人生における仏教の実践の目的に関する混乱を取り除く
今回、帰依が日常生活にどのように関連するかというテーマでお話しすることになっています。まず私の心に浮かんだのはアティーシャの例です。彼は10世紀末の人で、インドからチベットにやってきた偉大な師です。仏教はインドからチベットにもたらされ、その後一時衰退していました。アティーシャはその復興に尽力した偉大な師の一人に数えられています。彼の時代のチベットでは、仏教、特にタントラなどの発展的な教えに関する誤解が広まっていましたし、資格を持った師もいませんでした。事実、ものごとを分かりやすく解説できる師は一人もいなかったのです。翻訳された経典はたくさんありましたが、当然、それらを読める人々は少なく、たくさんの写本があったわけでもありません。たとえ経典を読むことができても、自分が読んでいるものの解説を探し出すのは非常に困難でした。
この状況を改善するため、西チベットの王族たちが勇気ある学生たちをインドに送り、仏教の偉大な師を連れてくることになりました。学生たちは歩いて旅をしなければなりませんでしたし、言葉を学んだり、気候に適応したりする必要もありました。旅の途中、あるいはインドに着いてからも、多くの学生たちが命を落としました。それでも、彼らはアティーシャという偉大な師をチベットに連れ帰ることができたのです。チベットに来てからの長い年月の間、アティーシャは主に帰依とカルマについて説きました。事実、彼は「帰依とカルマのラマ」として知られていました。これはチベット人たちによって与えられた名前です。
アティーシャの例はかなり今日的な意味を帯びています。現代でも仏教に関して多くの誤解がありますし、日常レベルの実践の意味も正しく理解されていません。そして、現代でも、タントラなどの発展的な教えに関する誤った認識が広まっています。仏教の教えに関する基礎がほとんど、あるいは全くない状態で、いきなりこれらの実践に取り掛かろうとする人々がたくさんいます。彼らは、何か魔法の儀式を行うのが仏教の実践だと想像しているのです。帰依の妥当性や重要性を軽んじ、帰依が日常生活にもたらす変化を矮小化して、重要な点を見落としているのです。
仏教の実践の目的は、よりよい人間になるために自分を磨くことです。これには、実践をする人のライフスタイルは関係ありません。趣味やスポーツのように、毎日30分、あるいは週一回、仕事の後に疲れた状態で短いセッションを受けるなど、片手間に行うものではありません。そうではなく、実践とは常に取り組み続けるものです。私たちは常に自分を磨き続けなければならないのです。それには、自分の欠点と功徳(良い性質)の両方を認識し、前者の力を弱めて後者を強くするためのメソッドを学ばなければなりません。その最終的な目標は、全ての欠点を克服し、全ての徳を完全に実現することです。それによってさらに幸せになれるという意味では、私たちはたしかに利益を受けますが、自分の利益のためだけに実践に取り組むのではありません。他者をよりよく助ける存在になり、他者に利益をもたらすためでもあるのです。これが仏教の実践というものなのです。これらの目標を達成するためのメソッドは仏教特有のものです。そして、帰依とは、これらのメソッドを参照し、自分の人生にそれを応用するということです。
帰依は受け身ではない
仏・法・宝の三宝への帰依は、仏教のあらゆる教えの核です。実際、帰依は、仏教徒であるか否かの線引きをする特別なものと見なされています。簡単に言えば、法(ダルマ)とは、自分を磨くメソッドと、誰もが達成可能な目標のことです。目標を全て達成し、これらのメソッドを教えた人々が仏です。部分的に目標を達成した人々が僧(サンガ)です。「ダルマ」という言葉は、実際には「予防策」、つまり「自分自身や他者に問題をもたらすのを防ぐためのステップ」を意味します。つまり、自分自身を守るためのステップなのです。
通常「帰依(英:refuge)」と訳されるサンスクリット語のsharanaは「保護」を意味し、「避難所」という意味で使われることもありますが、この単語は正しく理解しなければなりません。この単語の含意はダルマの意義と一致しています。「自分を保護してくれる何かに従順に身を任せるだけで良い」という意味ではありません。仏教の文脈では、「帰依する」というのは大変積極的な行動です。自分で自分を守るために行動しなければならないからです。
私の師がよく使った例を挙げましょう。雨が降っています。そばに洞穴があります。その時「あの洞穴に避難しよう。保護を受けるためにあの洞穴に行こう」と言っても、雨の中に突っ立ったままそのせりふを繰り返しているだけだったら、何の意味もありません。自分の力で、実際に洞穴の中に行かなければならないのです。同じように「保護を受けるために三宝に帰依しよう*」と言っていても、三宝の方向に進まず、それらを自分の人生に取り入れなければ、何にもなりません。これが、私が「安全な方向性」や「人生に安全な方向性を定める」といった用語を使う理由です。
(*訳注:英語では『帰依する』も『避難する』も同じくtake refugeと表現される)
もう少し洞窟の例を使いましょう。洞窟の中に入っても、ただそこにいるだけで、「雨だけでなく全ての問題から守られるといいなあ」と願っているだけでは不十分です。大切なのは、絶えず自分を磨いて、仏・法・僧が象徴する理想に近づこうとすることです。仏・法・僧の庇護下に入れば十分だと考えていると、多くの場合、キリスト教的な救世主のイメージと混同して、仏が私たちをなんとかして救ってくれると誤解します。そして、仏は唯一絶対の神のようなもので僧は聖人のようなものだと思うのです。とどのつまり、ほとんどの西洋社会の根底にはキリスト教の影響があるのです。そのように考えていると、何か超越的な力が奇跡的に自分たちを救ってくれること―仏教の言葉で言えば、自分たちを問題や苦しみから奇跡的に解放してくれること―を祈ってしまうのです。
もしそんなことが本当だったら、私たちはただチベット語の仏教徒の名前をもらって赤い紐を巻き、何かマントラの魔法の言葉を唱えて一生懸命祈るだけで救われるということになってしまいます。自分が理解できないチベット語で祈りの言葉や実践の文献を読み上げるときには特に、それらに何か不思議な力があるように思えるかもしれません。偉大なラマであるケンツェ・リンポチェは最近私の住んでいるベルリンに滞在していましたが、そのとき彼は非常に深遠なことを言っていました:「もしもチベット人が実践で朗読する文献が全てチベット文字に転写されたドイツ語だったら、自分が口に出していることが何一つ分からないだろう。そんなことがあったら、何人のチベット人が本当に仏教を実践するだろう?」。もちろん、そこにいた全員が笑いました。しかし、よく考えてみれば、これは実に深遠ではありませんか?帰依に関して、「帰依すれば全ての問題に魔法のような解決策が与えられる」とか、「何か高次の力に身を任せれば良いだけだ」などと考えてしまう傾向は克服しなければなりません。
これに関連のある重要なテーマは、「私は何のために生きているのだろう?」、「私の人生はどこかに向かっているのか?」というものです。多くの人が、自分の人生はどこにもたどり着かず、ただぐるぐると輪の中を回り続けていることに気付いています。いま「輪」と言いましたが、ここでは輪廻転生のような深いレベルで検討する必要はありません。しかし、日常生活のことだけを考えても、自分の日々の生活がどこにも向かっておらず、意味がないように感じられます。「自分はどうして生きているのだろう?」。このように感じるのはとても悲しい状態です。幸せとは言えません。ですから、人生に有意義な方向性、つまり、ある種の目的、目標が必要なのです。そして、その方向性を自分の人生の中に定めるのです。これは積極的なプロセスです。人生に有意義な目標や目的があれば、自分が何をやっているのかが分かってきます。すると、少し心強くなり、安心感を得ることができます。
人生における有意義な目標を持つ
では、どんな目標を立てれば良いでしょう?目標を立てるのは、一般的に、自分がおかれている満たされない状況から抜け出すためです。最も基本的なレベルで言えば、私たちはみな幸せになりたいと思っていますし、誰も不幸にはなりたくありません。これは仏教の原理のようなものであり、ここには生物学的な真理も含まれています。私たちはみな、苦しみや痛み、困難を避けたいと思っています。これは昆虫も芋虫でも同じです。それが私たちの目標なのです。
では、私たちは今考えている苦しみや不満は、どれほど多いのでしょう?目標を達成したとき解決されるのは特定の問題だけでしょうか?それとも、他の問題も解決するのでしょうか?たとえば、お金がないことが問題になっているとしましょう。経済的な問題を克服するために、良い仕事を見つけてたくさんお金を稼ぐという目標を立てます。仕事が見つからなければ、腕のいい犯罪者になればお金は簡単に稼げます。とにかくたくさん稼げるのですから。しかし、裕福な人々と腹を割って話し、人生について正直な話を聞くことができたら、彼らは必ずしも幸せではないことが分かります。お金持ちは決して十分なお金を持つことがないのです。何百万ドル持っていてももっと多くのお金が欲しいと感じ、決して満たされることはありません。
これはとても興味深いことだと思います。世の中には大金持ち―たとえば10億ドルを持っている人たち―がいますが、昨今の世界的な経済危機によって、彼らの財産は5億ドルに減ってしまいました。彼らはもう寄付をしたり、慈善事業に参加したりしません。なぜなら、財産が5億ドルだけになってしまったので不安を感じ、「この5億ドルをどうにかして守らなければならない、何とかして10億ドルに戻すまでは誰にも富を分け与えられない」と考えているからです。プライベートな警備員や警報システムなどの導入も考えているでしょう。誰かが家からものを盗み出したり、子供たちが誘拐されたりするのを恐れているからです。これは、南米の富裕層の間では一般的なことです。さらに、大富豪たちは、「人々が自分と仲良くするのはお金が欲しいからだ」と感じています。人々が自分に親切なのはお金のためだけではないかと絶えず疑っているのです。確かに、彼らは貧困に苦しんではいませんが、たくさんのお金を持っていることが原因で生じる問題を抱えています。
世俗的な目標の基礎は不安定である
たくさんのお金を持つこと以外にも、仏教では様々な「世俗的な目標」があるとされています。「世俗的な(英:worldly)」という言葉にはネガティブな含意があり、ほとんど批判的にさえ聞こえますが、これは重要な点ではありません。私の師であるシェルコン・リンポチェは、worldlyと英訳されるチベット語の単語―jig-ten-の2つの音節が本当の含意を明らかにしていると話していました。つまり、この言葉は「いずれ崩れる(jig)基礎(ten)を持つもの」を暗示しているというのです。いつかは崩壊する目標を目指しているのなら、当然、それによって永遠の幸せを得ることはできません。さらなる問題が起こるだけです。なぜなら、その目標の基礎がしっかりしていないからです。
たとえば、素晴らしい家族を持ち、たくさんの子供を育て、いずれ年老いたときには彼らに面倒を見てもらい、安心して幸せに暮らすことが目標だったとします。これはいつも理想通りに実現するとは限りません。そうでしょう?あるいは、有名になることを目指して努力することもあるでしょう。有名になればなるほど、より多くの人々が近寄ってきて、私たちの時間を使わせようとします。変装なしでは外出もできない映画スターをきっとご存知でしょう。人々が押し寄せて、彼らの服を引きちぎったりもみくちゃにしたりするので、素顔では生活できないのです。実際、スーパースターとして生きるのはおぞましいことです。
自分の人生について真剣に考えると、物質的な快適さや感情的に心地よい人間関係などは、私たちが直面する全ての問題を解決するほど深いものではないことが分かります。なぜなら、「世俗的な」レベルでどんなに成功していても、瞋(怒り)、貪着(執着)、貪(貪欲)、嫉(嫉妬)、慢(傲慢)、癡(無知)などがある限り問題は起こり続けるからです。
煩悩
仏教では来世について考えます。そして、私たちがいわゆる「煩悩(心を乱す感情)」を持ち、それらに由来する強迫的な行動をとって悪業を積んだ場合、どんな苦しみや他の恐ろしいことが来世で待ち受けるのかを考察します。仏教の考え方を学ぶと、悪業は私たちに苦しみや不幸をもたらすおぞましいものなので、自分にとって何が利益になるか分かっているなら避けるべきであることが明らかになります。
しかし、ほとんどの場合、私たち西洋人は来世を信じていませんし、その存在を確信してもいません。ですから、この生に限って考えても良いでしょう。自分の人生についてじっくり考えてみると、感情的な問題の本当の根源は自分の中にあることが分かります。外的な要因は引き金となる状況でしかありません。瞋、貪着、貪欲などの煩悩こそが、私たちの心から平穏と幸せを盗み取り、自分の持つ功徳(良い性質)を使うことを妨げているのです。たとえば、私たちは誰かを助けようとすることがあるでしょう。これは功徳の一つです。しかしそのあと、同じ人に対していらだってしまうかもしれません。相手に有益なアドバイスをしようとしたのに彼らがそれを受け入れなかったり、口論を始めたりしたら、私たちは我慢できなくなります。ですから、これらの煩悩は、本当に他者を助けることを妨害しているのです。
子供を相手にしている場合は特に難しいでしょう。子供にとって最善の策は明らかなのに、彼らが言うことを聞かなければ、私たちは我慢できなくなって叱りつけます。すると、子供たちと関わるのが難しくなってしまいます。何も手を打たなければこのような傾向はどんどん悪化してゆきます。私たちは年齢を重ねるごとに少しずつエネルギーを失うので、人間性も次第に丸くなってくるかもしれません。それでも、怒りなどの煩悩が自然に消えることはありません。煩悩は疲れを知らないのです。
このような見通しに関連して、仏教では「fear(訳注:すでに危険な状況にある場合の恐れ)」を育む必要があるとされます。けれど、「fear」はどの言語においても厄介な単語で、あまり良い訳語とは言えません。ですから私は「dread(訳注:この先起こる可能性があることへの不安)」という訳語の方が適していると思います。しかし、この言葉を外国語に翻訳するのは簡単ではありません。「dread」には「私はこれが起きてほしくない」という含意があります。たとえば、とても退屈な会議に出席しなければならないとき、私たちは会議を「恐れて(fear)」いるわけではなく、会議に行くことに「不安がある(dread)」のです。つまり、会議に行きたくないのです。
しかしもっと正確に言えば、どんな恐れについて考えるときも―それが悪趣に転生することへの恐れだろうと悲惨な老後への恐れだろうと―、二種類の恐れは区別しなければならないのです。どうやっても出口が見えないような恐れがあると、私たちは無力で絶望的な気持ちを抱き、身がすくんでしまいます。こんなことはよく起こりますが、これは不健康な恐れだと言えます。帰依の文脈で扱われる恐れはこれとは趣を異にします。なぜなら、私たちは問題を避ける道があることを知っているので、状況が絶望的ではないことも、自分が無力ではないことも分かっているからです。しかし、先ほどお話しした通り、何か超越的な力や存在が私たちを恐ろしい状況から守ってくれるわけではありませんし、熱心に祈りさえすれば恐れから解放されて救われるということもないのです。
重要なのは、私たちが、ある意味、自分で自分を守れるということです。人生で直面するあらゆる問題を避けるにはどうすれば良いのでしょう?どうすればそんなことができるのでしょう?最も大きな枠組みの中で考えると、問題を引き起こしている瞋、貪欲、貪着などのあらゆる煩悩は、現実に関する混乱によって生じていることが分かります。これらの煩悩は心の生来の性質ではありません。煩悩は、二度と生じないように永久に捨て去ることができます。法(ダルマ)は、煩悩を「真に停止」することが可能であることを示しています。
心、あるいは精神活動
大まかに言えば、仏教でいう「心」とは精神活動のことです。つまり、眠っている間でさえ起こっている、個々の、その瞬間その瞬間の精神の動きのことを指します。脳科学が研究するのは心の生理学的側面ですが、ここでいう「心」は精神活動の主観的経験的側面です。どちらの観点から見ても、混乱や怒りなどは、必ずしも精神活動の基本的な性質の一部ではありません。一般的に言って、どんな瞬間にも「行相(精神的なホログラム)」と呼ばれるものが発生しています。たとえば、身体的な視点で考えてみましょう:光子が目に入るとある種の電気的刺激に変換され、それが神経伝達物質によって脳に運ばれて、それを脳が内的なホログラムに変えます。これこそ、私たちが「見る」と呼んでいる行為ではありませんか?もちろん、これはヒトの目の細胞に起きていることで、クモやハエの目では全く違うことが起きているでしょう。同じように「音波」と呼ばれるものを通じて私たちは「聞く」ことを体験しています。どんな感覚の行相も、思考の行相さえもあり得るのです。
私たちが対象を見るプロセスは、光子がカメラの中で電気的刺激に変換されて「写真」になるのとは違います。なぜなら、ある対象の行相が生じるのも一種の「認知的関与」だからです。自分が対象を意識しているか、それに気づいているかどうかには関係なく、ある種の認知機能があるのです。
精神活動はコンピュータの機能とも違います。コンピュータの場合、ユーザーがキーボードを叩くと電気的刺激が機械に送られ、インプットされたものを機械が画像に変換してスクリーンに映し出したり、音としてスピーカーから流したりします。確かに「人工知能を使って情報を処理するのだから、コンピュータもある意味ものごとを認識して把握している」と言えるかもしれません。しかし、実際のところ、コンピュータは生物とは別物です。私たちは精神活動と連動して幸せや不幸を感じますが、これはコンピュータとは異なる点です。コンピュータは何についても幸せや不幸を感じません。何も考えていないからです。「ああ、しまった、内部エラーを起こしてしまった!再起動したら処理していたファイルを消してしまった!」と思って不幸になることはありません。そうでしょう?一方の私たちは、そんなことが起きたらとても不幸だと感じます。
各瞬間の精神活動は、私たちの人生の中のあらゆる一瞬の間に起きるものです。どの瞬間にも行相が発生し、そこに何らかの形で心が関わり、何らかの幸せや不幸が感じられます。眠っているときでさえ、暗闇の行相は生じ得ますし、心も「気付いていない」という形でそれに関わっているのです。けれど、実はほんの少しの気付きは保たれているはずです。そうでなければ、目覚まし時計に気付くこともありませんから。完全に「シャットオフ」されているのではありません。そして、何らかの感覚もあります。夢も見ていないときでも、幸せでも不幸でもない中立的な感覚があります。夢を見ているときには、当然、怒りや貪欲などと連動して幸せや不幸を感じています。しかし、煩悩は、刻々と移り変わる精神活動のプロセスの一部である必要はないのです。
心の根本的な清浄さを強く確信するには様々な思考の道筋があり、それらは非常に複雑です。ですから、今回はそれについては触れないことにしましょう。しかし、よく考えれば考えるほど、自分の心、つまり精神活動から全ての煩悩を取り除くことは可能であるという確信が深まってゆくでしょう。
煎じ詰めれば、煩悩は「生じることで私たちの心の平穏と自己制御を失わせるもの」と定義されます。結果的に、私たちは怒りや煩悩などを基に心を乱すような様々なやり方で強迫的に行動し、さらに問題を増やしてゆきます。たとえば、自己制御を失ってよく考えもせずに誰かを怒鳴りつけ、後から激しく後悔することがあります。しかし、どんなに後悔しても、そのような行為によっていわゆる「悪業」が積まれ、後々不幸を感じることになるのです。
もっと深いレベルでこの先の問題を避けるには、あらゆる煩悩や混乱を取り除く必要があります。これらの煩悩は精神活動、つまり心の生来の性質の一部ではないので、事実に取り除くことは可能です。さらに、あらゆる瞬間に起こっている精神的活動についてもっとよく考えてみると、その素晴らしい特徴の一つが「ものごとを理解できること」であると分かります。私たちはものごとを理解することができます。他にも、愛や思いやりなどの功徳を持っています。そして、これらの功徳はさらに大きく育ててゆくことができます。
では、心のポジティブな側面とネガティブな側面の違いは何でしょう?心を乱す側面の基礎は混乱です。理解などのポジティブな側面は現実であるものに基づいています。とてもシンプルな例を挙げましょう:混乱とは、たとえば「私は宇宙の中心だ。私が最も重要な存在だ。いつも私の思うとおりにならなければいけないし、私は常に注目の的であるべきだ」などと考えることです。このように考えているので、自分が注目されないと腹を立てます。まるで犬のように他人に唸ったり吠えたりして、「何で私が思う通りにやってくれなかったんだ!」と怒ります。これらは全て混乱が基になっています。現実には、ここにいる私たちはみな平等なのです。誰もが自分の思うようにしたいと思っていますが、そんなことは不可能です。現実には、誰もが、他の人々と共に生きる方法を学ばなければならないのです。
真の停止
調べれば調べるほど、私たちの混乱は事実に合致しないことが良く分かってきます。これらの混乱は間違いです。一方、正しい理解は立証することができる真実です。それゆえ、理解は混乱より強く、優れたものなのです。集中力と規律を身に着けて、常に現実を正しく理解できるようになれば、再び混乱が生じることはなくなります。混乱は終わるのです。
これが、帰依の主要な点です。人生にどのような方向性を定めれば良いでしょう?どんな意味があるのでしょう?どんな目標を立てるのでしょう?目標は、全ての混乱の「真の停止」を達成し、二度と起こらないように完全に取り除くことです。この混乱こそが、今生においても来世においても、私たちに問題をもたらす真の原因なのです。これを完全に、永久に取り除くことは可能です。なぜなら、私たちの精神活動の生来の性質ではないからです。混乱を取り除くには、その代わりとなる正しい理解が必要です。混乱がなくなれば煩悩もなくなり、自分自身に問題や苦しみを与えることもなくなります。
これには二つの側面が関連しています。ネガティブな側面は永久に捨て去り、ポジティブな側面は育て、発達させてゆくのです。ポジティブな側面とは正しい理解のことです。これは、仏陀の教えの主なテーマであり構造であったもの、つまり通常「四聖諦(四つの聖なる真理)」と呼ばれるものの枠組みの中でとらえることができます。第一の真理(苦諦)は、私たちには真の苦しみ、つまり様々な種類の問題があるというものです。第二の真理(集諦)は、真の苦しみには真の原因があり、それは私たちの混乱だとします。第三の真理(滅諦)は、これらのものが二度と生じないようにする真の停止を達成することは可能だと説きます。そして最後、第四の真理(道諦)は、真の停止は「真の道」を通ることで達成されると説きます。しかし、この「道」とは「道として使われるような理解の仕方」であると理解しなければなりません。つまりこれは、真の停止をもたらす理解の仕方のことで、心を乱す要素を全て取り去ることによって達成されます。
私たちは人生の中にこの方向性、この真の停止と真の道心の獲得を目指すという方向性を定めようとしています。これがダルマへの帰依です。自分を高める努力をしているとき、「帰依」、あるいは「人生における方向性」と言うのは、まさにこのことを指しています。
心を乱す側面を捨て去る努力を重ねるほど、ポジティブな側面の潜在能力が大きく花開いてゆきます。私たちがこのように努力をするのは健全な恐れがあるからです。つまり、今の自分のままであり続けたら、莫大な財産を築いても、数えきれないほどの友達を作って有名人になっても、問題が起き続けるのではないかという恐れです。自分がこの先も貪欲で不安であり続け、怒り続けたら、それは現実になるでしょう。しかし、私たちはそれを避ける方法があることを知っています。言ってみれば、私たちはやけどをするのを恐れているかもしれませんが、用心すれば傷つかないで済むと知っているのに似ています。確かに恐れはありますが、これは健全な恐れで、パラノイアとは別物です。
親戚や友人たちに腹を立て続け、怒鳴り続けたら、自分が年老いたときに何が起こるかおわかりでしょう。誰も会いたがらず、誰も世話をしたがらないような、孤独な老人になるのです。なぜなら、私たちと一緒にいるのは誰にとっても苦痛だからです。いつも不満ばかり言って人々を怒鳴りつけていたら、誰が私たちと一緒にいたいと思うでしょう?誰も思いません。私たちの世話を義務だと感じるような子供をたくさん作ったり、心地よい養護施設に入れるだけのお金を十分貯めておいたりしても、十分な解決策とは言えません。なぜなら、それでも私たちはみじめに感じるからです。ごく簡単に言ってしまえば、本当に取り組むべきなのは、自分の性格を磨くことなのです。
誰もが変化を起こせる
「自分の性格はこんなものだ」とか「これが私のあり方なのだ」と思うことはよくあります。「私は短気だから、あなたが私と上手くやっていく方法を身に着けてちょうだい!」。これは上手く行きません。このような心を乱す側面を全て捨て去り、自分の持つ全ての功徳から利益を得ることは可能です。自分自身を磨く努力をしなかった場合に起きてしまうかもしれないことに対する健全な恐れと、ネガティブなものを捨て去ってポジティブなものを育むことは可能であるという確信に動かされて、私たちは、人生にこの安全な方向性を定めるのです。
いわゆる大乗仏教のやり方でこれを行う場合、ここに思いやり(慈悲)を加える必要があります。大乗仏教の基本的な考え方は、「他者に怒っていたら、彼らを助けることなどできるだろうか?」というものです。私たちは本当に他者の力になりたいと思っていますし、彼らに怒ったり、執着したり嫉妬したりして、事態をめちゃくちゃにしまうことを心から恐れています。自分の力の限り他者を助けるには、これらの煩悩や混乱を全て捨て去る必要があります。私たちは本当に他者の力になりたいと思っていますが、一方で、自分には大したことができないのではないかと恐れています。私たちには十分な忍耐も理解も身についていないのです。自分が利益以上に害をなしてしまうことを恐れています。自分の子育ての失敗をも恐れているかもしれません。それが現実になるのはおぞましいことです。このような恐れから、私たちは、自分を磨くための安全で健全な方向性を定めるのです。
このようなダルマの取り組みは私たちの日常生活と実に深い関わりを持っています。帰依という観点から見れば、自分の問題に対して正直になるということです。私たちはみな問題を抱えていていますし、煩悩もあります。それは何も特別なことではありません。感情的な問題の中には深刻なものもそうでないものもあり、種類も様々ですが、誰にでも問題があるのです。ここでお話しているのは重篤な精神的問題に苦しんでいる人々のことではなく、ほとんどの人が「普通」だと考えるケースのことです。しかし、しばしば怒ったり、貪欲になったり、身勝手になったり嫉妬したりするのを「普通」だと考えるのは危険なことです。私たちはこれが「普通だし、それでも大丈夫」だと考えてしまいますが、大丈夫ではないのです。なぜなら、それが、自分自身と他者―まさに私たちが助けようとしている人のことかもしれません―に問題をもたらすからです。
私たちの目標は、自分の怒りと上手く付き合う方法や、心をかき乱す怒りを制御する方法を学ぶことだけではありません。心を乱すものを弱めるだけではなく、完全に、根こそぎ捨て去ることが目標なのです。自分の理解を一時だけ深めるのではなく、現実に関する完全な理解を育み、自分たちや他の全ての衆生、そしてこの世界がどうやって存在しているかを知り、これらの全ての知識を常に身に着けておくことを目指すのです。これは完全に実現可能なことです。なぜなら、私たちの精神活動の本性は基本的に清浄で、あらゆる功徳の潜在能力が備わっているからです。
世俗の仏宝の功徳
帰依が示すのは仏宝・法宝・僧宝の三宝です。この三宝の理解には様々なレベルがあります。三宝には見かけのレベル(世俗)と最も深いレベル(勝義)があり、それぞれを象徴するものがあります。まず、それぞれの宝の見かけのレベルの功徳について考えてみましょう。
仏身には際立った身体的特徴と極めて特殊な機能が備わっています。たとえば、仏たちは一瞬でどこにでも行けますし、身体をいかなる姿にでも変えていくつにでも増やし、あらゆる場所に同時に存在することもできます。これらはみなとても現実離れしているのでにわかには信じられないでしょう。さらに、仏たちが話すことは誰もが自分の言語で理解できますし、仏からどんなに離れていてもその声が聞こえます。それだけではありません。仏は博愛的な全知の存在で、全ての衆生をみな平等に愛し、あらゆることを同時に知り、理解しているのです。
これもやはり夢物語のように聞こえるでしょう。信じるのは難しいと思います。ですから、仏をこのレベルで理解したままでいると誤った認識を抱く大きな危険があるのです。これではあたかも、何かおとぎ話のような超越的存在、ほとんど神のような存在へと向かっていくかのようです。しかし、たとえば「全知である」ということの真意は、地球上の全ての電話番号を知っているということではありません。あらゆる人がおかれている状況がどうやってもたらされたのかずっと遡って知っていますし、それらを左右している要因も知っているということです。仏が誰かに何かを教えるときには、それがもたらす結果を意識しています。しかも、教えを授ける相手への影響だけではなく、その人物が交流する全ての人に与える影響も念頭に置いています。ですから、仏は、全ての人に教えを授けるための最良のメソッドを知っているのです。素晴らしいことではありませんか?そんなことができたらさぞかし素敵でしょう。
私たちは、仏が私たちを助ける最善の手段を知っていることをある程度確信しています。仏は私の言語を話し、必要な時にはどこにでも一瞬でやって来てくれます。しかし考えが「仏は神だ」という方向に向かってしまうと、徐々に個人的な話になってきます。つまり、「彼は私を個人的に助けてくれる。彼は私を理解してくれる。他には誰もいないけれど、仏だけは理解してくれる」と考えてしまうのです。しかし、仏はあらゆる人に対して平等に愛情を持っているのです。「まあいいや、私のことを他の誰よりも愛してくれたらいいのだけど、まあ、それでもいい」。仏の愛情は誰に対しても平等で、おまけに、それは私たちが何をしていようと同じなのです。仏に祈ったり供物を捧げたりしなくても良いのです。いずれにせよ私たちを助けてくれるのですから。これは安上がりです。一円もかかりません。なんてお買い得なんでしょう!さらに、仏はとても辛抱強いので、私たちが何か他の伝統の師についても激怒して稲妻を投げつけてくるようなことは決してありません。これは安心です。
これは、意識しているか否かに関わらず、私たちが犯してしまいがちな過ちです。仏を「安心でお買い得な神の代用品」だと考えてしまうのです。教えの中には「仏は私たちを見殺しにしない」とも書かれています。良さそうですね。しかし、その一方で、「仏は、足に刺さった棘を抜くように私たちの苦しみを取り除くことはない」とも書かれています。仏は全能ではありません。しかし、私たちはそれを真に受けないのです。これが、仏のありふれたとらえ方、世俗の仏です。しかし、これ以上深く理解せずにこのレベルにとどまってしまうと、仏は私たちを救ってくれる個人的な神の代用品だと誤解してしまう危険があります。
仏たちは仏像や絵画という形で表現されます。確かに像も絵も美しいのですが、これらは正教会のイコンと同じようなものでしょうか?これらは一体何なのでしょう?私たちは、イスラム教徒が糾弾するような偶像崇拝をしているのでしょうか?一体何が行われているのでしょう?本当に仏像の前にひざまずかなければならないのでしょうか?仏に関する理解がこのレベルで終わってしまうと、様々な問題が起こります。誤解のおそれがあるのです。仏についてこのように考えることがとても大きな助けになるという人もいるでしょう。けれど、これは最も深い理解ではありません。このレベルの理解では、あたかも、ほとんど神のような人物がいて、彼らは像や絵画で表現され、私たちはそれらを崇拝しているかのようです。
世俗の法宝の功徳
世俗の法は、全ての教えです。これらの教えは、仏陀が自ら悟り、人々に説いたものです。ダルマのありふれたとらえ方は、「私たちには個人的な神である仏がいる」に続く形で、「私たちには経典がある」ということになるでしょう。聖書やクルアーンの代わりに経典を持っているということです。この経典はあたかも仏教版の聖書のようなもので、その中の言葉はどれも神聖なのです。確かに、私たちは経典に敬意を払わなければなりません。しかし実際には、仏陀自身が、「私を尊敬するあまり、私が言ったからというだけの理由で何かを信じてはいけない。黄金を買うときのように自分自身で吟味しなさい」と説いたのです。仏陀は常に、自分の教えを批判的な目で見ることを弟子たちに奨励していました。しかし私たちは、全てを確認したり分析したりするのが面倒だと感じることもあります。日々の生活においては、このレベルでは、「仏陀は私たちを愛して理解している。ここにその仏陀の聖なる本があって、その中に様々な規則が書かれているから、ただそれに従いさえすればいい」ということになります。日常生活ではこれで良いかもしれません。けれど、これは本当の仏教ではありません。このような理解が役に立つという人もいるでしょうが、私たちは仏教をキリスト教の一種に仕立て上げようとしているのではないのです。
世俗の僧宝の功徳
では、僧についてはどうでしょう?西洋では、残念ながら、自分が通っているダルマセンターのメンバー全員を「僧」とみなす習慣が出来上がっています。「僧」に当たるサンスクリット語やチベット語の言葉には、もちろんそのような意味はありません。けれど、多くの人々にとって、「僧」とは、私たちの集会、「仏教の教会」に参加しているメンバーという意味でしかありません。では、もしそのメンバーの中に非常に気持ちが乱れている人がいたら、私たちはどうやって「僧」に帰依できるというのでしょう?私は、同じような目標を目指す人々のグループ、つまり、志を同じくする人々が意見を交わして互いに助け合う精神的なコミュニティの重要性を軽んじているのではありません。このようなコミュニティはとても、とても大切です。しかし、帰依の対象ではありません。
「僧」、つまり「サンガ(僧伽)」の理解の仕方にはもう一つのレベルがあります。つまり、出家者の共同体、僧や尼僧のコミュニティだともとらえられるのです。しかし、私たちはいつも完全な手本となる僧や尼僧を見つけられるとは限りません。そうでしょう?袈裟を着ていても心が非常に乱れている人もいます。もちろん、出家することによって真摯に自分を高めようとしている人々に対して尊敬の念を抱き、彼らに協力するのは、とても大切なことです。しかし、中には、自分の人生の困難から逃げ出すために、それどころか、私の友達が言ったように、ただ飯にありつくためだけに、袈裟を着ている人々もいるのです!
僧にはさらにもう一つのレベルがあります。タントラの師が「僧とはいわゆる『タントラの本尊』のことだ」と言うのを聞くことがあるかもしれません。「タントラの本尊」とは、観音菩薩、文殊菩薩、多羅菩薩などのことです。そんなことを聞くと、「聖母多羅」や「聖女多羅」が自分を守ってくれるように祈り始める人もいるかもしれません。もちろん、これらのいわゆるタントラの本尊―私は「仏の姿(Buddha-figures)」と呼びますが―は、私たちが「仏陀という神」に近づけるように取り計らってくれる聖人ではありません。
勝義の三宝
仏・法・僧の最も深い意味について考えてみましょう。勝義の法とは、全ての混乱の真の停止と真の悟り、つまり、いわゆる心相続の真の道、あるいは心の道です。これが本当のダルマです。もしこれを自分の心相続の中に獲得できたら、私たちを苦しみから守ってくれるでしょう。全ての混乱、煩悩、悪見、問題が消え去り、全ての悟りを完全に得ることができたら、この境地に至ることができます。仏は完全にこれを達成していて、私たちにもそこに至る道筋を教えてくれます。「僧(サンガ)」とは、実際には「アリヤ・サンガ」として知られる人々を指します。アリヤ・サンガは非常に高いレベルで悟りを得た僧で、真の停止と真の悟りを完全ではなくとも部分的には達成しています。私たちが捨て去るべき混乱には様々なレベルや程度があるので、それらに打ち勝つためには、徐々に高いレベルの悟りが必要になってきます。混乱を捨て去るプロセスにはいくつもの段階があります。アリヤ・サンガは全ての混乱を捨て去ったわけではありませんが、いくつかのものについては達成しています。そして、現在も、さらに多くの混乱を捨て去ろうとしているのです。
日常生活においても、仏やアリヤ・サンガは私たちを鼓舞してくれる存在です。インドやチベットには、歴史上何人もの偉大な師、アリヤ・サンガがいましたし、現代にも数名いらっしゃいます。彼らは私たちにたくさんの希望を与えてくれます。私たちはダライ・ラマ法王のように人々に感銘を与える方を目にしたり、会ったりすることができます。法王はどのようにしてあのような方になられたのでしょう?ダルマによってです。彼がすでに仏であるかどうかは関係ありません。私たちも法王のようになれたらとても素晴らしいでしょう。今私が言っているのは、ダルマに関するほとんど全てのテーマについて教えを授けることができる彼の能力のことだけではなく、真のエキスパートであり、最も博学で造詣が深い師であるということだけでもありません。人々に教えを授けて力になるために常に世界中を飛び回っていることだけでもありません。これに加えて、忘れてはならないことがあります。彼は、中国では民衆の最大の敵とされているのです。十億人以上の人々が自分のことを「人々にあらゆる蛮行を働く悪魔」だと考えているのに、彼らへの愛と思いやりを持ち続けているのです。それがどんなことだか想像できるでしょうか?法王は動揺してもいませんし、怒ってもいません。それどころか、幸せで平穏な気持ちで、自分にできることは何でもやってしまうのです。信じられないようなことではありませんか?煩悩を捨て去って悟りを得ていなかったら、どうしてこんなことが達成できるでしょう?彼が完全に仏になっているかどうかはどちらでも良いことです。
私たちは、仏陀その人の功徳を感覚的によく理解することはできないかもしれません。けれど、ダライ・ラマ法王のような人の功徳を理解することならできるでしょう。これはとても大きな励みになります。法王のような人がこのレベルの成就を獲得することができたとしたら―私たちの心の本性が純粋で、これらを実現するためのあらゆる潜在能力を持っていることを考えれば―、私たちにも達成できないことはないはずです。誰もが法王のような成就を獲得できないという根拠はありません。当然それには途方もない努力が必要ですが、これは可能であり、この方向に進むのは大変有意義なことです。もしダライ・ラマ法王が仏陀に例えられるとしたら、現在私たちに教えを授けている偉大なラマたちの幾人かは―おそらくダライ・ラマ法王の持つ功徳を全て備えてはいませんが―、サンガに例えられるでしょう。彼らもこれらの功徳を部分的に持っているからです。これも大きな励みになることです。
では、ダライ・ラマと他の偉大な師に共通するものはなんでしょう?彼らは、程度の差はあれ、忿怒、瞋恚、貪欲、嫉などを捨て去っていて、理解、思いやり、忍辱など、非常に多くの功徳を獲得しているのです。これらの成就の度合いはラマによって異なります。彼らは仏陀やミラレパなどの歴史上の師よりもはるかに現実感のある(もし彼らに接触する機会があればですが)、生きた手本です。歴史の中の師に親しみを感じるのは難しいかもしれません。仏陀やミラレパの説話に感動しても、「本当にそのような人がいたのか?」と考えてしまうでしょう。「グル・リンポチェは蓮の中から生まれた」という話を本当に信じられるでしょうか?よく分かるとは言い難いでしょう。しかし、その代わり、ダライ・ラマや他の偉大な師によって体現されるような、ネガティブな性質の不在とポジティブな性質の存在に意識を集中することができます。彼らは現代における仏と僧のような存在です。私たちは、自分にも彼らと同じことを達成することが可能だと知っていますし―これはダルマについての話です―、真の停止と真の道心が達成可能な目標であることも理解しています。私たちはこれを実現することができますし、だからこそ、安全で安定した、有意義な方向性を人生の中に定めることができるのです。
日常生活における帰依、あるいは安全な方向性
では、実際的なレベルでは、三宝に帰依すること、つまり自分の人生に仏・法・僧という安全な方向性を定めることは、どんな意味を持つでしょう?これは、私たちが絶えず自分を磨き続けることを意味します。安全な方向性を定めると、たとえば、自分が取り乱したり怒ったり、あるいは身勝手な言動をとったりしているとき、徐々にそれを自覚できるようになります。これは、自分に辛く当たって、「私はまだ怒りを感じている、なんてダメな奴なんだ」といって自分を罰するようになるということではありません。そうではなく、気づくようになるのです。といっても、「これが普通だ」と思うことでもありません。自分の心が乱れていることに気付いたとき、「だから何?私はこれからもこのままでいるだろう」と思うことではないのです。それはもう一方の極端な考え方です。しかし、自分の煩悩に気付いて、それを捨て去りたいと感じるだけでも、煩悩の力を弱めることができます。
日常生活で煩悩や悪見などが生じたことを感じ取ったときに取るべき理想的な行動は、それに打ち勝つためのメソッドをいくつか学んで克服しようと努力することです。自分が怒ってしまったら、それを自覚して忍耐を学ばなければなりません。誰かが自分に対してひどい振る舞いをするのは彼らが不幸であることの示唆です。彼らの心を乱しているものがあるのです。ですから、彼らに対して怒るのではなく、思いやりの気持ちを持つようにするべきです。
整理してみましょう:自分が怒っていることについて怒るべきではありません。一方、「大丈夫、別にいいんだよ」と赤ん坊をあやすように自分に接するべきでもありません。そうではなく、怒りを乗り越えようとするのです。なぜなら、私たちはそれができることに気付いているからです。怒りを克服するのはそんなに簡単ではないかもしれませんが、いや、簡単ではないのですが、これが、人生を通じて進んでゆこうとしている方向なのです。克服できると分かっているからやるのです。この方向に向かうのは、不毛な試みでも理想主義的な考えでもありません。
困難な状況に直面したときでも、私たちには、たとえほんの少しでも、勇気や理解、あるいは慈悲深い気持ちがあります。これらはもっと大きく、強く育てていけるし、私たちにはそれができるということに気付かなければなりません。これは可能なことです。すでにこれを成し遂げた人々はいますし、私たちにもできるのです。彼らにも、私たちにも、特別なことは何もありません。これが私たちの帰依、人生における安全な方向性です。なぜなら、この方向に歩みを進めるごとに、困難や問題から自分をしっかりと守れるようになってゆくからです。
要約
私たちは「帰依」、あるいは「安全な方向性」の意味、そして人生にこの方向性を定める理由を理解しなければなりません。これは、仏教の実践の中でも最も基本的で最も重要なものだとされています。大変残念なことですが、多くの人は帰依を重要視しません。本来、帰依は人生を非常に大きく左右し、とても有意義な変化を起こすものです。帰依とは、儀式に出席して髪の毛の一部を切り取られ、チベット名をもらって首に赤い紐をかけられて、ある集団の一員になったというだけのことではありません。このように誤解していると、帰依を矮小化して無意味なものだと勘違いしてしまうでしょう。
私たちは自分自身に問いかけなればなりません:「帰依した仏教徒として、私は本当に自分の人生にこの方向性を定めようとしているだろうか?帰依は私の人生において何か意味のあることだろうか?それとも、私はただある種のクラブの一員になっただけなのか?」。帰依したあとにも人生に大きな変化がないのであれば、それこそが取り組まなければならない点です。基礎が固まっていないのにさらに発展的な実践を行おうとしても、成功する見込みは極めて薄いでしょう。