六波羅蜜の文脈としての菩提心

世俗菩提心と勝義菩提心

菩提心(梵: bodhicitta)は世俗菩提心と勝義菩提心に分けられます。どちらも自分自身の個人的な、未来の悟りを目標としていますが、私たちはまだ悟りに達していません。しかしこれは、自分の中にある仏性と懸命な取り組みによって必ず達成できることです。悟りの達成を確信し、それが何であるかを正確に理解したら、世俗菩提心を起こして未来の悟りそのもの―その実態や本質など―を目指すのです。このとき、私たちの目標は二つあります。一つは、自分を実際にゴールへと導く現実的なメソッドを使って悟りに至ること、もう一つは、その達成によって全ての衆生を最大限に助けることです。私たちは、指をパチンと鳴らせば―いや、鳴らさなくても―あらゆる衆生の問題を解決できる全能の神になるのではないことを完全に理解しています。そんなことは不可能です。しかし、具体的に指示したり、自分自身が手本となったりして人々に悟りへの道を示すことはできます。それを実行するかどうかは相手が自分で決めることです。

もっと具体的に言えば、世俗菩提心は未来における悟りの心、つまり法身(梵: Dharmakāya)の一つである智法身に向けられ、勝義菩提心は未来における悟りの空(空性)と真の停止、つまり自性身(梵: Svabhavakaya)に向けられているということです。

菩提心に付随する心の状態

勝義菩提心には他の様々な心の状態が付属します。これらもまた、悟りを目指す動機の一部です。これらの心の状態はまず全ての衆生(制限のある心と身体を持つもの)に全く平等に向けられます。つまり、どんな動物や昆虫にも、慈の心で幸せの因を手にしてほしいと願い、悲の心で苦しみやその因から解放されてほしいと願うのです。つまり、慈は衆生の幸せと福祉に向けられるもの、彼らの幸せがより大きくなってほしいという願いのことです。一方、悲は衆生の苦しみに向けられるもの、彼らが苦しみから解放されてほしいという願いのことです。ですから、私たちが未来における自分の悟りに集中するとき、それに伴ってこれらの慈と悲の心も生じるのです。

このような心の状態を実際に生み出すために、集中の対象や方法をはっきりさせる必要があります。さもなければ、慈悲や菩提心について瞑想しているときに自分の心や感覚をどうすれば良いのか全く分からなくなってしまいます。ダライ・ラマ法王が語っている通り、悲とは、衆生が苦しみから自由になることは可能だという確信もなしに、彼らの問題がなくなるのを願うことではありません。苦しみから自由になることは可能だという理解に基づく願いなのです。そうでなければ、その願いは無意味です。また、悲には衆生が実際問題を解決する方法の理解も付属します。万能の救い主が衆生を救ってくれることはありません。しかし、悲の心には衆生が問題を乗り越えるのを実際に助ける勇気が含まれています。さらに、これらの感情やポジティブな気持ちにはどんな時も理解が付属します。

菩提心には、また別の精神状態、感情―どんな呼び方でも良いでしょう―である増上意楽(蔵: lhag-bsam, 梵: adhyāśaya)も付属します。増上意楽は全ての衆生と彼らがおかれた状況に等しく心を向けることで、ダライ・ラマ法王はしばしばこれを「普遍的な責任」と呼びます。これはただ彼らを助けようとする勇気とは異なります。「私は衆生を助け、彼らの利益となるように力を尽くす。私は責任感を持ち、彼らを助けるために実際に何か行動を起こす」という完全な決意です。

慈、悲、普遍的な責任、菩提心―これらはもちろん互いに密接に結びついていますが、みな別々の心の状態です。ですから、全ての状態を正しく身に着けて何も見逃さないようにするために、混同せず、それぞれどのような状態か、何を集中の対象としてどのように集中するのかをしっかりと理解する必要があります。

「赤と白の菩提心」に関する注釈

ここで、最上位のタントラで扱われる「赤と白の菩提心」について少しだけ触れなければなりません。これは非常にややこしいテーマです。「赤と白の菩提心」は非常に微細な物質的・身体的現象の形態であり、心の状態ではありません。非常に微細な―何と言ったら良いでしょうか、上手い言葉が見つかりませんが、ここでは、誰もが持つ創造的エネルギーの火花と呼ぶことにしましょう。最上位のタントラの非常に発展的な段階において、この非常に微細な創造的エネルギーを自分の体内で動かす能力を獲得すると―想像を絶するほど困難なことですが―最も微細なレベルの心に達するために、エネルギーを移動させてアナーハタ・チャクラ(心臓のチャクラ)に溶解させられるようになります。これは光明心(’od-gsal)と呼ばれる状態です。これは心の最も効率的なレベルですから、空に集中して悟りを得るために使います。

この「白と赤の菩提心」というのは、勝義菩提心、つまり、空に集中した光明心を実際に獲得するために使う物質とメソッドのことです。仏教では結果の名称を原因の名称とすることが珍しくありませんから、結果―つまりここでは「勝義菩提心」の「菩提心」が、体内の二種類の創造的エネルギーの名称として使われているのです。これが「赤と白の菩提心」の正体、そして「菩提心」と呼ばれる理由です。

ですから、非常に誤解を招きやすい名称ですが、どうか混乱しないでください。これは現在の私たちから見れば雲の上の、途方もなく発展的なレベルの実践です。また、よく誤解される点ですが、男性も女性もどちらも「赤と白の菩提心」を両方持っています。これには様々なレベルの粗大さがありますが、最も粗大なレベルの表象に結び付けて、男性は白、女性は赤だけを持っていると考えてはいけません。それは誤りです。

発願心と発趣心

さて、世俗菩提心には、全ての衆生の利益となるために悟りに至ることを願う―あるいは切望する―段階である発願心(smon-sems)と、それを実現するための言動やふるまいに専念する発趣心(’jug-sems)とがあります。つまり、まずは発願心を生起し、次に発趣心を生起するのです。

発願心には二つの段階があります。最初は悟りの達成をただ願う「ただ願う段階」(smon-sems smon-pa-tsam、願うだけの発願心)、次は、決して後戻りしないことを心に決めて決意を固める「誓いの段階」(smon-sems dam-bca’-can、誓いを伴う発願心)です。そして、世俗菩提心の発趣心の段階に達すると、その一環として菩薩戒を受けます。菩薩戒を受けずに発趣心を起こすことはできません。

戒(蔵: sdom-pa, 梵: saṃvara)は、越えてはいけない境界線を定め、心や行いを制御するものです―「私は自分を讃えて他者を貶めることを避ける。なぜなら、私は名声や人望、愛や金に執着しすぎているからだ」。このような行為を避けるべき理由は、もしそれを行ったら他者を助ける能力が著しく阻害されるからです。たとえば、他者を搾取して「私が一番だ」と言うようなことです。一般的な例ですが、政治の世界で権力を手に入れるためだけに奔走して、「私が最高で他の連中は悪魔だ」と言っている人を思い浮かべてください。そんな人を信用することはできないでしょう?こんなことをしたら他者を助ける能力に傷がつきます。なぜなら、彼らはただ力を持つためだけに自分の地位を高めているからです。ですから、選挙も選挙活動もチベット人には全く無縁のものです。実際に参加することはおろか、想像することさえ簡単ではありません。多くの国における「私は最高だが他の奴はだめだ」というスタイルの選挙活動は、菩薩の原則に相反するのです。

『入菩提行論』を著したインドの偉大な師・寂天は以下のように述べています:

(第四品第2偈)突然起きたことや、吟味すると誓ったのに吟味しなかったことについては、「やるべきか、あきらめるべきか」とよく吟味することが適切である。
(第四品第3偈)しかし、仏陀やその精神的な子孫たちが偉大な智慧を使って吟味し、私自身も繰り返し吟味したことを、どうして止めることができようか?

この二つの偈は非常に重要です。これらは、つまり、菩薩戒を受ける前に―すなわち発趣心を起こす前に―戒をよく理解して検討することが適切であり、重要だと言っているのです。仏陀は「悟りを得て本当に衆生の利益になりたいのなら、このようなことを避けなければならない」と言ったのです。「私は本当にこのような戒に従えるだろうか?」と自分で検討しなければなりません。戒を受けるのはそのあとです。他の人が受けているからとか、戒を授けているラマがいるからといった理由で、よく検討もせずに突然受けるようなものではありません。寂天はこの点をはっきりと指摘しています。

自立派と帰謬派の波羅蜜の定義

実際に菩薩戒を守るために必要なものは何でしょうか?サンスクリット語で「paramita」(蔵: pha-rol-tu phyin-pa、日: 波羅蜜、到彼岸)と呼ばれる六つのものを修めることです。「paramita」は通常「perfections(完成)」と英訳されますが、私はもっと逐語的な訳、「到彼岸(遠くに至る態度)」という訳語の方が良いと考えています。私たちを非常に遠いあちら側の岸、彼岸―つまり、悟りにまで連れて行くものだからです(日本語訳注:以下『波羅蜜』を使用する)。

インド仏教の数多くの宗派の一つである自立派(蔵: Svatantrika, 梵:  Svātantrika)の教義では、「paramita」が到彼岸である波羅蜜になるのは仏の境地においてのみとされます。この境地では「paramita」という言葉がより強く「完成」の意味を持つからです。菩薩になったあと、あるいは菩薩戒を受けてから菩薩になるまでの段階で取り組む波羅蜜は、真の波羅蜜に近似したものでしかありません。ところで、私たちが菩薩になるのは人為的に生み出されたのではない菩提心を身に着けた時です。つまり、『全ての衆生は私の母であった』と考えるなどのプロセスを経ずとも常に菩提心を持つようになった時、私たちは菩薩になるのです。

一方、帰謬派(梵: Prāsaṅgika)ではどちらの段階の波羅蜜も―菩薩戒受戒から仏になるまでの段階でも、仏の境地に達したあとでも―到彼岸だとされます。

ですから、どの宗派であっても同じことについて考えているのです。今この点に触れたのは、チベット仏教各宗派はこの二つの教義のいずれかに従っているからです。

十波羅蜜(十の完成)

六波羅蜜だけではなく十波羅蜜の教えが説かれることもあります。この場合、あとの四つは基本的に六波羅蜜の最後に当たる般若波羅蜜(梵: prajñāpāramita、ものごとを分別する気付き、智慧の完成)を分割したものです。六波羅蜜であろうと、あるいはもっと完全な形である十波羅蜜であろうと、「波羅蜜」は心の状態、態度です。これらは必ずしも私たちの言動そのものではありませんが、言動―ふるまい、状況や能力に即した実践など―を方向付けるものです。私たちが涵養に取り組むのはこのような心の状態です。寂天はこの点を明確に示しました。

付け加えなければならないのは、十波羅蜜という考え方は大乗(梵: Mahāyāna)に固有のものではなく、小乗(梵: Hīnayāna)にも、上座部(梵: Theravāda)にもあるという点です。十の波羅蜜の組み合わせは宗派によってわずかに異なります。多くの波羅蜜は同じものですが、いくつか異なるものもあります。しかし、大乗と小乗の違いは―実際、両者には全く同じ実践がたくさんあります―回向、つまり、解脱や悟りの達成のために功徳を捧げるかどうかではありません。小乗でも大乗でも十波羅蜜を実践し、その中には自分自身の解脱を後押しするために功徳を回向するものが数多く含まれています。

小乗の実践者たちが他者に利益を与える取り組みを行わないとか、彼らが寛容でないとか、忍耐強くないなどとは決して考えるべきではありません。彼らは当然寛大で忍耐強く、慈の心を持ち、悲の心を育む取り組みを行っています。大乗の文献の中では、避けるべき極端な言動を指摘するために小乗の立場が―「自分自身の利益だけのために利己的に取り組んでいる」、「他者のことは考えていない」などと―極端に描写されています。これを―特に現代では―鵜呑みにして、それが上座部の実践者の実際の姿だなどと考えてはいけません。大乗だろうと小乗だろうと、そのような実践者はいます。

これは―ある特定の考え方に潜む危険を回避しやすくするために、不合理で極端な結論を下すことは―大乗中観派の帰謬派で使われるメソッドです。解脱を目指す取り組みについて不合理で極端な結論を下すのなら、それは完全に自己中心的になって他者のことを考慮しない―他者を助けるために何もせず慈悲の心も持たない―ということになるでしょう。同じように、大乗について不合理で極端な結論を下すのなら、ただ他者ばかりを力の限り助け、自分の怒りや執着の克服には一切取り組まないということになるでしょう。これもまた大きな誤りです。ですから、ここで使われている方法論を理解し、大乗は小乗を厳しく批判していると考えるような類の誤った宗派主義に陥らないようにしなければなりません。これこそが、菩薩戒の中に小乗を蔑むことを禁じるものが複数ある理由です。

ここでは、短くまとめられた、基本的な六波羅蜜を扱うことにします。六波羅蜜は以下の六つでした:

  • 布施(sbyin-pa)
  • 持戒(tshul-khrims)
  • 忍辱(bzod-pa)
  • 精進(brtson-’grus)
  • 禅定 (bsam-gtan、集中力)
  • 般若 (shes-rab、智慧)

般若と若那の違い

全く異なる意味の多くの専門用語の訳語として英語の「wisdom(知恵)」が使われていますが、そのせいでそれぞれの言葉の違いが分からなくなってしまっています。ですから、私は六番目の波羅蜜である般若波羅蜜を「分別する気付き(discriminating awareness)」と呼んでいます。

「知恵」と訳されて違いが見失われてしまうチベット語の二つの単語―サンスクリット語でも別々の単語です―がありますが、私はこれらを区別して英訳しています。一つは「discriminating awareness(分別する気付き、般若)」で、これはチベット語の「sherab (shes-rab)」、サンスクリット語の「prajñā」です。もう一つは「deep awareness(深い気付き、若那)」で、こちらはチベット語の「yeshe (ye-shes)」、サンスクリット語の「jñāna」です。これらは全く別のものです。これからその違いをご説明します。

この二つの言葉には様々な用法がありますが、少し詳細に言うなら、般若は「想に確実性を加えるもの」と定義されます。想―これはしばしば「認識」と訳されます―は、あるものは「これ」であり、「あれ」ではないと区別することです。般若はこの想に完全な確実性を加えます。ですから、般若は建設的なものと破壊的なもの、正確なものと不正確なもの―何が現実で何が現実ではないかという意味で―を分別するのです。それゆえ、般若は一般的に空と関連付けられます。空の理解は「ものごとは不可能な在り方で存在することはなく、実際に可能な在り方で存在する」ということを分別します。これが般若です。

しかし、イモムシは食べ物と食べ物ではないものを―実に確信を持って―分別します。牛だって、小屋の壁と開いた扉を見分けていますから、壁にぶつからないのです。ですから、これを「知恵」と呼ぶのは適切だとは言えません。

空に関連して言えば、般若はものごとの、空の、最も深い真実です。一方、若那は二資糧(二つの真実)の―両方一緒の、あるいはそれぞれの文脈の中での―意識であり、誰もが持つ非常に深遠な仏性の一部でもあります。つまりこれは、大円鏡智(me-long lta-bu’i ye-shes、情報を得る能力)や平等性智(mnyam-nyid ye-shes、パターンを認識してものごとをまとめる能力)、妙観察智(sor-rtog ye-shes、それぞれのものごとの個性に気付く能力)などを指しているのです。

仏性という点について言えば、イモムシもこれを持っています。ですからやはり、これを「知恵」と呼ぶのは違和感があります。

チベット仏教では、この「若那」という言葉の使い方が宗派ごとに微妙に異なります。しかし、いずれにしてもこれは般若とは別のものです。ゲルク派では、「若那」は聖(’phags-pa、アリヤ)―空の非概念的認識を持つ人物―が持つものという意味でも使われます。

二資糧

悟りに至るためには―仏教のいかなる精神的な目標を達成する場合でもそうですが―二資糧を強化・積集しなければなりません。二資糧は仏性の一部として誰もがある程度持っているものですから、全くのゼロからスタートするわけではありません。それでもこれを増強してゆかなければなりません。また二資糧は、何にも捧げなければ自分の輪廻(梵: saṃsāra)が改善されるだけなので、輪廻を積集するものになります。一方、悟りの成就に捧げた場合は悟りを積集するものになります。ですから、二資糧の回向は絶対に不可欠です。

そして、この二資糧、二つのネットワークがネットワークである理由は、そこに含まれるものがすべて結びつき合い、互いに強化し合っているからです。これは切手コレクションのようなものではありません。成長するのです。二資糧の一つは福徳資糧(蔵: bsod-nams-kyi tshogs, 梵: puṇyasaṃbhāra、メリットの集合体)と呼ばれます。「メリット」と言ってもポイントカードのポイントのようなものではなく、功徳のことです。ですから、これは建設的な言動などから得られる功徳のネットワークです。もう一つは智慧資糧(蔵: ye-shes-kyi tshogs, 梵: jñānasaṃbhāra、深い気付きのネットワーク)です。しばしばこの「智慧資糧」という名称が使われますが、ここでいう「智慧」は「般若」と訳されるのとは別の言葉です。たとえば、他者を助けても、そこから得られる功徳を何にも回向しなければ、自分の輪廻が改善されるだけです。解脱や悟りに回向しなければ、その達成に貢献することもないのです。

[参照: 二資糧: 専門的な解説(The Two Collections: Technical Presentation、英語)

波羅蜜を二資糧に割り当てる

六波羅蜜を二つの資糧に分けるとき、一般的な大乗の分け方と、大乗の特別な宗派である帰謬派の分け方とは異なります。これを理解するために、「この二つのネットワークの目的や働きは何だろう?」と考えてみましょう。今週すでにお話したように、悟りについては―様々な区分があるのですが―ときに仏身と呼ばれるものがあります。これは、私たちの身体のようなものではなく、多種多様の、非常に多くのもののネットワークです。そこにはまず法身(蔵: chos-sku、全てを含む身体)があります。これは、仏の全能の心やその心の空などのネットワーク全体のことです。また、色身(蔵: gzugs-sku, 梵:  Rūpakāya、悟りに導く姿のネットワーク)があり、微細な報身(longs-spyod rdzogs-pa’i sku, 完全に活用されている身体)と粗大な応身(sprul-sku, 化身)があります。仏は非常に多くの、何百万もの姿を同時に取ることができるので、一つの身体ではなく「ネットワーク」と呼ばれるのです。そして、仏はあらゆることを同時に知ることができます。それゆえ、一つのものではなく、ネットワークなのです。

仏教では実に多くの種類の原因―六種類に分けられます―と多様な条件について考えます。これは非常に複雑なテーマです。しかし、原因の一つの種類については、例えて言うなら、パン生地のようなものです。生地はパンになるものですが、パンができると生地はなくなります。生地は、言うなれば、パンが完成した時にパンに変容したのです。このような原因は「近取因」(nyer-len-gyi rgyu)と呼ばれます。

悟りを積集する資糧はパン生地のようなものです。福徳資糧は他者を助ける色身のネットワークと変容する生地で、智慧資糧は法身、つまり仏の全知の心のネットワークに変化する生地です。しかし、どちらか一方を完成させるためには両方の資糧が必要です。二つの資糧は互いに支え合うものだからです。一つを完成させた後でもう一つに取り組むことはできません。この二つは連動する必要があるのです。

ですから、どの場合でも片方の資糧が生地の役割を担います。どの仏身の場合でも、片方の資糧が生地の役割を担い、もう片方がオーブンの熱の働きをします。オーブンの熱がなければ生地はパンにはなりません。このように互いにサポートし合っているのです。どの仏身、どの仏のネットワークを達成するにも生地と熱の両方が必要です。

ですから、先に述べたように、六波羅蜜を二資糧に分けるには二つのやり方があります。一般的な分け方では―いえ、一つずつやっていきましょう、その方が分かりやすいですから。今から、一般的な大乗で、どの波羅蜜がどちらの資糧に貢献していると考えられているかを列挙していきます。

一般的な大乗の考え方では、福徳資糧に貢献するのはまず布施波羅蜜、次に持戒波羅蜜です。忍辱波羅蜜には三つの形があり、そのうちの二つ―他者との関係において難しい状況においても怒らないことと、自分自身の問題について怒らないこと―が福徳資糧に貢献します。

では、智慧資糧に貢献するのはどれでしょう?まず、般若波羅蜜、次に禅定波羅蜜です。さらに、忍辱波羅蜜の三つ目である、ダルマの実践における困難に腹を立てない忍辱もこれに貢献します。

精進波羅蜜は二資糧のどちらにも貢献し、両方のネットワークを強化します。

カーラチャクラでは三つのネットワーク、三つの資糧が説かれます。その際に説かれる三つ目のネットワークは倫理的規律、つまり持戒のネットワークです。一般的な大乗では持戒波羅蜜は福徳資糧に貢献するとされていますが、この三資糧のスキームでは持戒波羅蜜は独立して持戒のネットワークを構成するとされます。

波羅蜜を二資糧に割り当てることに関する詳細

六波羅蜜を一般的なやり方で二資糧に分類することについて、「これはただの頭の中の配置で、実際には何も意味しない」と考えるのは有意義ではありません。そうではなく、「何が様々な仏身に変容して、私たちは仏として他者を助けられるようになるのだろう?」と考えましょう。寛容になりましょう―特に、他の人々の力になる際には。他者を助け、傷つけないようにするためには持戒が必要です。そして、他者を助ける際には―いつも簡単だとは限りませんから―辛抱強くなければなりません。また、誰かを助けようとするなら、自分自身の問題や欠点にも耐えければなりません。自分の中でそれらを改善する取り組みを行い、決して投げ出してはなりません。この組み合わせが、他者を助けるために仏のあらゆる身体と能力を持つことに変容するのです。

では、何が仏の心に変容するのでしょう?もちろん般若が必要です。また、禅定―ただの集中力ではなく、気分や煩悩などに流されない安定のこと―も必要です。ダルマの実践―特に瞑想やいわゆる智慧の獲得に関して―における困難にいらだたない忍辱も必要です。これらが、仏の心を得ることに変化するものです。

そして、二資糧の両方のために精進が必要です。非常に大雑把に言いましょう―いつもあきらめず、他者を助けることと瞑想することに喜びを見出さなければなりません。それゆえ、精進は両方のネットワークに貢献するのです。他者を助ける際には―非常に大雑把な言い方ですが―功徳を積集し、瞑想する際には若那を積集します。もちろん、私たちは人々を助けますし、功徳と若那の両方の積集について瞑想します。ここでは、分かりやすくするために一般的な点を指摘しているだけです。

何をするときも、あきらめずに粘り強く取り組まなくてはなりません。これが精進です。「ああ嫌だ、こんなことをしたくないけれどやるしかないな、やらないといけないし、やらなければ後ろめたい気になるから」と感じるのではなく、楽しむのです。「私は瞑想が大好きだ、人々を助けるのが大好きだ。大きな喜びを与えてくれる」、「私は翻訳が大好きだ、大きな喜びを感じる。こんなに楽しいことはない」。楽しまなければなりません。

寂天は以下のように書いています: 

(第七品64偈)人々は幸せのために行動するが、幸せになるかどうかは明らかではない。しかし、行動が実際に幸せをもたらす(菩薩の)場合、どうしてその行動を取らずに幸せになれようか?

つまり、やるべきことに楽しみを見出せるのなら、それをやらなければ不幸になるということです。これは職場でワーカホリックになることではなく、他者を助けることについて言っています。他者に利益を与えることを実際にしない限り、私たちは幸せにはなれません。「私はいつも他者を助けるために何かをしたいと思っている。それは私に人生最大の喜びを与えてくれる」。これこそが、今お話しているような、喜びに満ちた精進ということです。ですから、他者を助けるために、何であろうと―子供の世話だろうと、誰かを助けることを目的としたビジネスであろうと、ダルマを教えることであろうと、何であろうと―自分にできることをするのです。

六波羅蜜を二資糧に割り当てるもう一つの方法はゲルク派帰謬派のもので、ツォンカパによって定式化されました。それ以前に成立したチベットの伝統―ニンマ派、サキャ派、カギュ派―は帰謬派の立場について別の考えを持っています。ツォンカパは二諦に従って六波羅蜜を区別しました。真諦―つまり空―を分別する般若波羅蜜は智慧資糧、つまり仏の心のネットワークに貢献し、他の波羅蜜―ここには有益なものと有害なものを分別する般若波羅蜜も含まれます―は福徳資糧、つまり仏の身体のネットワークに貢献するとされます。ですから、これは二諦を基準とするまた別の分類方法なのです。

Top