慈(愛)
全ての人が幸せになるように願う気持ちは慈と呼ばれます。私たちはみな幸せになりたいと願っていますが、ほとんどの人々は幸せになる方法を知らないので、とめどなく繰り返される苦境に自らを陥れます。その中では非常に大きな問題がいくつも起こり、自分が望む幸せは手にすることができません。ですから、他者が幸せになるようにという強い気持ち、切実な態度を育むのはとても大切なことです。これを実践するには、まず自分が幸せになるように願い、次に自分の母親と父親の幸せを願います。そして、この思いを友達へ、敵へと広げてゆき、最終的には全ての人々の幸せを願うのです。これが、慈の瞑想のやり方です。
増上意楽
さらに、普遍的な責任感を持つようにしなければなりません。これはつまり、自分は責任を負っていると感じること、「私は他者に幸せをもたらすために何かを実際に行う。私は他者の問題を解決し、彼らがどんな苦境に陥っていようと、彼らがそこから抜け出す手助けをするために、実際に行動する」と考えることです。私たちには、「増上意楽」と呼ばれるこの特別に強い心、実際に行動するという強い決意が必要です。
菩提心
増上意楽を育み、「全ての衆生に幸せをもたらし、彼らの問題を取り除く力になろう」という気持ちになったとしても、自分自身についてよく検討してみれば、自分にそのような能力が備わっていないことに気付きます。私たちには、あらゆる衆生を幸せにすることはできません。彼らの問題を解決することもできません。では、誰ならできるのでしょうか?完全に清明な心を持ち、完全な進化を遂げ、自分の持つ能力を全て開花させた人物―つまり、仏だけがこれを実現できます。ですから、私たちも、仏の境地に達すれば他者を最大限助けられるようになるのです。
これは、私たちが今手にしている貴重な人間としての生を基礎として、実際に達成可能なことです。私たちは皆、完全な悟りに達した仏になることができます。自分自身を全て他者に捧げ、他者を助けるために仏の境地に達することに全力を注ごうとする態度は、菩提心と呼ばれます。他者の力となるために悟りに至ろうと願う菩提心を育むと、そこから多くの利益が生まれます。
菩提心を育む利益
この世界中にぎっしりと詰まった宝石と金とダイヤモンドを仏陀に捧げるのであれば、たとえ一瞬でもこの菩提心を育むと、素晴らしい利益が生まれると言われています。全ての衆生の利益のために悟りに達することを願い、菩提心と共に一輪の花を捧げるのであれば、それは他者の利益を目的として行っていることなので、その意図に見合った功徳―つまり、全ての衆生と同じ大きさの功徳―が積まれます。
菩提心を再確認する
朝、目を覚ましたら、まず、自分が夜のうちに死なずに目を覚ましたことを幸運に思い、自分自身と自分の心を捧げてその日一日中「私が行うポジティブなことがどれも他者の利益のためになりますように」と感じながら過ごしましょう。すると、その日私たちが取るどんなポジティブな言動にも、建設的な行為にも、このポジティブなエネルギーと奉納の力が加わります。その日、それ以降、朝のような考えが再び起こらなかったとしても、朝に生まれた強い意志の力のポジティブなエネルギーは私たちを一日中離れません。ですから、動機として菩提心を持つことは非常に大切なのです。
一日の終わりには、その日の自分の言動を全て再検討しましょう。たとえば、もし、その日ポジティブに振る舞って建設的であり続けられたのなら、幸せだと感じるでしょう。そして、そこから得られるポジティブなエネルギーを、自分の悟りの達成のため、そして衆生を助ける能力のために捧げるのです。ポジティブなエネルギーは全ての衆生の利益のために捧げなければなりません。そして、寝るときにも、「明日もまたポジティブに行動しよう。悟りに向かう取り組みを行おう。全ての衆生の利益になるために努力しよう」という強い決意を固めます。このような意思を持って眠りにつけば、眠っている間中ポジティブなエネルギーが働き続けます。これもまた、建設的なことです。
これまで、自分自身の悟りの達成へと熟す根幹として積み上げてきた全ての功徳を捧げれば、この功徳は実際に悟りに達するまでずっとそこに存在し続けます。功徳は、それが捧げられた目標―全ての衆生の利益のために実際に悟りを得ること―に達するまで枯渇することなくずっとそこにあるのです。このように、彼方まで届くようなやり方で功徳を捧げることはとても重要です。
菩提心の二段階
菩提心には二つのレベルがあります。他者の力になるために仏の境地に達することを願ったり、希求したりするだけであれば、それは発願心です。菩提心には、発願心と発趣心の二種類があります。
発趣心は、悟りを得て他者の利益となることを願うだけではなく、その境地に実際に達するために、実際に全ての菩薩の実践を始める心のことです。このとき、私たちの心は、悟りの達成に向かう実践に完全に没入しています。この実践は六波羅蜜と四摂事として知られます。これらの実践で自分を鍛えようとする態度は、行菩提心と呼ばれます。
これらの二つの菩提心の違いを理解する例を挙げましょう。自分がインドに行くことを考えるとき、ただ行きたいと願うのなら、それは発願心です。しかし、実際に行きたいのなら、ただそう願うだけでは不十分です。実際に行くためのいくつものステップを踏まなければなりません。ビザを取り、飛行機のチケットを予約し、その他にもたくさんのことに真剣に取り組まなければなりません。これは、発趣心に例えられます。
布施
波羅蜜の中でまず初めに取り組まなければならないのは、布施です。布施、あるいは与える態度は、他者に全てを与えたいと願うことです。この生において私たちが享受するもの―あらゆる所有物など―は全て、これまでの前世で寛容だったことによる結果です。一般的に言って、私たちが他者に与えられるものはたくさんあります。仏たちに何かを奉納しても良いですし、同じように、助けが必要な人々―病気の人々や貧しい人々など―に何かを提供しても良いでしょう。たとえば、とても困難な状況にあって苦しんでいる人々に、気分が良くなるようなものを手渡しても良いと思います。
仏陀の前世から例を挙げましょう。仏陀は、その前世で、子供を連れた雌のトラが苦境にあるのを知り、自分の身体を捧げて食べさせようとしました。身体は私たちが何よりも大切にしているものです。しかし、仏陀は、お腹を空かせたトラに自分の身体を捧げるほど深い布施の心を持っていたのです。これは有名な話です。
持戒
第二の波羅蜜は、持戒(厳格な倫理的規律を守ること)です。これには、たとえば、他の生き物や存在を殺さないことや、十悪(10個の破壊的行為)を行わないことが含まれます。これが持戒です。このような倫理的な規律を守らなければ、神や人間として転生することは全く不可能です。ですから、善趣に転生したければ、厳格な規律を守り続けなければなりません。
たとえ布施を実践しても、どんな倫理的自己鍛錬も行わなかったとしたら、人間ではなく、たとえば、たくさんのものを蓄えた動物に転生するでしょう。布施によってたくさんのものを持つことができるのですが、戒律や倫理を持たないために、人間ではなく動物に生まれ変わるのです。大量のものを蓄える動物は色々いるでしょう。
忍辱
三つめは、忍辱(心の良い習慣として忍耐と根気を育むこと)です。忍耐と根気がなければ、すぐに怒り、その怒りがこれまで積み上げてきた功徳やエネルギーをことごとく破壊してしまいます。どんなに多くの功徳を積んできても、空港の手荷物検査のX線でフィルムを感光させてしまったときのように、怒りが全てを消し去ってしまいます。いったん怒りが生まれると、直ちに心を静めることは困難です。しかし、怒りによって全てを台無しにしてしまうことを考えるように自分を鍛えれば、怒りを爆発させずに済むようになります。
過去の生において身に着けた癖や衝動によって、常にみじめで不幸せだと感じ、いつも怒ったりいらだったりしている人々はたくさんいます。怒りっぽくて、いつも腹を立てている人々は確実に存在します。ある特定のタイプの人々やものごとに対して毎回怒ったりいらだったりするのなら、そのような怒りの源となる人やものを完全に避けると良いでしょう。こうして、腹を立てる原因との接触を完全に避けると、怒りっぽい性格を克服しやすくなります。
同じように、怒りを生み出す理由は他にもたくさんあります。それに対処する最善の方法は、その理由を考えないことです。自分の怒りの原因を探したり吟味したりしないで、何も考えず、忘れてしまうのが一番良いのです。私たちの学びにはいくつもの種類があり、何かを学んでも、それについて考えなければ忘れてしまいます。これと同じように、怒りについて考えなければ、私たちは怒りを忘れるのです。
こうやって怒りを克服し、二度と怒らないようになれば、どんな状況においても腹を立てることはなくなります。すると、全ての人々が私たちを好きになり、「なんて素晴らしい人なんだ、絶対に腹を立てることがないんだから」と言って皆が私たちを尊敬するようになります。怒りをコントロールできずにいつもその力に飲み込まれていたら、どんな小さなことに対しても腹を立てるようになります。誰かが「君の鼻はちょっと変だね」と言っただけでも、怒りを爆発させるようになるでしょう。
腹を立ててしまうと、他者との調和、バランスが失われます。すると、自分が目標としていたことは何も達成できなくなります。自分が設定した目標を達成したければ、他者と調和のとれた関係を保たなくてはなりません。他者に対して怒ってばかりいたら、それは不可能です。自分と一緒に努力している人々との調和を保てれば、偉業を達成することができます。調和のとれた人間関係を築ければ、他者と強力なタッグを組んで素晴らしい結果を生み出すことができるのです。
精進
次の波羅蜜は精進です。精進とは、ポジティブな熱意を伴った忍耐、つまり何かポジティブなことを行うときの忍耐と熱意、そして幸せの感情です。一般的な、世俗的なことのために努力するのは精進とは別物です。精進とは、精神的な鍛練にたくさんのエネルギーを注ぎ、ひたむきに努力することです。
ポジティブな熱意を伴う精進の反対は懈怠(怠惰)です。懈怠には三つの種類があります。一つは、力不足だと感じることです。たとえば、菩薩たちが行ってきた目を瞠るような偉業―自分の身体を食べさせるなど―を耳にした時、「私にはそんなことはとてもできない」と感じ、自分には力がないと感じることがあるでしょう。これは、力不足の感覚であり、一種の懈怠です。自分自身を鍛え、実践に取り組めば、私たちにもそのような偉業を実際に達成することができるのです。それゆえ、この感覚は懈怠に数えられます。
二つ目の懈怠は、あきらめです。何かポジティブなことに取り組もうと決心し、憑りつかれたように何週間か何カ月か努力を続け、それでも自分の目標を達成できず、投げ出してしまうことがあります。これも一種の懈怠です。このような態度を取らず、我慢強く、確実な努力を続けるのです。諦めてはいけません。
三つ目の懈怠は先延ばしです。やるべきことを明日に先延ばしするようなことがあるでしょう。「明日か明後日やろう」と思って延々とやらないでおくのは、非常に不健康な態度です。怠惰な人が功徳を積むのは非常に困難ですし、彼らにとって何かを学んだり、習得したりするのは簡単なことではありません。生まれつきの怠け癖はあまり大きな欠点に見えないかもしれませんが、実際にはとても深刻な欠点です。なぜなら、それによって生涯を無駄にしてしまうからです。それゆえ、精進を育むのは大変重要なことなのです。
かつて、観音菩薩の化身であるドムトンという偉大な師がいました。彼は、師であるセズンパに全身全霊を捧げていました。彼が実践のために座っているときには、師の使う革を足でほぐし、手でミルクを攪拌し、背中を前後に揺らしてヨーグルトを作っていました。そして同時に、経典を自分の傍らに置いてもいたのです。この全てを一度に行いながら、彼は熱意と精進をもって学んでいました。革を柔らかくするためには足で踏まなければなりません。ドムトンは足を使って革をほぐしながら、手ではミルクをかき混ぜ、背中を前後に揺らしながらヨーグルトを作っていました。アティーシャがチベットにやって来た時、彼はドムトンと知り合い、これまで何をしてきたか尋ねました。ドムトンはこれまでのことを話し、さらに言いました:「これまでに行ってきた実践の中でも最も建設的なのは、私が行ったような奉仕、私が実際にとった行動です」。
非常に有能な人であれば、ドムトンのように世俗的な活動と精神的な活動を一度にこなすことができます。しかし、能力が足りなければ、どちらか一方も実践することができないでしょう。ですから、皆さんのように、昼間は仕事を行い、夜になってから様々な精神的な教えを学んだり、活動に参加したりする人々がいることを大変うれしく思っています。私はそのような皆さんを見ていると非常に幸せな気持ちになります。
禅定
次は禅定波羅蜜です。禅定とは、心の落ち着き、心の恒常性のことです。集中力と安定性のある心の状態を育まなければなりません。そのためには心を落ち着けるメソッドを使います。つまり、集中の対象となるものに意識を向け続けるのです。どのような対象を選んだとしても、その対象だけに注意を向け、集中する瞑想を行います。このとき、対象は慎重に選びましょう。そして、その後はずっと同じものを使い、心がそれに向かう状態を保ち続けるのです。この実践を正しく行えば、6カ月のうちに、完全に集中した止(サマタ、心が穏やかに静まって落ち着いた状態、shamatha)に達することができます。
瞑想を始めたり、集中力を高める方法を学んで有益な心の習慣を身に着けたりする際には、非常に短いセッションを頻繁に行う必要があります。たとえば、1日の内に短いセッションを18回行うと、実践は上手くいきます。この際、様々な本尊のビジョンを眼前に得るために朗誦の実践をいくつも行いますが、これは上手く行きません。なぜなら、静まって落ち着いた心はまだ得られていないからです。私たちにはまだ集中力がありません。オン・マニ・ペメ・フムの真言を唱えてそこに座っていても、唱えながら心はあちこちをさまよってしまっているのです。
自分が何をしているのかいつも忘れてしまっていた人がいました。彼は自分の仕事のことでもいつも忘れてしまっていたので、そんなことがある度に、「ちょっとまって、今ちょっと座って真言を唱えるから。そうすれば思い出すはずだ」と他の人に言っていました。オン・マニ・ペメ・フムの真言を唱えて、その間は決して心がさまよわないようにするためには、非常に強い意志と固い決意が必要です。これができれば、この実践から多くの利益を得られるでしょう。
止の状態を育むと、自分がポジティブなエネルギーを注ぎたい対象が何であれ、自分の心を即座にそちらに向けることができるようになります。止を育むことができれば、それを基礎として、超感覚的な知覚を育むこともできます。止なくしては、超感覚を身に着けることはできません。
止を育むことができたら、それは大きな飛行機を思いのままに動かせる能力を得たようなものです。何かポジティブなことをしようと心に決めたら、それが何であれ、素晴らしく大きな力とエネルギーでその目標を達成できるでしょうし、心を落ち着けようと思ったら、心はそこにじっととどまってピクリとも動かなくなります。
しかし、止を育もうと努力するだけでは十分ではありません。観(ヴィパッサナー、特別に鋭敏な心)も育まなければなりません。なぜなら、心は穏やかに静まるだけではなく、特別敏感に現実を見つめていなければならないからです。
智慧
智慧を育むことは不可欠です。私たちは智慧によって現実、空、つまり空想上の存在の仕方の不在を理解するのです。そして、この理解によって、波羅蜜の六番目、智慧(物事をはっきりと見分ける気付き)の波羅蜜―つまり、般若波羅蜜に達するのです。智慧とは、自分自身にも、そして他のあらゆるものにも「真の自我」などはないと気付いていることです。
このような意見を聞いた時、否定されているのは現実ではない空想のこと、つまり「人々や自分自身が実際に見出せる『自我』を持っているということ」です。「人々がいること」や、一般的に「自己があること」を否定しているわけではありません。「確固とした『真の自我』を見出すことができる」ことだけを否定しているのです。
二種類の「私」を区別することはとても大切です。「私」、には―「目に見える私」、つまり私たちの目に映っている「私」、あるいは自己には―二種類あります。通常の意味で言う「自己」と、完全に想像の産物であって否定されなければならない「自己」の二種類です。この二つを慎重に区別しなければ、大きな問題に首を突っ込むことになります。
通常の意味の自己とは、ただそのあたりを動き回っている自己のことです。私は食べます。私は歩きます。私が破壊的な行動をとり、その結果として困難を経験しもします。私が建設的な行動をとると、私は幸せを味わいます。つまり、普通の「私」です。これは通常の意味での「自己」です。しかし、もう一種類、想像上の「私」があります。これは、それ自体の力によって確固として成立する「私」のことです。ただ経験をもたらす原因の集合体に帰されるものとしてだけではなく、他のあらゆるものから独立して、それのみの力によって存在している「私」です。そんな「私」は完全な幻想であり、否定されるべきものです。しかし、通常の意味での私、歩いたり食べたりしている「私」は幻想ではありません。
ですから、今手にしている貴重な人間としての生を基礎として、この智慧を育むべきなのです。私たちは、この智慧によって、「見出しうる真の自我」などというものがないことを理解するのですから。これに加えて、自分を完全に他者と悟りの達成に捧げ、他者に対して暖かい思いを抱く菩提心も育む必要があります。これらが、貴重な人間としての生を基礎として取り組むべきことです。
空、つまり空想上の存在の仕方の完全な欠如を理解する智慧を得たら、全ての問題から自由になり、あらゆる苦悩から解放された解脱の境地に達することができます。しかし、これに加えて、完全に他者と悟りの達成に捧げられた菩提心も持っていれば、実際に仏の境地に達することができます。今まさに貴重な人間の生を享受しているのですから、力の限り、これら二つの実践に取り組まなければなりません。
締めくくりのアドバイス
物質的なものを追求するためだけに人生の時間を遣い、この生で次々に所有物を増やしていくだけだったら、絶対に満足することはないでしょう。常に不満が付きまといます。ですから、自分が持てるものだけで満足するという意識を育み、より多くのものを絶えず求めないようにすることが大切です。「もう十分に得た」と感じるタイミングに気付けるようにならなければなりません。自分が十分なものを持っているという概念も感覚もなければ、世界中のものや富を手にしたとしても満たされず、もっと多くのものを得たいと感じるでしょう。
自分がとても美味しいと思う食べ物でも、十分に食べたと感じるタイミングが分からなければ、食べ過ぎて気持ちが悪くなり、吐いてしまいます。ですから、満足を知る方法を学ばなければなりません。自分が満ち足りたと感じ、十分だと思えるようになる必要があります。さらに、他者の力になり、誰のことも傷つけず、暖かく優しい心を持てるように実践を行い、オン・マニ・ペメ・フムを唱えなければなりません。このように実践を積み重ねることで、人生は非常に有意義なものになってゆきます。つまらないことを達成する試みに全力を注いで人生を無駄にする代わりに、何か偉大なことを成し遂げようとしなければなりません。
今後全ての来世に利益をもたらすように努力しなければなりません。実践におけるもっとも大切な点は、優しく暖かい心を持ち、常に他者と一緒にいる喜びを感じることです。誰かに会うときはいつも、幸せな気持ちで喜びを感じ、常に相手に優しく接さなければなりません。これこそが、本当に、最も重要な点です。誰かを苦しめたいとか、傷つけたいとかいう気持ちや考えは絶対に持ってはいけません。これらの有害な考え方を捨て去り、他者を助けたいと優しく願う気持ちを育むことこそが、実践の真の核です。
このような取り組みを行い、衆生が偉大な境地に達する手助けをしているのなら、自分自身が悟りを達成することになるでしょう。まずは自分自身が仏になるのです。たとえば、あらゆる良い特質を身に着けて非常に多くを学べば、まずは自分自身が高い地位を得るでしょう。影響力のある地位に着けば、人々を実際に効率的に助けることができるようになります。ですから、菩提心を持って、他者を助けるために、そして実際にあらゆる可能性を開花させてそれを実現するために自分自身を捧げ、基本的な実践に取り組むことは非常に大切なのです。毎日菩提心を新たにし、他者に自分の心を捧げ、自分の可能性を開花させようと試み、全ての衆生が苦しみから解放されて幸せになるように願いましょう。これを日々繰り返せば、非常に大きな利益が生まれます。
慈と菩提心に関する様々な解説を聞くときには、これらは全て自分への個人的な助言だととらえ、自分自身が今すぐに取り組まなければならないと感じてください。これらは、ずっと先の未来に取り組むべきことでも、あまりにも発展的で難しすぎることでもありません。たとえば、学校に通い始めたときには、アルファベットのAから書き方を習い始めたでしょう。そこから私たちは成長してきたのです。ですから、自分の持てる能力を最大限に発揮するには、自分の心を他者に捧げ始めるところから出発しなければなりません。同じように何度も心を捧げ直せば、それが心の有益な習慣となり、自然なことになります。そして、菩提心は私たちの中に根付き、ゆるぎないものとなります。それゆえ、自分と他者に対する態度の交換を実践しなければならないのです。