復習
これまで、自分に対する考え方の偏りをなくす方法を考察してきました。その中で、捨(平静な心)-特に、人生でしてきたこと、自分に対する視点や扱い方、そして自分の身体や人となりに関連する捨を育む様々な訓練をご紹介しました。ここでいう捨とは、悪見(心を乱す考え)や煩悩(心を乱す感情)のない精神状態を指します。つまり、自分への反感や嫌悪(自分が嫌いである、自分にネガティブな感情を持っている)を持たず、魅了(『私って素晴らしい!』と自分に熱を挙げている)もされず、癡(自分を無価値だと感じて自分のニーズを無視する)でもない状態のことです。しかし、これは何の感情もない状態ではありません。誤解しないように注意してください。
ここで、概念的な枠組みに関する問題が生じます。私たち欧米人の言葉には感情の概念があり、この「感情」というカテゴリーには多くのものが含まれています。しかし、サンスクリット語やチベット語の伝統には、これに相当する「感情」という概念のカテゴリーはありません。感情を表す言葉はないのです。代わりに、精神的要因という観点から表現します。そこには、注意、集中、興味など、ほとんど機械的とさえ言えるものも、煩悩(心を乱す感情)も含まれます。煩悩には、怒りや貪欲など破壊的なものも、愛、忍耐、根気など建設的なものもあります。これらのカテゴリーを構成するものの中には、たとえば建設的・破壊的な態度や悪見など、感情だととらえられるものもあれば、疑(疑念、躊躇)や優柔不断など、感情だとは考えづらいものもあります。疑とは、「これをやるべきか、やらざるべきか」と決断できずに悩むことですが、これは感情でしょうか?西洋の概念の枠組みの中では、これは何と呼ばれるでしょう?心を分析するスキームが異なるため、しばしば混乱が起こります。私たち西洋人は、「捨(平静な心、冷静さ)」という言葉を聞くと、「一切の感情を持たないこと」だと考えてしまいがちです。
自分に対する捨を育むことの考察の中に、忍耐、熱中、愛、思いやり、寛容など、私たちが「ポジティブな感情」だと考えるものを捨て去るというトピックはありませんでした。これらは、持っていても良いのです。煩悩と混ざることもありますが、トラブルメーカーではありません。愛と一緒に執着を持つこともあります。ですから、建設的な感情と破壊的な感情-もっと正確に言えば「煩悩(心を乱す感情)」-との区別をつけなければなりません。ここでは専門的な区別については触れないでおきましょう。
今少し触れた「トラブルメーカー」について考えてみましょう。これらは基本的に貪(執着)、瞋(怒り)、癡(無知)の三毒のことで、貪と瞋には誇張が付随します。まずは怒りについて考えましょう。ここで扱うのは、自分に向けた怒り(『私は本当に自分が嫌いだ』)です。自分に怒りを感じているとき、私たちは、自分のネガティブな点(失敗、性格上の欠点、そのときの嫌な気分など)を誇張しています。さらに、誇張されたそれらの点を、何か確固としたもの、それもほとんど化け物のようなものだと考え、それを補うポジティブな点(成功、性格上の長所など)が何も見えなくなってしまうのです。
自分を買いかぶりすぎているなど、自分に執着している場合は、この正反対のことをします。自分の良い点や、人生で起きた良いことを確固としたものに仕立て上げて誇張し、ネガティブな点を無視するのです。
癡があるとき、つまり自分をどうでもいい存在だと思い、自分のニーズを無視している場合は、別の極端な考え方をします。ポジティブであれネガティブであれ、自分の持つ性質を全て否定するのです。さらに、自分が人間であることや、自分に一定の権利があることさえも認められなくなります。
捨を育み、自分や自分の人生などに対してより客観的な視点を持つように心がけてゆきましょう。自分の持つどんな面も、誇張も否定もしないようにします。その全てが自分の現実であり、その中に永遠に変わらない確固としたものは一つもないということを受け入れます。私たちは自分を磨き、よりよい人間になってゆくことができますが、まずは、今の状況を受け入れなければなりません。客観的な視点を持つことは、愛、優しさ、思いやり、忍耐、熱意などのポジティブな感情を阻害するものではありません。それどころか、ポジティブな感情を抱きやすくなるでしょう。なぜなら、煩悩、特に自分に関する煩悩こそ、ポジティブな感情を邪魔するものだからです。自分に対して怒りがあるときや自分が嫌いなときは、自分に対しても他人に対しても、暖かな感情をもつことは難しいものです。
自分に対するポジティブで健康的な姿勢を育む
では、トレーニングの次のステップに進みましょう。私たちは自分に対する煩悩を静め、捨の基礎を作りました。これから、自分に対して一層優しくなり、よりポジティブで健康的な考えを持てるように努力してゆきます。そのために、一生を通じて、自分に対して偏りのない態度を取り続けられるようにします。
これまでに、実際に存在する「通常の意味での『私』」(私はここにいる、私は様々なことをしている、という意味での『私』)と、「偽の『私』」(私の嫌いなおぞましい人物、溺愛している素敵な人物、無視しているどうでもいい人物)との違いを考察してきました。自分に対してより暖かくポジティブな考えを持つ場合、それは「偽の『私』」ではなく「通常の意味での『私』」に向けられます。けれどそれは、「私は自分が嫌いだけど、自分にもうちょっと優しくしてみよう、もう少し自分に寛容になろう」、あるいは「私は私のことが大好きだけど、もっと自分に優しくして、自分を甘やかそう」と考えることではありません。また、「何者でもないこのみじめな私をかわいそうに思う、あまりにもかわいそうだから、少し憐れんで優しくしてやろう。でも、心の奥底では、自分が憐れみに値しないことは分かっている」と考えることでもないのです。これらは全て、「偽の『私』」に向けられた考えです。
「通常の意味での『私』」に対するポジティブな態度を育むには、この人生全体について考えなければなりません。仏教徒の視点ではいくつもの生について考えますが、その「ライトバージョン」として、この人生だけについて考えても良いでしょう。ここでは、仏教的の基本的な考え方をいくつか応用します:「私は人間に転生し、貴重な人間としての生を生きている。私には自分を高める機会がある。たとえ、地球の裏側の紛争地帯やもっと過酷な環境に生まれたとしても、人間であり、心と感情があり、学ぶための教材があるので、よりよい人間になれるように努力することができる」。たとえ自分を取り巻く状況がどんなに過酷であっても―過酷な環境や社会、あるいは自分に健康上の問題がある場合でさえ―、私たちは生きています。私たちは昆虫ではなく、人間なのです。そして、もっとお金を稼ぐという意味ではなく、いわゆる「精神的な」意味で自分を高めることに関心を持っています。
九つの視点
自分を見つめ、自分に対する態度の偏りをなくすための視点は九つあります。これらは、前回までに考察した捨とは少し違います。捨は最初のステップで、自分に対する煩悩のない心の状態のことです。ここで考察するのは、どんな状況においても変わることなく、自分に対してやさしくポジティブな態度をとる方法です。つまり、少し違う点に重きを置いているのです。どうやったら自分により優しくできるでしょう。ここでいう「自分に優しくする」とは、子供を甘やかすような優しさを指すのではありません。自分に対してもっとポジティブになること、そして、きちんと食べ、きちんと眠り、自分ができることに限界を設けるなど、自分をいたわることです。
ここで「限界を設ける」いうのには二つの意味があります。一つは、何か非常に破壊的で有害なこと(不健康な人間関係において相手が自分に対して破壊的言動をとることや、自分が無意味に危険な活動をすること)に対して「ノー」と言うことです。もう一つは、仕事や時間的拘束などの負担が大きすぎる場合に「ノー」と言うことです。過剰に負担がかかった状態が続くと、自分を痛めつけることになります。そんなときに、「もう無理だ!もうこれ以上はできない。私には休息が必要だ」と言えることです。
二つ目の点、つまり自分に休息を取るタイミングを知ることは、熱意を育てるのにとても重要な役割を持っています。もしも一切の休みを取らなければ、熱意はしぼみ、タスクに戻っても、もう一度やりたいとは思えなくなります。その一方で、自分を赤ん坊のように扱おうというのでもないのです。例を挙げましょう。私は自分の師であるツェンシャブ・セルコン・リンポチェの通訳を務めていましたが、彼は私が本当に疲れ切ってもう働けないというときにはいつも、もう五分間働くように私に言いつけたものです。さらに一時間働くことはできないかもしれませんが、五分なら働けるでしょう。そうすることによって自分の限界を伸ばし、持久力を高めてゆくのです。すると、赤ん坊ではなくなります。成長してゆくのです。通訳者であろうが、アスリートであろうが何であろうが、このやり方は役に立つでしょう。少なくとも、私にとってはとても効果的でした。
1. 自分に対してポジティブな態度を取ったことがある
九つの視点の最初は、このように考えることです:「人生の様々な時点で、私は自分に対して優しかった。それは子供時代や十代の頃だったかもしれないが、事実、私は自分に優しかったことがある。自分に対して優しくてポジティブな考えを持っていたのがいつであれ―15分前かもしれないし、15年前かもしれないが―、私はとにかく『私』に対して優しかったのだ。いつのことであれ、大切なのは、『私』が対象だったことだ。私は、私自身に優しくでき、自分をある程度受け入れられていたのだ。だから、自分にはそれができると結論づけなければならない」。
そして、この点を考えましょう:自分に対してポジティブな態度をとったり、自分に優しくしたりした時期は問題になりません。人生の中のある時点で自分に対してポジティブになったことがあるのなら、そうする能力があるということです。
[実践]
2. 自分に対してネガティブな態度を取るより、ポジティブな態度を取ることの方が多かった
次に、二つ目の視点です。中には、一つ目の点に対して、このように意義を唱える方もいるかもしれません:「私が自分に対してポジティブな考えを持っていた時期は限られている。私は、ほとんど常に自分をネガティブにとらえてきたし、自分のことが全然好きではない」。けれど、よく考えてみれば、自分を手ひどく扱ったときよりも頻繁に自分に優しくしてきたことや、優しさの方が勝っていることが分かるでしょう。何といっても私たちは毎日自分にご飯を食べさせています(お母さんが食べさせてくれていた赤ん坊の頃を除きます)し、自分の歯を磨き、眠っています。つまり、自分の基本的なニーズを満たし、自分をケアするために必要なことはやってきたのです。そうでなければ、私たちは今生きていないでしょう。たとえとるに足りないことだと思ったとしても、実際には、これらはとても重要なことです。自分に対してどんなにネガティブな考えを抱いていたとしても、私たちは食べ、眠り、服を着て、何とか生活してきたのです。そうではありませんか?ですから、分析してみれば、これは自分に対する優しさの表れなのです。そう考えると、自分を手ひどく扱うことより、優しく接することの方が多かったということになります。「あまり食生活に気を使っていなかったにせよ、とにかく私は食べてきた。十分に眠っていないにせよ、私は眠ってきた」。よく考えてみましょう。
[実践]
私たちはどうして、自分を手ひどく扱った時期や出来事を強調しがちなのでしょう?この問題を分析するのは大変興味深いことです。私が思うに、このような時期には、ただ自分にご飯を食べさせるのよりもずっと強い感情、つまり煩悩が多く含まれているからだと思います。ただご飯を食べるときに、あまり強い感情は湧かないでしょう?けれど、感情が強ければ強いほど―そして特に、それが心を乱すような感情、つまり煩悩であれば、何か意味があるような気がしたり、ある意味、よりリアルに感じられたりするのです。もちろん、このように考えるのはばかげたことです。人生において、ある出来事が他の出来事よりもよりリアルだということなどあり得るでしょうか?すべてはただ、起こったことなのです。
煩悩によって自分を手ひどく扱ったケースの例はたくさん挙げられます。そのような状況は、あまりドラマチックではない人生の他の時期よりもよりリアルに感じられるものです。例えば、非常に有害な、不健康な人間関係を思い浮かべてみましょう。相手は、たとえあなたを殴らなかったとしても、ひどい仕打ちをして残酷な言葉を投げつけました。それでもこのような関係を続けたのは、基本的には、とても大きな執着と不安が根底にあったからです。私たちはとても強く執着していたので、「ノー」と言いたいと思いませんでした。捨てられるのが怖かったからです。「みじめな私、私には何もなくなってしまう」。自分の人生に思いを巡らせてみると、このようなネガティブな場面の方が、毎日歯を磨いて学校に行ったことよりも重要に見えるものです。
もう一つ例を挙げます。食べ過ぎて肥満になる人々のことを考えてみましょう。一般的に、彼らは、自分に対してとてもネガティブな考えを持っていて、食べる楽しみによってそれを乗り越えられると考えています。こう考えることは極めて無知(癡)であり、そこに執着も混ざっていますが、基本になっているのはとても低い自己肯定感、自分に対する大変に悪い態度です。また、拒食症や過食症、つまり、飢えるまで食を断つとか、食べた後に吐くといった摂食障害についても考えてみましょう。これらも低い自己肯定感によって引き起こされています。「私は完璧でなければならないのに、完璧ではない」。そして、完璧さについて歪んだ考え方をしているために、摂食障害という形で自分にひどい仕打ちをして、その歪んだ思考に合わせようとするのです。
すでにお話ししたように、私たちには自分を大切にしたり、自分の面倒を見たりした時期がありました。たとえドラマチックな感情を抱くような状況ではなかったにせよ、そのような時も、ドラマチックな出来事と同じようにリアルだったはずです。客観的に見てみれば、自分に否定的だったことよりも、自分を大切にしたことの方が、はるかに多かったはずです。先に進む前に、もう一つの事例について考えてみましょう。
[実践]
自分に優しくすることとひどい仕打ちをすることを比較するのは、自分が過去にドラッグをやったり、アルコールを飲んだり、タバコを吸ったりしたことを考えて、それらがどれほど自己破壊的か理解することを指しているのですか?私の場合、タバコについて、自分の気持ちが分断されています。自分の一部は「煙草を吸うな!」と叫んでいますが、他の一部は「いや、吸えばいいよ、今日は禁煙するのには向かない日だ」と考えています。これはどういうことでしょう?
ドラッグやアルコールの摂取、喫煙など、自己破壊的なことをしている状況については、二つの矛盾した考えを持つことがあり得ます。自分の中のある部分は、それが破壊的で有害だという本質を見抜いています。他方では、それらの物質に執着しているので、その良い面や良い効果を誇張して、欠点に気付かないふりをしています。仏教的な視点で、このような精神状態に関係する心所(精神の要素)を分析してみましょう。私たちは、「喫煙は自分にとって害悪である」と識別する知恵(本質を見抜く気づき)を持っています。けれど、執着もしています。そしてここでは、知恵が執着に勝っていないだけでなく、執着の方が勝っているようにさえ見えます。全ての心所は「とても弱い」から「とても強い」のスペクトラム上にあることに注意しましょう。
そして、このような状態に置かれた心は、優柔不断に揺れ動いています:「タバコを吸っちゃだめなのだろうか?」、「もう一杯飲むべきか、飲まざるべきか?」。優柔不断で、どうするべきか決めかねています。執着に「ノー」と言ったり、有害だと理解している知恵の方を選んだりする自律や自己制御が、脆弱になっているのです。
この場合、知恵を強化しなければなりません。つまり、その物質がいかに有害であるかを再認識し、忘れないようにして、常に心に留めておくこと―すなわちマインドフルであり続けることです。「マインドフルネス」とは、何かを忘れないように心に留め続けるための「精神的な糊」のことです。さらに、規律、自律をいっそう重視しなければなりません。もう一本タバコを吸いたくなったり、もう一杯飲みたくなったりしても、それが何だというのでしょう?ただの習慣の力です。私たちは習慣の力の奴隷にはなりません。インドの偉大な仏教の師であるシャーンティディーヴァ(寂天)はこれについて、とても素晴らしい表現をされました。彼が説いたことを分かりやすく言い換えてみましょう。私たちは心の中で、自分の煩悩に語り掛けるのです:「私はもう長いことお前の奴隷であった。お前は私にたくさんの問題をもたらし、たくさん傷つけてきた。お前が私の足を引っ張ることができた時は、もう終わった」。
「もうたくさんだ!」と言うには、強い意志の力が必要です。これは簡単なことではありませんが、喫煙のような自己破壊的な習慣を断ち切る第一歩であり、唯一の方法なのです。もちろん、問題をより深く考察して、煩悩の背後に何があるのかを知らなければなりませんが、最初のステップは規律、自己制御です。「もうたくさん!もう一杯飲みたかろうと、それがどうした?」と言うことです。他にも様々な状況があるでしょう。例えば、「もう一切れケーキを食べたいけれど、それは私が豚のようにあさましくなっているからだ。それに、私は満腹で、十分食べた」という場合です。この時も、もう一切れに手が出そうでも、「ノー」と言うのです。「今朝はもう少し寝ていたい」という場合もあります。自分が自分を制御する能力を持っているのを再確認する場面は、生活の中にたくさん見つかるでしょう。
ですから、あなたの質問はまさしく、九つのうちの最初の点、つまり、自分に優しくする能力の再確認に関連するものです。私たちはしばしば、「私には無理だ」と考えます。しかし、無理ではないのです。自分が能力を発揮できた事例を矮小化しているだけです。
3. 自分はいつでも死ぬ可能性があるのだから、ポジティブな考えを持たなければならない
自分に対する偏りのない態度を育むための三つ目の視点は、死について考えること、特に、死がいつでも訪れ得ることを考えることです。これは真実です。私たちは、いつでも死ぬ可能性があります。病気にならなくても死ぬことはあります。トラックに轢かれるかもしれないでしょう。そしてそれは、いつでも起こり得ることです。
このように考えてみましょう:「これが私の人生の最後の時間だとしよう」。例えば、私たちは囚人で、間もなく処刑されるところです。あるいは、戦争のただ中で、間もなく射殺されるところかもしれません。そんなとき、最後の時間をどのように過ごしたいですか?自己嫌悪にまみれて、自分がこれまでいかにひどい生き方をしてきたか、今もどんなにひどい人間であるのかを考えますか?あるいは、自分を甘やかしますか?食べたいだけアイスクリームを食べて、したいだけセックスをしますか?あるいは、自分が撃たれるのだから、心を静めるために自分のニーズを無視して、何かファッション雑誌でも読み続けますか?それが、自分の人生最後の時間の過ごし方でしょうか?あるいは、人生最後の時間であることを否定しようと、テレビでも見ますか?怒りや過剰な執着、癡などの悪見に動かされて最後の時間を使ってしまうのは、明らかに、貴重な残り時間の無駄遣いです。
これと同じように、自分に対する悪見を持つのも、この先の人生の残り時間の無駄遣いです。私たちはいつでも死に得るのです。そう考えると、自分に対して常に偏りのない考えを持つ助けになります。どんな状況においてもこのように考えましょう:「私は自分に優しくする。私は穏やかな心を保つように努め、自分と仲良くする。なぜなら、私は次の瞬間に死ぬかもしれないから」。こう考えるのは、自分により優しくする方法の一つです。
[実践]
4. 私は幸せになりたい
四つ目の点は、自分が幸せになりたくて、不幸にはなりたくないということです。これは全ての人に当てはまると思います。
このとき、他の人が自分をどう扱うかという視点で考えます:「他の人が私を拒絶したり、手ひどく扱ったりしたら、私は嫌な気持ちになるのではないか?誰かが私に執着するのも、四六時中私を気にするような過保護な態度を取られるのも嫌だ。一方、完全に無視されたくもない。他の人が私にそのような振る舞いをするのは、うれしくないことだ」。
次に、自分が自分自身をどう扱っているかを考えます:「自分を手ひどく扱うとき、私は幸せでないのではないか?あるいは、自分のことばかりに気を取られて、自分のことだけを心配して過保護になって、健康に気を使いすぎたり潔癖症になったりするようでは、幸せだとは言えないのではないか?自分のニーズを無視するのも、幸福な状態とは言えない。では、他の人に取られたくないような態度を、自分で自分に対して取っているのはなぜだろう?自分でも他人でも、誰かにそんな態度を取られたら、私は不幸になるだけではないか。それに、根本的に、私は幸せになりたくて、不幸になりたくない。不幸な状態を楽しむことはできない。では、なぜ私は、自分を不幸にするのだろう?私を不幸にする人なら、他にたくさんいる。どうして自分で自分を不幸にするのだろう?」
[実践]
5. 私には幸せになる権利がある
次に、五つ目の点です。こう考えましょう:「人生の一時期に限らず、生涯を通じて、私には、幸せになる権利と、自分自身によって正しく扱われる権利がある」。そして次のように考えてみましょう:「私には幸せになる権利があるか?それを勝ち取らなければならないように感じているだろうか?その権利に見合った人間になって、報奨としてそれを獲得しなければならないと感じているだろうか?それとも、自分が何をするかにかかわらず、自分には幸せになる権利などないと感じているだろうか?」
[実践]
これは実に興味深い点です。「幸せになる権利」は、社会主義的な考え方でしょうか?それとも、基本的人権の一部でしょうか?基本的人権は、必ずしも社会主義的な政治システムを暗示しているとは限りません。
6. 私には不幸にならない権利がある
六つ目の点は、五つ目とよく似ています:「人生の一時期に限らず、生涯を通じて、私には、不幸にならない権利と、自分自身によって手ひどく扱われない権利がある」。
五番目と六番目の点は公正な態度に関するものですが、それが自分の生涯において常に変わらないという点が重要です。私たちが幸せになる権利や不幸せにならない権利を持つのは、人生の一時に限ったことではありません。私たちは、常にその権利を持っているのです。これは、ただ幸せになりたいとか、不幸になりたくないというだけのことではありません。私たちには、そのための基本的な権利があるのです。その権利を得ようとするのは理に適ったことで、「幸せになりたい」と願うことは何も間違っていないのです。
[実践]
7. 偉大な師たちは、私のことを、本当にひどいとも、本当に素晴らしいとも、本当に取るに足らない存在だとも見なさない
次に七つ目の点です:「もしも私が本当にひどかったり、本当に特別に優れていたり、あるいは本当に無価値だったとしたら、仏や偉大な師は私をそのような人間だと見なすだろう。しかし、彼らはそうしない」。
実際に仏に会ったり、偉大な精神的指導者と密接に交流したりしていなければ、こう考えるのは簡単ではありません。仏に会ったことがあるという人はほとんどいないでしょう。私は、ダライ・ラマ法王や法王の師たちなど、真に偉大な師と親しく接するという大変な栄誉に浴してきました。その経験から、「彼らにとっては誰も特別ではない」とお伝えすることができます。偉大な師たちは、どんな人も同じだと考え、誰に対しても平等に心を開かれています。
私はいつも、私の師の中でも中心的な存在であったツェンシャブ・セルコン・リンポチェの例を考えます。私はリンポチェの通訳として9年間働き、一緒に世界中を旅しました。リンポチェが先代のローマ法王と面会した時も、道端で酔っ払いに遭遇した時も、私は共にいました。また、ダライ・ラマ法王が各国首脳に面会した時も、ごく普通の人々と接しているときも、私はそばで見ていました。法王が何かのイベントに出席するときは、いつも同じようにオープンで、同じように温かく挨拶していました。誰も特別ではないのです。「誰も特別ではない」というのは、誰に対しても冷たくて無感情であるということではありません。誰に対してもオープンで、暖かくて優しくて、どんな人とも喜んで会うという意味です。
私はいつも、セルコン・リンポチェに驚かされていました。私たちが世界中の仏教センターを訪れると、大概チベット人の師がいました。リンポチェには親友というものがいないようでしたが、これらの師など、誰であれ、そのとき一緒にいる人が親友であるかのように接していました。これは実に非凡なことです。リンポチェは、どんな人に対しても同じようにふるまっていたのです。
ですから、私たちが本当におぞましい人間だったり、本当に特別で優れた存在だったり、あるいは、本当に取るに足らない人間だったとしたら、仏や偉大な師たちも、私たちをそのように見なすでしょう。けれど、彼らがそうすることはありません。ここに、一つ付け加えても良いでしょう―私たちがもし、おぞましかったり、素晴らしかったり、無価値だったりしたら、指導者たちだけではなく、あらゆる人々が私たちをそのような目で見るでしょう。けれど、そんなことはないのです。
[実践]
分析してみると面白いことが分かります。私たちはしばしば、「他の人たちは私のことをよく知らないのだ。もし本当に私を知ったら、私がいかにひどい人間かに気付くだろう。けれど、彼らは『本当の私』を知らないのだ」と考えます。繰り返しになりますが、これは自分を「偽の『私』」と同一視しているということです。この場合、私たちは自ら、自分のネガティブな点を選んでそれを強調し、自分が持つ他の側面については忘れてしまっているのです。これまで何度かお話したことですが、誰もが長所と短所を持っていて、それはごく当たり前のことです。様々な程度の強みや弱みがあることは、何も特別なことではありません。
8.私は様々な性質や特徴を持っていて、それらは変わることがある
次に、八番目の点です。もし、私たちが本当におぞましい人間であったり、素晴らしい人間であったり、どうでもいい人間だったりしたら、私たちは常にそのような人物であったはずです。そのような人間性や自分に対する態度も、絶対に変わることはないでしょう。しかし、そんなことはあり得ないのです。自分の人生を眺めてみると、自分を取り巻く状況が変われば、自分に対する態度も変わることが分かります。自分の機嫌がいい時と悪い時に、自分にどんな態度を取っているか考えてみましょう。明らかに異なる態度を取っているのではないでしょうか。私たちは混乱して、自分が生まれつき良い人間だとか、悪い人間だとか、取るに足りない人間だとか考えてしまい、それがあたかも、自分の機嫌や身の回りで起きていること、人生のどんな時期にいるかなどに一切関係なく、何にも左右されないような、真の性質だと感じているのです。
これは、一人の人間としての「私」について考えるのとは全く別のことです。一人の人物、個人であることは、良くも悪くもない中立的な現象です。この手が良くも悪くもない、ただの手であることと同じです。私たちがやってきたことの一部は、破壊的だったり、ネガティブだったりしたかもしれません。ポジティブなこともあったでしょうし、苦痛だったことや楽しかったこともあるでしょう。けれど、これは別の話です。一人の人間としての「私」は、良くも悪くもないのです。人間の本性の一部として、私は幸せになりたくて、不幸になりたくないと思います。他の誰もが同じように感じています。そして、基本的人権の一部として、私は幸せになり、不幸にならない権利を持っています。
欠点は克服することができます。欠点は恒常的で不変のものではないからです。私たちは、人生で過ちを犯してしまうこともあります。いくつかの過ちは修復できますが、取り返しがつかない場合も、真摯に対処し、できるだけ多くのことを学びましょう。例えば、投資に失敗してお金を失ったとします。そこから最善の結果を導けるようにしなければなりません。失ったお金はもうないのですから、どうしようもありません。ただ、状況を変えようとしてみるのです。「分かった、私はお金を失った。さあどうしよう?」と、現実的に考えるのです。それに、何か失敗をしても、それで私たちが悪い人間になることはありません。馬鹿げた失敗をしてしまったというだけのことです。ですから、「私」という人間と、自分がしてしまったこと(あるいは、状況に応じて変化する様々な性質や特性)とは、はっきりと区別しなければならないのです。
[実践]
9. 状況に応じて私自身に対する態度は変化する
ここから、九つ目の点が導かれます。もし私たちが、本当におぞましい人間だとか、素晴らしい人間だとか、取るに足りない人間だったとしたら、状況や起こっていることにかかわらず、これまでの人生を通じて常にそのような人間だったはずです。けれど、そんなことはあり得ません。
ここでは、私たちが生まれつき素晴らしいとかおぞましいとかいうことを考えているのではありません。自分への態度について考えているのです。もし、私が本当にそのような人間だったとしたら、自分自身への態度も、状況にかかわらず、常に一定だったはずです。けれど実際には、態度は変わります。これまでも、自分が成功したとか、失敗したとか、良い選択や悪い選択をしたとか、状況に応じてさまざまに変化してきたはずです。
ですから、「何が起ころうとも、私は絶対にこのような人物だ」というような、自分自身に対する悪見を持つのは無意味なことです。そのように考える必要はありません。自分に対する感じ方は環境や状況に応じて変わるものですが、根本的に、自分自身には間違っていることも特別なこともありません。これを理解していれば、私たちは変わることができます。そして、いつも変わることなく、自分に対して優しさと敬意のこもった公正な態度をとれるようになります。自分を尊重するのはとても大切なことです。
私たちは、「完璧でなければならない」と考える傾向があるように思います。これは、仏教の実践者には特に顕著なことですが、そうでない人々にも言えることです。もし完璧でなければ、「自分はだめだ、出来損ないだ」と考えてしまうのです。けれど、そんな時はこう考えましょう:「私はまだ仏になっていない。私は普通の人間だ。そして普通の人間は、間違いを犯すものだ。私が間違いを犯したからと言って、何か特別なことがあるだろうか?私は何を期待しているのだろう?失敗したからというだけで、自分を嫌悪したり、悪く思ったりする理由はない。自分が絶対に間違いを犯さないとか、挑戦したら絶対失敗しないとか考えるのは、非現実的な期待だ。もちろん私は時々失敗するだろう。状況によっては、あらゆる不運な出来事が起こる。けれど、何が起きようとも、私はただの人間、中立的な現象なのだ」。
批判的になって「私は素晴らしい」とか「私はひどい奴だ」とか考えることなく、ただ、力を尽くして間違いから学んでゆきましょう。
[実践]