「煩悩」とは何か
煩悩とは、大きくなると、心の平安と自己制御を失う原因となる心の状態であると定義されます。
心の平安が失われるので、感情が乱れます。煩悩は心の平安を乱すものです。心の平安が失われると冷静ではいられなくなるので、思考や感受が明晰ではなくなります。明晰でなくなるので、自己制御に必要な分析力が失われます。私たちは、何が有益で何が有益でないのか、その状況に何が適切で何が適切でないのかを分析できなければならないのです。
煩悩には善なる心の状態が伴うこともある
煩悩の例としては、たとえば執着、欲望、怒り、嫉妬、高慢、尊大などが挙げられます。このような煩悩の中には、私たちを不善の行動に導くものもありますが、必ずしもそうだというわけではありません。たとえば執着と欲望は、どこかへ行って何かを盗むといった不善の行動に私たちを導くこともあります。しかし、愛されたいと熱望しこれに執着して、愛されるために相手を助けることもあります。他者を助けることは不善ではなく、善なるものですが、その裏には「私は愛されたい。見返りとして私を愛してほしい。」という煩悩が隠れているのです。
怒りについても考えてみましょう。怒りは私たちを不善の行動に導き、あまりに強い怒りは時として相手を傷つけ、殺してしまうことさえあります。これは不善の行為です。しかし、特定の政治体制や状況における不当な扱いに怒りを覚えて、これを変えようと実際に行動する場合を考えてみましょう。このときの行動は、必ずしも暴力的なものであるわけではありません。しかし問題は、この場合、好ましい善の行動でさえ煩悩に動機づけられているということです。このとき私たちの心は穏やかではなく、心が穏やかでないために、善なる行動をとっているのに心や感覚は冷静ではなく、感情の状態も安定していません。
この場合、欲望や怒りといった感情とともに、私たちを愛してほしい、あるいは不当な扱いを終わらせたいと思っているのです。これは安定した心の状態、安定した感情の状態ではありません。冷静な心、冷静な感情の状態ではないので、私たちは何をするべきか、自分たちの目的を実際にどう実行するべきかについて冷静に考えてはいないのです。結果として、自己制御がきかなくなります。たとえば、だれかが何かをするのを助けてあげたいと思ったとき、彼ら自身に自分でやらせた方が本人のためになることもあります。成人した自分の娘が料理をしたり、家事をしたり、子供の世話をしたりするのを手助けしたいと思ったとしても、それはいろいろな意味で余計な手出しなのです。彼女は料理や子育ての方法について口出しされることに本当は感謝などしていないでしょう。しかし私たちは、愛されたい、役に立ちたいと思っているので、自分の考えを彼女に押し付けます。善いことをしようとしていますが、その時、「親は意見を言ったり助けたりしないでいた方がよい。」と考える自己制御を失っているのです。
たとえ相手を助けるのが適切な状況であっても、見返りを期待していると、平静でいることができません。私たちは愛され、必要とされ、感謝されたいのです。心に前提としてこのような欲望があると、娘が親の望むとおり応えてくれない場合、私たちはとてもうろたえるのです。
このような煩悩が心の平安を失わせ、自己制御を失わせるメカニズムは、不当な扱いと戦おうとしているときに、より明らかになります。不当な扱いにとても悩んでいて、ひどく動揺しているとき、動揺に基づいて行動しようとすると、たいてい何をするべきかを冷静に考えることができません。すると、私たちが望んでいる変化をもたらすための最適な行動指針からはずれてしまうことはよくあることです。
要するに、不善の行動をしようと何か善なることをしようと、私たちの行動が煩悩に動機づけられ、煩悩を伴っている限り、その行為は問題を引き起こすことになるのです。他人に問題を引き起こすことになるかどうかをはっきり予測することはできませんが、主として私たち自身に問題を引き起こします。必ずしも直ちに問題が起こるとは限りません。煩悩の影響下で行動することによって、冷静さを欠いて行動するのを何度も何度も繰り返すことが習慣になるという意味では、長期的問題とも言えます。このように、煩悩に基づく強迫的な行為によって、長期的な問題行動パターンが作られます。これでは心が穏やかになることはありません。
そのわかりやすい例が、愛されている、感謝されていると感じたいために、誰かの役に立とうと、誰かのために善なることをしようとするというものです。この気持ちの裏側には、実は不安な気持ちが隠れています。しかし、この種の動機によって行動することを続ける限り、決して満足できません。「そう、私は愛されている。これで十分だ。これ以上は必要ない。」と感じることは決してないのです。このような私たちの行動は、「私は愛されていると感じなければならない、影響力があると感じなければならない、感謝されていると感じなければならない。」と強迫的に感じる癖をただ補強し、さらに強固なものにするだけです。愛されたいと望んでより多くを与えますが、常に欲求不満を感じます。相手が感謝していてさえ、「本当はそう思ってはいないのだ。」などと考えてしまい、欲求不満が募ります。そのせいで心が穏やかになることがありません。この行動様式が何度も何度も何度も繰り返されるので、ただ事態は悪い方へ悪い方へと進みます。この制御不能に繰り返される解決困難な状況がsamsara(輪廻)と呼ばれるものです。
煩悩によって好ましくない不善の行動をとってしまうとき、この種の行動様式に陥っていることが多いものです。たとえば、常にイライラしているとします。ほんの小さなことにも苛立って怒っていると、他人との関係で常にとげとげしくしゃべったり、残酷なことを言ったりしてしまいます。これでは、誰も私たちを好きになる人はいませんし、みな本当は私たちの近くにいたいなどとは思わないでしょう。そのせいで人間関係に多くの問題が生じてきます。この場合は、今何が起きているかを認識することは比較的容易です。しかし、煩悩が善の行動の後ろに隠れているときには、起きていることを認識するのはそうたやすいことではありません。しかし、私たちはいずれの状況であっても今起きていることを正しく認識する必要があります。
煩悩、心を乱す態度、心が乱れた状態の影響を受けている時にこれを認識するには
ここで問題になるのは、いかにして煩悩や心を乱す態度の影響下で行動していることを認識するかということです。煩悩は単に感情であるばかりでなく、人生に対する態度、あるいは自分自身に対する態度であるとも言えます。このために、私たちは少し自分の内面に敏感になって、心の中で自分がどのように感じているかに気づく必要があります。そのためには、煩悩や心を乱す態度とは、心の平安を失わせ、自己制御を失わせる原因となるものであるという定義がとても役に立ちます。
もし、何か言おうとしているとき、あるいは何かしようとしているとき、心の中にほんの少しでも苛立ちを感じたならば、私たちは完全に平静であるわけではありません。これが、煩悩が存在するサインなのです。
苛立ちに気づいていないこともありますし、実際しばしばそうなのですが、その後ろには煩悩が隠れているのです。
誰かに何かを説明しようとしているとしましょう。その人に向かってしゃべっているときにお腹にほんの少し落ち着かないものを感じたら、後ろに自慢したい気持ちなどが隠れていることを示す兆候です。「私がどんなに賢いか私は知っている。あなたにもそれをわからせたい。」と感じているのです。何かを説明することによってその人の役に立ちたいと心から思っているのかもしれませんが、もしお腹に少し落ち着かないものを感じたら、そこには少し自慢したい気持ちがあるのです。自分自身の業績や長所について話すときに特にありがちなことです。このときしばしば、少しだけ落ち着かない気分を伴います。
次に、心を乱す態度、「みんなが私に注意を払うべきだ。」という、私たちがしばしばとってしまう態度について考えてみましょう。私たちは無視されるのが好きではありません。無視されるのが好きな人などいません。「みんなが私に注意を払い、私が話していることを聞くべきだ。」などと思っています。特に周りの人が自分に注意を払ってくれない時など、心の中に少しイライラした気持ちを伴うことがあります。なぜみんなが私たちに注意を払うべきなのでしょうか。そう考えてみると、正当な理由は見つかりません。
サンスクリット語のklesha(チベット語でnyon-mong)はとても難しい言葉です。私はこれをdisturbing emotion(乱れた感情、煩悩)あるいはdisturbing attitude(心を乱す態度)と訳しています。なぜ難しいかというと、たとえば愚かさ(naivety)など、感情と態度のどちらの分類にもぴったり当てはまらないものがあるからです。私たちは自分の行動が他人や自分自身に与える影響について、愚かにも深く考えないことがあります。あるいはある状況、今起きている現実について深く考えないこともあるでしょう。たとえば、誰かが気分を害していたり、誰かが動揺していたりすることに気づいていないとします。このような状況では、彼らに何かを言った結果どのようなことになるかについて、おそらく深く考えようとしないでしょう。善なる意図であっても、彼らをとても苛立たせてしまうのです。
このような心が乱れた状態(disturbing state of mind)にあるとき、私たちは必ずしも落ち着かないものを感じているわけではないでしょう。しかしこれまで見てきたように、心の平安が失われると、私たちの心は明晰ではなくなります。深く考えようとしないと、心は明晰ではなくなり、私たちは自分自身の小さな世界に閉じこもってしまいます。自分の小さな世界の中にいるので、その状況の中で何が有益で適切であるか、何がそうでないのかを分析することができないという点で、自己制御が不可能になってしまいます。分析ができないので、私たちは適切にそして敏感に行動することができません。言い換えれば、正しく行動し、適切でないことをしないという自己制御ができないのです。このように、愚かさを感情や態度とは考えにくいのですが、愚かさは心が乱れた状態という定義が当てはまります。このように、kleshaはぴったり当てはまる訳語を見つけるのがとても難しい言葉です。
煩悩でない感情
サンスクリット語とチベット語には、emotion(感情)にあたる言葉がありません。これらの言語では心の要素、すなわちその瞬間の心の状態を作るさまざまな構成要素を表す言葉が使われます。これらの言語では、この心の要素を乱れたものと乱れていないもの、善なるものと不善なるものに分けています。これら二対の言葉は完全に重なるわけではありません。さらに、これらの分類のどれにも当てはまらない心の要素もあります。西洋でemotion(感情)と呼ぶものには、乱れたもの(煩悩)と乱れていないもの(煩悩でないもの)とがあります。仏教で目指しているのは、決してすべての感情を取り除くことではありません。ただ煩悩をなくしたいのです。これを行なうには二つのステップがあります。最初のステップでは煩悩に支配されないようにし、次のステップではこれをなくし、そもそもこのような感情が起きないようにします。
乱れていない感情、煩悩でない感情とはどんなものでしょうか。「愛」もしくは「慈悲」や「忍耐」がそうであると思うかもしれません。しかし、西洋の言語に置き換えた言葉を分析すると、これらは乱れたものから乱れていないものまでさまざまであることに気づきます。ですから、私たちは少し気をつけなければならないのです。「あなたをとても愛している。私にはあなたが必要なのだから、どこにも行かないで。」というような種類の愛であるならば、実際にはまさに心が乱れた状態であると言えます。相手が愛情を返してくれなかったり私たちを必要としなかったりすると私たちはとても狼狽するので、これは煩悩なのです。すると私たちはとても腹をたてて、感情が突然変わってしまい、「私はもうあなたを愛していない。」ということになります。
したがって、心の状態を分析するとき、これを感情的なものと考え、「愛」と呼ぶこともできますが、実際はこのような心の状態は多くの心の要因が混じり合ったものです。私たちはある感情をただ一つだけ感じるわけではありません。感情の状態は常に入り混じったもので、たくさんの異なる要素から構成されています。「あなたを愛している。あなたなしでは生きていけない。」と感じるような愛は、明らかに依存の一種であり、まさに煩悩です。しかし、乱れていない純粋な愛も存在します。この場合、相手が何をしようと、ただその人の幸せを願い、幸せをもたらすものの存在を願います。相手に見返りを期待したりしません。
たとえば、自分の子供に対してこのような純粋な愛情を感じることがあるでしょう。子供に何の見返りも期待したりしません。親の中には確かに見返りを期待する人たちもいますが、普通は子供が何をしてもやはりその子を愛するのです。親は子供に幸せになってほしいと願います。しかしやはり、私たち自身が子供を幸せにできる存在でありたいという、別の心が乱れた状態とがしばしば入り混じっているのです。子供を楽しませようとして、たとえば人形劇に子供を連れて行ったりしても、子供を楽しませることができずに、子供がコンピューター・ゲームをしようとしたりすると、私たちは不愉快に感じます。親が不愉快に感じるのは、子供に幸せをもたらすのはコンピューター・ゲームではなく自分自身でありたいからです。しかし、それでもなお私たちは子供に対するこの感情を「愛情」と呼びます。「私は君を幸せにしたい、君を幸せにしようと努力する。しかし私は君の人生で君を幸せにする最も大事な人でありたい。」というのです。
この込み入った話でポイントとなるのは、私たちは注意深く自分の感情の状態を観察し、さまざまな感情を示すのに使われる言葉に捕らわれないことが必要であるということです。自分の心の状態のどんな面が心を乱し、心の平安を失わせ、冷静さを失わせ、自己制御を失わせる原因となっているのかを理解するために、よく分析してみる必要があります。これをやらなければいけないのです。
煩悩の根本的原因、無明
自分自身の、心が乱れた状態や煩悩、心を乱す態度をなくしたいのであれば、その原因にたどり着く必要があります。これらの底に潜む原因を取り除くことができれば、これらをなくすことができます。このことは、単に問題を引き起こすことになる煩悩そのものを取り除くというだけではありません。その煩悩の根源にたどり着き、これを取り除く必要があるのです。
では、心が乱れた状態を引き起こす最も深い原因は何でしょうか。原因とされるのは、しばしばignorance(無知)あるいは私がより好んで使うunawareness(無明)と訳されるものです。私たちはあるものに気づいていない、単に知らないのです。無知と言うと、私たちが間抜けであるかのように聞こえますが、ここではそういう意味ではありません。ただ単に私たちは知らない、あるいは混乱している、つまり正しく理解していないということです。
私たちは何について混乱している、あるいは何に気づいていないのでしょうか。一般的に、自分の行為の影響、その状況についてです。私たちは怒り、執着し、あるいは狼狽し、これが過去の習慣と性癖を基にして私たちを強迫的に行動させる原因となります。これは、一般に業(カルマ)と呼ばれるもので、煩悩あるいは心を乱す態度に基づいて行動しようとする強迫的な欲求なので、自己制御ができないのです。
強迫的行動の底に潜むものは無明です。つまり自分がとった行動や言った言葉の影響がどのようなものかがわからなかったのです。あるいは混乱していたのです。何かを盗むことで自分が幸せになれると思っていたが、そうではなかったのです。あるいは相手を助ければ、自分が必要とされ、愛されていると感じられると思ったが、そうではなかったのです。私たちは自分の行動の結果がどのようなものになるかがわからなかったのです。「私がこう言ったらあなたを傷つけることになるとは思わなかった。」というように。あるいは混乱しているのです。「こうすれば助けになると思ったけれどもそうではなかった。」「そうすれば幸せになれると思ったけれどもそうではなかった。」あるいは「こうすればあなたを幸せにできると思ったけれどもそうではなかった。」と。また、「私はあなたが忙しいとは知らなかった。」あるいは「あなたが結婚しているとは知らなかった。」というように、状況がよくわからなかったのです。あるいは混乱していたのかもしれません。「私はあなたに時間の余裕があると思っていた。」けれどもそうではなかったのです。「私はあなたが独身で、誰とも結婚していないと思っていた。だから恋愛関係を持とうとした。」しかしそれは不適切な関係なのです。やはり状況に気づいていない、すなわち状況がわからないか混乱している、つまり状況を間違ってとらえているのです。
認識が足りないことが強迫的行動の根源であるのは事実です。しかし、これが煩悩の根源でもあり、煩悩が強迫的な行動と深く結びついているということはあまり理解されていません。私たちは、この点についてもう少し注意深く見ていく必要があるのです。