Mt 37 dl taming the mind

動機 

多くの人々がさまざまな土地から、チベットからでさえ、仏法(ダルマ)の教えを聞く目的で、皆さん全員が今日ここに来ています。そのため、ここブッダガヤで、菩提心の決意を発展させることなどについて、トクメー・サンポの『三十七の菩薩の実践』と、ツォンカパ大師の『道の三要訣』を教えようと思います。私たちは非常に聖なる土地にいますので、ここで蓄積されてきたポジティブな力(功徳)は、どこよりもはるかに威力があります。しかし、このポジティブな力が最も効果的となるには、私たちが広範囲に行き渡る、非常に広大な動機を持つことが必要です。これは教えの聴講者だけでなく、ラマ(導師)にも必要なことです。

完全に悟った仏陀、慈悲者(如来)は、三十二相八十種好の特徴を持つ身体と、六十種声の悟りの特徴である言葉を持っています。さらに、その心はすべての心を乱す感情や態度(煩悩)、そしてすべてを包み隠すものから解放されているので、常に空性の非概念的な直観を持ち、それと同時にすべての現象を、まさにありのままにとらえる直観を持っています。そのような慈悲深く完全に悟った仏陀は、二千五百年前に、ここブッダガヤでその悟りを明らかに示しましたが、私たち全員が今まさにその地にいます。

今の時世は、多くの戦争や、飢餓、大災害などで非常に困難な時です。それでも、私たちが以前に蓄積したポジティブな力(功徳)のおかげで、私たちはそのような時に、そのような場所で生まれ、そのような試練の状況の中でも、教えと導師たちに会える、貴重な機会を得ています。ですから、自分にできる限り聞いた教えを実践する必要があります。

仏法(ダルマ)を、単に何かを授かるために祈ること、と考えることはできません。むしろ、仏法は自分自身が個人的に実践に移す必要のあるものです。ある言葉を口で復唱することで、ただ安全な方向を取る(帰依)のではなく、自分が発する言葉を、日々の行動で実行することなのです。ですから、教えに強い関心を示して、勉強と実践を結びつけることに携わる必要があるのです。まずは、これをどのようにしてやるのかを知る必要があります。

仏法(ダルマ)は実際に関われば関わるほど、自分がより幸福になれるものです。これは自分たちが行うさまざまな建設的な行動の結果として、ポジティブな力のネットワーク(福徳の集積)を得ることによります。それが口先だけでなく、実践で仏陀の従者であることを示す必要があることの理由です。それはさらに幸福を生み出します。ですから、仏法に、特に大乗の仏法に会う機会を持つここブッダガヤで、できる限りのポジティブな力を蓄積しようとすることが重要です。このために最も決定的なことが、適切な動機を設定することです。もし私たちが広大でポジティブな動機を持てれば、得る利益は大きなものです。ところが、そのような動機なしで実践しても、あまり効果はなく決して良いことではありません。

ラマ(教師)にとっても同じことが必要です。ラマは高慢さから、あるいは名声と敬意を得るために、あるいは嫉妬心から、または他者と競争したいとの願いで教えるようなことがあってはいけません。むしろ、ここにいるみんなを、すべてのものを、誰をも見下すことなく尊重し、教師の唯一の動機は、できる限り他者を利益(りやく)することであることが必要です。聴衆の皆さんも傲慢にならず、仏陀の貴重な教えを授かることに注意を払い、敬意を持って聞くことが必要です。もしラマと弟子たちが、共にこのようにして適切に注意深く行動すれば、とてつもない利益があり、全員がかなりのポジティブな力(功徳)を蓄積できるでしょう。

自分がどのような心を乱す感情や態度(煩悩)を持っていても、私たちは対治策を適用して、勇気を失わないようにする必要があります。そうすることで、非常にゆっくりと、自分の問題を解決することができるようになり、最終的には、それらを永久に取り除くことができるのです。私たちは自分が毎年徐々に向上することを知るでしょう。心はその本質として、これらの心を乱す感情や態度で染まってはいないので、自分の心を浄化しようと心に設定すれば、成功することができるでしょう。私たちが経験する苦しみは心が調教または修練されていないことによるので、それを対治することが必要です。しかし、それはすぐにできることではありません。

例えば、非常に野蛮で規則を守らない人を、すこし平和的で洗練された人にしようとすれば、長年にわたり、ゆっくりと徐々に、段階的にしかうまくいきません。同じことが心についても言えます。欠点を持っていても、ゆっくりと改善できます。子供にも同じような現象が見受けられますね。子供たちは、最初は何も知りませんし、教育もされていません。しかし、学校のさまざまなクラスで、一年生、二年生などと、この段階的なプロセスの中で、彼らは学び教育されるのです。同じことが家を建てる時にも当てはまります。私たちは一階ごとに、一床ごとに建てていきます。どの位の期間で出来上がるのかなどは心配せずに、徐々に/段階的にやるので、任務を完成させるまで、さまざまな段階を経て、ただまっすぐに進展させるだけです。この同じ態度を心と向き合う時に適用することが必要です。

自分の動機を設定することに関して、自分のレベルでできる限り最善を目指しながらやる必要があるのですが、そうすれば、ゆっくりと『ラムリム 段階的な道』で説明されているような段階を経て、向上することができるでしょう。ここにいるほとんどの人がこれについて知ってはいますが、ここに新たに来ている人たちのために、その主要点のいくつかについて少し説明しましょう。

心を調教すること

仏法(ダルマ)を実践することは、単に着ているもの、地位、または富を変えるプロセスのことではありません。むしろそれは自分自身の態度を変え、心を調教することを意味します。誰であっても、私自身はダライ・ラマであっても、私の心が調教されていなければ、自分のことを仏法(ダルマ)の人とは言えません。誰かが単にその名前のために、着ているもののためだけでそのような心を持っているとは言えません。その人の実際の精神的(メンタルな)かつ感情的な状態が唯一の決め手です。ですから、最も重要で決定的なポイントは自分の心を調教することです。

ここにいる全員が、自分自身の心を調べる必要があります。私たち全員が幸福を欲し、誰も苦しみたくなどありません。私たちの一人として、頭痛がする時に、それを取り除きたいと思わない人はいません。そうではありませんか?これは身体的な痛みと、心的な痛みの両方に当てはまります。しかし、欲しくない苦しみを除去し、欲する幸福を得るには、多くの段階が関わっています。いっぺんに起きることではありません。動物を助けたり、調教して助けようと、そしてそのものにすこし幸福をもたらそうとしても、その動物に見合った段階を経なくてはなりません。例えば、まずえさをやろうとしますが、怖がらないように、虐待しないようにします。同様に、自分に対しても段階ごとに助ける必要があるのです。

まずは、今年、来年と自分を利益することを考えます。それから、ゆくゆくはスコープを広げて二十年先のことを、そしてさらに長期にわたる幸福を得て苦しみを持たないことを望んで、次生での人間への転生を得ることに広げることもできます。私たちはそのような段階を経て進展します。ですから、今人間なのですから、先のことを考えて、一時的な表面的なレベルだけでなく、究極の幸福を得ることについて考えることが重要です。

ごく普通の幸福の追求の中で、身体のためには、食べ物や着るものと、避難する場所などを求めます。しかし、人間であることの理由は、ただそれだけではありません。大金持ちであっても、大資産家がまだ精神的な苦しみを多く抱えていることがあります。これは西洋で、非常にはっきりと見受けられます。大金と物質的な快適さに恵まれた多くの人々が、鬱病とか、ぼんやりした心とか、さまざまな悲惨な状態などと、数えきれないほどの精神的な問題を抱えています。実際、多くの人々がこの状態を改善しようと、(薬物に依存したり)薬を服用しています。このことは物質的には快と富を得ていても、私たちが物質的な快に加えて、何よりも心の幸福を欲していることを、そして富だけではその両方をもたらすことはないことを示しています。健康で強靭な身体を持っていても、心が不幸であれば十分ではありません。ですから、私たちは身体的にも精神的(メンタル)にも、その両方の幸福が必要なのです。その中でも、心(マインド)は私たちを支配するので、心の方がもっと大切です。ですから、心の幸福をもたらすことを強調する必要があります。

精神的な幸福をもたらすこと

何がこの心(マインド)の幸福をもたらすのでしょうか?それは私たちの思考回路を通して生じます。もし私たちが心を使わずに考えることをしなければ、自分自身に幸福をもたらすことはできないでしょう。それは両方向に働きます。例えば、自分の心を乱す感情の何が最も強いのか、それが怒り、欲望、誇り(プライド)嫉妬の何であれ、それについて考えれば考えるほど、そのように行動に移してしまい、さらに苦しみを生むだけです。例えば、怒りが最も強い心を乱す感情であれば、怒れば怒るほどさらに不幸になるばかりです。

例えば、私たちがチベットについて、苦々しく思い怒れば幸せですか、それとも不幸せですか?不幸ですね、これははっきりしています。ですから、その対抗として、慈愛(love)と慈悲(compassion)について考える必要があるのです。これが怒りに立ち向かい、心の平安をもたらすのです。ですから、善き心と親切な思いは、私たちに幸福をもたらします。私たち全員がこの幸福を欲して、苦しみを除去したいと望むのですから、その根は心(こころ)だということを知ろうと努力する必要があるのです。

手短かに言えば、私たちの愛着/執着と嫌悪が強ければ強いだけ、苦しみも大きくなります。それらが弱ければ弱いだけ、より幸福になれます。ですから、何を除去する必要があるのかを、自分の心から何を取り除きたいのかについて考える必要があります。例えば、うらやましがったり、嫉妬したりすれば、何が起きますか?私たち全員が最終的には死ななくてはならず、そうなると自分の嫉妬の対象物を決して保つことはできません。私たちは自分の嫉妬の欲望を完全に満足させることはできないので、嫉妬したり、うらやましがっている間は決して幸せにはなれません。同じことが誇り(プライド)についても言えます。誰一人として、永遠に同じ状態にはいれません。常に若くあり続けることや、若さを保つことはできません。自分が誇りにしているものが何であれ、いつかはそれを失います。ですから、プライドもまた、非常に不幸な心の状態です。例えば、レストランで誰かが食べている食事をうらやましがれば、それは私たちに何をもたらしますか?ただ不幸をもたらすだけです。お腹を満たすことは決してありません!

私たちが自分のことをチベット人だと考えれば、中国人に対して怒りを感じたり、うらやましがれば、そんな風にして自分は幸せですか? それは心の幸福な状態ですか?断じてそうではありません。人生における主な活動が、執着と嫌悪を行動に移す人のことを考えてみて下さい。そのような人は、非常に影響力を持ち、有名人になるかもしれず、歴史にさえ残るかもしれません。しかし、そのような人は何を得たのでしょうか?彼はその名前が歴史に残ることだけを得たのです。彼は幸せにはなれません、死んだのですから。ということで、心を乱す感情を行動に移すことに、自分の全人生を費やすと、どれだけ裕福になり、影響力を持ったとしても、自分に幸福をもたらすことはありません。

例えば、この頃のブッダガヤの状況について考えれば、さらにはっきりとこれを理解できるでしょう。ここにダライ・ラマといても、このような聖地で乞食に怒れば、あるいは身体的に窮屈な状態に怒れば、その瞬間は幸福ですか? 他方では、自分の心を乱す感情が弱まり、ここで何か建設的なことをしていれば、その時は幸せですか?考えてみて下さい。

あなたの心の状態は、近所の人や友人や子供たちにさえ影響を与えます。例えば、家族の状況を考えて下さい。あなたがとても怒って、子供たちに不機嫌になり、叩けば、その子は泣き − みんなを不幸にしますね?逆に、あなたは怒っていなくて、とてもリラックスしていれば、子供たちが遊ぶのは気にならず、誰もがとても幸せで平和です。さらには、ある国でもまた、執着しないことと寛容さが広く実践されていれば、その土地の幸福をみんなが分かち合えます。これは各個人にも、家族にも、国々にも当てはまります。心を乱す感情が多ければ多いほど、そこはより不幸で、心を乱す感情が少なければ少ないほどより幸福です。

私自身について言えば、私は心を乱す感情や態度(煩悩)の不利な点についてかなり考えますが、これらが自分にもたらす悪いことすべてと、これらを持たないことの利点についてです。こうすることで、自分自身の人生で心を乱す感情をなるべく減らすことを強調することを、大きく助けてくれます。そして、ボーナスとして、人生をもっと楽しむことができることが分かります。食事はおいしく、すべてがうまくいきます。しかし、自分の心が心を乱す感情で満たされていれば、瞑想(メディテーション)であれ、読誦であれ、何をしていても、これらから幸福を得ることは全くありません。ですから、常に心を乱す感情がいかに不利かを、私たちは考えようとする必要があるのです。

要約すれば、心が調教されていて、心を乱す感情や態度(煩悩)を持たなければ、私たちはとても幸福になります。ですから、心を調教することの結果として起きることの最も良い点は、心を乱す感情や態度が全く生起しないことです。仮に生起したにしても、次に良いことは、自分がそれを行動に移さないことが分かることです。例えば、全く怒らない方が最善ですが、怒りが込み上げても、心を調教していれば、行動には出さないことが分かります。例えば、誰かの顔を殴ることはせず、その人を悪口で呼んだりもせず、どのような粗野な反応もしません。

ですから、ゆっくりと段階的なプロセスを経て、対抗策が強力になっていき、心はより調教され、このようにして、自分はより幸せになっていきます。ですから、初心者としては、怒り、執着などの心を乱す感情が生じることが決してないようにしようとする必要があります。しかも、これらの感情が生じても、それを行動に移さないように努める必要があります。分かりますか?自分の心を調教することが仏法の実践ですが、そうしなければ、それは仏法ではありません。心を乱す感情のすべてを除去すれば、滅諦の心の平安な状態を得れば、実はそれが実際の仏法です。

四聖諦

四つの聖なる真理(四聖諦)がありますが、真の苦、その真の原因、真の停止と心の真の道のことです。真の苦に関しては、死について、病について、老いることについてなどと、さまざまな種類の不幸について考えることができます。仏陀は、苦を認識することは非常に大切だ、と言いました。この苦しみの根は何でしょうか?苦の根は調教されていない心ですが、もっと具体的には心を乱す感情と態度(煩悩)です。ですから、心を乱す感情と態度は、これらの心を乱す感情の力の下で生起する業(カルマ)の衝動も含めて、苦しみの真の原因、真の源だと言われています。ですから、心を乱す感情と業が、苦の真の原因です。私たち全員がどのような苦しみをも欲せず、ただそれを除去したいと望んでいるのですから、それ故、この苦の原因は、調教されていない心にあることを、知る必要があるのです。

私たちは苦が二度と生起しないような、苦の真の停止をもたらしたいのですから、私たちは心を乱す感情や態度(煩悩)が、法界 (dharmadhatu) /空性の領域に滅することが生じる、因を生み出すことを行う必要があります。これが涅槃または真の停止(滅諦)と知られています。

心を乱す感情や態度(煩悩)を自分自身から取り除く、またはそれらが生じない原因をつくるプロセスには、多くの段階があり、これには真の聖者 (Aryas) の道として知られていることが必要です。さらに厳密には、さまざまな心を乱す感情や態度を除去するプロセスの間に、私たちはさらなる(善き)資質を得るためにも取りくむのですから、一方では心を乱す感情や態度と欠点を除去する心、そして他方には善き資質を得ることが、真の心の道として知られています。

要約すれば、真の苦(苦諦)があり、苦の真の原因(集締)があり、私たちはその真の停止(滅諦)を望んでいて、それを可能にするには、心の真の道を実現させる(道諦)必要があるということです。そうなると、この結果は確実な停止と平安、つまり「悲哀の彼方」の涅槃の境地にあり、これが私たちに永続する幸福をもたらします。それが、仏陀がここブッダガヤで(ご自身の)実例で示したことで、そして、その後に彼は四聖諦を教えました。最初の二つが、真の苦と真の原因で惑いの/不浄な側面ですが、最後の二つは、真の停止と真の心の道で解放する/清浄な側面です。

これで、仏法(ダルマ)の動機は、例えば、子供が親の言うことを聞いて、親がそうしなさいと言ったから単にそうすること、とは違うことが分かります。実際に仏法に関わるには、従順な子供のように、親の言葉に単に服従する必要はありません。むしろ、自分の苦を除去したいと願い、その理由から教師が教える心を調教するために、やるべきことのインストラクションに従うことが、ダルマの実践に関わることです。解りますか?

三つの至高の宝(三宝)

苦を除去することには、多くの要因が関わっています。例えば、空腹や寒さなどの苦しみがあり、それぞれを除去するには、異なる種類の方法/働きに頼ります。ですから、農民や商人たちなどの働きを通して、私たちは空腹や寒さを除去します。病の苦しみに関しては、医者や薬に頼ります。しかし、これらは一時的な助けであって、究極の治癒ではありません。病気になれば、薬を飲んで体力をつけますが、それは老いや死を除去することはできません。要約すれば、生まれること、病気になること、老いること、死ぬことを、一時的に除去する普通の方法はあっても、私たちはその究極の除去を得ることはできません。

ヒンズー教の一部や、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの多くの宗教が、幸せと苦しみを創造する神の存在を受け入れています。この神に祈れば、神は私たちに幸せを叶えてくれます。しかし、これは仏陀が説明したことではありません。私たちの苦や幸福は神の手中にあるのではなく、自分自身の手中にのみある、と仏陀は言いました。

神という一つの帰依の宝を受け入れる宗教と違い、私たち(仏教徒)は三つの至高の宝(三宝)を受け入れます。仏陀は何を受け入れ、何を拒否すべきかを教える道を示す者です。ですから、仏陀は教師のような者で、創造主の神ではありません。私たちの業/行動が、自分の幸せと苦しみを造ります。幸せはポジティブな/建設的な行為に由来するので、私たちはできる限り、このように行動しようとする必要があります。他方では、不幸はネガティブな破壊的な行為に由来するので、私たちはできる限り、それらを除去しようとする必要があります。

ということで、仏陀が教えたことは、因果関係の法則の道でした。私たちの運命は、神でもなく仏陀でもない、自分自身の手中にあるのです。ですから、実際の帰依/安全な方向は、仏法(ダルマ)です。言い換えれば、心を乱す感情など(煩悩)を自分の心から除去することで、自分の苦しみを除去し、幸福を得るのです。

さらには、自分自身の心相続にこの仏法の宝を発展させるために、模範を提供して、このプロセスを補助してくれる援助者が必要です。そのような人々が、僧伽(サンガ)の宝として知られています。

要約すれば、仏陀は私たちの人生で取るべき安全な方向を示し、ダルマは実際の安全な方向で、サンガ共同体は模範を示す手助けをします。私たちに幸福を与え、苦を除去するような唯一の神、または帰依の宝はいません。

理性と実践を土台にした仏教

仏法(ダルマ)を示すチベット語を翻訳する時に、英語では「宗教 religion」が使われることがよくあります。この宗教と言う言葉は創造主の神を受け入れる体系を暗に意味します。そのために、仏教は無神論であり、実は宗教ではないと一般的に言われています。しかし、中国(政府)は、自分たちは無神論者で、仏教徒は宗教者で、仏教は宗教だと言います。しかし、上述の定義によると、実際は、私たち仏教徒も無神論者です。

さらに、私たちは仏陀の言葉を盲信して受け入れるのではなく、注意深く調べた後にのみ、受容しています。それが理にかなっていれば、受け入れますが、そうでなければ、受け入れません。例えば、輪廻転生などの現象に対する、多くの論理的な証明を持っていますが、ある論点については、それを検討した後にのみ認めます。あることが論理的に確立できれば、それは受けいれることができるのです。しかし、それが盲信のみを土台にしていれば、それは決して受諾されません。ですから、ただ「信じます」と決して言わないで下さい。主要点は、論理と理性で分析することです。もし何かが理性と現実にそぐわなければ、認めないで下さい。私たちの信仰は、常に理性を土台にするべきです。

過去に仏陀が話したときは、完全な教えを提供しました。彼が言ったことを改正する必要はなく、足すことも改善する必要もありません。肝心なことは、仏陀が説いたことを私たちが実践することで、決して複雑なことではありません。これを薬のたとえから理解できます。医者は個々の患者を診察して、それからそれぞれに合った薬を処方します。治療が効かなければ、愚かな者だけが失敗は医科学にあると言うでしょう。賢い者は、自分に薬が効かなかった理由は、医科学そのものではなく、医学を実践する人にあると認識するでしょう。同様に、仏教でもそれが当てはまります。仏陀の直接の教えのテキストである三蔵(サンスクリット語 Tripitaka)には、何の問題もありません。私たちが検討すれば、出典そのものには混乱がないことが分かります。ですから、私たちがやるべきことは、これらのさまざまな経典に述べられた通りに、適切に実践することです。解りますか?

大乗の動機を再確認すること

主な実践は心(マインド)を調教することです。そのためには、教えを聞く必要があるのですが、それを適切にやるには正しい動機が必要です。仏陀は小乗と、大乗の両方の教えを提供しました。大乗において心すべき主要点は、他者を助けることです。小乗では、仮に他者を助けることができなくとも、少なくとも害を与えないことが必要だ、ということが強調されています。ですから、両者共に強調していることが、いかにして他者を助け、その利益となれるかということです。もし他者を助けることができるのであれば、そうする必要がありますし、そうできない時には、他者を決して害す必要はありません。(諸経典の)どこにも、他者に怒る必要があるとは書いていませんよね。

大乗の教えでは、自分一人の利己的な目的を無視しようと努め、多くの他者のために働くことが必要だ、とも説いています。これは仏教徒のメッセージですね。ですから、私たちは純粋で、温かく、親切な心(ハート)を持つ必要があるのです。それから、自分の動機として、菩提心の決意を設置しようと努める必要があります。私たちの菩提心の決意は、すべての生きとし生けるものを利益(りやく)することができるようになるために、自分が悟りを成就するために取り組むことです。そのような動機を持って、ここで菩薩トクメー・サンポの書いた『三十七の菩薩の実践』を聞いて下さい。

著者の顕著な特徴

トクメー・サンポはブトン・リンポチェの時代に生きましたが、それはツォンカパ大師の二世代前のことです。彼は幼い時からほとんどを、サキャ派の伝統で訓練したラマでしたが、その興味が主に他者を助けようとすることで有名でした。例えば、子供の頃は、人々が他者を助けないと、機嫌が悪くなったりさえしました。最終的には、僧侶になり、さまざまなラマに頼り学びましたが、特に二人の教師と時を過ごしました。彼は顕教と密教の両方を修行して、非常に博識のある悟った修行者になりました。

彼は菩提心を発展させたことで最も有名ですが、これを自己と他者を平等にして交換する(自他の交換の)教えを通して行いました。実際、私たちが菩薩について考えようとすれば、例として、すぐにトクメー・サンポの名前が心に浮かびますね。彼は実に偉大な人物で、真に特別な存在でした。例えば、彼の教えを聞きにきた時には、誰もが非常に鎮まり、静かに落ち着けるようになったそうです。

私たち全員を助けるために、彼はこれらの三十七の実践について書いたので、私たちはこれらの教えを何度も、何度も検討しようと努める必要があります。私たちは大乗の修行者だと名乗るのですが、実際の大乗修行を常に検討することがなければ、修行者にはなれません。ですから、これらの三十七の実践について、自分を調べる努力をして、それらと見合った行動を、実際にとるよう努力する必要があります。それらの中には、ラムリムの段階的な道で説明されているように、三段階の異なる動機のレベルの人々のための、個々の教えがあることが分かります。

テキスト

このテキストに関する短い注釈をしましょう。私はこの血脈をクヌ・ラマ・リンポチェ/テンジン・ギャルツェンから授かりましたが、彼はカム地方の前ゾクチェン・リンポチェから授かりました。これは少しばかりの歴史的背景ですが、このコピー(一部)は、実際に私がラサから持ってきた物です。

これらの教えの出典は、シャーンティデーヴァの『入菩薩行論 菩薩行を生きる』 (チベット語 sPyod-‘juサンスクリット語  Bodhisattvacharya-avatara)、弥勒の『大乗荘厳経論 大乗経典のための金線細工』 (チベット語 mDo-sde rgyanサンスクリット語Mahayanasutra-alamkara)とナーガールジュナの『宝行王正論 貴重な花輪』 (チベット語 Rin-chen ‘ phreng-baサンスクリット語 Ratnamala) です。

テキストは三つのセクションに分けられます。

  • 始めに、ポジティブな力(功徳)を蓄えること
  • 実際の教え
  • 結論

始めに、ポジティブな力を蓄えるセクションはさらに二つのセクションに分けられます。

  • 最初の礼拝
  • 書くことを約束すること

最初の礼拝

最初の詩句は、これらの二つのセクションの一つ目の最初の礼拝です。

ロケーシュヴァラに敬意を表します。すべての現象は去ることも、来ることもないと見て、さまよう者たちの利益のためだけに努力する、至高の師たちと、守護尊である観自在菩薩に、三門を通して、常につつしんで礼拝いたします。

ここではロケーシュヴァラとなっていますが、観世音菩薩(サンスクリット語 Avalokiteshvara)に敬意を表します。悟りの根本は慈悲で、観世音菩薩はその体現ですから、彼に礼拝します。さらに、私たちが将来サンスクリット語に出会い学べるようになるための種子と本能を設置するために、著者はサンスクリット語の名前であるロケーシュヴァラ(Lokeshvara )と呼んでいます。礼拝は導師と切り離すことのできない、観世音菩薩に対してで、それを身体(身)・言葉(口)・心(意)の三門で行います。そのような五体投地を行う理由は、敬意の対象の善き資質が故です。

善き資質とは何でしょうか?大乗仏教の根本は、菩提心の目標です。これは悟りを成就する意図ですが、すべての有情を利益(りやく)することができるようになるために、自分が悟りを目指す心のことです。これらの目標を達成するために、六つの彼岸に到ろうとする態度(六波羅蜜)を修行する必要があります。結果として、身体的にも、精神的/心的にも両側面で、具体的には色身と法身(あるいはすべてを網羅する甚深なる認識身、仏陀の一切智)の両方を持つ、悟りの成就が可能になります。これらの両方を得るには、結果と同様な種類のカテゴリーの原因を、蓄積してきたことが必要になります。ですから、仏陀の色身を達成するには、ポジティブな力のネットワーク(福徳資糧の集積)、仏陀の心を達成するためには、甚深なる認識のネットワーク(智資糧の集積)を蓄積してきたことが必要です。これらの土台が(勝義締と世俗締の)二締です。

ロケーシュヴァラは、すべての現象は去ることも、来ることもないと見れる者です。私たちが事物の世俗締を調べてみると、事物は実際には来ては去ります。しかし、それらについて最も甚深なる真理を調べてみると、その来ては去ることは、真に本質として存在する、来ては去るものではありません。例えば、因果というものがあります。原因(因)は本質的な存在は持たないので – それらは本質的な存在(自性)を欠いています(無自性) — それらの結果(果)も、また同様に、そのようなありもしない存り方を欠いている(無自性)はずです。原因も結果も自性を持ちません、それら(因果)はそれぞれに依存して確立されます。言い換えれば、すべての現象の依存して生起する性質は、無自性であるとして確立されます。

龍樹(ナーガールジュナ)は、事物は真に来る/生じることも、去る/滅することも、とどまることもないと言いました。ですから、この「すべての現象は去ることも来ることもないと見て」の句は無自性のことで、ここでの礼拝の対象は、空性(無自性)を非概念的に直観した/理解した者です。すべてが依存して生起するため、すべては自性に欠け、因果関係のプロセスに依存して生起します。

心を乱す感情や態度(煩悩)を因として、結果として苦が生じ、そして建設的な行為を因として、結果として幸せが生じます。苦が生じることは、心を乱す感情と破壊的な行為に依存して生起するので、ここでの礼拝の対象には、すべての生きとし生けるものにとってこうなのだということが分かり、それ故、彼の慈悲は彼らが苦を除去する、立ち退かせるためのやり方を見せる手助けのみを、目的として彼らに向けられます。ですから、その内の一つでも欠けることない智慧と方便の両側面が、ここでは示されていますが、智慧と方便の両方が、私たちには必要だからです。

最初の礼拝の詩句から、これらの両面が分かります。ロケーシュヴァラはすべてが無自性だと分かり、すべてが無自性なので、すべての現象が因果関係により生起すると分かります。具体的には、彼はすべての生きとし生けるものの苦は、心を乱す感情や態度(煩悩)から生起すると分かるため、それ故、彼は慈悲心から彼らの苦を除去すること、立ち退かせることを目標とします。ですから、ロケーシュヴァラの智慧と方便の両方が、ここでは称賛されています。彼にはすべてが無自性だと分かるので、すべてが因果関係(縁起)だと分かるのです。ですから、彼は誰にでも慈悲を持ち、その苦から脱出させたいと願うのです。解りますか?

書くことを約束すること

次の詩句は、書くことを約束しています。

御利益と幸福の源である、完全に悟った諸仏陀は、神聖なる仏法を(自ら)実際に行ったことにより、仏陀になりました。さらには、それは彼らが仏法の実践は何かを知ることに依存するので、菩薩の実践/修行について説明しましょう。

仏陀は、最初に誰をも利益(りやく)するために、悟りに到る菩提心の目標を発展させました。そして、悟りを得て以来の彼の唯一の目標は、すべてのものを利益することです。自分自身の心を乱す感情や態度(煩悩)を除去する必要に気づき、そのためには彼は自分の心を調教すること、そして真の幸福を得るには、誰もが皆そうするべきだと分かりそうしました。ですから、仏陀はこれをやるためのさまざまな方法を教えました、そして彼がそうしたように、私たち自身も、実践する必要があります。彼が教えたように実践すれば、幸せを得るでしょう。そのため、詩句は仏陀を、御利益と幸福の源と示唆しています。

仏陀ご自身も、最初から悟っていたのではありません。彼は自分自身の導師たちに頼り、彼らの教えを実践し、自らの心を調教しました。自分の心を乱す感情や態度(煩悩)をすべて除去するプロセスにより、彼は悟りました。ですから、彼は実践することで、神聖なる仏法を(自ら)実際に行ったことで、自分の達成に到りました。

どのようにして身体と心の両方を持つのかを、私たちは理解する必要があります。例えば、私たちの目の意識が何かを見る時は、目の意識が見るとは言わず、私自身が見ると言います。身体が病気になれば、私が病気だと言います。これらの表現の暗示することは、私が心の意識であるか、私は身体であるということです。しかし、私たちの身体は、まず母親の子宮の中で形成され、死と共に腐敗します。そのため「私」は身体だけではあり得ません。

そうなると、私は身体に依存する心だ、ということなのかもしれません。しかし「私」は、かたちでも、色でもありません。それでも、私たちが遠くにある身体を見ると、それを土台にして「ああ、私の友人が見える」と言い、とても幸せになります。しかし、よく調べてみると、その人はその身体ではありません。例えば、私たちが医者に会うと、医者は「身体は大丈夫ですか?」と言いますが、分かりきったことですが、私たちは単に身体だというのではありません。アメリカのいくつかの有名な病院では、人々の健康を改善するために、医者が瞑想(メディテーション)さえも処方します。ですから、医者が人々の健康を改善するために、そのような物理的ではない処方箋を出すには、身体と心の間に何らかの関係があるはずです。

しかし、この「私」が単に心だということについては、どうでしょうか?心の本質を見てみましょう。私たちが何かを知る、あるいは何かについてはっきりしていると気づく時は「私はそのことを知っている」と言います。しかし、心とは何かを的確に同定することは、非常に困難です。心の定義は、単なる明瞭さと認識です。それは色とかたちを持つ、何か物理的なものではありません。それについて考えると、何か澄んだ空間のようなもので、すべての現れが滅して、何かの認識が生じる、あるいは単なる明瞭さと認識が、その清浄な空間に生起する、または現れだす、非常に空の空間です。

そうなると、心は受胎の最初の瞬間に、同時に生起する風、滴などの微細な身で、単なる明瞭さと認識する性質の何かです。そのような現象が生起するには、その中間の因として、それ自体が持つ性質と同じ性質が必要になります。そのために、受胎の瞬間の最初の単なる明瞭さと、認識の因となるそれ以前の単なる明瞭さと、認識の瞬間がそこにある必要があるのです。このような理由づけを通して、私たちは諸々の前世/過去生の存在を確立または証明します。そして、前世/過去生が存在するのなら、来世/後生もまた存在するとなります。

この単なる明瞭さと認識が、継続性を持つもので、来世にも続くのであれば、私たちにさまざまな心を乱す感情と、苦しみをつくる原因となる心を包み隠すもの(ベール)を除去することが非常に大切です。それらを取り除く中で、意識の本質の土台 — それは包み隠されていない単なる明瞭さと認識ですが — に到達することができるようになります。これが仏陀の、完全に悟った者の一切智の心になれるものです。それ故、自分自身の心の土台と、そして悟った者の心、一切智の心の土台は同じで、私たち自身も後者の種類の心を確実に得たいのです。仏陀は最初から悟っていた者ではありません。彼はさまざまな因に頼ることで、悟りを成就したのです。彼は自分自身から捨てるべきものを取り除き、得るべきものを得ました。ですから、私たちが同じことをすれば、私たちも同じものを得ることができます。

それで、テキストでは「御利益と幸福の源である、完全に悟った諸仏陀は 神聖なる仏法を(自ら)実際に行ったことにより、仏陀になりました。」と言っています。私たち自身も、どうすればこれができるのでしょうか?続いて「それは彼らが仏法の実践は何かを知ることに依存するのでと言っています。ですから、仏法(ダルマ)について単に知るだけでは十分ではありません。ダルマを実践に移すこと、何がダルマの実践かを知ったのなら、それを現実にすることが必要です。

今日はここまでにして、テキストを終えましょう。すべて理解しましたか?私たちはできる限り、実践する必要があります。私たちが実践することは、出離、菩提心、そして空性です。私たちは自分自身を注意深く調べて、自分の気質を知り、自分自身の傾向/性癖は何かを知り、それから自分に合う道で実践する必要があります。

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