煩悩とは何か

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心が怒りや執着、利己主義、貪欲によって乱れるとき、私たちのエネルギーもまた同様に乱れることになります。落ち着きがなくなり、心が平静を失い、考えが暴走します。後で後悔するようなことを言ったり、行動をとったりします。心やエネルギーの突然の乱れに気づいたら、それは確かに煩悩の仕業だと思って間違いないでしょう。煩悩が生じたらすぐにこれに気づき、対治する心の状態、たとえば愛や慈悲などを注ぐことが、トラブルの元となる感情に負けて行動した場合に起こるであろう問題を避ける秘訣です。

「煩悩」とは何か

煩悩は、「それを抱くと心の平穏や自制心を失う精神状態」と定義されます。

煩悩は私たちの心の平穏を乱したり失わせたりするので、心をかき乱す感情であると言えます。心の平穏を失っている時、私たちは動揺し、自分の思考や気持ちがはっきりと分からなくなります。自分のことがはっきりと分からなくなると、自分を制御するために必要な分別を失います。私たちは、有益なものと無益なもの、特定の状況において適切なものと不適切なものを区別しなければなりません。

建設的な心の状態にも煩悩が付随する

煩悩には、たとえば、貪(貪欲)、瞋(怒り)、嫉(嫉妬)、慢(プライド)などがあります。私たちは煩悩によって破壊的な言動をとることもありますが、いつもそうであるとは限りません。たとえば、貪欲や貪愛に動かされて何かを盗むこともあります。しかし、愛する人々に自分も愛されたいという貪によって彼らの力になろうとすることもあります。他者を助けることは破壊的ではありません。建設的な行為です。しかしこの場合、「私は愛されたい。だから、お返しにあなたも私を愛してほしい」という煩悩がその背景にあります。

あるいは、怒りの場合を考えてみてください。怒りによって私たちは腹を立て、誰かを傷つけようとしたり、殺そうとしたりすることさえあります。これは破壊的な言動です。しかし、ある体制や状況の不正に対して非常に怒っていて、それを変えるために行動しようとしている場合はどうでしょう。その行動は暴力的であるとは限りません。重要なのは、しかし、建設的でポジティブなことをしていても、このような場合はその動機が煩悩であるということです。煩悩に動機づけられていれば心の平穏は失われます。心が平穏でなければ、ポジティブな行動をとっている最中であっても気持ちははっきりせず、感情も安定しません。

このような場合、私たちは貪欲や怒りという煩悩を抱きながら、誰かが自分を愛したり、不正がなくなったりすることを願っています。そんなときの感情や精神は不安定です。なぜなら、心や感情が曇って、自分が何をしたらよいか、目標達成のために実際にどう行動すべきか、はっきりと考えられないからです。その結果私たちは自制心を失います。例を挙げましょう。私たちは誰かの手助けをすることがあります。しかし、相手に自分でやらせるのが最も良い助けになる場合もあります。娘の料理や家事、あるいは子育てに手を貸そうとするのは様々な意味で干渉でしかありません。彼女は料理や子育ての方法についてあれこれ口出しされるのを快く思わないでしょう。それでも、自分自身が愛されたくて役に立ちたいので、自分のやり方を彼女に押し付けているのです。娘を手助けするという行為は確かに建設的ですが、自制心を失っているので、「ここは黙っていよう、私の意見や助力を押し付けないようにしよう」と考えることはできなくなっています。

誰かを助けるのが本当に適切な場面で力を貸したとしても、気持ちが穏やかではないこともあります。なぜなら、見返りを求めているからです。愛されたくて、必要とされたくて、感謝されたくて力を貸しているのです。心がこのような貪で満たされている場合、家事を手伝っても娘から期待したような反応が得られなければ、私たちは腹を立てます。

煩悩が自制心と心の平穏を失わせるメカニズムは、不正と戦っている場合にさらに明白になります。私たちはひどく腹を立て、心の底から怒っているからです。そのような心の動揺を基礎として行動しようとすると、私たちは何をすべきかはっきりと考えられなくなります。求める変化を実現するための最適な道から逸れることも少なくありません。

つまり、破壊的なことをしようが建設的なことをしようが、その行動の動機が煩悩であったり、行動に煩悩が伴ったりしているなら、その行動はどのみち問題を引き起こすということです。他の人に悪影響を及ぼすか否かを正確に推測することはできませんが、何よりも自分自身には問題をもたらします。この問題は、直ちに起こるものばかりではありません。煩悩の影響を受けて行動することによって、混乱した行動を繰り返す習慣がつくという長期的な問題もあるのです。煩悩に基づく衝動的な言動によって問題のある様々な行動様式が習慣化され、私たちの心からは一切の平和が失われます。

分かりやすいのは、愛されたくて感謝されたいがゆえに他者を助けたり優しくしたりする場合です。そのような場合、行動の背後にあるのは不安です。しかし、そのような動機によって行動し続けても決して不安が和らぐことはありません。「もういいだろう、私は愛されている。これで十分だ。これ以上は必要ない」と思うことはないのです。ですから、このような行動は「愛されていると感じなければならない、必要とされていると感じなければならない、感謝されていると感じなければならない」と強迫的に感じる習慣をますます強化しているだけなのです。愛されたいと望んでさらに尽くし、さらに多くを与えようとしますが、決して満たされることはなく、不満は募る一方です。誰かが感謝してくれても「本気でそう言っているんじゃないな」と感じてしまいます。それゆえ、心の平和を得ることは決してできなくなり、この「症候群」は延々と繰り返されます。このようなとめどなく繰り返される問題含みの状況こそ、まさに「輪廻」と呼ばれるものです。

煩悩が私たちをネガティブで破壊的な行動に駆り立ててるとき、この「症候群」を自覚するのは難しくありません。たとえば、いつもイライラしているとしましょう。私たちがいつもイライラして小さなことに腹を立てているなら、他者との関係の中でもひどいことを言ったり他者を傷つけるような言葉遣いをしたりしているでしょう。そんなときには皆が私たちを嫌い、一緒にいるのを避けるようになります。ですから、人間関係にたくさんの問題が起きます。こんなときに何が起きているのか認識するのは比較的容易です。しかし、自分が煩悩に突き動かされてポジティブな行動をとっているときには、そんなに簡単ではないでしょう。しかし、どちらの場合も、私たちは「症候群」を自覚する必要があります。

煩悩や悪見の影響を自覚する方法

では、自分が煩悩や悪見の影響を受けているときにどうやってそれを認識すればよいのでしょう?それが「感情」や「気持ち」であるとは限りません。人生や自分自身に対する態度や考え方であることもあります。ですから、自分の心の中をよく観察して、自分の感じ方を敏感に察しなければなりません。そのために、煩悩や悪見の定義をもう一度見直してみましょう―「心の平穏と自制心を失わせるもの」。この定義を指針とすると良いでしょう。

何かを言ったりやったりしようとしているとき、自分が少し緊張していて、完全にリラックスした状態でないことに気付いたら、それは煩悩があることの兆候です。

気付かないこともあるかもしれませんし、実際、気付くことができない場合が多いのですが、そんなときには背後に煩悩があります。

たとえば、誰かに何かを説明しようとしているとしましょう。相手に話している間、腹部にほんのちょっとした不快感があるとしたら、それは心の中に高慢があることの兆候です。「私はなんて賢いんだろう、こんなことを理解しているんだから。君がこれを理解できるように助けてあげよう」と考えているかもしれません。説明することによって他者の力になりたいと真摯に感じていたとしても、お腹の中に落ち着かない感覚があれば、そこには高慢があるのです。これは自分が達成したことや自分の良い資質について語るときに特によく起こり、しばしばわずかな不安感が伴います。

もう一つ、悪見―ここでは「誰もがみな私に注目するべきだ」という考え方―について考えてみましょう。私たちはみな無視されたくないと感じています。無視されるのが好きな人はいないでしょう。ですから、「人々は私に注目するべきだ、私の言うことを聞くべきだ」などと考えてしまうのです。この場合も、心の中に緊張感が―自分が注目されていない場合は特に―生じます。なぜ人々が私たちに注目するべきなのでしょう?考えてみれば、もっともな理由は何もありません。

煩悩はサンスクリット語で「klesha」、チベット語では「nyon-mong」と言いますが、これはとても難しい言葉です。私は英語で「disturbing emotion(心を乱す感情)」、あるいは「disturbing attitude (心を乱す態度)」と訳しています。しかし、煩悩の中には感情とも態度とも言えないもの―たとえば無明(無知)―などもありますから、これは実に難しい言葉なのです。私たちは自分の言動が自分自身や他者に与える影響について無明です。あるいは、状況―つまり、今起きていることの真実について無明であることもあります。たとえば、誰かの気分が悪いことや、誰かが取り乱したりしていることに無明である場合です。そしてそんなときには、彼らに言葉をかけた場合の結果についても当然無明です。どんなに良かれと思って話しかけても、相手が腹を立ててしまうこともあります。

心がそのような乱れた状態―こう呼ぶことにしましょう―にあるとき、不安を感じるとは限りません。しかし、これまで見てきた通り、平穏が失われた心は不明瞭です。ですから、無明であるときの私たちの心は全くはっきりしていません。そんなとき、私たちは自分の小さな世界に閉じこもっています。自分の世界に閉じこもっていれば、ある状況において適切で有益なものとそうでないものを区別する自制心を失ってしまいます。区別することができなければ、適切に、そして慎重に行動することはできません。言い換えれば、自制心を欠いて、適切に行動して不適切な行動を避けることができない状態に陥るのです。ですから、無明は感情とも態度とも言い難いのですが、「心が乱れた状態」という定義には当てはまります。先ほども言いましたが、「klesha」にぴったりの訳語を見つけるのは容易ではありません。

煩悩ではない感情

サンスクリット語にもチベット語にも「感情」を意味する言葉はありません。しかし、私たちの精神状態の各瞬間を構成している様々な要素、つまり心所(精神的な因)を表す言葉はあります。どちらの言葉でも、心所は建設的なものと破壊的なもの、心を乱すものと乱さないものに分けられています。これらの二対は完全に重なり合ってはいません。さらに、このどちらのカテゴリにも分類されない心所もあります。ですから、欧米の人々が「感情」と呼ぶものにも、心を乱すものと乱さないものがあるのです。仏教が目指すのは全ての感情を捨てることではありません。それは全くの誤解です。私たちはただ、心を乱す感情、煩悩だけを捨てようとしているのです。そのためには二つの段階を踏まなければなりません。一つ目は煩悩に支配されないようにすること、二つ目は煩悩が生じないように捨て去ることです。

では、心を乱さない感情、煩悩ではない感情とはどのようなものでしょう?そう考えると、「愛」、「悲」、「忍耐」などが思い浮かぶでしょう。これらはみなヨーロッパの言語にある言葉ですが、よく分析してみれば、このような感情は煩悩であることもそうでないこともあることに気付きます。ですから、慎重にならなければなりません。「愛」というのが「あなたをすごく愛している、あなたが必要だ、絶対に私を見捨てないで!」という感情であれば、それはとても乱れた心の状態です。相手も同じように自分を愛したり必要としたりしなかったら、私たちは動揺します。ですから、このような感情は心を乱すもの、つまり、煩悩です。そんなとき、私たちは非常に腹を立て、感情も突然変化します―「私はもうあなたを愛していない」。

ですから、心の状態を分析してみると、自分ではある感情を―たとえば「愛」と呼ばれるようなものを―抱いていると思っていても、実際にはそれは多くの心所が混じり合ったものであることが分かります。私たちが感情を一つだけ経験することはありません。私たちの感情は、いつだって、多くのものが混じり合っています。「愛している、あなたなしでは生きていけない」という類の「愛」は明らかに依存的で心を乱すものです。しかし、心を乱さない、煩悩ではない愛―ある人が何をするかに関わらず、その人が幸せと幸せの因を手にしてほしいという純粋な願い―もあります。この愛を抱いているとき、私たちは見返りを求めません。

このような煩悩ではない愛は、たとえば、自分の子供に対して感じる種類のものです。私たちは子供から見返りを期待しないでしょう―全ての親がそうではないかもしれませんが。しかし一般的に言って、子供が何をするかに関わらず、私たちはわが子を愛し、幸せになって欲しいと思います。しかし、この場合もまた、乱れた心の状態―つまり、「彼らを幸せにできる存在でありたい」という気持ちが混ざっています。子供を喜ばせようとして何かを―たとえば人形劇に連れて行くなど―しても、思ったように喜んではくれず、家でゲームをしたいと駄々をこねたら、私たちは機嫌を損ねます。なぜなら、ゲームではなく自分が彼らの幸せをもたらす存在でありたいと思っているからです。それでも、その時子供に対して感じる気持ちを「愛」と呼ぶことはできます。「あなたが幸せになってほしい、私はあなたが幸せになるように努力する。あなたを幸せにして、あなたの人生で一番大切な人間になりたい」。

ですから、この複雑な議論の要点は、つまり、自分の感情の状態を入念に調べて、さまざまな感情を名付けるときに使う言葉に囚われないようにするべきだということです。自分の心の状態のどの側面が心を乱し、明晰な思考や自己制御の妨げになっているかを精査しなければなりません。これこそ、私たちが取り組むべき課題です。

無明―煩悩の根本的な原因

煩悩や悪見を捨て去りたいと願うなら、その原因を根絶しなければなりません。根本的な原因を除去できたら、煩悩や悪見と決別することができます。つまり、自分に問題をもたらしている煩悩だけを捨てるのではなく、煩悩の根本的な原因に向き合い、それを取り除く必要があるのです。

では、煩悩や悪見の根源的な原因とは何でしょう?「無知(知らないこと)」、あるいは「無明(気づいていないこと)」と呼ばれるものです。つまり、何かに気付いていないためにそのことを知らないということです。「無知」というとあたかも私たちが愚かであるかのように聞こえますが、そうではありません。私たちはただ知らないだけ、または、混乱している―何かを誤って理解している―だけなのです。

では、私たちは何を誤解して、何に気付いていないのでしょう?一般的に言って、私たちは言動の結果や状況を正しく理解していません。何かに怒っていたり、執着していたり、動揺していたりするとき、私たちはそれまでに身に着けた癖(薫習)や傾向(種子)に基づいて衝動的に行動します。基本的に、このように煩悩や悪見によって自制心を欠いた行動を取る衝動こそがカルマに他なりません。

このような衝動的な言動の根底にあるのは無明です。私たちは、自分の言動がもたらす影響に気付いていないことがあります。「何かを盗めば幸せになる」というような混乱した考えを持っていたかもしれません―そんなことは実際には起こりませんでした。誰かを助ければ人々から求められて愛されると考えたかもしれません―これも間違いでした。これが、言動の影響を理解していなかったということです。「それを言ったらあなたが傷つくとは思わなかった」と思ったことがあるでしょう。あるいは、誤って理解しているかもしれません―「あなたの役に立つかと思ったけれどそうではなかった」、「こうしたら幸せになれると思ったけれどなれなかった」。状況について誤解している場合もあります―「あなたが忙しいことを知らなかった」、「あなたが結婚していることを知らなかった」。または、混乱していたかもしれません―「あなたに十分時間があると思っていた」。実際はそうではありませんでした。「あなたはシングルで、誰にも惹かれていないと思っていた。だから、あなたと付き合おうとした」―実際には不適切な試みでした。つまり、私たちは状況について無明―状況を知らなかったり誤解したりしている―なので、誤った理解をしているのです。

つまり、無明こそが衝動的な言動の原因なのです。しかし、無明が煩悩の根本的な原因でもあり、煩悩が衝動的言動と強く結びついているというのはそれほど明白なことではありません。ですから、これらの点についてはしっかりと検討する必要があります。

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