生活を送ることができるのです。これと同じことで、仏たちが私たちに安全な方向性を示し、僧がその道を歩む手助けをしていても、実際にはダルマだけがその道なのです。さらに、この道を実際に歩むためには、その手段を自分の心相続の中に受け入れて生起させてゆく必要があります。そうすることによって、今後の悪趣への転生を防ぎ、不安や恐れから自由になることができます。

まずは、建設的・破壊的な言動を区別する方法を身につけ、双方から生まれる結果について学ぶ必要があります。これができるようになると、おのずから、問題につながる言動を避け、幸せをもたらす言動を取るようになります。これこそが、悪趣への転生を避ける主な方法です。これを身につけなければ、悪趣への転落を食い止めることも、この運命への恐怖から逃れることもできません。

このように理に適った考察に基づいて行動するという安全な方向に進むためには、まず、業の因果の法則に対する確信を深め、これを尊重する必要があります。行動の破壊的・建設的な業因は、私たちに様々な影響をもたらします。これに気付かないままでいると―多くの衆生がそうであるように―、悲惨な状態への転落は避けられなくなります。

まさに、寂天(シャーンティデーヴァ)が『入菩薩行論』(蔵: sPyod-’jug、梵:  Bodhicaryāvatāra)第1章第28偈で言っていることです―

心欲離諸苦、奈何苦転増; 愚昧求安楽、壊楽如滅仇。 (苦しみを避けたいと願う心を持っているのに、人々は苦しみに突っ込んでゆく。幸せを得たいと願うのに、心が閉じているばかりに、あたかも敵であるかのように自分の幸せを破壊する。)

業の因果の基本原則を考える

インド・ナーランダ僧院の師によるカルマの説明には大きく分けて二つの体系があります。一つは毘婆沙派、経量部自立論証派、中観具縁派に受け入れられているもの、もう一つは経量部、唯識派、瑜伽行中観自立派に受け入れられているものです。ラムリムの伝統では、カルマの定義については論じず、二つの体系のうちより包括的な説明をしている方―ほとんどの場合は唯識派の体系です―に基づいてカルマの詳細を解説しています。唯識派では、カルマに関連する全ての衝動は思(心を駆り立てる働き)の心所であるとされます(無著『大乗阿毘達磨集論』256-4-7 以下にも引用されています)。

どちらの体系でも、カルマには建設的なもの(善、蔵: dge-ba、梵: kuśala)と破壊的なもの(不善、蔵: mi-dge-ba、梵: akuśala)、さらに、仏陀がそのどちらにも分類しなかったもの(無記、蔵: lung ma-bstan、梵: avyākṛta)があり、どの種類のカルマにも、解脱の妨げになるものとならないものがあるとされています。

この三種類のいずれにも、思業(駆り立てるカルマ、sems-pa’i las)と思已業(駆り立てられたカルマ、bsam-pa’i las)があります。思業とは意業(心のカルマ、yid-kyi las)のことです。これは意識とそれに付随する心所を駆り立て、身業や口業を起こすか否か思案し、それを実行する決断を下す思(蔵: sems-pa、梵: cetanā、意志・意図)の心所です。身業(蔵: lus-kyi las、身体のカルマ)と口業(蔵: ngag-gi las、発話のカルマ)は意業である思業に駆り立てられる思已業です。

毘婆沙派、経量部自立論証派、中観具縁派の考え方によれば(ツォンカパ『<中観根本頌智慧論>義疏・正理海』(蔵: rTsa-she tik-chen rigs-pa’i rgya-mtsho)サールナート版299-300ページや世親『阿毘達磨倶舎論』第四品第1-8偈に引用されているように)、身業や口業とは、思業によって決定された行為を実行に移すために身体を動かしたり、言葉を発したりすることです。ですから、全ての思(意志・意図)、身体の動き、発話がカルマに関連しているということではありません。たとえば身識を駆り立てる思や、意識を駆り立てて「昼ご飯を食べよう」と考えさせたりする思はカルマに関連しません。また、座るという動作や「こんにちは」という発話もカルマとは無関係です。

カルマに関連する全ての活動は、カルマが取る道、つまり業道(蔵: las-lam)です。心の活動の場合、業道は、意識によって成立し、心所を伴い、それを駆り立てる思業を含まない思考の流れです。身体や発話の場合、業道それ自体が思已業であり、そこには、行動を実行に移す手段としての身体の動きや発話が含まれます(世親『阿毘達磨倶舎論』(蔵: Chos mngon-pa’i mdzod、梵: Abhidharmakośa)第四品第78偈)。

意識とそれに付随する心所を破壊的な意業に駆り立てる思の心所は、煩悩や悪見によって生起されます。「生起される」(蔵: kun-slong、梵: samutthāna)とは、単純に「引き起こされる」という意味です。ですから、煩悩や悪見はその行動を駆り立てている思によって促された心所の一つとして、意業に付随します。思と煩悩・悪見はどちらも心所ですが、共通基体(蔵: gzhi-mthun)もなければ、両方に該当する現象の例もありません。破壊的な業道や行動・発話の場合、煩悩や悪見は、誰かを刺すために腕を動かさせたり、嘘をつくために言葉を発させたりする身識に付随する心所の一つです。

身・口・意の三業と、そこに含まれる、あるいはそれらを駆り立てるカルマは、それが建設的であるか破壊的かによって、福徳(蔵: bsod-nams、梵: puṇya)あるいは罪悪(蔵: sdig-pa、梵: pāpa)として機能します。福徳は、死の瞬間に熟し、三つの善趣のいずれかに属す無覆無記の身体的要素を取らせるように意識を駆り立てます。この身体は来世で意識の働きを支える身体的な基礎となります。現世、あるいは来世において、福徳は意識または感官識のいずれかに伴う楽受の心所に熟します。罪悪の場合は、三つの悪趣のいずれかに属する身体と苦受の心所へと熟します。

いわゆる「インスタント・カルマ」などというものは存在しません。カルマに関連する明らかな言動と、その明らかな熟果の発現との間には必ず時間的な隔たりがあります。この二つの関連性を維持しているのは、休眠状態のカルマの種(蔵: sa-bon、梵: Bīja)の連続体です。この種は不相応行(蔵: ldan-min ’du-byed、梵: rūpa-citta-viprayukta-saṃskāra)であり、心相続に基づいて仮設(蔵: gdags-pa、梵: prapti; imputed)されます。種は、身体的な現象としても、何かに対する気付きとしても、五種類の共通項―焦点となる対象など―を意識と共有することはありません。ある視点からみれば、発現と休眠の連続が全体として福徳あるいは罪悪として機能しているとも言えます。しかし、別の視点から見れば、種子自体は有覆無記の現象です。種子はそれ自体の反復の質料因(蔵: nyer-len-gyi rgyu、梵: upādānahetu)として機能し、それゆえ、言動と果熟をつなぐ連続体の維持を担っているのです。

身業と口業の思已業は身体的な現象です。これには表色(蔵: rnam-par rig-byed-kyi gzugs、梵: vijñapti-rūpa、認知されるもの)と無表色(蔵: rnam-par rig-byed ma-yin-pa’i gzugs、梵: avijñāpti-rūpa、認知されないもの)の両方があります。表色はカルマに関連する行動を成立させるための手段である身体の動きや発話です。これは行為がとられている間だけ存続し、付随する動機付けの心所が善であるか不善であるかを示します。無表色は微細な身体的現象で、何も示しません。無表色は行動と共に生じ、そのカルマに関連する活動が完了したあとも、いくつかの原因の一つによって失われるまで、心相続と共に存続します。

無表色は、それが生起するときに生じる物質的要素、あるいはその生起と同時に存在している物質的要素から派生しますが、極微塵(蔵: rdul-phran、梵: paramāṇu)の集合体から生まれるのではありません。物質的現象の一形態ですが、色も形も持ちません。無表色は衆生の「心相続に包摂(sems-rgyud-la bsdus-pa)」されていますが、「意識と結合(rnam-shes-kyis zin-pa)」してはいません。つまり、自分の身体感覚や気持ちを感じるように無表色を感じられるわけではないのです。無表色は強い動機によってのみ私たちの心相続の中に生じます。これは必ず善あるいは不善であり、無記であることはありません。そして、心相続に生じた瞬間から、特定の行動の結果として失われるまで存続します。深い瞑想の状態を達成しているときも、あるいは逆に、気が散ったり、眠ったり、無意識だったりするときにも存在し続けるのです。無表色は毘婆沙派と中観派で説かれる考え方ですが、他の教義体系では認められていません(世親『阿毘達磨倶舎論』第一品第11偈)。

あらゆる戒は無表色に含まれます。また、誰かに善・不善の身業や口業を取るよう命じたり、他者を助けるものや傷つけるものを作ったり、それを支援したり、他者の建設的な言動に随喜したりするときにも、無表色が生じます。誰かに何かを命じて相手がそれを実行したときや、私たちが作ったり資金援助したりしたものを他者が使ったときなどにも、無表色は私たちの心相続に功徳や罪悪を積み上げます。

つまり、私たちはカルマに関連する言動をとるたびに、その内容に応じて、幸せにつながる功徳か、苦しみと不幸につながる罪悪を積み上げているということです。そして、条件が整ったとき、これらは幸や不幸の感覚を生みだします。つまり、私たちが経験するあらゆる喜びや苦しみは、それ以前の衝動的な言動の結果として生じているのです。幸せも苦しみも、理由なく生じているのではありませんし、私たちの運命を司る全能の存在が作り出しているのでもありません。仏陀は言いました―

あなたは自分自身の最も素晴らしい友であり、最も恐るべき敵である。

なぜなら、たとえ状況や他者がきっかけだったとしても、自分の幸せや問題をもたらしているのはいつも自分―つまり、自分の考え方や話し方、振る舞い方だからです。

業の因果の一般的な特徴

業因と業果の法則を考えるとき、考慮すべき一般的な点は四つあります:

  1. 自分の行動からは必ずその結果が生まれる
  2. 自分の行動は非常に大きな結果を生む
  3. 特定の行動を取らなければ、その結果を受けることはない
  4. ある行動を取ったら、それが結果を生み出さずに消えることはない

第一の特徴からお話ししましょう。私たちが何を考え、言い、行うかに関わらず、またその動機がなんであれ、建設的な言動が幸せをもたらし、破壊的な言動が苦しみと問題をもたらすことは確実です。私たちが味わう幸せは全て―ほんの一瞬の涼風でさえも―それ以前の建設的な言動の結果です。破壊的な言動からは決して生じません。苦しみについても同じことが言えます。ちょっとした頭痛さえも、自分が過去にとった破壊的な言動から生じているのです。トウガラシの種から収穫できるのはトウガラシだけですし、ブドウの種からは甘い果実だけが実ります。仏陀も『律阿含』(蔵: ’Dul-ba lung、梵: Vinaya-āgama)の一つでこう説いています―

どのような行動を取ろうとも、結果はそれに応じたものとなる。

仏陀の『律蔵』(蔵: Dul-ba’i sde-snod、梵:  Vinayapiṭaka, 律の籠)には四つの部分(蔵: ’Dul-ba lung sde-bzhi)が含まれています。

  • 『律事』(蔵: ’Dul-ba lung gzhi、梵:  Vinaya Vastu)
  • 『波羅提木叉経』(蔵: So-sor thar-pa’i mdo、梵: Prātimokṣa Sūtra)および『律分別』(蔵: ’Dul -ba rnam-’byed、梵: Vinaya Vibhaṅga)―これは二つで一つと数えられます
  • 『律雑事』(蔵: Dul-ba phran-tshegs-kyi gzhi, Skt. Vinaya Kṣudraka Vastu)
  • 『律上分』(蔵: ’Dul-ba gzhung dam-pa、梵: Vinayottara Grantha)

『賢愚経』(蔵: mDo mdzangs-blun、梵: Damamūko-nāma Sūtra)第三十七品には、黄金のような美しい声を持つ非常に醜い小男・善和(蔵: sNyan-pa bzang-ldan)の説話が収められています。彼は出家して有意義な一生を送りました。あるとき、舎衛城のプラセーナジット王(波斯匿王)とその軍隊がアングリマーラを探す途上、給孤独(スダッタ、須達多)の祇園精舎(蔵: Gyal-byed-kyi tshal kun-dga’ ra-ba、梵: Jetavanārāma)を訪れました。アングリマーラは999人の犠牲者の親指をつないで首飾りを作った悪名高い殺人者です。王は、この恐ろしい悪党が仏陀の力によって改心し、今では阿羅漢となっていることは知らず、ただ彼が仏陀と共に祇園精舎に住んでいるということだけを知っていました。

王は兵士たちと共に荒々しく園に突入しましたが、入ってみると、経典を朗誦する美しい声が聞こえてきました。それは実に妙なる声で、馬や象さえ足を止めて聞き惚れました。王も非常に強く心を動かされ、自分の任務も忘れて、その麗しい声を持つ僧に会いたいと仏陀に言いました。仏陀は会わない方が良いと言いましたが、王はどうしてもと言い張りました。ついに善和の姿を目にした時、王は大きな衝撃を受けました。その容姿に不釣り合いな声の原因を訪ねると、仏陀は以下のように語りました。

三番目の仏である迦葉仏が亡くなったあと、ある王がこの仏を讃えて仏塔を建てました。その建設に従事した僧の一人は、あまりの仕事量の多さに毎日毒づき、どうしてこのような巨大な仏塔を造らなければならないのか、小さな塔でも十分だろうと不平を言っていました。その結果、彼はこの醜い小男の善和に転生したのです。しかし、仏塔の建設が終わったとき、この僧は不平を言ったことを悔いて塔の頂を飾る黄金の鐘を奉納しました。これが、彼の妙なる声の因となりました。

また別のとき、プラセーナジット王にはムリガラ(Blon-po Ri-dvags ’dzin)という臣下がおり、その母サガマ(Ma Sa-ga-ma)には32人の息子がいました。息子たちはみな活発でレスリングが大好きでした。王は彼らを気に入って、彼らが一緒に遊ぶ姿を喜んで眺めていました。ある別の臣下は、兄弟が寵愛を受けていることを妬み、刃物を仕込んだ水晶の棍棒を一人一人に贈りました。兄弟はみな喜んで棍棒を受け取り、頭の上で振り回し、宮廷で模擬戦を行いました。王は満面の笑みでそれを見ていました。しかし、狡猾な臣下は、これは遊びではなく、この兄弟が王を暗殺しようとしているのだと王に告げました。実際、棍棒の一つが割れると中から鋭い刃が顔をのぞかせました。プラセーナジット王は驚愕のあまりその場で兄弟を打ち首に処し、その首を大皿に乗せて母親に送りつけました。このようなことが起こった原因は、兄弟が前世で家畜泥棒であり、雄牛を盗んで屠ったことです。王は前世でその雄牛であり、母親は32人の盗賊に牛肉料理を出した宿屋のおかみでした。

建設的な動機によって破壊的なことをしてしまう場合について考えてみましょう。たとえどんなに素晴らしい動機からであっても、破壊的な行為は問題を生み出します。私たちが経験する幸せは全て建設的な動機、つまり建設的な思考の結果です。幸せが悪業(蔵: sdig-pa’i las、梵: pāpa-karma)、つまりネガティブな衝動から生じることはあり得ません。たとえば、仏陀はある前世で船長でした。彼の船の漕ぎ手の一人にミニャク・ドゥムドゥム(Mi-nyag dum-dum)という男がいました。彼らの船に500人の商人が乗っていたとき、船長である仏陀は、ミニャクが商人たちを殺して金品を強奪しようと企んでいることに気付きました。500人の命を守り、ミニャクが大量殺人から生じる重大な結果を引き受けないで済むように、仏陀はこの漕ぎ手を殺し、それによって生じる苦しみを何でも引き受けることを決意しました。

この菩薩(のちの仏陀)の動機は高貴で無私であったため、この行為によって彼は阿僧祇劫(蔵: grangs-med、梵: asaṃkhya、数えきれないほどの)の功徳を積む過程を完成させて仏の境地に達しました。それでも、彼が犯した殺人は本質的に破壊的なものです。破壊的な行動から苦しみや問題が生じることを示すため、仏陀は、それ以前の悪業によって積まれた障害を全て取り除き、あらゆる問題からの解放である解脱を達成していたにも関わらず―そして彼が歩くときには、通常、足が地面に着くことがなかったにも関わらず―足にとげが刺さった姿を見せました。「とげが刺さった原因は自分が船長だったときに犯した殺人だ」と弟子たちに語ることによって、彼は、破壊的な行動の結果は必ず苦しみであることを示していたのです。

第二の点についてお話しましょう。一滴の毒薬が命を奪い、小さな丸薬が病を癒すように、小さな行動が大きな結果をもたらすことがあります。あるとき、仏陀はある家族を訪問しました。その家のおかみは熱心な信者で、彼にゴマのお菓子を捧げました。仏陀は彼女に「来世でお前はしかるべき場所に転生し、このお布施の結果として縁覚になるだろう」と予言しました。彼女の夫は仏陀を信じておらず、「こんなちっぽけな菓子ひとつでどうしてそんな話をでっちあげられるんだ?」と毒づきました。仏陀は落ち着いて、「私には嘘をつく理由がない」と言いました。そして、500台の荷車が枝の陰で十分に涼むことのできるほど大きな菩提樹の話をしました。ゴマと同じぐらい小さな菩提樹の種が芽吹き、いずれは大木となるのです。仏陀は、このように地に足の着いたたとえ話を使って、小さな行いが大きな結果につながることを彼らに説いたのです。

取るに足らないように見える行動が恐ろしい結果をもたらした例はたくさんあります。ある僧の声が犬のようだとか、カエルやサルのようだとか言った人々が、それらの動物に500回転生したこともあります。マヌの息子・カピラの話を思い出してみましょう。彼は問答に勝つため、18人の僧を様々に異なる動物の名前を使って罵りました。結果として、彼は18の頭を持つ海獣に転生しました。

同様に、小さな建設的行動も大きな結果をもたらします。世親は『阿毘達磨倶舎論』を執筆しているとき、鳩を鳥かごに入れて飼っており、この鳩は世親が自分の著作を読み上げるのを聞いていました。その言葉の音が鳩の心相続に強い印象を残した結果、この鳥は人間の子供に転生しました。これがのちの安慧(Blo-gros brtan-pa)です。彼は、言葉を話せるようになるとすぐ、世親のところに連れて行かれました。安慧はすぐに世親の親しい弟子となり、のちに、それまでに何度も聞いた師の著書に対する名高い註釈を書きました。

龍智(Klu-byang)についても似たような逸話があります。彼も前世で鳥だったときに龍樹の教えを聞いた結果、転生後、傑出した弟子になりました。

私の僧院にいたある僧は、量(有効な認識手段)や般若波羅蜜、そして中観をたやすく習得しました。しかし彼は、一般的により平易とされるアビダルマや律などのテーマについては難儀していました。高度な悟りに達し、透視力まで具えていたある高僧は、その理由を以下のように説明しました―彼の前世はサソリだった。彼は僧院の門をくぐり、問答の会場に入った。そこでは、現在容易に理解できている三つのテーマに関する問答が行われていた。しかし、残りの二つについての問答が始まる前に、舞い降りてきた鷲に食べられてしまったので、それを理解する性向を身につけることができなかったのだ―。これこそが、仏像やタンカにハエが止まっても追い払ってはならない理由です。帰依の対象となるものに触れれば、虫たちの心相続に有益な影響が残り、来世において彼らの助けとなる可能性があるのです。

ゲルク派の僧院の修学システムでは、インドの五大論書に基づいて五つの分野を学びます。

  • (蔵: tshad-ma、梵: pramana)―三宝、転生、全知などの最も重要な教えが妥当であるという根拠を学ぶ。基礎となるのは法称『知識論評釈』(蔵: Tshad-ma rnam-’grel、梵: Pramāṇavarttika)。
  • 般若波羅蜜(蔵: phar-phyin、梵: prajnaparamita)―空・解脱・悟りの証得に必要な地道(sa-lam)を学ぶ。基礎となるのは弥勒『現観荘厳論』(蔵: mNgon-rtogs-rgyan、梵: Abhisamayālaṃkāra)。
  • 中観(蔵: dbu-ma、梵: Madhyamaka)―中観帰謬派の見解に基づいて空を学ぶ。中観の修学の基礎となるのは月称『入中論』(蔵: dBu-ma-la ’jug-pa、梵: Madhyamakāvatāra)。
  • 阿毘達磨―衆生の心身の構成要素、六道、カルマ、煩悩、悪見、解脱への道などを学ぶ。基礎となるのは世親『阿毘達磨倶舎論』。
  • (蔵: ’dul-ba、梵: Vinaya)―出家者の戒を学ぶ。基礎となるのは徳光『律経』(蔵: ’Dul-ba’i mdo、梵: Vinayasūtra)。

純粋な動機で捧げられたほんの小さな供物が非常に大きな結果をもたらすことはすでに見てきました。仏教の保護者であったアショーカ王は、前世で少年だったとき、金だと観想した片手一杯の砂を毘婆尸仏(蔵: rNam-par gzigs、梵: Vipaśyin)に捧げた結果、仏陀の教えを広める強力な王に転生しました。

二番目の仏・倶那含牟尼仏(蔵: gSer-thub、梵: Kanakamuni)の時代、ある年老いた夫婦がいました。彼らはとても貧しく、身体に巻き付ける木綿のぼろ布を二人で交互に使っている有様でした。外に出る方がその布を身にまとい、もう一人は家で待っているのです。ある日、妻が町に出ると、多くの人々が倶那含牟尼仏に供物を捧げていました。彼女も供養をしたいと強く願いましたが、差し出せるのは身にまとっているぼろぼろの布だけでした。彼女が仏の弟子に布を捧げてもいいか尋ねると、弟子は良いと答えたので、翌日彼女は道端の岩の上に布切れを置いて密林に駆け込みました。倶那含牟尼仏はこのつつましやかで真摯な供物を受け取りましたが、何度も祈りを唱えた後で、老女がそれを取り戻せるように岩の上においてゆきました。その結果、この夫婦はその生涯において王侯貴族が着るような豪華な衣服を手に入れただけでなく、妻は転生した時、衣を身に着けた状態で生まれてきたのです!この赤ん坊が成長し、出家して比丘尼パンダリ(蔵: dGe-slong-ma dKar-mo)となったとき、それまでずっと身に着けていた亜麻の衣はサフラン染めの衣に変容しました。

ですから、どんな行動も、それがどんなにちっぽけに見えようとも、決して軽んじてはいけません。小さな行動を重ねることによって、私たちは精神的な目標を達成するためのカルマの力をますます積み上げているのです。仏陀は『ウダーナヴァルガ』(蔵: Ched-du brjod-pa’i tshoms、梵: Udānavarga、『法句経』チベット語訳)第十七品第5-6偈で以下のように説いています―

小さな破壊的行動を取ったとき、「この結果は私の未来に影響しない」と考えてはならない。小さな水の滴も、たくさん集まれば、大きな桶を満たす。これと同じように、未熟な衆生の心相続も徐々に破壊的なカルマの力で満たされてゆくのである。小さな建設的行動を取ったとき、「この結果は私の未来に影響しない」と考えてはならない。小さな水の滴も、たくさん集まれば、大きな桶を満たす。これと同じように、成熟した衆生の心相続も、徐々に建設的なカルマの力で満たされてゆくのである。

『賢愚経』第十六品ではスリジャティ(蔵: Khyim-bdag sPal-skyes)という在家の説話が収められています。私たちはそこから因果の法則の働きに関する多くの例を学ぶことができます。仏陀釈迦牟尼の時代、80歳になるスリジャティという在家がいました。彼にはたくさんの家族がいましたが、全く幸せではありませんでした。家族は全員彼を嫌っており、彼がやることなすこと全てをあざけり、笑いものにしたのです。すっかり嫌気がさした彼は、ある日、シャーリプトラのもとを訪れ、出家させてほしいと願い出ました。シャーリプトラは高度な悟りから得た力でスリジャティの前世を透視し、彼が僧として生きていくための基礎となるような建設的な行為をしたかどうか探りました。しかし、何も見つからなかったので、彼はこの老人に帰るように言いました

スリジャティは泣き崩れました。彼の嘆く声を聞いた仏陀は彼のもとに歩み寄り、こう言いました―「私は全てを克服し、全てを成就したのだから、シャーリプトラより多くのものが見える。お前は功徳の種子をたくさん持っている」。そして、何劫もの昔、彼がハエだったときにロバの糞の上に止まっていたら、雨水でできた小川に運ばれて、その糞が仏塔の周りを三度巡ったと語りました。「この種子の徳の力を基礎として、お前は出家して成就を得ることができる」。

仏陀は自分の教団に彼を迎え入れ、目連の指導下に置きました。彼は僧院に入り、他の若い見習い僧たちと共に学ぶことになりましたが、この少年たちは絶えず彼をバカにしたりからかったりしました。どこの国でもそうですが、年を取るというのは難しいことです。チベット語には「年老いた馬、年老いた犬、年老いた男は皆見下される」ということわざがあります。スリジャティはすっかり気落ちしてしまいました―「皆が私に敵対する。自分の家で起きたことが、今度は僧院で起きている」。

彼は自分の苦しみを終わらせようと考え、ガンジス川のほとりに行きました。そこで何度も祈りの言葉を唱え、こう考えました―「ダルマを重んじていないというのではないが、みじめな老人にこれ以上何ができよう?」。彼が飛び込もうとしたその瞬間、師の目連が通りかかり、彼をつかんで引き止めました。スリジャティは深く恥じ入り、何が自分をそこまで追い詰めたかを師に語りました。目連は「ばかなことをするな、お前を僧院に戻らせる」と言い、自分の衣をスリジャティにつかませて、神通力を使って空に舞い上がりました。

田舎の上空を飛んでいるとき、腐敗した女性の遺体がスリジャティの目に留まりました。その眼窩や鼻孔には蛇が出入りしていました。「あれは何ですか?」と老人が尋ねると、目連は「今は説明するときではない」と答えます。次に、大釜で湯を沸かし、湯が沸くとそこに飛び込む女性を見ました。スリジャティが尋ねると、目連はまた、説明はあとですると言います。さらに、イモムシや他の昆虫が這いまわり、その痛みで叫び声をあげている木も見ました。スリジャティは他にも様々な奇妙な光景を目にしました。

目連は老人をつかまらせたまま海を超えました。彼らが舞い降りた浜辺には巨大なクジラの骨があり、二人はそのあばら骨の一本の上に座りました。目連はまず、蛇が出入りしていた遺体について語りました。その女性が生きていた時、彼女は自分の美しさに夢中になり、いつも鏡の中の自分の姿に見とれていました。彼女は夫と一緒に船旅に出ましたが、その途中で溺れ死んでしまいました。そして、その遺体が浜に打ち上げられ、執着によって蛇に転生した彼女は、自分の前世の身体の眼窩や鼻孔を出たり入ったりしていたのです。

煮えたぎる湯で自分を煮ようとしていた女性についてはこのように語りました―かつて、近所の洞窟に住む瞑想者に供物を捧げる非常に敬虔な貴婦人がいた。彼女は召使いの少女に食べ物を持たせて瞑想者に届けさせていたが、実際にはその召使いがほとんど食べてしまい、彼にはほんの少ししか届けられていなかった。ある日、貴婦人が洞窟を訪れると、瞑想者は痩せこけていた。一方の召使いは明らかに太っていた。貴婦人が問い正すと、少女は供物を食べたことを認めず、「そんなことをしたと言うぐらいなら自分を食べたほうがいいですよ!」と言った。その結果、彼女は大釜で自らを煮る女性に転生した。

さらに、目連は木についても話をしました―ある僧院の物資管理をする僧がいた。そこでは僧侶だけに薪を分配することになっていたが、彼は気前よくお金を払ってくれるなら誰にでも薪を売り始めたので、僧院で使う薪が足りなくなった。その結果、彼は木の身体に転生し、不正に薪を買った人々は虫に転生して彼を食べ、苦しめた。

二人はクジラのあばら骨に座ってこのように実に興味深い会話を繰り広げました。最後に目連は、あっけに取られているスリジャティに向かって、この海獣について語り始めました―「ここにある骨は、前世でお前の骨だったのだ」。クジラに転生する前、お前はダルマを保護する王だった。ある日、お前がチェスをしているとき、家臣が罪人を連れてきてどのように処すべきか尋ねた。お前はあまりに深くチェスに没頭していたので、顔を上げることも事情を尋ねることもせず、「法に則って処罰せよ」とだけ言った。その国の法律は非常に厳しかった。家臣はお前の言葉に従い、罪人を連れ出して直ちに処刑した。チェスが終わったあと、お前が家臣に何の用だったのか尋ねると、家臣は罪人について説明し、法に則って処刑したと報告した。お前は恐れおののき、自分の怠慢を激しく悔いた―。そして目連は言いました―「その悔恨によって、お前は地獄への転生を免れ、このクジラになったのだ」。

話に引き込まれた老人に対して、目連はさらに、この深海の怪物が通り過ぎた船に向かってその洞窟のような口を開けたときの様子を説明しました―船の乗客たちはみな、恐れおののいて「三宝に帰依します」と大声で叫んだ。お前はそれを聞いて口を閉じ、波間に姿を消した。乗客たちの命は救われた。そして、クジラとしての生が終わり、やがてお前の骨はここに打ち上げられた。

スリジャティはこれらの業の因果の法則の例について多くのことを考えました。無明があらゆる破壊的言動の原因であり、破壊的言動が様々な困難をもたらすことを理解した彼は、かつて自分自身であったクジラのあばら骨の上で阿羅漢の境地に達しました。海を越えて僧院に戻るとき、今度は目連の衣につかまらずとも、自分で飛んでゆくことができました。後になって、仏陀は多くの人が集まる法話の最中にこの老僧を指さし、立ち上がって自分の経験を話してほしいと言いました。スリジャティが、目連の優しさと巧みな方便によってあらゆる感情の障を捨て去り、阿羅漢になることができたと語ると、聴衆はみな驚嘆しました。

私たちもこの説話から多くを学ぶことができます。業因と業果を考えるときに考慮すべき最初の二つの点、つまり行動には確実に結果が伴うという点と、小さな行動が大きな結果となるという点をよく考えたら、はっきりと決意を固めなければなりません。できるだけ多くの建設的行動を取り、できるだけ多くの破壊的行動を避けることを心に決める必要があります。さらに、たとえ些細なものであっても建設的な行動をとり、また、たとえ小さなことであっても破壊的な行動を避けることも決意するのです。

三つ目の点に移りましょう。戦争や大災害では多くの人々が犠牲になりますが、無傷で生き延びる人もいます。これは理由なく起きることではありません。むしろ、三番目の業因と業果の法則―ある特定の行動を取っていなければ、その結果はもたらされない―のはっきりした証拠だと言えます。

長老・迦諾迦伐蹉尊者(蔵: gSer-be’u、梵: Kanakavatsa)が生まれたとき、奇跡的に七頭の黄金の象が現れました。彼らの糞は金塊でした。この七頭は、迦諾迦伐蹉尊者が亡くなるまでずっと、彼の後を着いてまわりました。そのせいで尊者は恥ずかしい思いをすることもありましたが、何をやっても彼らは彼から離れようとしませんでした。その理由は彼の前世にあります。彼は前世で二番目の仏・倶那含牟尼仏が乗った粘土製の象の像を修理し、金箔で覆ったのです。

アジャータシャトル王はこの七頭の象を欲しがり、七度にわたって盗もうとしました。しかし、主人から引き離すたびに象たちは地中に姿を消し、再び迦諾迦伐蹉尊者のそばに現れるのです。これは、王が前世において、無限の富の源泉を手にする因となるような行動を取っていなかったからです。

迦諾迦伐蹉尊者は十六羅漢(蔵: gnas-brtan bcu-drug、梵: ṣoḍaśa-sthavira、十六人の長老)の一人でした。十六羅漢とは、仏陀の弟子のうち阿羅漢になった人々で、各方角に遣わされ、それぞれの地でダルマを教え、護持する役割を担っていました。他の十五人は以下の通りです:

因掲陀尊者(蔵: Yan-lag ’byung、梵: Angaja)

阿逸多尊者(蔵: Ma-pham-pa、梵: Ajita)

伐那婆斯尊者(蔵: Nags-na gnas、梵: Vanavasin)

迦哩迦尊者(蔵: Dus-ldan、梵: Kalika)

伐闍羅弗多羅尊者(蔵: rDo-rje-mo’i bu、梵: Vajriputra)

跋陀羅尊者(蔵: bZang-po、梵: Bhadra)

迦諾迦跋釐堕闍尊者(蔵: Bha-ra dha-dza gser-can mchog、梵: Kanakabharadhvaja)

諾距羅尊者(蔵: Ba-ku-la、梵: Bakula)

囉怙羅尊者(蔵: sGra-gcan ‘dzi、梵: Rāhula)

賓度羅跋囉惰闍尊者(蔵: Bha-ra dha-dza bsod-snyoms len、梵: Pindolabharadhvaja)

那伽犀那尊者(蔵: Klu’i-sde、梵: Nagasena)

戎博迦尊者(蔵: sPed-byed、梵: Gopaka)

蘇頻陀尊者(蔵: Mi-phyed-pa、梵: Abheda)

半託迦尊者(蔵: Lam-chen、梵: Mahapanthaka、大路とも)

注荼半吒迦尊者(蔵: Lam-chung、梵: Chudapanthaka、小道路とも)

ヴァーラーナシー(Ba-ra na-si、ベナレス)のウダーイ王(rGyal-po Shar-pa)の妃であったシャマ女王(bTsun-mo sNgo-bsangs-ma)は不還の境地に達し、彼女の500人の侍女もみな空を悟りました。彼女たちは神通力で空を飛ぶことができましたが、女王の宮殿が火事になったとき、そこから飛んで逃げることはできませんでした。これは、彼女らが前世でバラモン階級の家族の小屋の焼き討ちに参加したからです。女王は「自分の行動と業力の結果を自分で引き受けることができないなら、誰ができるというのか?」と言って侍女たちと共に炎の中に引き返し、まるでランプの灯に飛び込んだ蛾のようにその身を焼き尽くしました。

しかし、スクビャ(Bran-mo sGur-mchog)という名の身分の低い、背中の曲がった侍女は前世でその焼き討ちに参加していませんでした。彼女は神通力を持っていませんでしたが、排水路を這って進み、宮殿の外に逃げることができました。つまり、破壊的なカルマの力の原因となる行動を取っていなかったために、悲惨な結果を受けなかったということです。

次は四つ目の点です。何らかの行動を取ったら、それが何の結果も生まずに消えてなくなるということはありません。『百業経』(蔵: mDo-sde las brgya-pa、梵: Karma-śataka Sūtra)の中で仏陀は以下のように言っています:

肉体を持つ衆生がカルマをもたらす行動を取れば、たとえ何百劫経っても無に帰すことはない。適切な時と状況が揃ったとき、それぞれが必ずその果を結ぶ。

心相続に蓄積された建設的・破壊的なカルマの力は決して古びたり摩耗したりすることはありません。条件が整えば、必ず熟すのです。ここで再び在家・スリジャティの例を思い出してみましょう。彼が出家するための根という形に熟したカルマの力は、その何劫も前、ハエだった彼がロバの糞に乗って仏塔の周りをまわった時に積まれたものでした。

龍樹の『勧誡王頌(友人への手紙)』(蔵: bShes-spring、梵: Suhṛllekha)の 宛先であるシャータヴァーハナバドラ王(rGyal-po bDe-spyod bzang-po)、別名ウダヤナ王には息子がおり、王妃である母親はあるとき彼に王衣を仕立てました。しかしこの王子は、自分が王位に就くまで決してそれを着ないと言いました。王妃は彼に「お前は王位を継げないのだから、それを着ることは決してありません」と言いました。龍樹は自分の寿命を自在に操る力を身につけており、自分と同じだけ長く生きる加持を王に与えていました。

王子は龍樹を暗殺しようとしましたが、何をやっても上手くいきません。結局、彼は龍樹に殺すことを許してほしいと懇願しました。特別な理由で、龍樹はこれを受け入れました。自分の前世の行いを振り返りながら、龍樹は王子に、自分が暗殺される根となるような破壊的なカルマの力は一つしか残っていない、それは、自分が僧だったときに草を刈ったことだろうと言いました。当時、彼はわざとアリの頭を切り落としたのです。「だから、お前が草の葉で私の首を切り付けさえすれば、暗殺は遂行される」。王子はこの指示に従いました。草の葉が龍樹の首に触れるや否や、その首が転がり落ちました。

龍樹は、首を斬られる前に、自分の身体と頭が腐らないように加持を与えていました。王子は頭と身体をできる限り離れたところに隠しておきました。しかし、これらは今でもゆっくりと互いに近づいています。頭と体が再び結合したとき、龍樹は生き返って中観派の教えを広めるでしょう。これが起こることは『時輪タントラ』(蔵: mChog-gi dang-po’i sangs-rgyas-las phyung-ba rgyud-kyi rgyal-po dpal dus-kyi ’khor-lo zhes-bya-ba、梵: Paramādibuddha-uddhṛta-śrī-kālacakra-nāma-tantra-rājā)で予言されています。

無上瑜伽タントラに属するこの『時輪タントラ』の世界体系の解説によれば、閻浮提の北部にはシャンバラ(bDe-’byung)という名前の土地があります。ここに住んでいるのは人間ですが、彼らも、彼らの国土も、私たちの目には見えません。シャンバラの月賢王(Zla-ba bzang-po) は、仏陀がシリ・ダニャ・カタカ(Shri Danya Katak)の仏塔で『時輪タントラ』を説いたとき、インドにやって来てこれを授かりました。王はシャンバラに教えを持ち帰り、七人のダルマの王と25人のカルキの統治者(蔵: rigs-Idan、梵: kulika)へと続く系譜の創始者となりました。これらの教えはのちにインドやチベットに広まりましたが、今でもシャンバラが主たる継承地であり続けています。

現在、私たちが生きているのは21番目のカルキの統治者の治世です。将来、25番目のルドラチャクリン(Drag-po ’khor-can)の治世には、インドと異民族との間で大きな戦争が起こります。この王が異民族を打ち負かすためにインドにやって来て、黄金の時代が訪れます。このとき、カーラチャクラの教えが広まります。そして、これこそ、龍樹が再び生き返るときなのです。

目連は神通力で有名でしたが、あるとき悪漢の集団に殴打され、泥を浴びせられました。サーリプッタがなぜ神通力を使って暴力をはねのけなかったのか尋ねると、目連は、自分の前世のカルマが熟した力に圧倒され、何らかの顕現を展開するどころか、化身の力を発揮することさえできなかったと答えました。彼は前世で自分の母親にひどい言葉をぶつけ、その野卑な言葉は彼女を深く傷つけました。ここから生じた破壊的なカルマの力は消え去ることがなかったのです。

カラスが食べてしまわない限り、種からは芽が出ます。これと同じように、自分の非を素直に認め、四つの対治力によって破壊的なカルマの力を浄化しない限り、自分がとった破壊的な言動の結果を必ず経験することになるのです。また、太陽に焼かれない限り、種からは最適な時期に生き生きとした芽が出ます。これと同じように、怒りで建設的なカルマの力を損なわない限り、適切な時に建設的な言動の結果を全て受け取ることができるのです。

破壊的なカルマとその原因―破壊的行動を取ることによって生じ、またそれによって身に着く性向―は、それを打ち消す対治力を使って完全に消し去ることができます。しかし、建設的なカルマの力は違います。幸せを生み出す善根(dge-rtsa、徳の根)は完全に切り落とすことができないのです。ただし、激しい怒りは善根が結果を生み出す力を著しく阻害し、その果報(蔵: rnam-smin、梵:  vipāka)は弱まり、熟すのはずっと先になります。

ですから、「特定の行動を取らなければその結果は生じない」、「特定の行動が結果を生まずに消え去ることはない」という三番目と四番目の法則についても良く考える必要があります。その上で、破壊的なカルマの力を浄化する方法や、怒りで建設的なカルマの力を損なわない方法についても考え、健全な判断に基づいて生きるという決意を固めなければなりません。業の因果の法則に則って適切な行動をとり、不適切な行動を避けてゆくのです。

それぞれの点を区別して考える

業の因果の一般的な法則についてよく考察すべき理由は、理性に基づいて、それが事実だという確信を深めるためです。「見たことがないから」という理由で飛行機の存在を信じない遊牧民のようになってはいけません。つまり、「業因や業果を見たことがないから」というだけで業の因果を信じなかったり、軽視したりしてはならないということです。遊牧民が初めて町を訪れ、小さな部屋に入り、そのドアが閉まり、その部屋が浮き上がり、再びドアが開いた時には彼は別の場所にいて、箱の中で小さな人がニュースを読み上げているのを見たら、彼は目を疑うでしょう。遊牧民がラサに来て初めて自転車に乗った人を目にした時、彼らは悪霊を見たと考えました。私たちはむしろ、多くのものを読み、様々な土地を旅した人のようにならなければなりません。たくさんの経験を積んで広い視野を身につけた人々は迷信を信じませんし、新しい経験をしても驚きません。カダム派のあるゲシェーはこう言いました―

あまり考えすぎるな。しかし、どうしても考えすぎるというなら、業の因果の法則について考えろ。

認識可能な現象は以下のように分類されます:

  • 現前するもの(mngon-gyur、はっきりした現象)
  • 隠れたもの (lkog-gyur、はっきりしない現象)
  • きわめて隠れたもの(shin-tu lkog-gyur、全くはっきりしない現象)

花瓶や柱などの現前するものは、歪みのない感覚を持つ全ての衆生によって有効に直接知覚(現量)されます。

縁起や空などの隠れたものは、正しい考えの道筋に依存して、現象の力に基づく推論によって認識されます(dngos-stobs rjes-dpag、証拠の力に基づく推理)。

業の因果の法則のようにきわめて隠れたものは、信頼による推論(yid-ches rjes-dpag)、つまり妥当な認識の根拠となる人に依存してのみ認識されます。

寂天は『入菩提行論』第四品第七偈でこのように述べています―

ある人に対してカルマがどのように働きかけるかは、あらゆる思考を超えている。理解できるのは全知の者だけだ。

仏陀は妥当な認識の根拠となる人物です。どうしてそう言えるのでしょう?空や止・観を達成する方法などの深遠で隠れたことがらに関する仏陀の教えが、自分の経験によって妥当だと認められるなら、業の因果という極めて隠れたことがらに関する彼の教えも妥当であると推測できるからです。そもそも、仏陀が全知の悟りを得ようとした唯一の動機は、他者の利益となり、彼らが問題を克服するのを助けようとする慈悲でした。ですから、衆生の行動とその結果という非常に重要なテーマに関して嘘をついたり、人々を欺いたりしたと考えるのは筋が通りません。

ツォンカパは『縁起讃』(rTen-’brel bstod-pa)第30詩節でこのように言っています―

縁起の道はあなたのお言葉が比類なきものとされている理由です。この縁起の道によって、あなたの他の主張もまた妥当であるという確証が深まってゆくのです。

仏たちに帰依して彼らが妥当な認識の根拠となることを確信し、彼らの説いた業の因果に関する教えが正しいと確信したら、目標を達成するためにすべきことと避けるべきことを具体的に学ばなければなりません。身につけなければならない有益で建設的な行動の種類を心に留めるだけではなく、実際にそのように行動する必要があります。

つまり、健全な判断に基づいて倫理的な人生を送らなければならないのです。ただ単に仏陀がそう言ったからそうするのではありません。以下の理由によってそうするのです―

  • 私たちは幸せになること、問題を避けることを願っている。
  • 仏陀はその実現方法を説いた。
  • 仏陀は妥当な認識の根拠となる人物である。

仏陀は、私たちの言動にどんな感情が伴っていようとも―強姦している最中に表面的な喜びを感じる場合や、貧しさから何かを盗むことをこらえることに苦痛や困難を感じる場合もあります―破壊的な言動の長期的な結果は常に苦しみと問題であるとはっきり説いています(無著『大乗阿毘達磨集論』(蔵: Chos mngon-pa kun-las btus-pa、梵: Abhidharmasamuccaya) 257-4-5 ~5-3に引用)。

ですから、誰であれ、そして何を目指していようとも、望ましい目標を達成するためには倫理的・建設的に考え、行動し、発言しなければならないのです。

月称は『入中論』II.8で以下のように説いています―

善趣への転生、あるいは(解脱または悟りという)究極の善(の達成)の(根本的な)因は、(未だいかなる道心も育んでいない)凡夫にとっても、悟りに導く発話(を聞くこと)によって(道心を)育んだ者(声聞)にとっても、自らの清浄な境地(に至る道心)の資質を身につけた者(縁覚)にとっても、そして勝利者の精神的な子供たち(菩薩)にとっても、倫理的自己鍛錬に他ならない。

下士の動機―悪趣への転生を避け、人間や神など善趣への転生を望む気持ち―を育んだら、次は、衝動的な言動の種類とそこから生まれる結果を区別する方法を学ぶ必要があります。これらの点についてよく考えると、健全な倫理的判断力を身にっつけ、自分自身の将来を形づくれるようになります。

Top