人生における問題
私たちが今夜論じるテーマは「感情に働きかける:怒りの扱い方」です。この問題を論じることになったのは、私たちひとりひとりが自らの人生に問題を抱えていると感じているからではないでしょうか。私たちは幸せを望んでいます。どんな問題も抱えたくはありませんが、絶えず多くの種々の悩みの種に直面せざるを得ません。私たちは落ち込むこともあります;困難に遭遇し、仕事で不満を感じ、社会的地位や生活水準や家庭環境に苛立ちを感じたりします。私たちには望むものを手にしていないという難問があります。私たちは成功したいのです。良きことが、家族や仕事に起きて欲しいのですが、必ずしもそうはなりません。そこでこのような問題を抱えると、不幸になってしまうのです。年を取り、聴覚や視覚が衰えると、病に陥ったり極度に衰弱してしまったりというような、起きて欲しくないことが起きることもあります。紛れもなく誰ひとりとしてそんな事は起きて欲しくないのです。
私たちは仕事上の問題を抱えています。事が悪い方に向かうと景気が後退したり倒産してしまいます。それは明らかに起こって欲しくない事ですが、いずれにせよ起きてしまうのです。痛手を負わせるような事が私たちにふりかかり、ひどい目に遭うことになります;事故が起き;病気になります。これら全てのことは、私たちが直面する問題として起こり続けます。
これらに加えて私たちは、同じように多くの感情的心理的問題とも対峙します。これらはひょっとしたら相談したり、他人に打ち明けたりしたくないことかもしれません。けれども、我が子への期待、気苦労、心配事という点から私たちを不安にさせ、大変な思いをさせているある物事が存在していることに内心気付いているのです。これらは、「状況や問題が制御不能に繰り返すこと」と呼ばれるものです。
困難な事態が制御不能に繰り返される輪廻
私は翻訳家として仕事を経験して来ましたし、教育を受けましたので、仏教について通訳したり講義もしたりしながら翻訳家として多くの様々な国々を巡って来ました。そこで気が付いたのは、仏教について大変誤解されているということです。仏教についての誤解はほとんどが、原語と原意を翻訳するために選択した英単語によるものだと思われます。これらの多くは、ヴィクトリア女王時代の宣教師によって前世紀に選ばれた単語なので、アジアの言語の原語が持つ含意や意味ではない、甚だ強い意味合いになっているのです。例えば、問題のことを話していたとします。それは普通「苦」と訳されます。仮に私たちが苦について話しているとしたら、多くの人は、仏教は非常に厭世的な宗教であるという考えを抱いてしまいます。なぜなら、誰もの人生が苦しみに満ちていると説くからです。私たちは幸せである権利を持っていないのだと説いているように思われてしまいます。もし私たちが快適で順調で裕福な人に話しかけ、「あなたの人生は苦しみで一杯なのです。」と言ったら、その人は自らを一生懸命自己防衛しようとするでしょう。「どういうことですか? 私にはビデオレコーダーもあれば、高級車もあるし、おまけに素晴らしい家族だっているのですよ。私は満足しているんです。」:と食ってかかって言って来るかもしれません。
苦(suffering)という語からすれば、彼らの反応はもっともなわけで、それは非常に耐えがたい言葉です。代わりにもし私たちがその同じ仏教の概念を「問題」と翻訳したら、「あなたが何者であろうが、あなたがどれほど裕福であろうとも、子供が何人いようが、みなが人生においてある問題を抱えているのです」:と人に言いますと、みなこれを喜んで受け入れます。したがって私は、私たちが通常使っているのと若干異なる言い回しで、チベットの伝統からのこのような仏教の説明を論じることにします。
困難な事態が制御不能に繰り返すのは、輪廻です。これらは私たちがどうすることもできないので、例えば、常に苛立ったりいつも心配事や不安の種を抱えていたりいするように ― 繰り返し続けるのです。さてでは、その「集諦(真の因)」とは何でしょうか? 釈尊は、私たちが直面している「苦諦(真の問題)」がいかにして存在しているのかだけでなく、それらには真の因があって同様に阻止することができると説きました。それらを阻止し「止諦(真の収束)」を成し遂げる方法とは、「道諦(真の道)」に従うことです。それは、「意たる業道」、原因を取り除く理解の道を発展させることを意味しています。ひとたび原因が取り除かれれば、私たちは問題を脱したということなのです。
問題の本質:実体的なアイデンティティーにとびつく
私たちが人生で直面するこのような困難な事態が制御不能に繰り返す真の原因は、究極の真理がわかっていないことなのです。私たちは、真に自分が何者であるか、真に他者とは何者であるのか、人生の真の意味とは何なのか、一体全体本当は何がどうなっているのかに気付いていません。私は、無知よりもむしろ「無明」という語を使います。無知は、まるであなたがたは愚かだから理解力がないと言っているかのように聞こえてしまいます。そうではなくて私たちはただ単に気付いていないわけで、気付いていないから精神レベルで不安感としてこれを経験するのです。このような不安感のせいで私たちは、ある種の実体的なアイデンティティー、何らかタイプの「私」にとびつく傾向があるのです:「私は自分が何者かであるとか、いかにして存在しているかを知らないので、自分自身についての実体やただの幻想にすぎないものにつかまってしまい、これが私だ、これが本当に私という人間なのだと口にするのです。」
私たちは、父親であるというアイデンティティーにつかまってしまうことがあります。例えば:「私はこういう人間だ、私は父親なんだ、私は家庭で尊敬されなければならない。子供達には、私に対する敬意と従順さがなくてはならない。」というわけです。仮に人生における信条がことごとく父親であることに基づいていると、明らかにそのせいで困ったことになる可能性があります。それは、子供達がそのことを尊重しなければ、やっかい事が増えるのです。仮に私たちが職場にいるとするなら、人は私たちを、「父親」や、そのような形の尊敬を受ける価値のある人物だとは見なしてくれません。そのことでさらにまたとても心をかき乱されかねないのです。自分が家庭内で支配者であり、それなのに職場に行くと職場の人達に見くびられ、蔑まれ、自分の方が逆に彼らに敬意を示さねばならないとしたら一体全体どうなってしまうのでしょうか? 父親であるとか、尊敬を集めなくてはならないというアイデンティティーに過剰な程きつくしがみついたら、職場の人達がそのように扱ってくれないとひどく不幸になってしまう可能性があるのです。
私たちは成功したビジネスマンであるといアイデンティティーを持つこともできます:「私は成功したビジネスマンだ。私とはそういう人間だ;これが今の自分でなくてはならない。」しかしながら仮にビジネスが失敗するだとか、仮に業績が悪化でもしたら、私たちはすっかり力を落としてしまいます。ビジネスが失敗してしまうと、しがみついてきたこの強固なアイデンティティーなしに人生が続いて行くのをどうしても目の当たりにすることができないために、自殺やその類いのあらゆるぞっとするような事をさえしかねません。
さもなければ「私はこういう人間だ;私は男らしく、堂々としていて、魅力的な男性だ。」と、:男らしいことに自らのアイデンティティーの基礎を置く可能性があります。ところが年を取り、男らしさが失われて始めて来るやいなや、このせいでおかしくなってしまいます。仮にそれが自己同一性ならば、打ちひしがれてしまう人もいるかもしれません。彼らは、人生におけるあらゆるものが変わってしまい、このアイデンティティーが永遠ではないのだということを見つめようとしないのです。
私たちは、自分が伝統的な人間なので、何でも伝統的なやり方に従ってなされなくてはならないと感じてしまうこともあります。社会が変化し、私たちのアイデンティティーに基づく伝統に若者がもやは従わないと、とても腹が立ち、とても動揺し、とても傷いてしまうかもしれません。もしかしたら、伝統的な中国の習慣、その中でしつけられた伝統的なやり方に従っていない世界に生きているのかもしれないなどと想像だにできないのです。
他方では若者のように私たちは現代人であることに自分のアイデンティティーの基礎を置くこともできます:「私はこの世界の現代的な人間だ;こんな伝統的な価値など必要ない。」と。もしこれにとてもきつくしがみついてしまったなら、両親は、私たちが伝統的価値に従い、伝統的なやり方でそれを扱うことに強く固執し始め、現代の若者のように、同じように私たちも、強い敵意、強い怒りを感じるかもしれません。私たちはそれを口には出さないかもしれませんが、内面では、自らのアイデンティティーが現代人的なので、中国の元旦に両親を訪問する必要はないと感じるでしょう;私たちがこれら全ての伝統的な事をする必要など無いとなれば、再び多くの問題が持ち上がることになります。
私たちは自らの職とも同一視することがあります。そうすると仮に私たちのビジネスが失敗したにもかかわらず、この従来のひとつの職のみに専念するという角度から自分のことを考えてしまったら、融通がきかなくなります。以前にやったその仕事に就くことが適わないと、この世の終わりだと感じてしまうのです。異なる職に就くことは可能で、必ずしもたった一種類だけの職に従事しなくてはならないわけではないのだ、と思えないのです。
私たちはこういった、安心感を感じさせてくれるしきたりのような違った種類のアイデンティティーにとびつきます。私たちは、自分とはどんな人間なのか、どんな種類の規則に従っているのか、人生でどんなことを望んでいるのかについて、何らかの考えを持っています。これは永遠である、これは完全に実体的である、これが本当に私という人間であると思ってしまう傾向があります。私たち自身のこのような観念に基づくことで、そのアイデンティティーを支えるやり方として立ち現れる、ありとあらゆる煩悩を抱くことになってしまうのです。これは、そのようなアイデンティティーについての安心感をなお感じるからで、ゆえに、それが真実であることを示し、強く力説しなくてはならないと感じてしまうのです。
例えばもし私たちが「私は家では父親なんだ。」と思ったら、単に家で父親であると思うだけでは足りず、;その権威までをも主張せずにはいられないのです。家族を支配して権力を行使し、誰もが私たちにへつらうことを確かめずにはいられません。なぜなら、私たちは依然として父親であることを皆に証明しなければならないからです。それをただわかっているだけでは不十分なわけです。仮にこのアイデンティティーが脅かされたと感じたなら、非常に防衛的になってしまうかもしれませんし、何かを証明するために侮辱的で攻撃的になってしまうかもしれません。「私は自分という人間を示さねばならない。なおかつ、私はとても男らしく魅力的だと証明しなくてはならない。」というわけです。それゆえ、私たちとはこういう人間だ、私たちとはこんな風に存在しているのだということを証明するために、外に出て愛人を作ったり若い女性と浮気をしなくてはならない、となるのです。
乱す感情と態度
魅了され渇望する
乱す感情と態度とは、立ち現れる心の状態であり、それがあると、実体的なアイデンティティーを立証したり主張したりしようとします。このような乱す感情には、例えば、魅了されたり渇望したりするものなど様々な種類があります。そのアイデンティティーを安全にするために何かを自分のところや、自分の周りに取って来る必要があるときに、渇望が生じます。例えば、仮に私のアイデンティティーが父親や家長だとすると、「尊敬を得なければならない;私は子供達をニューヨークに行かせなくてはならないし、私の言うことをみなきかせなくてはならない。」:と思うかもしれません。ともかくも私は、もし充分な尊敬が得られたら、そのことで非常に安心感を感じることになります。そして当然そういう尊敬が得られないと、傷つき、ひどく腹が立ってくる可能性があります。
さらに、幸運な人間であるというアイデンティティーだと考えるかもしれません:「私はいつだって運命も運もよくなければならないし、常に麻雀で勝たなくてはならない。」と。もしこれが自分のアイデンティティーならば、麻雀などのギャンブルで常に勝利すると、そのことで安心感を感じます。さもなければ常に易者のところに足を運んたり、私は成功している、私は問題ないと、自分に再び言い聞かせながら、好ましい答えを出してくれる中国仏教寺院で筮竹を捌いてもらうかもしれません。成功すると感じるには、自分自身の職能が心もとなすぎるというわけです。常にもっとしるしを、もっと神からのしるしを、さもなければ私に安心を感じさせてくれる人なら誰からでももっとしるしを得なければならず、ゆえに何かに駆り立てられたように、常にこんな努力をせざるを得ないのです。
それからまた、「私は仕事においては権力者だ。私は権力に魅了されているので、権力があれば安心感を得られるだろう。」と感じる可能性があります。そのような態度は、様々な異なる心理学的な枠組みから生じます。それは、私はパワフルな人間だと感じることであったり、たいしてパワフルではないので、私を支えるそのような力が必要だと感じることに基づいているかもしれません。その上私たちは「もし会社の誰もを従わせ、私が彼らにして欲しいように物事をさせることができれば、それで安心を感じるだろう。」と思うのです。あるいは、もひ権力のある地位にいることを証明するために、家に使用人を抱えているなら、常に彼らが自分の望むように物事を行うべきであるという考えに魅了され、ただ彼らが支配下にあると証明するためだけに、不必要な事をするよう命令しだしさえするかもしれません。
人は注目されることに夢中になることもあります。若者のように、「私のアイデンティティーは現代的な若い流行の着こなしをする人間だから、常に最新の流行、最新のビデオ、最新のCD、最新の物事に遅れをとらないようにすれば、私のアイデンティティーは確実なものになるだろう。」:と感じるかもしれません。
私たちは実にいろいろと、甚だ多くの事柄に焦点を合わせ、自分の周囲のすべてのものを手に入れ、充分なそれ、充分な財産、充分な所有物、充分な権力、充分な注目、充分な愛情を築き上げることができれば、安心できると思ってしまいます。もちろんそんな風にうまくはいきません。そもそも現実にそれがうまくいっていたなら、私たちはある意味、充分持っているからすっかり満たさていると感じたでしょう。けれども私たちは決して充分持っているとは感じずに、常にもっと欲しがり、それを獲得しないと怒り出すのです。怒りは実に多くの様々な形で湧き起こるのです。
嫌悪と憤り
「仮に、好きでもなく、自分のアイデンティティーを脅かしているものを自分からまさに引き剥がすことができれば、そのことで安心できるだろう。」と、:私たちが見かけ上実体的なアイデンティティーを揺るぎないものにしようとするために利用する別のメカニズムは、嫌悪、憤り、怒りです。ですからもし私のアイデンティティーが政治観であるとか人種や文化に基づいているなら、:「異なる見解、異なる肌の色、かけはなれた宗教である人をただ打ち負かしさえすれば、それによって安心できるだろう。」となります。さもなければもし私の使用人が私が望むのと少し違った様に何かをしていたり、社員達が、私の望むのとほんの少し違った様に物事を行っていると、私たちは「彼らをまさに矯正することができれば、それをちゃんと変えることができれば、それで安心できるだろう。」と感じるのです。自分はある特定のやり方で机の上の書類が整頓されているのが好きですが、他の社員は違った風に整頓しています。どういうわけか私たちはこのことが自らを脅かしていると感じるのです:「私はまさに自分のやり方で彼らにそれをやらせることができれば、安心できるだろう。」と。それしきのこと、どうだと言うのでしょうか? こんな風に私たちは、私たちのいない所で私たちを脅かしている全てのものをうち負かそうと努力して、他者に自らの敵愾心を向けるのです。
あるいは、私たち自身のアイデンティティーが、常に矯正される人物であることに基づいていると、誰かが私たちに対し非難したりけちをつけたりすると、とても防衛的で敵対的になり、怒りが湧いてくるのです。私たち自身を成長させ向上させるために、感謝の念を持ってこの人の批判を受け入れること – あるいはたとえ彼らの批判が正しくないとしても、私たち自身について検討してみる機会を利用して、自分は怠慢でも誤ってもいないことを確かめる – よりもむしろ、きつい言葉でその人を激しくののしります。私たちはひどく不安で脅かされているように感じるために、このように振る舞ってしまいます。私たちはその人が「私」を拒絶していると思うのです。その私は常に正しいので、この実体的な「私」を守るためにその人物を拒絶するというわけです。
頑なな無知
もうひとつのメカニズムは頑なな無知で、本質的にそれが私たちの周りに壁を作り上げています:「何かが私を脅かし、私のアイデンティティーを脅かしているなら、私はまあ、ただそれが存在等していない振りをするのだ。」と。私たちは家族の問題や仕事の問題を抱えていますが、家に帰ると、あたかも私たちを悩ませているものなど何ひとつないかのごとく顔に出しません。そのことを話題にしたくないので:ただテレビをつけ、問題など無い振りをします。これは頑なな態度です。我が子が、抱える問題について相談したがっても、ただ避けるだけです。「私のアイデンティティーは、家族がなんの問題もなく;完璧であること;伝統的価値全てに従っていることなんだ。君はどうして、問題があり、均衡が破れ、調和が崩れるなんて言い出すんだ?」というように、私たちは問題に対処する唯一の方法は、それが存在しない振りをすることだと感じるのです。このような態度は頑なな無知と呼ばれます。
心に湧き上がる衝動とは業の発現
私たちがこのような種々の煩悩を抱く場合、次いで、様々な衝動が心に湧き起こってきます。これは、業が関係するものですが、「業」とは運命や宿命のことではありません。あいにく、多くの人がそう思っているようです。誰かのビジネスが失敗したり誰かが車に轢かれたりすると、私たちは「なんてことだ、気の毒だが、それはその人の業だ。」と言うかもしれません。これは「それは神の御意志だ。」と言うのとほとんど同じです。
私たちは業について論じているわけであって、ここでは神の意志だとか宿命だとかについて語っているのではないのです。例えば私たちのビジネスで、結局はひどいと後にわかることになる、ある決定を下そうと湧き起こった衝動。あるいは、自分に敬意を示すよう我が子に要求しようとする衝動。はたまた、彼ら流ではなく私のやり方でやらなくてはならないのだと、社員にわめき散らそうとする衝動です。また、無表情にしよう、テレビをつけて他の誰にも耳を傾けないようにしようとの別の衝動に駆られるかもしれません。この種の衝動、業はふと頭に浮かび、私たちはそれを実行し、そのせいで困難な事態が制御不能に繰り返すことになるのです。それがこの仕組みなのです。
私たちは、仕事での地位であったり家庭内での困り事が常に気がかりで、気に病んでしまうという問題を抱えています。「私は成功しており、成功していることによって両親や社会を喜ばせているにちがいない」という実体的なアイデンティティーへのしがみつきを基に、心配の種が存在していることを否定することにより、そのようなアイデンティティーを防御しようとしているのです。私たちは心を閉じ、気持ちを閉じてしまいます。その結果、ありとあらゆる種類の困難が家庭や職場で起きているのですが、これらは水面下にとどまり、誰もがただいい顔を繕っているだけとなるのです。けれども内面では、こういったすべての心配や不安は存在しており、後にまさに爆発的に、しばしばその問題に関係してもいない家庭内や職場の誰かに向けられた暴力という騒ぎへとつながる衝動になるのです。こうしてとんでもない問題へと発展してしまいます。
これらは、困った事態が制御不能に繰り返すことになる異なるメカニズムです。私たちは、これが様々な感情に対処しているとわかるので、当然、すべての感情はトラブルメーカーなのだろうか? という疑問が湧いて来ます。感情はみな、問題をもたらすものなのでしょうか?
建設的感情
私たちは、愛、優しさ、愛着、寛容、忍耐、思いやりのような – 非常にポジティブで建設的な感情と、渇望、憤り、頑固、高慢、尊大、嫉妬などといった – ネガティブであったり破壊的である感情との間の区別をつけなくてはなりません。パーリ語やサンスクリット語やチベット語には、感情にあたる単語はありません。私たちはポジティブなものやネガティブなものについて話すことはできますが、英語にある、両者を網羅する一般的な単語はないのです。
湧き起こると不快だとか動揺したと感じる特定の感情や態度について語る時の、それが乱す感情や汚れた態度なのでしょう。例えば、私たちは何かに、あるいは誰かに夢中になったり頭から離れなかったりすることがあり、そのことでとても落ち着かなくなります。尊敬されようと、とても不安を覚えることがあったり、誰かからの愛や注目や賛同にしがみつきます。なぜなら、私たちはその人にこだわり、価値があり安心だと感じさせてくれるような、その人の賛同などにとびつくからです – このようなことが、渇望という乱す感情と態度という角度から起きて来るあらゆる困難なのです。私たちが敵対しているときはいつでも、非常にかき乱れた感じがします;あるいはもし頑なであるなら、それも動揺した感情です。すべてのこれらの態度はトラブルメーカーです。ですから例えば、愛といったポジティブな感情からネガティブを区別しなくてはなりません。
仏教の伝統において愛は、他者が幸福と幸福の因を持てるよう望むポジティブな感情と定義されています。これは、私たちはみな同等であり、誰もが同じように幸せであることを望み、かつ誰しもが一切の問題を抱えることを望んでいないと結論することに、それ自体の基礎を置いています。誰でもが幸せである権利を有しています。自分自身にそうであるのと同様に、他者を大切にし慈しむことが愛です。それは、相手のやることに左右されずに、その人が幸せであるようにと気遣うことです。それはまるで母親の愛のようなものです。母親というものは、たとえ赤ん坊が彼女の服を汚したり、彼女に戻したりしても、それでもなお我が子を愛します。そんなことはどうでもよく、母親は赤ん坊を愛さずにはいられないのです。単に赤ん坊は気分が悪くなったために彼女の服に戻したからにすぎないからです。母親はなお、その子が幸せであるよう、変わらぬ心遣い、変わらぬ望みを抱いているのです。であるのに反して、私たちがよく愛と呼ぶものは依存関係や必要性の現れなのです。「私はあなたを愛している」というのは、「あなたが必要なんだ、決して私のもとから立ち去らないでおくれ、あなたがいないと生きていけない、あなたはこうした方がいいああした方がいい、良妻であれ、良き夫であれ、常にバレンタインデーには花束を贈って私を喜ばせることだけをしておくれ。もしあなたがそうしてくれないなら、そう、私の望んだことをしてくれなかったのだし、あなたを必要とした時にそばにいてくれなかったのだから、あなたなどもう嫌いだ。」という意味なのです。
そのような態度は煩悩であり、仏教の愛という概念ではありません。愛は、相手が花束を贈って来ようが来るまいが、私たちの話しを聞こうが聞くまいが、私たちに対して優しくて愛想がよかろうが、ひどく振る舞い拒絶さえしようが、その人を気遣うことです。それが、彼らが幸せであることを気遣うことなのです。私たちが愛やその類いの感情について語るなら、汚れたものだけでなくポジティブなものもあり得るということなのです。
怒りは常に煩悩
さて私たちはついに怒りについて論ずることになります。怒りとは、何が起きているのでしょうか? 怒りとは、常にかき乱されているものです。腹を立てていることで幸せになれる人はひとりもいません。腹を立てていることで気分が良くはなりません。食べ物もおいしくなりません。怒って取り乱していると、心が休まらず、眠れません。大騒動を起こしたり、叫んだりわめき散らなくてもよくても、職場や家庭で起きていることについて内心とても腹を立てていると、それによって消化不良や潰瘍になってきたり、夜眠れなくなったりします。私たちは怒りを押さえ込むために起きる多くのつらい事を味わうので、実際に相手に対して怒りを表に出し、とても敵対的な表情や敵対的な波動を出したら、犬猫でさえ周りにいたくなくなるでしょう。私たちがいることや腹を立てていることで居心地が悪くなるので、ゆっくりこっそり立ち去るでしょう。
怒りは、真の恩恵がまったくないものです。もし怒りが非常に強烈になったり欲求不満に陥ったりするために、なんとかしてガス抜きしなくてはならないので、激高したり誰かに口汚い言葉を吐いたり、呪ったら、これでほんとうに気分が良くなりますか? 誰か他の人が傷ついてかき乱れているのを目にして気分が良くなりますか? さもなければとても腹が立つので、壁を殴らなくてはならないと感じるわけですが、壁を殴ってほんとうに気分がよくなりますか? いいえ、明らかにそうはなりません、傷つきます。確実に怒りはどうあっても役に立たないのです。仮に渋滞に巻き込まれ、とても腹が立つようなことがあれば、誰にでも金切り声をあげクラクションを鳴らし始めるのですが、それでどうなるというのでしょう? 気分は良くなりましたか? それで少しは車が早く動きましたか? いいえ、人々に何か言われるでしょうから、ただその人達の前で面目が失われただけです。これは明らかにそのような状況の役に立っていません。
怒りは味わわなくてはならないのか?
もし怒りのような煩悩や、それに基づいた、誰かに向かって金切り声をあげたりわめき散らしたりするような、あるいは誰かから離れたり誰かを拒絶したりする敵愾心のある衝動的な振る舞いが問題の因であるのだとしたら、常にそれらに手を焼くことになるのでしょうか?これは、私たちが常に味わわなくてはならないことなのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。なぜなら煩悩は心の本性の一部ではないからです。もしそういうことであるなら、私たちの心は常にかき乱されていなくてはなりません。相当な堅物である人達にさえ、怒りによってかき乱されないこともあるのです。例えば、私たちは最終的に眠りに落ちたとき、怒りを味わってはいません。
したがって怒り、憤り、恨みのような煩悩がない時というものがあり得るわけです。このことによって、これらの煩悩は不変ではないということが事実だとわかります;心の本性の一部ではないので、したがって取り除くことができるものなのです。怒りの因を、 – 単に表面的だけでなく、最も深いレベルで – 阻止すれば、確実に恨みを克服し、心を平穏にすることが可能なのです。
これは全ての感情と気持ちを取り除くべきだとか、まさにスタートレックのスポック博士のようになって、ロボット然としたり感情が微塵もないコンピューターのような人になるべきだという意味ではありません。それよりもむしろ、私たちの在り方の究極の真理についての混乱、認識の欠如に基づく乱す感情、汚れた態度を取り除くことを望んでいるのです。仏教の教えは、これを実践するための体系が実に豊富です。
怒りを克服する:私たちの人生の質を変える
まず、私たちは怒りや全ての乱す感情と態度を取り除くために、自分自身に取り組む興味を起こさせるような動機や根拠を持つ必要があります。仮にそうする理由が微塵も無いなら、なぜそうしなくてはならないのでしょうか? ですから、動機を持つことが大切です。
私たちは、「幸せでありたいし、なんの問題も持ちたくない。自分の人生の質を向上させたい。常に内心、腹立たしさと憤りを感じているので、人生があまり愉快ではない。それを表には出さないけれども存在するかもしれず、そのせいで四六時中とても憂鬱で腹が立つことになるので、人生の質があまり芳しくない。しかも、そのせいで消化不良にもなるので気分がすぐれない。好きな食べ物を楽しむことさえかなわない。」:と思うことによって、そのような動機を養い始めることができます。
結局のところ、私たちの人生の質とは、自らの手のうちにあるものなのです。釈尊が教えた最大のメッセージのひとつは、人生の質に関して、私たちには何らかの手だてがあるのだというものです。必ず悲惨な生活を送らなくてはならないと運命づけられているわけではないのです。それについて何事かをなし得るのです。
ですから、「今、あるいはこの瞬間に、目の前のことだけでなく長い目で見ても人生の質を向上させたい。物事がさらにエスカレートしないよう悪化を食い止めたい。なぜなら、例えばもし憤りと腹立たしさを今取り除かなければ、また、内心それを抱き続けるなら、悪化して悪弊へと発展していくかもしれないから。私は激昴して、人を呪ったりまじないをかけたりするようなおぞましいことをしたり、ほんとうに彼らを破滅させようとするかもしれない。そのことで相手が、私と家族を呪う復讐に繋がっていく可能性があるので、前触れもなく、見たこともないビデオや映画の台本としか思えないような事態となるのだ。」と思うでしょう。
もし私たちが、これが起きて欲しくないことだと事前に思えば、それに取り組み怒りを取り除こうとするので、問題はエスカレートしなくなります。その上、かすかな憤りと腹立たしさでさえ感じることは不愉快なので、問題をできるだけ小さくするだけでなく、さらに良いように、全ての問題をすっかり取り除きたいと切望するかもしれません。:「私は全ての問題から解放されるよう、強い決意を表明せねばならない。」と。
解脱の決意
「解脱の決意(出離)」と私が称するものはたいてい「放棄(renunciation)」と訳されており、幾分誤解を招く恐れがあります。この訳語だと、あらゆることを諦めて洞窟に移り住むべきだという印象を与えかねません。ここで求められていることとはそういうことではないのです。率直に勇敢に問題を見つめ、問題を抱えたまま生き続けることがいかにおかしいかを悟って、「私は相変わらずこんな風でありたくはないもう充分だ。問題に辟易し;うんざりしている。抜け出さなくては。」:と決意するということを言っているのです。
ここで養う態度とは、解放されようとの決意であり、その決意と共に、古い、かき乱す傾向にある身、口、意の行為を進んで断念することです。これが最も大切なのです。私たちが非常に固い決意をしない限り、全エネルギーをそれに傾注することになりません。全エネルギーを注がない限り、解放されようとの努力はただ身が入らないものとなるだけで、決してどこにも辿りつかないでしょう。私たちはどうしても幸せを手に入れたいくせに、ネガティブな習慣や感情のようなことをひとつも諦めません。それでは絶対にうまくいきません。したがって、問題を阻止し、問題やその原因を進んで手放さなくてはならないと心に決めるよう、固い決意を持つことがとても大切です。
次なる上のレベルでは、以下のように考える必要があります:「ただ自分自身だけではなく、周囲のあらゆる他者のための幸せを手に入れるには、怒りを取り除かなくてはならない。他者に対する思いやりから、これを克服せねばならない。私はトラブルなど起こしたくもないし、彼らを不幸にしたいとも思わない。仮に私が怒りを表に出したら面目を失うだけでなく、そのことで家族全員に恥をかかせることにもなるだろう。そのことによって私の同僚など皆に恥をかかせるだろう。だから、彼らを思いやって私は、癇癪を制御し対処することができるように学んで、それを取り除かなくてはならない。」
さらに強い動機は以下のことを熟考することによって生まれます:「他者を手助けすることを阻むので、この怒りから脱しなくてはならない。もし、子供であったり職場の人達や両親のような他者が私の助けを必要としていても、私が怒りによって、あるいは敵愾心によって、すっかり取り乱したり混乱していたとしたら、彼らをどうやって手助けすることができようか?」それが主な障害ですから、このような様々なレベルの動機を真摯に養うために、私たち自身に取り組むことがとても大切なのです。
この方法が怒りに対処するのにたとえどんなに洗練されていたとしても、もし私たちにそれを適用しようとの強い動機がなければ、使うことにはならないでしょう。しかも学ぶ方法を適用しないなら、一体何の意味があるのでしょう? したがって、最初の段階は動機という角度から考えることです。
怒りを克服するための方法
私たちが怒りを克服するために使うことができる実際的な方法とは何でしょうか? 怒りとは生物や無生物のどちらかに対して暴力をふるいたいと欲する、感情が激しく高ぶった心の状態と定義されます。人、動物や状況、また何らかの対象に的を絞り、それに対するある種の荒々しさと心の揺れを表現し、激情的な方法でそれを変えたいと思うなら、それは怒りです。ですから怒りとは、我慢できないことが何であれ、害したいという願望と組み合わさって、それに対して不寛容で耐えられないという状態なのです。もう一方で、その逆は忍耐であり、我慢できないことの反対ですから、対極の愛です。愛とは誰か他の人が幸せであることを望むので、愛は、彼らを害することを望むのとは真逆です。
往々にして私たちは、起きて欲しくない何かが自分にふりかかる状況に対して腹が立ってしまいます。人々は私たちが行動してほしいように行動してくれません。例えば、彼らが私たちに敬意を示していない、仕事上の命令に従っていない、ビジネスで私たちのために何かをする約束をしたのにそれを実行しないのです。ですから彼らが、私たちの期待するように行動しないために、彼らに対してとても腹が立っていしまいます。別の例としては、誰かが私たちのつま先を踏むと、それは起きて欲しくないことであるとしてその人に怒ります。ところが、怒らなくとも、そのような状況に対処することができる様々な方法はあるのです。
忍耐を培うためのシャーンティデーヴァの助言
八世紀のインド偉大なる上師シャーンティデーヴァは助けとなる思想について多くの言葉を与えてくれました。彼が著したことを私が言い替えると、彼はこう述べたのです:「仮に困難な状況にあって、それを変えるためにできることがあるのなら、なぜ心配したり腹を立てたりするのか、ただそれを変えなさい。仮にできることが何ひとつないのであれば、なぜ心配したり腹を立てたりするのか? 変えられないのなら、怒りは役になど立たない。」
例えばシンガポールへ向けてここペナンから飛びたいのに、空港に着いたら、その便は超過予約で既に満席だとしたなら、怒る効用は何ひとつありません。怒りは、私たちが飛行機に乗るようにしてはくれません。しかしながら、その状況を変えるためにできることがあります – 次の便に乗ることができるのです。それならなぜ怒るのでしょう? 次の便の予約をして下さい。シンガポールの友人に電話をして、遅れることを伝えて下さい;それで済みます。これが問題を処理するためにできることです。もしテレビが映らなくなったら、なぜ怒って蹴飛ばしてののしるのですか? ただ修理して下さい。誰にでもわかることです。変えることができる状況があるなら;腹を立てる必要はなく、ただそれを変えて下さい。
例えば、ラッシュアワーに渋滞につかまるような、仮にその状況を変えるためにできることが何ひとつないのであれば、それを受け入れなくてはなりません。私たちの車の前面には、前の車両すべてを撃つためのレーザービーム銃はありませんし、あるいは日本のアニメのように渋滞の上を飛び越えられません。したがって私たちは、「なるほど渋滞に巻き込まれているな、ラジオでもつけるか、カセットレコーダーをかけて仏教の教えを聞いたり、素敵な音楽を聞こう。」:といったように考えて、潔くそれを受け入れなければなりません。私たちはほぼラッシュアワーにつかまりますから、聞くためのテープを携帯することで覚悟ができます。もしそのような渋滞中に運転をしなくてはならないとわかったら、その時間を最大限に活用することができるのです。職場や家庭やどのようなものでも何らかの問題について考え、彼らのために良い解決策を見つけ出そうとすることもできます。
もし困難な状況を変えるためにできることが何ひとつないのならば、ただ最善を尽くそうと努力して下さい。暗がりでつま先をぶつけたら、ぴょんぴょん飛んで叫んでわめけば少しは気分が良くなるでしょうか? アメリカの俗語ではそれを、「アイタタ踊りをする」と言います。怪我をしてとても痛いと、行ったり来たりして踊り、ぴょんぴょん飛び上がります;が、そうしても痛みはましにはなりません。それについてできることは少ししかないのです。唯一することは、どんなことでもしていることをただ続けることだけです。痛みは一時的なものです。消えていくものです。永遠に続いていくわけではありませんし、ぴょんぴょん飛びはねたり、叫んだりわめいたりしても気分を良くはしてくれません。私たちは何を欲しているのでしょうか? 皆が来てくれて「ああ可哀想に、つま先を痛めてしまったんですね。」:と言って欲しいのですか? 赤ん坊や子供が怪我をしたなら、その母親がやって来てキスをし、慰めてくれます。だから同様に、赤ん坊のように扱ってくれることを期待しているのでしょうか?
行列やバスのために自分の番を待っている間、もし無常について、私はずっと行列の32番目や9番目というわけではなく、そのうち私の番が来る – と考えるなら、そのお陰でその状況を我慢できるようになるでしょうし、その時間を別の形で利用することもできます。インドではこんな言い方があります:「待つことは、それ自体、ある楽しみが有る。」これは本当です。なぜならたとえ行列やバスのために自分の番を待たなくてはならなくても、その時間を、行列やバスの停留所にいる他の人々のこと、職場で起きていることやどんなことでもについて気付くようになるために利用することができるのです。他者についての気遣いや慈悲の感覚を培うのに役立ちます。もしそこに居合わせたら、半時間悪態をつくことに時間を費やすよりもむしろ建設的に時間を利用する方がましです。
シャーンティデーヴァによる忠告のもうひとつの言葉は以下のようなものです:「誰かが私たちを棒で殴ったとしたら、誰に腹を立てるのだろうか? その人物に腹を立てるのか、それともその棒に腹を立てるのか?」それについて論理的に考えたら、私たちが腹を立てるべきなのはその棒です。なぜなら、私たちを傷つけたのは棒だからです! しかしながら、それは馬鹿げています。誰も棒になど腹を立てません;その人物に腹を立てるのです。なぜその人物に腹を立てるのでしょうか? これは、その棒がその人物によって操作されたからです。同様に、考えを深めていくならば、その人物は自らの煩悩によって操られていたのです。ですから、腹を立てるならば、その人物に私たちを棒で殴らせた、その人の煩悩に腹を立てるべきです。
そこで私たちは考えます:「この煩悩とはどこからやって来たのだろうか? どこにも起因しなかったということは、私がそれを誘発する何かをしたにちがいない。他者が私に腹を立て、棒で殴るようにした何かを、私はしでかしたに違いない。あれほどお願いだからと頼んだのに、その人が拒絶したら私は怒り出した。私はそのせいで傷ついた。そうは言っても考えれてみれば、実際自らの過失だった。怠けすぎて、自分でそれをやらなかった。私は他者にお願いだからと頼んでおいて、相手が拒否したら腹が立ったのだ。自分がとても怠惰でなければ、その人に決して頼まなかっただろうから、この問題全てはひとつも起きなかっただろう。私がとにかく腹を立てるとしたら、お願いだからとその人に頼むほど、とても愚かで怠惰であることについて自分に腹を立てるべきだ。」
ある程度私たちの過失でない場合であって、、例えば利己的といったような、他者を操っている煩悩から自分自身が自由であるかどうか検討してみる必要があります:「あの人は私が願いをきいてもらいたいのに拒んだ。はて、私は他者の願いをきいているだろうか? 私は、他者を手助けすることをいつも承諾し、すぐさまそうする人間だろうか? 仮にそうでないなら、なぜ他の人達にいつも私のためにことさら苦労してくれることを期待しなくてはならないのか?」これは怒りに対処するもうひとつの方法です。
私は以前、怒りは常にわめいたり叫んだり相手を叩いたりすることを通して表現される必要はないと言及しました。怒りとは、定義によれば、湧き上がると私たちを不快な気持ちにさせる煩悩のことです。そのため、仮に内に秘めて決して表に出さなくても、怒りというものは、内面で非常に破壊的に振る舞うのでとても取り乱すことになります。後になって非常に破壊的な形で表出して来るのです。内面で表現されずにきた怒りを扱うこともできるように、私がちょうど説明した同じ方法を適用する必要があります。私たちは自らの態度を変化させなくてはならないのです。忍耐を養わなくてはなりません。
忍耐の様々な種類
標的になることへの忍耐
忍耐の種類には、多くの様々なものがあります。ひとつ目は標的になることへの忍耐です。これは、的を据えることがなければ、それを射る人は誰もいなかったであろう、という考え方です。アメリカには、子供達のちょっとした遊びがあります。友達のズボンの尻当てに一枚の紙をピンで留めるか糊で貼るのですが、その紙には「僕を蹴とばせ」と書かれてあるので、「蹴とばせ」印と呼ばれています。ですから、少年の後ろについているこの「僕を蹴とばせ」を見た人は誰もが、その子を蹴ることになります。そのように、自らのネガティブで破壊的な過去の行為を通じ、いかにして「蹴とばせ」印のようなものが、私たち自身の後ろにピンで留められてきたのかを、この種類の忍耐を伴って考えてみれば、このせいで、現在私たちにありとあらゆる問題が起きているのです。
例えば、通りで襲われたとしたら私たちは次のように考えるでしょう。「過去か前世でネガティブで破壊的な行為をしたことによって的を据えたのでなければ、私から強奪し不意打ちを食らわそうと追いはぎが待っているちょうどその時に、その暗い通りに行こうとするその衝動は私の心に起きなかったはずだ。普通なら私はそこに行ったりはしないのに、その晩、あの暗い通りに行こうと思ったのだ。普段はもっとずっと早い時間に帰宅するのに、その晩は私に衝動が湧いて来て、さらに少しばかり友人の家に留まることになってしまった。加えて、私はまた、追いはぎが誰かが来るのをそこで待っているちょうどその時に、その通りに行ったのだ。なぜそのような衝動が私の頭に浮かんだのだろう? 過去にこの人物を害するようなことを何かしでかしてたので、因果の観点から、それが今熟しているに違いない。」
衝動とは業の現れとして私たちの心に湧き上がって来ます。ですから私たちは、こう考えることができます;「私は自らの過去のネガティブな業を激減させているのだ。はるかにもっとひどかったかもしれなかったのだから、大したことなく済んでとても幸せなはずだ。この人物は単に私から強奪しただけだったけれども、私を撃つ可能性もあったのだ。したがって私は今、そのネガティブなものがこれ位の軽い程度に熟し、それを終えたことでとてもほっとした気持ちでいるべきだ。結局大したことはなかったし、そこから解放され、悩まされなくなって素晴らしい。私はもやはこの業の負債を負っていないんだ。」
この型の思考はとても役立ちます。私はかつて、週末の休みに友人とビーチに行こうとしていたことを思い出します。私たちは何時間も運転をしていました。都会から長いドライブだったのですが、一時間半程行ったところで、車からおかしな音が聞こえたのです。私たちは道ばたの停留所の修理工のところに車を寄せました。修理工は車を調べると、アクセルにひびがはいっているのでこのままでは無理だと言ったのです;大きな街に私たちを引っ張って行くレッカー車を呼ばなくてはなりませんでした。友人と私は週末の休みに美しいビーチリゾートに行きたかったので、とても腹が立ち動揺してしまいました。ところが、異なる態度によって、このことを全く違った風に眺めてみたのです:「ああ、これはすごいことだ! こんな風になるとはなんて素晴らしいんだ。もし運転し続けていたとしたら、運転中にアクセルが壊れてしまっただろう。恐ろしい事故に遭ってふたりとも命が無かっただろう。だからこんな風に熟したことはなんて素晴らしいことだろう。大事に至らずに済んだ。 」このように、ほっとした気持ちでレッカー車に来てもらって都心まで戻り、一旦そこで私たちは別の車を借りて、それから別の計画に移りました。
私たちがこのような状況を経験することができた、いろいろな形があるということがおわかりでしょう。腹を立てて動揺したことはなんの助けにもなりませんでした。「これは私の過去のネガティブな業を激減させているんだ。このような業の負債は今熟した。素晴らしい、終わったんだ。もっとずっとひどいことになっていたかもしれない。」:という角度からそれを眺めることができたら、それはその状況をはるかに健全に扱っているということです。
愛と慈悲(利他)に基づく忍耐
「愛と慈悲(利他)に基づく忍耐」と呼ばれるような型の忍耐もあります。この忍耐を以て、私たちに腹を立てキーキー言う人は誰でも精神的にかき乱されている人であるとみなします。この種の忍耐は、他者の前で私たちを狼狽させたり批判したりする人にも適用されることが可能なのですが、それによって面目をつぶされてしまうために、私たちは彼らに腹を立てるのです。仮に例えばオウムが人前で私たちの悪口を言ったとしても;面目を失いませんよね? その鳥に怒る理由が全くありません。それは愚かな反応でしょう。同様に、まともでない人物が私たちに対してわめき散らし叫び始めても、それによって本当に面目を失うわけがありません。子供達は時折かんしゃくを起こすことは誰もが承知しています。そしてまた精神科医は患者が怒っている場合でも患者に腹を立てず、それどころか患者に対して慈悲を感じます。
このように私たちは、私たちを怒らせ、私たちに腹を立て、私たちを狼狽させているどんな人に対しても慈悲を感じるよう努力するでしょう。そのことを実現する必要がありますし、実のところ、彼らの方が面目を潰されている人なのではないでしょうか? 私たちは面目を潰してしまった側ではないのです。誰もがその人が我を忘れて赤っ恥をかく人物だとわかります。私たちはだからこそ、その人に対して怒りではなく慈悲を感じるべきなのです。
これは、もし誰かが私たちを殴ろうとしているのに、その人を止めようとしいないということではありません。私たちの子供が叫んでいたら、その子を静かにさせようとします。私たちは、その子が私たちや他者に害を及ぼしたり、その子自身を害するのを阻止したいと思っています。要点は、怒りからそうするのではないということです。仮に我が子が腕白に振る舞っていたら、怒りからではなく、その子自身のために躾けます。私たちは子供が面目を失わないようにしてあげたいですし、人に我が子のことを悪く思って欲しくはありません。私たちは怒りからではなく気遣いから子供を躾けることを望むのです。
グル – 弟子(人間関係)にまつわる忍耐
さらにまた、「グル-弟子(人間関係)にまつわる忍耐」があります。これは、弟子が師なしには学ぶことが出来ないという事実に基づいており、さらにまた、仮に誰も試してくれなければ、私たちは忍耐を養うことはできません。10世紀に偉大なるインドの上師であるアティーシャが、チベットで仏教の再興を助けるためにその地に招聘されました。このインドの上師は、インド人の料理人を共に連れてきました。そのインド人の料理人は何ひとつきちんと丁寧にできませんでした;あらゆる点でとても醜悪で、実に不愉快な人物でした。チベット人達は非常にアティーシャを尊敬していましたので、「師よ、なぜあなた様はこのような胸の悪くなるような料理人をインドからお連れになったのですか? 彼を戻されてはいかがでしょうか? 私たちがあなた様のためにお食事をお作りします;とても料理上手ですよ。」:と彼に尋ねました。アティーシャは彼らにこう答えたのです:「いや、彼は単なる私のお抱え料理人などではない。忍耐の師であるから連れて来たのだ。」
同様にもし、胸の悪くなるような、常に私たちを悩ます事を言っているような人が職場にいたとしたら、私たちはこの人物を忍耐の師とみなすことができます。いつも指をこつこつと打つような、とてもいらいらさせる癖を持つ人もいます。もし誰も私を試さなければ、自分をいかにして成長させることができるでしょうか? 飛行場やバスの停留所でのひどい遅延のような困った状況に遭遇したならば、忍耐を訓練する絶好の機会としてこれを活用することができます:「ああ! これをやるために訓練してきたんだ。忍耐を鍛えるために訓練してきたのだから、今ここで、それが実際にできるかどうかを目にする機会が訪れているんだ。」あるいはもし私たちが、職場からの官僚制的な形をとった困難を抱えているとしたら、これを私たちの挑戦ととらえるのです。「私は以前から武術で鍛えてきたので、今こそついに私の技を使う機会が訪れたようだ。私はうれしい。」このように、もし私たちが忍耐し、寛容であるように自分自身を鍛えてきたなら、こういったとても不快な状況に直面しているときに、それをとても喜んで見つめるでしょう:「ああ! 挑戦がやって来た。私はそれに対処することができるか、内面で平静を失わず、腹を立てず、いやな気持ちさえしないでいられるかどうか見て見よう。」
平静を失わないということは、武術の試合よりはるかにずっと大いなる挑戦です。なぜならこれは、単なる身体や肉体の制御ではなく、自分の心、自分の気持ちの課題に対応しなくてはならないからです。もし相手がこちらを批判したら、この批判を、それについて怒りを感じる代わりに、自分の進歩の途上でどの地点にいるのかを見定める機会とみなそうしなければなりません。「私を批判しているこの人物は、おそらく私がそこから学び取ることができた可能性のある、私に関するある事柄を指摘しているのかもしれない。」こういう意味で私たちは批判に耐えようと努力し、自らの態度を変化させることによって、それに対処する方法を学ばなくてはならないのです。仮に私たちがとても動揺してしまったら、あるどうしようもない人が私たちを単に批判し、どなり散すかということより、私たちが面目を失うことになるのです。
必然性に対する忍耐
怒りに対処し、忍耐を養うもうひとつの方法は「必然性に対する忍耐」です。不正で無礼な行為をするのは子供じみた人々の特質です。もし火があるなら、その性質は熱いということと燃えるということです。もし私たちが火中に手を突っ込んだら火傷します、それはまあ、当たり前ですよね? 火は熱く;それが火が燃える所以なのです。もし私たちが昼食時に街中をドライブしたら、まあ当前ですね? 昼食の時間帯なので、大渋滞しているでしょう – それが必然性です。幼児にお盆や一杯の熱いお茶を運ぶよう頼んだら、その子はこぼしてしまいます、それは当たり前ですよね? その子は子供なので、子供が何かをこぼさないことを期待することなどできません。同様に、もし私たちが他者に頼みを聞いてくれとか自分の仕事のために何かしてくれと頼んで約束したとしても、彼らは裏切ります、まあ当前ですよね? 人は子供っぽいですから;他者を当てにすることはできないのです。偉大なるインドの上師たるシャーンティデーヴァはこう言いました:「もしあなたが何かポジティブで建設的なことをしたいと思ったら、それを自分でおやりなさい。誰にも頼ってはならない。それは、もしあなたが誰か他の人を頼ったら、その人があなたを裏切ったりがっかりさせたりしないという何の保証もないからだ。」と。これは、いかにして私たちがそのような状況を見つめることができるかということです。「やれやれ、私は一体何を期待してしまったんだろう? 他者を裏切るのが人々の特質であるなら、私が腹を立てる何の理由もないんだ。」
究極の真実領域(勝義諦)の忍耐
怒りに対して活用する最後の方法は、実際に起きていることを理解する「究極の真実領域(勝義諦)の忍耐」と呼ばれます。私たちは自分自身や他者や対象に何らかの実体的なアイデンティティーのレッテルを貼りがちです。それはまるで、想像の中で自分自身のある面の周囲に大仰な実体的な線を引き、それが私たちの実体的なアイデンティティーであるということをこの側面に投影しているかのようです:「私とはこういう人間なんだ;私とは常にこうあるべきなんだ。」と。例えば、「私は世界への神の賜物だ」とか「私は負け組、落伍者だ」というものです。さもなければ、誰か他の人を大仰な実体的な線で囲んで、こう言うのです:「彼は醜悪だ。彼には少しも良い所がない、彼は疫病神だ。」しかしながら、もしそれが、この人物の有り様、実体的アイデンティティーであったなら、この人は常にこのように存在しなくてはならいでしょう。幼い子供としても、このように存在しなくてはならなかったでしょう。誰に対しても、妻に対しても、飼っている犬猫、両親に対しても醜悪でなければならないでしょう。なぜなら、その人は実体的に醜悪なアイデンティティーだからです。
仮に彼らは、実体的で自性のあるアイデンティティーや本性の境界を明示する、彼らを囲む大仰で実体的な線の中に存在しているのではないとわかれば、それによって再び楽になり、彼らにやたらと腹が立たなくなります。私たちは、この人物の醜悪な行動が、― たとえそれが頻発するものであったとしても ― 単に過ぎ行く出来事だったと悟るので、彼がいつもそういう人間でなくてはならないと定めたりしないのです。
恩恵をもたらす習慣を育む
困難な状況でこのような心得をすべて適用するのは、そう簡単なことではないかもしれません。こういった論理的思考法はどれも「予防策」として知られています。これはダルマ( Dharma )という言葉の私の訳し方であるわけですが、ダルマは問題を予防するために採られる方策なのです。私たちは恩恵をもたらす習慣として、このような様々な型の忍耐を強化する努力をすることで、腹を立てるのを防ぎたいと望んでいます。それは「瞑想」とは何かということでもあります。瞑想にあたるチベット語は、「何かを習慣にする」、自ら何らかの恩恵をもたらすことを習慣づける、という語から来ています。
はじめに、私たちは種々の忍耐に関するこのような様々な説明を聞く必要があります。それから、それを理解し、道理にかなっているか否かを見極めるために、それについて考えなくてはなりません。それが道理にかなっていて、私たちがそれを理解し、適用したいという動機を抱いたなら、それらを予行演習し訓練して、強化する努力をすることになります。
それは、こういった点をまず再考することでなされます。再考した後は、物事をそのように見て感じようとしなくてはなりません。私たちの想像力を使って、心の中に状況を思い描かねばならないのです。私たちは、たいてい怒ってかき乱れてしまうような状況を想像することができます。例えば、職場の誰かがして欲しくないようなことをすることがあります。まずは、この人物の有り様を、幸せを望み不幸を望まない人間として眺める努力をすることです。その人なりに最善を尽くそうとしているにも関わらず、なお子供っぽく、自分のしていることが本当にわからないのです。もし私たちがその人に対してこのように見つめ感じようと努力し、家で静かに座っている時に心の中でそれを予行演習するならば、やればやるほど、私たちが職場にいてその人がとても不快に振る舞い始める際に、ポジティブなやり方で反応するのが容易になっていきます。その人に腹を立てる衝動の代わりに、新たな衝動 – もっとしんぼう強くあろう、もっと寛容であろうとする衝動が私たちの心に湧いて来ることになるのです。
その人のやんちゃな行為に対する忍耐を培うために、その人のことを子供っぽいと見なす訓練をしてきたなら、もっと先へと歩を進めることができます。瞑想を通して、そのように見て感じるような習慣を打ち立てることができるのです。辛抱強く見たり感じたりすることが恩恵をもたらす習慣となれば、それはだんだんと私たちの一部となります。それが、直面しなくてはならない困難な状況に対する、私たちの自然な反応のし方になるのです。ある衝動が湧き起こり腹を立てる際に、余裕が出てきます。私たちはそれに対して直ちに行動を起こそうとはしないので、よりポジティブな衝動が湧き上がり、より有益に行動するでしょう。
仏教の講話では、私たちはたいてい呼吸の感覚に焦点を当て、講話の始まり毎に21まで息を数えます。この実践はまた、私たちが怒り出すことに自らまず気付くという場合にもとても有効です。それは、私たちが例えば何か残酷なことを口にするようなネガティブな衝動を、すぐに実行に移さない余裕を作り出してくれ、もし私たちが怒り出したくなってとり乱してしまっても、考え直すような余裕を与えてくれます。「私は本当に派手にやらかしたいのか、それともこの状況に対処する、より良い方法があるのか?」と考えるのです。瞑想や、より恩恵をもたらす習慣を打ち立てた結果として、私たちは我慢強く状況を眺めるようになり、それらに対して寛大な気持ちになります。よりポジティブな代案が頭に思い浮かんだら、幸せでありたいので自然とそちらを選択することになり、このような代案がそういった結果をもたらすのだとわかるのです。
こうするためには、精神を集中することが必要です。ゆえに仏教には、集中を養うための実に様々な瞑想法があるのです。これらの方法は単に観念的な訓練として学ぶものではありません;活用され適用されるために学ぶのです。いつそれらを適用するのでしょうか? 困難な状況、つまりとても不快な人々や胸の悪くなる状態に対処しているときに適用するのです。それらは私たちの心が我慢強くあり続けることに集中するのに役立ちます。
まとめ
単なる自己制御と規律だけでは、ネガティブで破壊的な行動を抑制する事は出来ません。仮に自己制御と規律のみで自制するとすれば、怒りは私たちの内に留まります。それでは外面上は良く繕っていても、内部では怒りが燃え上がり、悪弊を発展させる原因となります。その逆に、これらの方法を正しく使えば、怒りは生じることさえなくなります。怒りをコントロールして内部にすべてを抑えておくということではなく、頭に生じる衝動そのものを置き換えるのです。ネガティブな衝動が生じ、それを内部にすべて抑えておかなければいけないというのではなく、ポジティブな衝動がわき上がる様になっていきます。
これができるようになれば、私たちの動機次第では、この今において問題を取り除き、未来にことが悪化しない様にすることが出来ます。さらにあらゆる困難を消散させ、さらには最も崇高な確固たる動機を持って、自分の家族や友人たちや周りの人々に問題や迷惑を与えず、他者に最大限に尽くすことが出来る様になるでしょう。そうした事を実現出来るのは、自分の心を乱す諸々の感情や問題から自由になるためです。こうして、自分の秘める可能性のすべてを実現させることができるのです。