私たちの心や考え方を乱す最も根深い原因は無明です。これは因果に対する無明(私たちの言動が何を引き起こすかについての無明)である場合も、現実に対する無明である場合もあります。言動の因果に対する無明は、通常、破壊的な行動や間違った行いの責任と表現されるものです。これに対して、現実や状況に対する無明は、輪廻の中の全ての行い、建設的なものも破壊的なものも含んだあらゆる行いの根源となることがあります。心を乱す感情や考えの奥底にいかなる無明が潜んでいるか知るために、状況と現実に対する無明という観点から詳しく見ていきましょう。
「現実(reality)」というのは奇妙な言葉です。これには様々な言外の意味が含まれます。通常使われるのは、あるものごとに関する真実という意味での「真実(truth)」という言葉です。どんなものごとにも二つの真実があります。一つはあるものがどのように見えるかについての、相対的で慣習的な、表面的な意味での真実です。もう一つは、それがいかにして存在するかについての、最も深い意味での真実です。ここで「最も深い(deepest)」という言葉を使いましたが、どちらかが「より真実である(truer)」ということはありません。どちらも真実なのです。この二つ目の真実について表現するときに「究極の(absolute)」という言葉は使いたくありません。二つ目のほうが「より真実」に聞こえてしまうからです。ですから「最も深い」という言葉を使います。ですから改めて申しますと、真実には、ものごとがどのように見えているかについての表面的な真実と、どのように存在しているかについての最も深い真実との二種類があります。
執着とは何か
心を乱す感情に関する二つの真実について考えてみましょう。執着や渇望とは何なのでしょうか。これらはあるものごとのポジティヴな側面だけを誇張して捉える乱れた心の状態で、主に二種類の形で現れます。渇望は自分が持っていないものを対象とし、「私はこれを得なければいけない、どうしても自分のものにしなければいけない!」という気持ちを抱かせます。執着は自分がすでに持っているものを対象とし、「これを失いたくない!」という気持ちを抱かせます。どちらも対象となるものを過度に美化したり、対象となるものに自分が思うような美質があると信じたりすることによって生じます。また、貪欲という三番目の形をとることもあります。貪欲はすでに持っているものを対象とし、決して満たされることはなく、さらに欲している状態を指します。
これら全ての場合において、私たちは対象となっているものの本当の現実、本当の真実に対して無明(unaware、無知、思い至らないこと)です。言い換えると、ものごとのポジティヴな点や美質だけに目を向けているのみならず、それらを誇張してとらえたり、実際にはありもしない美質まで付け加えたりする状態です。このような状態に陥ると、私たちは欠点や短所を軽視したり、全く無視してしまったりします。そのものごとの本当の美質にも、本当の欠点にも気づかないのです。ここで言う「ものごと」は人物(例えばとても素晴らしく魅力的な誰か)も、もの(例えばアイスクリーム)も指します。
渇望や執着の対象が人物である場合を考えてみましょう。私たちは彼らの外見や魅力を過大評価して、例えば「あんなに美しい人には会ったことがない」などと思います。一方で欠点は過小評価します。私たちは欠点について考えたくないのです。例えば彼らも口うるさいかもしれませんし、食べ方が汚かったりいびきをかいたりするかもしれません。見た目が比較的良いだけだとしても、非常に美しいと感じることもあります。それを否定しようというのではありませんが、美しさなどのポジティヴな点を大げさにとらえすぎることは渇望と執着の原因となり、さらにその人の短所を軽視したり無視したりすることにもつながります。このような心の状態はそのうちに問題を引き起こします。なぜなら、このようなのぼせ上りはそのうち冷めてゆくからです。対象となる人の欠点が目につき始めると、彼らへの愛や執着は次第にいら立ちや怒りへと変わってゆきます。
怒りやいら立ちは愛や執着の裏返しで、人やもののネガティヴな点や欠点ばかりを際立たせ、良い点を見過ごさせます。例えば、ある人が部屋を散らかすとか、雑だとか、皿洗いを手伝わないとか、そんなことで大騒ぎします。おかしなほど取り乱して大げさに怒り散らします。彼がとても優しいとか、責任感があるとか、しっかりしているとかいうような良いところは見えなくなってしまい、「汚れた靴下を床に放っておく」とか、ただそれだけのことで激怒するのです。
最も深い真実
上で見た例のように、執着や怒りの背後には誰かに関する相対的で表面的な真実(長所と短所、強みと弱みなど)に対する無明が潜んでいます。私たちはこれらの真実を知らなかったり、無視したり、誇張したり、曲解したりします。しかしこれだけではなく、執着や怒りのもっと深いところには、彼らの最も深い真実(すなわち彼らがいかに存在するかに関する最も深い真実)に対する無明が潜んでいるのです。
このテーマについては非常に複雑で精緻な議論をすることもできますが、今夜はもう少し平易なレベルでお話するにとどめておきましょう。私たちには、ある人が太くしっかりした輪郭のある実体として存在しているように見えます。その人はビニールか何かに包まれたか、スチール写真の中で静止しているかのように、私たちの目に映る通りにそこに存在しているように見えています。しかし、このように見えるのは思い違いをしているからです。私たちは人を、因縁やその他の影響を受けることのない永久的で不変なもの、彼自身のみによって成立している、実体のある存在だとみなしています。これはとても混乱した捉え方で、正しくありません。なぜなら彼らの身体も心理状態も絶えず変化しているからです。ビニールに包まれて永遠に変わらないような、確固としたものなどないのです。
「あなた」というものをはっきりした不変の存在だと誤解しているがために、例えば「あなたはいつもこうなんだから!いつも靴下を床の上に置きっぱなしにして!」と思うのです。この誤解と、これが事実に即していないことに気づかない無明とが原因となって、その人を「自分をいら立たせるもの」とみなし、そのネガティヴな性質を誇張してとらえているのです。一方、人がいかにして存在するかに関して無明であると、誰かを「確固として素晴らしく見えるもの」とみなして彼の良い点を誇張してとらえます。私たちは混乱した状態でその人に触れたいという抑えがたい思いを抱きます。その人があまりにも魅力的なので、触れずにはいられないのです。このとき私たちは、相手を離さず、眠らせないほど執着してしまっています。
これらの無明から解き放たれ、誰かを確固とした不変のものであると考えなくなれば、心を乱す感情は生じなくなります。人はうつろいやすく常に変化する存在で、ビニールに包まれたような明確なものではないということに気づきます。そして、意中の人は私たちが誇張や想像によって作り上げた永久不変の美点の数々など持っていないことを理解します。彼らの本当の良い点と悪い点を素直に見るようになり、誰にでも長所と短所があることを受け入れます。長所や短所を誇張することも否定することもなくなります。こうして、忍耐と寛容さをもって相手と心を通わせ、しがみつくことも煩わしく思うこともなく、優しさと愛情に満ちた、成熟した関係を築けるようになっていきます。
機械に対する執着と怒り
テープレコーダーに対しても全く同じことが言えます。このレコーダーに対する執着や怒りの原因は何でしょう?まず何より、私たちはテープレコーダーのことでおかしなほど大騒ぎします。「高いお金を出してこれを買ったんだ」と思い、その「これ」が太くしっかりした輪郭に囲まれた存在だと考えます。そして「講義を録音するのに完璧に信頼できるレコーダーだ」などと良い性質を誇張して捉え、レコーダーに依存するようになります。レコーダーが壊れることなく常に変わらず機能してくれると思うので、もう講義に集中したりメモを取ったりすることはありません。そしてレコーダーが壊れると、烈火のごとく怒ります。
けれど、しょせんは機械です。機械は部品でできていて、部品は摩耗していきます。変わらないものなどありません。今は上手く録音できていてもいつかは壊れます。電池も減っていきます。機械ですから。そのことを理解できていれば、電池が切れたとしても大騒ぎすることはないでしょう。レコーダーを使う前に動作や充電の確認をすることはできますが、それでも上手く作動しなくなることもあります。しかし、そんな時でも取り乱してはいけません。この一件から「このテープレコーダーに依存しきることはできない」という気づきを得たのです。
現代という私たちの時代において、このテープレコーダーのような機械やコンピューターに対してこんなに心を乱すというのは驚くべきことです。機械が自分の思うように作動しないというだけで激怒するのですから。「この機械には意志がある」と思うこともありますが、そんなわけはないでしょう!「こいつは自分の仕事をするべきだ」と考えますし、挙句の果てにはこのレコーダーは完璧であるはずだと思います。けれど、これは部品でできた機械なのです。そしてこれを組み立てたのは人間で、人間は物事を完璧に行うことはできないのです。それでも私たちはコンピューターもテープレコーダーも使います。なぜならとても便利だからで、正しく作動している限り私たちが執着することはありません。望むとおりに機械が作動する限り、私たちが怒ることはありません。このようにして、バランスの取れた、道理にかなった態度で機械に接することができるのですが、簡単なことではありません。特に機械が高価な場合にはなかなか難しいことです。
誰かに対する欲望と執着に対処する一時的な手法
心を乱す感情に対処するとき、仏教では二つのレベルの手法を使います。一つは物事の相対的な真実を正しく見るための、一時的な、臨時の対処方法です。もう一つは、究極とも最も深いとも言える手法ですが、これには心を乱す感情の対象となる人やものについての最も深い真実に関する理解が必要です。この最も深い手法を実践するには非常に多くのことを学び、考える必要がありますが、一時的な手法は理解しやすく、実践に移しやすいので、この手法の例を見ていくことにしましょう。
身体の中に何があるか考える
誰かに対して執着したり渇望したりしているとき、特に相手の身体の美しさばかりに心を奪われているとき、もしくは自分自身の身体に執着しているときは、しばしば「身体の醜さ」とも呼ばれるテーマについて瞑想します。「醜さ」などと言っただけで少しげんなりしますね。聞き心地の良い言葉ではありません。「汚さ」という言葉も使われるのですが、ここでは「醜さ」や「汚さ」という言葉を使わないでお話することにしましょう。自尊心の低さがとても大きな問題となる現代社会では、これらの言葉の響きはあまりに不健康ですからね。代わりに、とにかく人間の身体について考えてみましょう。自分の身体であれ誰かの身体であれ、とにかく身体について、これまでお話したように、あるものとは何であるかに関する相対的な真実という観点から考えてみます。たとえばここに箱があるとします。ラッピングされた箱です。ギフト包装されたプレゼントだとしましょう。中には何かが入っています。同じように、自分の、または誰かの身体も肌でラッピングされていて、私たちが通常目にするのはこの肌です。肌はとても美しい包装紙のようなものです。さらに、プレゼントが上等な包装紙とリボンで包まれているように、身体も高価で美しい衣服で包まれ、より魅力的に見えます。けれど衣服はただの包装です。商品が店頭で目につきやすいよう、製造業者はパッケージデザインに心を砕き、人目を引くよう広告も作ります。同じように、多くの人々はメイクで肌を美しく見せ、またヘアスタイルを工夫したり香水をつけてみたり、さらには凝ったタトゥーやピアスをしてみたり、目立つために様々なことをします。
しかし、この箱は包装紙だけでできているのではなく、中身があるのです。身体という箱に入っているのは、骸骨、筋肉、内臓などです。もしも胃で消化されつつあるものを外に出してみたら、それは吐しゃ物です。腸の中身は大便ですし、膀胱の中身は尿です。静脈と動脈の中身はもちろんすべて血液です。これが現実なのです。これが肌という名の箱の中身の真実なのです。これを否定することはできません。そして、もし胃の中から全ての未消化のものを出し、口から唾液を、鼻から鼻水を、大便を腸から、尿を膀胱から、静脈と動脈から血液を取り除き、皮膚だけにしてしまったら、もうこれは、愛する相手とは呼べないのではないでしょうか。愛する人の真実とは、彼や彼女が、これらの全てが詰まった箱だということです。私たちは彼や彼女の皮膚に綿が詰まったものを愛しているのではないのです。自然史博物館の剥製ではないのですから!私たちは愛する人に生きてほしいと願います。生きている人という箱の中身の真実とは、好むと好まざるとにかかわらず、こういうことなのです。
さて、なかなか興味深い話になってきましたね。私たちは何を美しいと感じ、何を醜いと思うのでしょう。きれいだとか汚いとか思うのは、どんなものなのでしょう。おそらく肌は美しく、骸骨は醜いと思う人もいるでしょうが、骸骨の何が醜いのでしょう?骸骨はただの骸骨です。もしも病院で手術を見学して身体の中にあるものを見るとしたら、醜いとか不快だとか感じるでしょうか。全ては考え方なのです。もちろん、手術をしている医師は身体の中身を醜く不快なものだと感じることはありません。それはただ身体の中にあるものです。
美しさなどの美質を誇張しないために
大切なのは美質を誇張しないことです。美質とは相対的で主観的なものです。例えば、私がとても美しいと思う人でも、あなたは全く美しいと思わないかもしれません。逆に、私が醜いと思う人でも、あなたはとても美しいと思うかもしれません。このように誰かの美質とは完全に主観的なものです。ですから、ある人の肌や身体をとても魅力的だと思うのは全く当然のことですが、これを過剰にとらえてはいけません。彼や彼女を見るとうれしくなるという事実は何も間違っていません。彼らは美しく、彼らを見つめることは喜びです。問題なのは大げさにとらえてしまうことです。美しさを誇張してしまうと、「あの人にいつも触れていなければだめだ、会うたびに抱きしめなければだめだ、いつもあの身体がそばにないとだめだ」と思うようになります。こうなると問題です。他の誰かが欲望のこもった目で同じ人を見つめると、私たちは非常にうろたえます。「あの人も、あの人の身体も自分のものだ」と思います。世の中には非常に美しい人がたくさんいますから、もしも彼らと出会うたびに「あの人に触りたい、あんなことやこんなことをしたい」と強迫的に考えていたとしたら、心は大変に乱れてしまいます。
包装紙、つまりある人の見た目の美しさを過大評価してしまっているときには、X線写真のようにその人の骸骨を想像するのがとても有効です。私たちはみな骸骨がどういうものか知っていますから、難しいことではないはずです。解剖学の授業ではないので、正確に思い描く必要はありません。ただ顔や頭の皮膚の下に頭蓋骨がある様子を想像してみましょう。すると少し冷静になることができます。または、誰かのお腹のあたりを愛撫しながら「なんて素晴らしいのだろう」と思っているときに、もし3,4センチ深いところを愛撫することになったらどうなるか、少し意識してみましょう。これは自分をげんなりさせるためではなく、身体を愛撫することで得られる喜びに重きを置きすぎないようにして、気持ちのバランスをとりやすくするための手法です。
これまでお話してきたのはあくまでも一時的な対処法で、渇望や執着を捨て去らせるものではありませんが、特定の状況で心を乱す感情が沸き起こったとき、一時的にそれを抑えることはできます。渇望や執着を一切断ち切るためには、誰かがいかにして存在しているかということを理解し、彼や彼女を「対象物」と見なしてしまうことを止めなければなりません。これはとても発展的で難しいので、まずは一時的な手法を実践しましょう。この実践方法は、「耳を傾ける・考える・瞑想する」の三段階から成り立っています。
手法についての教えに耳を傾け、考える
まず、この手法がどのようなものであるかお話しますので、しっかりと耳を傾けてください。誰かの身体や容姿に強く惹きつけられているときに、肌の下に隠されているもの、骸骨や胃の中身といったものを意識する手法でもあります。説明に耳を傾けたあと、これについてよく考え、理解します。そして、「包装紙」だけでなくその中身にも意識を向けられれば、渇望に悩まされることも相手に執着することもなくなるのだと確信します。相手との関係においても、自分自身の感情にも、悩まされることが少なくなります。
四つの道理に対応させる
これまでにお話してきたことを、何かに関して確信を得るための四つの方法、いわゆる「四つの道理」の観点から検討してみましょう。
証成道理 (理論による確認の道理)
初めに、第一の道理に即して、この教えが合理的・論理的なものかどうか検討してみましょう。「人間は肌だけでできているのではない」ということは明らかで、これについて証明することもないのですが、理論に沿って説明するなら以下のようになるでしょう:
人間がただ皮膚でできた袋のようなもので、中に骸骨がないとしたら、立つことはできない。人間が何かを食べるとしたら、胃や腸の中には必ず何かがある。
-ですから、「人間の身体は肌だけでできたものではなく、中に何かが必ず存在する」というのは完全に理論的な結論です。
作用道理 (原因と結果の道理)
次に、ある教えが目標とする結果を実際にもたらすためにどのように作用するかを検証します。例えば、誰かの身体の内側と外側について等しく心を配ることができているとします。この結果として、どちらか片方を過剰に強く感じ、もう片方を無視するということはなくなります。
またこのように分析することもできます:ある人をとても美しく魅力的だと思うとき、どうしてその人の肌だけを美しいと思うのでしょう?胃の中のものは美しいと感じないでしょうか?もちろん感じません。ですから、内側と外側という二つの面があることを理解しても、結果として外側を美しいと思わなくなるわけではありませんし、美しさを愛でなくなることもありません。ただ、美しさを冷静に享受するようになるのです。たしかに、あの素敵な人の外側は美しいでしょう。でもその人にも、他の全ての人と同じような内側があるのです。
これらの点について考え、納得しようとするのはとても興味深いことです。なぜなら私たちはこのようなことを信じたくないからです。誰かの胃や腸の中にあるものについて考えるのには抵抗を感じます。興味深い、とても面白い心の動きです。けれど、重要なのは、これが現実で、これが事実だということです。チベット人は生々しくて世俗的なイメージを好みますから、こう言うでしょう。「巨大な大便の塊から立派な裸像を彫り出して肌の色に塗ったとする。それがどんなに美しくても、やっぱり糞の塊だ!」
これを理解することにより、ある人の身体の内側と外側の両方を心に留め、その人の身体に対して渇望や執着を抱かなくなるという結果が生じます。なぜなら、片方を否定することも、もう片方を過大評価することもしていないからです。これを理解したあとでは、誰かの身体に我を忘れることはできなくなります。その代わり、誠実な愛情をもってその人と接し、年齢を重ねれば誰もが経験する身体の変化も受け入れながら、じっくりと関わっていくことになります。もし誰かの現在の美しさを大げさに感じ取るだけなら、その人が老い、病気になり、今の美しさを失ったときに、もっと魅力的な他の誰かを探すことになるでしょう。けれど、人間の内側も外側も同じように変化するこということを理解して受け入れるなら、その人と安定した、愛情に満ちた関係を保つことができるようになるでしょう。
法爾道理 (物事の性質の道理)
ある人々の外側はとても美しいのに、なぜ内側に骸骨や便や未消化の食物が入ってあるのでしょう?そういうものだからです。私たちは生き物であり、身体とはこのようなものでできているのです。この現実を受け入れるしかありません。身体とはこういうものなのです。
観待道理 (対応する関係の道理)
最後に、執着に乱されない心の状態や理解に私たちを至らせるものは何か、これに至るにはどうすれば良いのかを検証します。何よりも大切なのは自分をコントロールすることです。意中の人を見た時に起こる、身体じゅうに触れたいという衝動を制御しなければなりません。一呼吸おいて、内観し分析することが必要です。自分をコントロールすると、物事をよりはっきりと、深く見ることができるようになります。
さらに、自ら進んでこのコントロールを身につけようとする意欲も必要です。意中の人にどうしようもない嫌悪感を抱くことを恐れてもいけません。これらは、お話してきた手法を実践できるようにするための必要事項です。このことをあらかじめ理解し、心の準備をしておきましょう。
瞑想
一連の思考のプロセスを行った後、つまり教えを理解し、この教えが自分の助けになるものだと確信し、更に先に進みたいと強く思えたときに、いわゆる「瞑想」を実践します。瞑想とは、理解して納得した教えを人生に組み込んでいく方法です。教えに沿って行動し、繰り返し考えることで、自分のためになる習慣を作っていきましょう。
この瞑想のプロセスは二つの要素からなっています。初めに「識別の瞑想」、あるいは「分析の瞑想」と呼ばれる瞑想を行います。管理された環境、つまり一人きりになれる場所で、執着している相手について、たとえばその人の外見的な魅力に対する自分の執拗な欲望について瞑想します。この時、その人の写真などを使うことも、ただ思い描くだけのこともありますが、「はい、この人には骸骨があります。はい、この人の胃の中には食べたものがあります」と一つ一つ確認していきます。このとき彼や彼女の身体を透明なものとして想像し、身体が骸骨や胃の中身などを包んでいる様子をありありと観ずるように努めます。こうすることで、このイメージが本物であると自分に印象付けます。X線写真に似ていますが、美しいと感じられるその人の外見はそのままです。彼らの身体の内側を見ることは、外側の、普通の意味での美しさを損なうものではありません。
この「識別の瞑想」の間に私たちの精神的エネルギーは外側へ、ある意味では執着の対象となる人やその身体へと向かいます。次に「安定の瞑想」に移ります。この瞑想では今までに識別した事柄を自分の中に浸透させようとするので、精神的エネルギーは内側へと向かいます。「はい、これが現実です。これがあの人の身体の真実で、外側も内側もこれが真実なのです。これは本当のことです」と強く実感するようにします。これまで相手を身体だけでできた存在だと見なしてしまっていたなら、彼や彼女には心や感情もあるのだと自分に言い聞かせます。これについてはまた別の機会にじっくりお話しします。
日常生活で手法を実践する
渇望や執着への対処方法に慣れて、習慣として身につけることができたら、これを日常の実際的な場面で実践してみましょう。強い執着の感情、誰かを愛撫したくて仕方ないという渇望の感情が生まれた時にこの方法を使いましょう。相手に触れたいという動機をよく分析すると、彼らが安らぎを得たがっているからとかマッサージをしてほしがっているからとかではないことが分かります。ただ自分が相手に執着し、触れなければならないと感じているからです。この時、瞑想中に行ったように、相手の身体をありありと観ずる方法を実践します。彼や彼女は骸骨や胃の中身を持つものであり、それが事実なのだと実感するよう努めます。
この結果、ある状況で何が適切で何が不適切なのかをはっきりと見極められるようになります。とは言うものの、まだこの段階では一時的な、暫定的な手法を実践しているだけですから、まだ相手に触れたり手を握ったりしたいと思うこともあるかもしれません。それでも、それは自分がいい気分になりたいからというだけで、彼や彼女が欲しているのではないと気づくようになります。この瞑想を実践するとき、自分の言動を誇張して捉えないように注意してください。また、自分がこれをやったら相手は心地よく感じられるだろうか、相手にとってこれはやってもよいことなのだろうか、と確認していくことも大切です。やってはいけないことをやろうとしていると気づいたら、自分をコントロールし、触れることは控えなければなりません。
このようにバランスの取れた思慮深い行動をするのが次第に自然で普通のことになっていきます。大げさに捉えることもしがみつくこともなくなります。もし相手が私たちに何か感じるところがあるとしたら、結果として、彼らもこの変化に気づくでしょう。寂しくて不安な時にいつも誰かの手を握っていたとしたら、それはただ相手の手を握れば自分だけが良い気持ちになり、自分の問題が解消されると思っているからです。このような状態では、私たち自身やしがみつこうとする態度から心を乱す良くないヴァイブレーションが放たれ、それが相手に伝わっています。相手にとっては不快な状態です。けれど、身体に触れる喜びを大げさに捉えすぎず、「オーケー、手を握るということは気持ちのいい触れ合いだ。でも自分はこの手の中には骨が入っているのを知っている」と思うことができれば、それは「あああ!もう最高だ!」と思うのとは全く違います。もし、「手を握ったらちょっとは気分がよくなるけれど、それで問題が全部解決するわけじゃないしな」と思えれば、ゆったりと構えることができます。これは自発的でナチュラルな心の動きなので、相手は見せかけの態度だとは思わず、とても安らいだ気持ちになります。これが目指している状態です。「誰にも触るな、人間なんてみんな便の入った袋だ」など言うようになるのではなく、バランスを身につけて、他の人のためになるふるまいができるようになるのが目標です。
これらの手法についてはたとえば寂天(シャーンティデーヴァ、Shantideva)の「入菩薩行論 ( Engaging in Bodhisattva Behavior )」などの偉大な仏典でも扱われていますので、例として寂天がこのテーマを考察している文脈をありがたく読んでいくことにしましょう。この手法に関して、精神の安定と集中力を得ることについて語られる文脈の中で以下のように言及されています:
瞑想を妨げる最も大きな要因は、渇望や執着の対象となっている相手のことを常に考え続けることであり、これは非常に大きな障害となる。そのため、特に瞑想の際に精神の安定と集中を得るために、たとえ相手がそばにいなくとも、この手法を実践しなければならない。
このような文脈で説明されています。
しかし、瞑想に際して集中力を高めるため以外の様々な場面でもこの手法を応用できるのは明らかで、通常の人間関係においても非常に有効です。ですから、渇望と執着に対処する手法に関する文献を読むときには、これを瞑想時の集中を乱すものへの対抗策としてだけではなく、他の様々な場面で使うことも想定するべきでしょう。
この文献では、怒りや嫉妬など、心を乱す他の感情に対処する方法も紹介され、詳しく分析されていますが、今はそれらについてお話しする時間がありません。けれど、今お話ししている、誰かの外見に魅了されて生じる執着と渇望への対処方法は、関連する方法論を理解するヒントになるでしょう。
不安な気持ちに対処する
より深いところまで目を向けてみると、誰かへの渇望や執着の根源にあるのは自分自身の不安な気持ちであるとわかります。相手との関係の中で安心を得たいと渇望しているのです。不安は心を乱す感情の中でも最も重大なものの一つで、恐れや孤独によってさらに大きくなります。この不安から解放されるにはどうしたら良いでしょうか。
不安から解放されるためには、最も深い真実、「私」に関する最も深い真実を理解する必要があります。すなわち、確固たる「私」、ビニールに包まれ、誰からも何からも切り離された、ゆるぎない「私」というものはないということです。ゆるぎないものなど何もないのですから。ゆるぎない、確固としたものを得ようとするのは、私たちが実際いかにして存在するかを誤解しているということです。現実には私たちは絶えず移り変わっています。私たちの心の状態も、身体も、感情も、常に変わり続けています。慣例的にこれらは全て「私」と表現されますが、全てのものから切り離され、確固として存在する「私」というものはないのです。全てのものごとは変化しているのです。
慣習的に「私」とされているものの全てが絶えず移り変わっているとしたら、明確で安全な方向(『帰依』が意味するところです)へと進んで行かなければなりません。この方向性とは、現実的には、よりポジティヴな態度を示し、自分を成長させるよう努めることです。けれど確実なものも、守るものもないのです。この世のありとあらゆるものから切り離され、孤立し、影響を受けずに存在しているものはないのです。このことを理解して納得すると、不安と孤独に関する様々な問題は徐々に薄らぎ、やがて消えていきます。ある意味では恐れることなど何もないとも言えます。しかし、確固とした永続的な「私」という感覚を脱構築するときには、「私たちは全く存在しないので自分の言動に責任を持たなくても良いのだ」などという極端なニヒリズムに陥ってしまわないよう注意することが大切です。自分の言動の結果がどうなるかは分からなくても、最善の行いをし、力の限りを尽くすのです。
ここでの第一の目的はもちろん感情的な不安に対処することですが、不安には他にも経済的な不安など様々な種類があります。これらの他の分野に関しても「私」や「私」の責任に関する相対的な真実を認識する必要があります。私たちはもちろん、経済的側面など、通常の意味で安心を左右する要素に対処しなければなりません。けれど、その過程でも、感情的な部分で状況を誇張して捉えないように絶えず気を付けることが肝心です。経済状況の真実とは、私たちが完全にコントロールできるものではないということです。全世界の経済状況が私たちの経済の安定性や社会制度などに影響しています。例えば共産主義が崩壊すると、新しい体制の政府と社会制度が生まれ、全ての物事は変わっていきます。ですから、安全と安心を得るためにできることとは、進むべき安全な方向性を持ち、行く手に何が待ち受けようとも、何が起きようとも乗り越えられるように、対処方法をできる限り多く身に着けていくことだけなのです。もしも生が全く静止した不変のものであったとしたら安心することができるでしょう。これから何が起きるか分かっているのですから。けれど、そんなことはあり得ないのです。
また、足りることを知らなければなりません。何かを十分に得たときにはそれで十分なのです。百万ドルを持っていてもまだ不安に感じる人々は、「千万ドル持っていないから不安なんだ、千万ドル持っていたら安心するだろう」と言いますが、これは非常に不幸な心の状態です。このようにならないよう努めなければなりません。
無明を克服する望みはないのか
「私たちは仏ではなく制限された存在なのだから、自分の行いがもたらす結果を知ることも見通すこともできないし、自分や他人の真実も分からない。それはつまり、私たちは苦しみ、不幸であり続ける運命だということか?無明や混乱を克服することなどできないのではないか?」と意義を唱える方もいるでしょう。
いいえ、私たちはそのように運命づけられてはいません。無明を克服することはできるのです。もちろんこれは長く険しい道のりですが、私たちの精神には物事を理解し、あらゆることをまとめ上げるだけの能力が備わっています。ですから私たちはより深い理解を得ようと努めなければなりません。行いと結果の間には様々な不定の要素が関わってきますから、自分の言動がどんな結果をもたらすか正確には分かりません。けれどより多くの物事の本質を見抜き、より多くのことを理解することで、はるかに多くを知ることはできるのです。このようにして、蓋然性と経験に基づいて様々な状況で最善の対処方法を考え、また更に自分を成長させるよう努めていくことができます。
人間関係における能力を向上させるには、相手や状況に関する情報をできる限り多く得て、そこから発生しやすいパターンを導くようにしましょう。相手の性格や状況を考慮しながら、彼や彼女がどのように反応するかなどのパターンを見つけましょう。これによって、少なくとも相手とどのように関わるべきか、何をするべきかを考えるヒントを得ることができます。
全ての人がこれらの能力を持っています。精神とはそういうものだからです。自分の身の回りで起きていることに関心を持たず、注意を向けていなくても、周囲の感覚情報を感じ取っています。感じようと努めなくても自然に流れ込んでくるのです。また、パターンを見つける能力も持っています。例えば、そこにいる3人は皆女性です。このようにパターンを見つけています。情報をパターン化し、それに意味を与えることができるのです。さらに、右手が左手ではないことも認識できます。つまり物事の固別性も理解できるということです。加えて別々のものにはそれぞれ違うやり方で関わっていく能力もあります。私たちは赤ん坊に対する話し方と大人に対する話し方をそれぞれ知っていて、全く同じように話しかけることはありません。ですから、ひどく無神経でない限り、私たちにはこのような柔軟性もあると言えます。つまり、全ての基礎能力は備わっているのです。
ところで、これらの精神の働きは「仏性(Buddha-nature)」と呼ばれる特性の一部です。私たちの誰もがこれらの仏性を備え、悟りを開いた仏になる素質を持っているのです。全てはそれを認識し、鍛錬するかどうかにかかっています。
要約
このようにして、お話した手法を実践する訓練を行い、心を乱す感情に対処していきます。心を乱す感情は他にもいくつもの種類があり、それぞれに対処法があります。これらを学び、訓練し、様々な手法を応用できるようにすると、ある手法が使えなかったり有効ではなかったりする状況でも他の手法で対応することができるようになります。また、病気の時にいくつかの薬を組み合わせて服用するように、特にひどく心が乱れた時にはいくつかの手法を組み合わせる必要があります。ですから、より多くを学び、訓練すればするほど、困難な状況により上手く対処したり、避けたりすることができるようになるのです。
これを目的として、寂天の「入菩薩行論」を読んだり学んだりするのはとても有意義です。なぜなら寂天は常に入念な検討を志向しているからです。「なぜ私はこの感情に心を乱されるままになっているのだろう?どうしたら気持ちが落ち着くだろう?この感情は私の本当の敵だが実際には無力なものだ。私がこの感情を私の精神から追い払うことができたら、この感情はどこへ行くというのか?普通の敵のようにどこか私の外に出て行って、また私を攻撃することはできない。この感情は確固たるものではないのだから。」このように考え、この考えが真実であると納得するのはとても有意義です。心を乱す感情への対処に取り組み、克服するためのしっかりとした基礎を作ってくれます。そして、心を乱す感情に振り回されなくなると、責任をもって自分の人生を生きられるようになります。