心を制御する

Mt 37 dl taming the mind

動機

本日、教えを聞くというダルマの目的のために、世界中から多くの方々がここに集まってくださいました。チベットからいらした方もいます。ですから今回は、トクメー・サンポによる『三十七の菩薩の実践』とツォンカパ大師の『道の三要訣』に関するこのブッダガヤにふさわしい、発菩提心などに関連する教えを説きたいと思います。私たちはいま非常に神聖な場所にいますから、ここではどこよりも強力な功徳を積むことができます。この功徳の力をさらに強めるためには、非常に大きな視野の動機と考え方が必要です。これは、教えを聞く人々にだけでなく、師、つまりラマたちにも欠かせないことです。

完全に悟った仏は三十二相八十種好を備え、衆生に悟りを開かせる六十種声を具足しています。さらに、彼の心はあらゆる煩悩や悪見、障から解放されており、常に空を非概念的に直接認識すると同時に、全てのものごとをあるがままに認識しています。このように慈悲深く完全に悟った仏が2500年前に初めて悟りを開いた場所こそ、私たちが今いるここブッダガヤです。

私たちは、戦争や飢餓、自然災害などが絶えない困難な時代に生きています。しかし、これまでに積み上げてきた功徳があるからこそ私たちはこの時代に生まれたのですし、教えや師に出会うという貴重な機会を手にすることもできたのです。ですから、自分が聞いた教えをできる限り実践に移さなくてはなりません。

ダルマとはただ「見返りに何かを受け取るために祈りを捧げること」だと考えるべきではありません。ダルマは自分自身で実行しなければならないものです。いくつかの言葉をただ暗唱して言葉の上だけで帰依する(安全な方向性を定める)のではなく、自分が口にした言葉を日々の言動に取り入れてゆくのがダルマです。ですから、教えに関心を持ち、教えの学習と実践に積極的に取り組まなければなりません。ですから、まずはその方法を知る必要があります。

ダルマに熱心に取り組めば取り組むほど、私たちは幸せになります。これは、自分の様々な建設的な行動から生じる功徳のネットワーク(ポジティブな力の集合体)から生まれる結果です。これこそが、言葉の上でだけではなく、実践によって仏陀の弟子となるべき理由です。これを実行すると、より多くの幸せが生まれます。ですから、ここブッダガヤではダルマに―特に大乗のダルマに―触れる機会がありますから、できるだけ多くの功徳を積むことを意識しなければなりません。その際、適切な動機を定めることが不可欠です。広い範囲に及ぶポジティブな動機があれば膨大な利益を得ることができます。このような動機なしに実践を行ってもあまり上手く行きませんし、それほどの効果も期待できません。

師の場合も同じことです。師が教えを説く動機が高慢や嫉妬であったり、あるいは名声や尊敬を勝ち取るためだとか、他者と競うためであったりしてはなりません。できる限り他者の利益となることを唯一の動機とすべきです。そして、全ての人々と全ての衆生を尊重し、誰も見下すことなく教えを説くのです。聴衆もまた、傲慢になってはいけません。仏陀の貴重な教えを受け取るために、敬意を持ってじっと教えに耳を傾けなければなりません。師と弟子の双方が適切に、注意深く振る舞うなら、教えを説くことや学ぶことからは非常多くの利益が生まれますし、私たちは最大限の功徳を積むことができるようになります。

自分にいかなる煩悩や悪見があっても、くじけることなくそれに対処することが重要です。地道に取り組んでゆけば次第に自分の問題を解決できるようになり、最終的にはそれらの問題から永久に解放されます。年を追うごとに自分が成長していることに気付くでしょう。心は自性として清浄なので、煩悩や悪見によって汚染されていません。ですから、心を自浄させることに専念すればこれは成功するのです。私たちが苦しみを味わっているのは、心が鍛えられておらず、制御されてもいないことが原因です。これこそが、対処すべき課題です。しかし、この問題はただちに解決するわけではありません。

たとえば、非常に攻撃的で粗暴な人がいたとします。彼に教養を身に着けさせ、穏やかな性格にしたいのなら、何年もかけてゆっくりと取り組んでゆくしかありません。これは、私たちの心でも同じことです。私たちには欠点がありますが、徐々に改善してゆくことはできます。子供にも同じことが言えるでしょう。はじめ、子供は何も知りません。子供は全く何も教育を受けていません。しかし、学校に行って1年生になり、2年生になり、何年も勉強を続ければ、徐々に彼らは教養を身に着けてゆきます。家を建てるときでも同じです。一階ずつ、フロアごとにしか建てられないでしょう。どれぐらいの時間がかかるのかに気をもむことなく、完了させなければならないタスクだけに集中して、前を向いて作業完了まで根気よく取り組んでゆくのです。自分の心に向き合うときも、これと同じ態度で臨まなければなりません。

動機を定める際には、自分のレベルに合わせて、今お話したことをできる限り実行に移してください。すると、ラムリム―または「修行の階梯」―で解説されている段階を踏んで徐々に成長してゆけるようになります。ラムリムをご存知の方も多いでしょうが、まだご存知ない方もおられるでしょうから、ここでその要点を少しご紹介したいと思います。

心を制御する

ダルマの実践は、ただ着るものや地位、所有物の量を変化させるだけのプロセスではありません。むしろ、自分の態度を変化させて自分自身の心を制御させることです。自分が誰であれ―私ダライ・ラマであっても―、心が制御されていなければ、自らを「ダルマの実践者」だと考えることはできません。誰かが「ダルマの実践者」であるか否かを決めるのは、その人の名前や服装ではなく、精神と感情の実際の状態です。ですから、最も重要で不可欠なのは、心を制御することなのです。

ここにいる誰もが自分自身を詳しく調べる必要があります。私たちはみな幸せになりたいと思っていますし、苦しみたいと思っている人は誰もいません。頭が痛いとき、その頭痛が消えて欲しいと思わない人はいないでしょう?これは身体の痛みにも心の痛みにも言えるでしょう。しかし、望まない苦しみを取り除いて望む幸せを手にするのは、たくさんの段階を踏まなければ達成できないことです。動物を手なずけたり助けたりするのにだって、その特定の動物に合わせたステップを踏みながら少しずつ近づいていなかければなりません。たとえば、まずは餌付けして、怖がらせたりいじめたりしないようにするところから始めます。これは自分についても同じことです。他者を助けるためには段階を踏まなければなりません。

まず、今年や来年は自分自身に利益をもたらすことを考えましょう。ゆくゆくは二十年先まで視野を広げて考えるようにしてゆきます。その後、もっと長期的に幸せを手にして苦しみを避けることを望むようになったら、来世も人間として生まれるための取り組みに着手します。ですから、現在人間である私たちにとって、先のことを考えるのはとても大切なことなのです。その際、ただ一時的な、表面的なレベルで考えるのではなく、究極の幸せの獲得を目指すことが重要です。

普通の意味で「幸せを追求する」というとき、私たちが求めるのは食べ物や着るもの、安全な居場所などです。これらは自分の身体のためのものです。しかし、人間であるというのはそれだけのことではありません。お金があっても精神的に深く苦しんでいることもあります。これは西洋では特に顕著です。経済的・物質的に恵まれていても、うつ病に苦しんだり、気持ちが落ち込んだりするなど、様々な痛ましい心の問題を抱えている人はたくさんいます。事実、その状態を改善するために治療薬やドラッグを摂取している人も少なくありません。このような事例から分かる通り、物質的な慰めや富を手にしている人が欲しているのは何よりも精神的な幸せです。彼らは物質的な快楽だけではなく、精神的な幸せも求めているのです。そして、富だけでは精神的な幸せはもたらされません。身体がどんなに健康で強靭であっても、心が幸せでなければ十分ではないでしょう。つまり、私たちには身体と精神の両方の幸せが必要なのです。どちらが重要かといえば、それは心の方です。なぜなら、心は私たちを支配するものだからです。ですから、心の幸せを実現することを重要視しなければなりません。

心の幸せを実現する

では、心の幸せはどのようにもたらされるのでしょう?思考回路を通じてもたらされます。心を使ったり考えたりすることなしに自分を幸せにすることはできません。これは双方向の働きをします。つまり、たとえば、一番強力な煩悩が何であれ―それが怒りでも、欲望や傲慢、嫉妬でも―、煩悩にまかせて行動すれば、よりひどく苦しむことになるのです。たとえば、自分の煩悩の中で最も強いのが怒りだとしたら、怒れば怒るほど不幸になるということです。

たとえば、チベットの状況について憤慨しているとき、私たちは幸せでしょうか、それとも不幸でしょうか?もちろん不幸です。ですから、怒りへの対抗手段として、慈悲について考えなければなりません。慈悲は怒りを無力化し、心の平穏をもたらします。このように、良い心と優しい考えが幸せをもたらすのです。私たちの誰もが幸せを求め、苦しみを捨て去りたいと願っているのですから、その根源が心であることを理解しなければなりません。

つまり、執着や反感が強ければ強いほど苦しみは大きくなり、弱ければ弱いほど私たちは幸せになるのです。ですから、自分の心から何を捨て去るべきか考えなければなりません。たとえば、誰かを妬んだり羨ましがったりしていると何が起きるでしょう?私たちはみないつか死ななければならないのですから、嫉妬の対象となっているものを永遠に手にし続けることは決してできません。また、何かを手に入れたいという欲望を全て満たすことも決してできませんから、嫉妬している限り、決して幸せになることはできないのです。高慢についてもこれと同じことが言えます。ずっと同じ状態でいられる人などいません―永遠に若く、はつらつとしていられる人などいないのです。今の自慢の種はいつか必ず失うことになります。ですから、高慢さもまた、非常に不幸な心の状態です。レストランで他の人が食べているメニューの方がおいしそうだと思って嫉妬しても、何の良いことがあるでしょう?不幸になるだけです。そんなことを考えてもお腹は膨れませんからね!

私たちチベット人について考えてみましょう―中国人に対して怒りや羨望を感じるとき、私たちは幸せでしょうか?それが幸せな精神状態だと言えるでしょうか?当然、そうではありません。執着や反感を主な原動力として生きている人もいます。そんな人が大きな力を持ち、有名になることもあるでしょうし、歴史に名を残すこともあるでしょう。しかし、彼自身は何を得たのでしょう?歴史に名前が残っただけです。彼自身が幸せになることはありませんでしたし、もう死んでしまったのです。ですから、死ぬまで煩悩に突き動かされて行動していたら、どんなに豊かであろうと、どんなに強い影響力を持とうと、幸せになることはできないのです。

ブッダガヤにいる自分の状況について考えてみれば、今お話したことがよく理解できるでしょう。今みなさんはこのような聖地にいて、私ダライ・ラマもここにいます。それなのに、あなたがもし物乞いにいらだったり身体の不調について不満を感じたりしているなら、あなたは幸せでしょうか?一方、この場所で煩悩を減らし、何か建設的なことをしているのなら、それは幸せではないでしょうか?考えてみてください。

私たちの心の状態は、隣人や友人、自分の子供にも影響を及ぼします。家庭の状況を考えてみてください。子供に腹を立てて不機嫌になり、子供を殴ったら、子供は泣きます。自分の心のせいで誰もが不幸になってしまうのです。しかし、腹を立てることなく鷹揚に構えて、ただ子供たちを遊ばせておくなら、誰もが幸せで穏やかな気持ちでいられます。国家の場合を考えてみても同じです。公平さや寛容さが尊重されている国では誰もが幸せを享受することができます。これは個人でも、家庭でも、国家でも同じことです。煩悩が多ければ多いほど不幸も増え、少なければ少ないほど幸せが増えるのです。

私自身も煩悩や悪見の悪い点―私にどんな悪いものをもたらしているのか―についてよく考えますし、反対に、煩悩を持たないことによる利点についても考えます。すると、自分の人生から煩悩を減らしてゆくことの重要性がよく分かってきます。さらに、自分が人生をもっと楽しめていることに気付くというおまけまでついてくるのです。食べ物はよりおいしく感じられ、ものごとはずっと上手く行くようになっています。しかし、心が煩悩でいっぱいになっていると、瞑想や読経をしているときでさえ、そこから幸せを引き出すことはできなくなります。ですから、煩悩のもたらす不利益についてはいつも考えていなければなりません。

つまり、心が制御されていて、煩悩や悪見がなくなれば、私たちはとても幸せになるのです。心を制御することで得られる最大の成果は、煩悩や悪見が二度と生じなくなることです。たとえこれらが生じたとしても、その力に突き動かされて行動することはなくなります。これは二番目に素晴らしい成果です。たとえば、怒らないのは最も良いことです。しかし、たとえカッとなってしまったとしても、そのとき自分の心をコントロールすることができれば、怒りにまかせて行動することはありません。相手の横っ面を張り飛ばしたり下品なあだ名で呼んだりするなど、粗暴なことはしなくなるのです。

このように、ゆっくりと段階を踏んで煩悩への対抗手段が強化されてゆけば、心をより上手く制御できるようになります。そのとき、私たちはもっと大きな幸せを手にします。ですから、初心者はまず怒りや執着などの煩悩を生じさせないようにする取り組みを行うべきです。たとえこれらの感情が湧き起こっても、それに任せて行動しないようにしなければなりません。心を制御するのはダルマの実践ですが、制御しないのはダルマではありません。煩悩を全て捨て去ったときには滅諦(真の停止)と呼ばれる平穏な境地に至ります。これはまさに本当のダルマのことです。

四聖諦

仏教には「四聖諦」―四つの尊い真実―と呼ばれるものがあり、これは苦諦(真の苦しみ)、集諦(その真の原因)、滅諦(その真の停止)、そして道諦(真の道の心)の四つから成ります。苦諦について考えてみましょう。苦しみには死、病気、老齢など様々な種類があります。仏陀は、苦しみに気付くことはとても重要だと説きました。では、この苦しみの根源は何でしょう?制御されていない心です。もっと具体的に言えば、煩悩と悪見です。煩悩と悪見、そして煩悩の力によって生じるカルマこそが苦しみの真の源、真の原因とされているのです。私たちはこのような苦しみを望んでおらず、むしろ取り除きたいと考えています。ですから、この苦しみを生み出しているのが、制御されていない自分の心だということに気付かなければなりません。

私たちは滅諦―苦しみが二度と戻らなくなるような、苦しみの真の停止―を実現したいと思っています。そのためには、煩悩や悪見を法界―空の領域―へと追いやり、消し去らなければなりません。これは滅諦の涅槃と呼ばれます。

煩悩や悪見を捨て去ったり永遠に停止させたりするプロセスにはいくつもの段階があり、そこには聖(アリヤ)の道諦(真の道の心)と呼ばれるものが含まれます。もっと具体的に言いましょう―様々な煩悩や悪見を捨て去る過程で、私たちはもっと多くの功徳を身に着ける努力もします。このように、一方では煩悩や欠点を捨て去り、他方では功徳を積む心は、真の道の心と呼ばれるということです。

つまりこういうことです―真の苦しみがあり、それには真の原因があり、私たちはその真の停止を求めていて、それを現実のものとするためには真の道の心を実現する必要があるのです。その結果、私たちは疑う余地のない苦しみの停止と平穏―あるいは「悲しみを越えた境地」、つまり涅槃―を達成し、永続的な幸せを手に入れることになります。これこそ、仏陀がここブッダガヤで身を持って示したことです。その後、彼は四聖諦を説きました。四聖諦の始めの二つ―苦諦と集諦―は心が欺かれることや心の不純な側面に関する真理、後の二つ―滅諦と道諦―は心を解放することや心の純粋な側面に関する真理だと言えます。

子供が「親に言われたから」という理由だけで親の言う通りに行動することがありますが、ダルマの実践の動機はそのようなものではありません。ダルマの道を歩むためには、あたかも聞き分けの良い子供のように、言われたことに従うだけではいけないのです。私たちは自分自身の苦しみを捨て去りたいと願っています。それを実現するには心を制御することが不可欠で、その目的のために師の指示に従うのです。お分かりになりますか?

三宝

苦しみを捨て去るプロセスには多くの要素が含まれています。たとえば空腹や寒さなどの苦しみがありますが、その一つ一つを取り除くためにはそれぞれ違ったメソッドや方法を使って取り組まなければなりません。たとえば、空腹や寒さを取り除くためには、農家の人や商人などの力が必要です。病気という苦しみに対処するには医者や薬の力が必要です。しかし、これらは一時的な対処法であり、最終的な解決策ではありません。病気のときに薬を飲めば体力を回復させることができますが、老齢や死が取り除かれるわけではありません。つまり、私たちは通常の方法で生老病死の苦しみを―たとえ一時的な慰めになるとしても―完全に取り除くことはできないのです。

ヒンドゥー教のいくつかの宗派やキリスト教、ユダヤ教、イスラム教など、多くの宗教では、幸せと不幸を作り出す唯一神がいて、その神に祈れば彼が幸せを与えてくれるとされています。しかし、これは仏陀の考えとは違います。仏陀は、私たちの幸せや不幸を司るのは神ではなく自分自身であると説きました。

唯一の帰依の宝―つまり唯一神―を敬う他の宗教と違って、私たち仏教徒は三つの至高の宝、つまり三宝を敬います。仏陀は、受け入れるべきものと拒絶すべきものを説いた人物です。ですから、仏陀は創造主や神ではなく、教師のような存在なのです。幸せや苦しみを作り出すのは私たち自身のカルマ、あるいは言動です。ですから、幸せを生み出すために、できる限りポジティブな、あるいは建設的な言動をとる必要があります。一方、不幸を生み出すネガティブで破壊的な言動はできる限り慎むように努めなければなりません。

仏陀が次に説いたのは因果の道です。私たちの運命は神ではなく、仏陀でもなく、私たち自身の手に委ねられています。ですから、実際に帰依するもの、つまり安全な方向性とは法宝なのです。私たちはダルマを自分の心相続の中で育まなければなりません。言い換えれば、心から煩悩などを取り除けば、苦しみを手放して幸せを手に入れることができるということです。

さらに、心相続で法宝を育むためには、その過程で私たちの手本となり、私たちを補助する存在が必要です。このような人々は僧宝(聖、サンガ)と呼ばれます。

つまり、仏陀は、人生の中に定めるべき安全な方向性を示したのです。法宝(ダルマ)は実際の安全な方向性、僧宝(サンガ)は手本となるべき存在です。私たちに幸せを与えたり苦しみを取り除いたりする唯一の神や唯一の帰依の宝というものはありません。

理論と実践に基づく仏教

チベット語で「ダルマ(Dharma)」を指す言葉を英訳するとき、「religion(宗教)」という単語がしばしば使われますが、この「religion」という単語には「唯一の創造主の存在を認める体系」という含みがあります。それゆえ、「仏教は無神論で宗教(religion)ではない」と言われることも少なくありません。中国人は自らが無神論者でチベット人は信仰心を持っていると考えていますから、中国人にとって仏教は宗教です。しかし、「宗教」をこのように「唯一の創造主の存在を認める体系」と定義づけた場合、私たちチベット人もまた無神論者なのです。

さらに、私たちは仏陀の言葉に闇雲に従うのではなく、入念に検討してから受け入れています。教えが理論的であれば受け入れますが、そうでなければ受け入れません。たとえば転生などの現象にはたくさんの理論的な裏付けがあります。また、私たちはあるテーマについてよく検討してからでなければそれを受け入れません。理論で立証できることは受容して良いのです。ただ盲信するだけではいけません。ですから、「私は信じます」と言うだけでは不十分なのです。理論と根拠に基づいて分析することが重要です。理論や現実と齟齬があるものは受容しません。どんなときも、理論的思考を信仰の土台とするべきです。

仏陀は完全な形で教えを説きました。彼の教えを改訂したり、何かを付け加えたり、発展させたりする必要はありません。すべては、私たちがそれを実践するか否かにかかっています。至ってシンプルなことです。これは薬の喩えを使うと理解できるでしょう。医師は一人一人の患者を診察し、各々に適した薬を処方します。その薬が効かないときに「医学という学問に問題があるのだ」と言う人は愚かです。賢い人であれば、薬が効かないのは医療従事者の判断が誤っていたためだと考えるでしょう。医学の問題ではありません。仏教でも同じことです。仏陀が自ら説いた教えを集めた『三蔵』に問題があるのではありません。よく検討すれば、根拠となっている仏典に問題があるのではないことが分かるはずです。ですから、様々な経典に書かれている通りに正しく実践に取り組むべきなのです。

大乗の動機を再確認する

つまり、もっとも重要な実践は心を制御することです。そのためには、教えを聞くこと、そして、正しく教えを聞くために適切な動機を持つことが必要になります。仏陀は大乗・小乗どちらの教えも説きました。大乗で心がけるべき重要な点は、他者を助けることです。小乗では、他者を助けることができなくても、少なくとも傷つけないようにすることが強調されます。つまり、大乗・小乗のどちらでも、他者を助け、彼らに利益を与える方法が重要視されるのです。私たちはここから学ばなくてはなりません。他者を助けられるなら助けなければなりませんが、それができなくても、彼らを決して傷つけないようにするべきなのです。「誰かに腹を立てるべきだ」などという教えはどこにもありません。そうでしょう?

大乗では、自分自身の利己的な目的を顧みずに多くの他者のために努力するべきだとも説かれています。これこそが仏教のメッセージです。ですから、純粋で暖かく、優しい心を持たなくてはなりません。発菩提心を自分の動機とするようにしましょう。発菩提心とは、全ての衆生の利益となるために悟りに至る取り組みを行うことです。この動機を胸に、これから、トクメー・サンポ菩薩がここブッダガヤで著した『37の菩薩の実践』に耳を傾けてください。

著者のたぐいまれな資質

トクメー・サンポはブトン・リンポチェの時代の人です。つまり、ツォンカパよりも二つ前の世代に当たります。彼は主にサキャ派の伝統に従う修行者で、若いころから他者を助けることに何よりも強い関心を持っていたことで知られています。たとえば、子供のころから、彼は誰かが他者を助けなかったといって機嫌を損ねていました。長じて彼は僧侶となり、様々な師―主に二人です―のもとで学びました。そして、スートラとタントラを両方とも実践して非常に豊な学識を身に着け、多くを達成しました。

彼は、主に自他等換の教えを説くことによって菩提心を育んだことで良く知られています。実際、菩薩を誰か思い浮かべようとするなら、真っ先に思いつくのはトクメー・サンポでしょう。彼はそれほどまでに偉大な、特別な存在でした。誰かが彼の教えを聞くと、皆穏やかで落ち着いた気持ちになるのでした。

彼は全ての衆生を助けるために『37の菩薩の実践』の教えを著しました。私たちはこの教えを繰り返し検討しなければなりません。私たちは自分を大乗の実践者だと考えていますが、実際の大乗の実践を絶えず検討していなければ、真の意味で大乗の実践者であることはできません。それゆえ、この37の実践に関連して自分自身を吟味し、自分がそれに則った行動をとっているかよく考えなければなりません。『菩薩の実践』には、ラムリムで説明される三つの動機のレベルそれぞれに取り組む人々に向けた教えが含まれています。

テキスト

では、このテキストについて少し解説したいと思います。私はこのテキストの伝授をクヌ・ラマ・テンジン・ギャルツェン師から授かりました。クヌ・ラマ・テンジン・ギャルツェン師ご自身は、この伝授をカム地方の先代のゾクチェン・リンポチェから受け継がれています。これが、私がラサから実際に持ってきたこのテキストの背景です。

この教えの基礎となっているのは、寂天の『入菩薩行論』(蔵: sPyod-’jug, 梵: Bodhisattvacharya-avatara)、弥勒の『大乗荘厳経論』(蔵: mDo-sde rgyan, 梵:  Mahayanasutra-alamkara)、龍樹の『宝行王正論』(蔵: Rin-chen ’phreng-ba, 梵: Ratnavali)です。

『37の菩薩の実践』は三つの部分に分かれています:

  • はじめに功徳を積む
  • 実際の教え
  • 結論

「はじめに功徳を積む」は二つの部分に分かれています:

  • 冒頭の礼拝
  • 執筆の誓い

冒頭の礼拝

第一偈は、これらの二つのうち初めの部分である「冒頭の礼拝」に当たります。

世自在観音菩薩に帰依いたします。
全ての現象は訪れることも去ることもないことをご覧になりながら
たださまよえる者たちの利益のためにのみ力を尽くす至高の師と守護者観音菩薩とに
私は(身・口・意の)三門を通して絶えず恭敬礼拝いたします。

まず、観音菩薩―ここでは世自在観音菩薩(ローケーシュヴァラ)と呼ばれています―への礼拝から始まります。悟りの源は悲ですから、悲を体現されるお方である観音菩薩に礼拝するのです。また、今後サンスクリット語で学ぶための基礎となるよう、ここでは観音菩薩の名がサンスクリット語で表記されています。この礼拝は観音菩薩と共に精神的な師たちにも捧げられ、それは身・口・意の三門を通じて行われます。このような礼拝を行う理由は、その対象の功徳です。

では、その功徳とはどのようなものでしょうか?大乗の根源にあるのは世俗菩提心です。世俗菩提心とは、全ての衆生の利益となるために悟りに至ることを目指す心のことです。この目標を達成するためには六波羅蜜を実践する必要があります。その結果、私たちは肉体と精神の両面において―つまり、色身(仏の肉身)と仏の全知の心である法身(全てを含む深い気づきの身体)を持つ―悟りに至るのです。この二つを獲得するには、その結果と同種の因を積み上げなければなりません。ですから、色身を獲得するには功徳のネットワークが、法身のためには深い気付きのネットワーク(智慧の集大成)が必要なのです。その基礎となるのは二諦です。

観音菩薩は、あらゆる現象は来ることも去ることもないということをご覧になっている方です。世俗的な意味でいうものごとの真実を検討すれば、ものごとは実際に訪れたり去ったりしていることがわかります。しかし、最も深い真実をつぶさに調べてみると、ものごとがやって来たり去って行ったりするということは、真に、そして自性として確立されていないことがわかります。たとえば、因果というものがあります。因は自性として存在しているのではありません―因は自性として存在するという存在の仕方を欠いています。同様に、その結果もまた、不可能な方法で存在してはいません。原因も結果も自性として存在しているのではなく、互いに依存し合って成立しているのです。つまり、全ての現象の縁起(相互に依存して生じる性質)は、自性によらずに存在するものとして成立しているのです。

龍樹が説いたように、ものごとは真に来ることも、去ることも、留まることもありません。ですから、「全ての現象は訪れることも去ることもないことをご覧になり」という一節は、空に言及していると同時に、ここで礼拝の対象となっている人物が、非概念的で直接的な認識によって空を理解し、見つめているという事実を指してもいます。全てのものは相互依存的に生じているので、「自性によって存在する」という存在の仕方は一切ありません。そして、どんなものも自性として存在していないため、因果のプロセスによって相互依存的に発生しています。

煩悩と悪見を因として、苦しみという結果が生じます。建設的な行動を因として、幸せという結果が生じます。苦しみの到来という現象は煩悩と破壊的言動に依存して生じるものです。この偈の礼拝の対象は、これは全ての衆生について言えることだと理解しているので、彼はただその悲によって衆生に苦しみを取り去る方法を示すことだけを目指しているのです。ですから、この偈には、智慧とメソッドの両方が示されています。私たちにはそのどちらも必要であり、どちらかが欠けていてはいけないのです。

この礼拝からはこれらの二つの側面を読み取ることができます。観音菩薩は、全てのものは自性として成立していないこと、そしてそれゆえに全ての現象は因果によって生じることをご覧になっています。何よりも、彼は全ての衆生の苦しみは自らの煩悩と悪見から生じていることを見抜いており、それゆえに慈悲深くも彼らの苦しみを取り去ることを目指しています。ですから、ここでは観音菩薩の智慧とメソッドが讃えられているのです。彼は、全てのものを空と因果と見なしているので、あらゆる衆生が苦しみから解放されることを願う悲の心を持っているのです。

執筆の誓い

次はこのテキストを執筆するする誓いです。

利益と幸せの源である完全に悟った仏という存在は、神聖なダルマを成就したことから生じました。
また、それは彼らが実践の何たるかを知っていたことにも依存します。
それゆえ、私は菩薩の実践を解説しようと思います。

仏陀はまず全ての衆生の利益となるために悟りに達そうとする世俗菩提心を育みました。そして、悟りに至ったあとは、ただ全ての衆生の利益のみを目指したのです。彼は自分自身の煩悩と悪見を全て捨て去る必要があることに気付き、自分の心を制御しました。そして、これは真の幸せに至るために誰もがしなければならないということも理解しました。それゆえ、仏陀はそれを実行するための様々なメソッドを説いたのです。私たちは、仏陀と同じように、このようなメソッドを自ら実践しなければなりません。仏陀の教えに従って実践に取り組めば、私たちも幸せをつかみ取ることができるはずです。ですから、この句では仏が利益と幸せの源とされています。

仏陀ご自身も初めから悟っていたわけではありません。彼も自分の師に依止してその教えを実践しましたし、自らの心を制御してもいました。そして、自分自身の煩悩と悪見を全て捨て去ることができたとき、彼は悟りに至りました。仏陀自身も実践を行い、聖なるダルマを成就することによって悉知を得たのです。

私たちは、自分には身体と心の両面があることを理解しなければなりません。眼識(目の意識)によって何かを見るとき、「眼識がそれを見ている」とは言わず、「私がそれを見ている」と言うでしょう。自分の身体が病魔に侵されたときには「私は病気だ」と言います。このような表現が暗示するのは、「私とは意識である」、あるいは「私とは身体である」ということです。しかし、私たちの身体はもともと母胎の中で形づくられ、死と共に失われるものです。ですから、「私はただの身体である」と言うことはできません。

では、私とは、ある身体に依存する心なのでしょうか?しかし、「私」は、何らかの形でも、姿でも、色でもありません。しかし、ある身体を遠くに認めたときには、私たちはそれに基づいて「ああ、あそこに友達がいる」と思い、幸せな気持ちになります。しかし、よく考えてみれば、その人はただの身体ではありません。たとえば、病院に行ったときには医師が「お身体の具合は?」と尋ねるでしょう。しかし、私たちはただの身体ではないのです。アメリカには健康促進のために瞑想を処方する医師もいます。医師たちが身体に直接働きかけないものを処方するのなら、身体と心には何らかの関連があるはずです。

では、「私」とは「心」なのでしょうか?心の本質について考えてみましょう。私たちが何かを知っていたり意識したりしているときには、「私はそれを知っている」と言います。しかし、「心」が何であるかを正確に突き止めるのは大変困難なことです。心の定義となるのはただ「光り輝き、認識するものである」ということだけです。心は、色や形を備えた物質的なものではありません。想像してみると、心は透明で何もない空間のようなもの―あらゆるものの顕現が失われた空間、また、あらゆるものへの意識がただの「光り輝き、認識するもの」として生じ得る空間―です。

受胎の最初の瞬間に微細な身体の風や滴などとともに生じる心は、この輝きと認識いう本性を持っています。このような現象が生じるためには、直接的な原因として、同じ性質の、あるいは同じ種類のものとして存在する何かが必要です。ですから、受胎の瞬間にこの輝きと認識が生まれるためには、その因として、その一瞬前に輝きと認識が存在していなければならないことになります。このような思考の道筋に沿って考えると、前世の存在を証明、あるいは立証することができます。さらに、過去の生が存在するのなら、未来の生も同じように存在すると言えます。

私たちが持つこの輝きと認識には連続性があり、来世にも続いてゆきます。ですから、それを覆う霧のような障―様々な煩悩や苦しみの源です―を取り去るのは非常に重要なことです。障を振り払う過程で、私たちは意識の本質的な基礎、つまり曇りのない輝きと認識にたどり着きます。これこそが、仏―完全に悟った存在―の全知の心になり得るものです。つまり、私たち自身の心の基礎にあるものと悟った全知の存在の心の基礎にあるものは同じなので、私たち自身も必ず仏の心を手に入れることができるのです。仏とは、最初から悟っていた人のことではありません。彼らは様々な因によって悟りを得たのです。捨て去るべきものを捨て去り、手に入れるべきものを得て仏になったのです。ですから、私たちも同じことをすれば同じものを達成できるのです。

ここでは、「利益と幸せの源である完全に悟った仏は、神聖なダルマを成就したことから生じました」とされています。ではどうすれば私たちもそれと同じことができるのでしょう?「それは彼らが実践の何たるかを知っていたことにも依存します」。ですから、ダルマについて知るだけでは十分ではないのです。ダルマの実践がどのようなものかを知ったなら、それを実際に行わなければなりません。

今日はここまでにしましょう。全部理解できましたか?できるだけ多くの実践を積み重ねなければなりません。私たちには、捨、菩提心、そして空の実践が必要です。さらに、自分自身を慎重に、率直に吟味して気質や傾向などを知り、自分に合ったやり方で自らを鍛えていかなければなりません。

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